短歌「民主主義とは・・・」
政治家が襲撃されし時にのみ強調さるる民主主義とは
暴力で主義主張を通そうとすることはけっして肯定出来ない。だが、安倍元首相が銃撃されたときに、「民主主義の破壊」と唱えた政治家やジャーナリズムには異を唱えたい。
いま明らかになっている背景から考えるかぎり、あれは声を上げたくても上げられない、もしくは政治に声が届けられない人間の行為であって、民主主義を破壊しようとする人間の行為だとは思えない。政治家だから選挙の最中だから「民主主義の……」と唱えるのは安易過ぎないか。
あのようなときだけ声高に「民主主義」を叫ぶのではなく、むしろ声を上げたくても上げられない人々の声を代弁するときにこそ、「民主主義」が強調されることを切に願う。
(いつもはここまでですが、今回は補足をつけます)
繰り返して言うが、人のいのちを奪う行為を肯定しているわけではけっしてない。いかに追い詰められ、他に手段が思いつかなかったとしても、人のいのちを奪うことで自らの窮状を訴えようしたやり方は間違っている。
私があくまで言いたいのは、傷つけられたのが政治家やジャーナリストのときだけ「言論の……」とか「民主主義の……」と判で押したように唱えるその姿勢だ。少なくともそういう人たちは「声を上げられる」人たちではないか。声を上げている人たちの声が奪われたときだけ「民主主義」を持ち出すのではなく、声を上げられない人たちのときにも「民主主義」を唱えてほしいと言いたいのだ。
例えば、大阪教育大附属小学校児童殺傷事件だって、私は「民主主義の破壊」だと思う。将来、民主主義の担い手となるべき子どもたち、声を上げたり、一票を投じたりすることの出来た子どもたちを狙って殺害したのだから、あれは明らかに「民主主義の破壊」だ。けれど、それは政治的視点からは取り上げられることがない。
もう一つ言いたいのは、仮に誰かの行為が「民主主義の破壊」だとして、破壊を目論まれる「民主主義」のほうにそうさせてしまう要因はなかったのかということだ。安倍首相時代の自民党に(いや今も)政治を私物化していた部分はなかっただろうか。森友・加計問題は納得のいく説明がなされただろうか。破壊者の側だけを非難するのではなく、破壊される側がそれを契機に自らを内省する姿勢も必要だと思うが、あのときそういった姿勢を示した政治家がいたとは思えなかった。
そもそも「民主主義」とは何なのか。自分も含めて、本当に理解している人はどれだけいるのだろう?