連載小説『私の 母の 物語』五(33)
わたしは三歳。父と母は谷間の小さな集落にある分校の教員で、わたしたち家族はその分校の教員住宅に住んでいた。両親共働きなので六歳の姉とわたしをどこかにあずける必要があったが、町の中心部にある保育所までは数キロは離れている。当時のこととて送迎もなく、父と母は教員住宅の隣に住む「みやいさん」という人にわたしのお守りを頼んだ。姉のほうはまだ小学校にあがる前だったが、どうしても教室で勉強すると云って聞かず、母が教えている一、二年生の複式学級に机を一つ用意して一緒に授業を受けさせた。昭和四十年代の和歌山の山村はまだまだ鷹揚で、多少の批判はあったが大目に見てくれていたらしい。
わたしはみやいさんのことを「おばん」と呼んだ。のちのち知ったことだが、このときは夫と離婚して一人息子と二人で暮らしていた。わたしのお守りでは小遣い銭ぐらいにしかならなかったはずだが、暮らし向きのことはどうしていたのだろうと今でも思う。
乳離れの遅かったわたしは三歳になってもまだ母のおっぱいを恋しがる甘えん坊で、そのうえ我儘だった。だから、聞き分けがなく気に入らないことがあるとよく道に仰向けにひっくり返って、カメのように手足をばたばたさせた。(当時のわたしを知る人の話によると、わたしは道に仰向けになるとき、ちゃんと石ころがないところを選んで寝転んだという。今とは違い、まだ主要道路以外は舗装がされていなかった。)
おばんはやさしい人で、そんなわたしを一度も叱ったことがなかった。
あるときわたしは母に会いたくて、おばんの制止も聞かずに授業中の教室の扉を開けて母にきつく叱られた。叱られたわたしは不機嫌になり、アイスクリームが食べたいとぐずった。ちょうど夏休み前の暑い盛りだった。
当時山あいの町ではアイスクリームは夏の間だけしか売られていなかったうえに、置いてある店も限られていた。その集落には酒屋を兼ねた雑貨屋が一軒あったが、アイスクリームは置いていない。
おばんはガムやチョコレートで機嫌をとろうとしたが、わたしは聞き分けない。仕方なくわたしを連れて、隣の集落まで買いに行くことにした。山道を三キロばかり下った先にアイスクリームを置いてある店があった。
わたしはおばんに手を引かれながら、足取りも軽く山道を歩いた。片道三キロの道のりも遠くには感じなかった。母に叱られたことも夏の暑さもわすれていた。わたしにとってアイスクリームは憧れの食べ物だったのだ。
店に着く。おばんが店の人に話をする。すると店のおばさんが申し訳なさそうな顔をした。売り切れだと云うのだ。わたしは店の冷凍用のショーケースに駆け寄った。少し背伸びをしてショーケースの縁に乗っかるようにして中をのぞくと真っ白である。何度目を白黒させてみても、ショーケースの内側にしろい霜がついているばかりであった。
それから後のことは記憶にない。おそらくわたしは不機嫌になり、歩く気力も失い、おばんは三キロの山道をわたしをおぶって上る羽目になったのだろう。
いまも胸の中にはあのときの時間がゆったりと流れている。