寄り道:福永武彦『草の花』
私は普段イタリア文学を集中的に読んでいますが、ふと日本の文学を読むと日本語という言葉の美しさとそれを母語として読める嬉しさを思い知ります。
そういうわけで古本屋でたまたま目についた『草の花』を読みました。
夢の中の夢の中の…
この『草の花』の構成は語り手が汐見という青年の書き残したメモを読むという形で物語が展開され、メモには汐見のかつての二つの恋の様子が綴られている。
つまり「語り手の世界→汐見のメモ→汐見の過去の恋」という多重構造となっているのだ。一回目の恋の話を読み終えると本から顔を上げたような気分になるが、実際には汐見の回想が終わっただけで本どころかメモの世界からも抜け出していないという不思議な感覚に襲われた。
作中での「夢から覚めたと思ったがそれでもまだ夢の中で…」という文章が妙に僕の頭に残っているのだが、この読書体験と重なる部分があったからかもしれない。
いってしまえばこの作品の中で汐見の過去の回想だけを取り出して恋愛小説として出版しても成り立つはずなのだ。汐見という人物をサナトリウムで俯瞰する「語り手」を置いたのはなぜなのか、ひどく気になってしまった。
戦争と恋愛
僕は戦争どころか戦後とよばれる時代さえ体験していない世代なのだが、戦争と恋愛というテーマにはなぜか惹かれてしまう。
南こうせつの「あの人の手紙」なんかも聞き入ってしまった。
戦争という無常観が背後にあるからこそ人生の儚さを超えた魂の愛や死というものに考えが向くのかな。無神論者である汐見とクリスチャンである千枝子の会話はこの作品の見どころの一つだと思う。
こんなところに書くことではないが、僕も知人の自殺を知ったときは自分の手を握ったり開いたりしながらぼーっと考え込んでしまった。何を思っていたのかよく覚えていないが。