見出し画像

連載小説『私の 母の 物語』二十 一(86)

                二十一

 四月になって、母の頸部脊椎間狭窄症の症状は深刻になった。手の握力が落ちて箸が持てなくなり、スプーンを口に運ぶのがやっとの状態である。椅子から立ち上がると、よろよろと後ずさりし、すんなり前へ歩けない。寝間からは父やわたしの手を借りないと起き上がれなくなった。
 母はついに手術を承諾した。とはいうものの、母は自分の病気がどんなものかも、手術を受けると云ったこともわすれてしまうので、例のごとく同じ会話が何度も繰り返された。
「わたしの病気やいったい何なんよ?」
「首のとこの神経や傷ついてるんやて」
「なんでえそんなことになったんよ?」
「靱帯のとこは骨みたいに硬なって、神経に触ってるらしいわ」
「どうしたら治るんよ?」
「手術するんよ」
「手術ってどこをよ?」
「首のとこよ」
「首ってかよ! おそろしよぉ。わたしやそんな手術らせんよ」
 父の云ったとおり、結局母が納得しようがしまいが本人はわすれてしまうので同じことの繰り返しにはなる。それでも母自身が一度でも手術をするという意志を示したということが重要だとわたしは考えている。あとは手術日までをいかに持ちこたえるかということが問題であった。
 今も骨化した部分が神経に当たっている状態であり、医者からは転びでもしたら決定的に神経を傷つけることになりかねないので注意するように云われていた。
 父とわたしはトイレや風呂の脱衣場、廊下など、母が移動する範囲で手すりの付けられるところにすべて手すりを付けた。こういった物も今はホームセンターで買えるので有難い。板一枚の薄い壁のところでもボードアンカーを入れればしっかりと固定できる。これは一年ほど前台所の冷房器具を冷暖房の器具に替えることにしたとき、取り付けに来た業者の人から教わったことだ。冷暖房に替えても冬はファンヒーターを使うので、冷暖房にした意味があったのかと思っていたが、思わぬところでそのとき得た知識が役に立った。
 五月になって病状はさらに悪化。しびれではなく痛みが出るようになった。二の腕に少し触れるだけで声をあげて痛がる。父やわたしが付き添わないとトイレにも行けなくなった。さらに排尿障害も出てきて、トイレに行っても尿が出ないといった症状も出てきた。
 手術を嫌がっていた母も、「いつになったら手術してくれるんよ」と云いはじめた。医者は予約が埋まっていても緊急性の高い患者がいれば他の患者に話をして順番を入れ替えることもあると云っていた。父とわたしは手術の順番を早めてもらえるよう医者に頼みに行くことにした。
「おとちゃん、その、それでどうなるってもんでもないかもしれんけど、ちょっと包んだほうがええんとちゃうか?」
「おとちゃんもそう思とったとこや。どれくらいすらぁ?」
「さあ、どれくらいが相場かわからんけど、多少まとまった額のほうがええんとちゃうか?」
「一本ぐらいにしとくか?」
「そうやなあ・・・・・・」
 その前に手術の日程が当初云われていた七月の中旬から六月の中旬に一ヵ月早まったので、結局付け届けの必要はなかったわけだが、父は日程を早めてくれた感謝と今後のことを託す意味で、手術前に医者に謝礼を渡した。(続く

いいなと思ったら応援しよう!