表現は自己の救済である
「なんで俳句やってるの?」
今までごまんと受けてきた質問。別にイヤなわけではなく、むしろ自分や俳句というものに興味を持ってもらえた証拠だからうれしいのですが、簡潔に答えるのは難しいです。
俳句が絶対だとは思っていない
日頃から俳句を連呼している私ですが、「俳句という短い詩で世界を表現したい」なんて、大それた野望を持っているわけではありません。
むしろ、俳句でなければいけない理由は特にないと思っています。
今のところ、自分の感じた何かを表現するのに、俳句という形式がしっくりくるからやっている、というのが、一番理由として近いと思っています。
だから、たまには私だって、写真を撮ったり、散文を書いたり、下手くそな短歌や絵を作ったり描いたりするわけです。
俳句以外の表現の方が、しっくりくるなと思ったら、遠慮なく俳句以外のことをします。
それでも、結局俳句に戻ってきて、俳句の器のでかさを再認識するんですけどね。
表現しないと生きていけない
そもそもなんで、俳句だろうがなんだろうが、表現や創作というものをするの? と聞かれたら、「自己救済のため」と答えます。
なにか表現をしていないと、生きていけない人間なんです。
この場合の「生きていけない」は、生命の維持ではなく、心の生死です。
その瞬間に表現したい! と思ったことを表現できなければ、心が苦しくなったり、不安になったり、ひどくなると「自分はなぜ生きているんだろう」という思考状態に陥ります。
そうならないために、自分のために、私は俳句を、表現をしています。
・・・まあ、ここまで書いたことの8割は、私の俳句の先生からの受け売りなんですが、受け売りを自分なりに書いているのも、自己救済のためなのです。