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連載小説『私の 母の 物語』一(9)

 社内販売が浜名湖の名物を売りに来た。母はワゴンにちらりと目を向けて
「わたしや昼食べた?」
とまた尋ねた。
 考えてみると、さっきから社内販売が来ると、昼を食べたかどうかの疑問が湧いてくるようだ。「食べた」と聞かされるとひとまず納得して、外の風景などを見ているうちにやがてその疑問についてわすれてしまう。そして、社内販売の声を聞くとまたその疑問を思い出す。
 こんな分析をしてみたところでしょうがないが、母といるうちにこんな習慣がついた。
 ふだんはいちいち他人の言動の意味など考えない。他人どころか、自分の言動さえ意味など考えずに惰性にまかせていることが多い。わすれるひとと暮らしているうちに同じことばの繰り返しを余儀なくされるので、ときどき「なぜ?」と問いたくなる。ふだん意識しないことばの意味を知らず知らず咀嚼しているような気がする。もっともそんなふうに考えるのはごく限られた機会でしかないし、倦むようなことばの繰り返しにある程度堪えられるようになったのもつい最近のことだ。
 これまでわたしは、「なんべん同じこと云わすねん」と母を詰ってきた。「ちょっとは自分で考ええよ」と母を突き放してきた。聞こえないふりをして無視してきた。堪えられなくなって逃げ出した。
 しかし、たとえ同じことばの繰り返しでも人間の発することばはボイスレコーダーの音とは違う。母の頭の中がどうなっているのか知る由もないが、ことばは発せられた数だけ意味をもっているのではないか? 今はそう思っている。

 新幹線が三河安城の駅をすぎた。この辺りに母方の祖母の出身地である西尾市がある。
 祖母の家はここで三代続いた畳屋で、裕福な育ちだったという。それは明治生まれの祖母が地元の女学校を出たあと東京女子師範を受験したという話からもうかがい知ることが出来る。
 祖母は当時でいうところのハイカラであったようだ。女学校では教室の中で帽子をかぶって先生から叱られたことがあるという。それは皇后陛下が建物の中で帽子をかぶっていたのを何かで見て真似をしたのだが、さすがにそれは口にしなかったらしい。当時のことだから、もしそれを口にしていたら叱られるだけでは済まなかっただろうと父や母に語ったそうだ。
 東京女子師範の入学試験には落ちて、二度目の受験は許してもらえなかったようだが、女学校を卒業出来ただけでも明治の人としてはかなり恵まれた境遇であったといえよう。

「このへんは西尾の近くやで」
「そうか、西尾の近くか・・・。もうおばあちゃんの家もないけどなあ・・・・・・」
「おばあちゃん、こんなとこまでよう来れたんやなあ・・・・・・」

 祖母は僧侶だった祖父と結婚して、西尾から和歌山に嫁いできた。祖父の父の中川道之助は村の助役まで務めた人であったそうだが、助役の職を辞した後は末の男子を連れて北海道に開拓民として移住した。
 祖父は中川家の次男であり、はじめ水道会社に勤めていたようだが、その会社が倒産したので、すでに高野山に入っていた兄を頼り自分も僧侶になった。若い頃の祖父はなかなかの男前だったそうで、たまたま高野山に参詣に来た祖母の両親は祖父をすっかり気に入って、一人娘の祖母を嫁がせることにした。
 しかし、祖父母が入れたのは高野山の麓にある田舎寺だった。祖母はお布施の少ない田舎寺でやり繰りに苦労しながら四人の子どもを育てた。それが出来たのは祖母の実家の財力に負うところが大きかったようだ。(続く


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