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『神曲』より、パオロとフランチェスカ、オデュッセウス

ダンテの『神曲』といえばヨーロッパ中世における金字塔であり、現代イタリア語の母と言っても過言ではない、歴史・文学・言語・宗教などあらゆる領域において重要な作品です。
『神曲』は主人公ダンテが地獄・煉獄・天国を遍歴して様々な亡者や聖人などに出会う100歌構成の物語です。今回はそのなかでも特に人気の高い地獄篇の中から、地獄の住民を二組ピックアップして紹介したいと思います。
それぞれ元ネタのあるパロディではありますが、「悲しき恋」と「英雄」の代名詞となるような素晴らしいエピソードに昇華されています。


パオロとフランチェスカ

魅力①:二人がいかにして恋に落ちたか

『神曲』においてパオロとフランチェスカが登場するのは第5歌、ミノス(閻魔大王のような死人の行くべき地獄の層を決定する役目)のもとを通過してから初めて第二層に到着したところです。
そこでは「淫欲の罪」を犯した者が強風の中で永遠に吹き飛ばされており、クレオパトラやアキレウスなどの名だたる偉人たちの中に男女が二人、肌身離さずくっついて飛ばされているのをダンテは見つけます。

案内人ウェルギリウスの許可を得てダンテがその二人組に声をかけると、地獄の風が弱まり、一時的にダンテと彼らは話ができるようになります。そこで二人組のうちの女性の方、フランチェスカが語り始めるのでした。

愛の神は、高貴なる心を素早く捕らえ、
私と離れ離れになってしまった美しい人を縛り付けました。
そしていまも同じように私を苦しめています。
愛の神は、愛された者には愛することを許さず、
私を彼の魅力に強く引き付けました。
今もご覧のように彼を引き離すことができないほどです。
愛の神は、私たち二人を一つの死に導きました。
私たちの命を奪ったあの者はカインの国※へ堕ちるでしょう。

地獄篇、第5歌100~107行、オカモト拙訳。※は③で解説。

3回同じような言葉・構造が繰り返されるのはそれほど作者ダンテの気持ちが乗っているときと個人的に考えています。純粋に神曲の内容だけではいまいちこの話の肝が見えてこないのですが、パオロとフランチェスカのエピソードはダンテと同時代(厳密には半世紀ほど前)の実話がもとになっています。そちらの元ネタも参照してみましょう。

フランチェスカのダ・リミニ家とパオロのマラテスタ家は政略結婚を予定しており、フランチェスカはパオロの兄であるジョヴァンニの妻になるよう計画されていました。しかしジョヴァンニは外見は醜悪で性格は残虐、フランチェスカが結婚を了承するはずもないため、「マラテスタ家と結婚する」という言質を取るために美男子であった弟パオロをフランチェスカのもとへ送ります。パオロは政略結婚の話は聞かされていませんでした。

こうして狙い通りフランチェスカが結婚を了承したために、フランチェスカはジョヴァンニの妻となってしまいました。しかしその後もパオロとフランチェスカはお互いの恋心を明かさないまま二人で会っていました。そうした中のある日、二人がお互いの愛を自覚してしまう出来事が起こります。
『神曲』においてダンテに尋ねられたフランチェスカはこう語ります。

ある日、ただ楽しみのために私たちは
ランスロットを、愛が彼をいかに縛り付けたかの物語を読んでいました。
何の疑念もなく、たった二人きりでおりました。
その本を読んでいるうちに何度も、私たちは
互いに目を合わせ、顔の色が抜けてしまいました。
そして愛を望む(ランスロットの)微笑みの顔が
こよなく愛する者によって口づけをされるところを読んだとき、
この人(パオロ)は私から離れようとせず、
私の口に震えながら口づけをしました。
この本とこの本を書いた人こそが(私たち二人にとっての)ガレオット(ランスロットと王妃の関係を取り持った人物)だったのです。
その日はもうそれ以上本を読み進めることはできませんでした。

地獄篇、第5歌127~138行、オカモト拙訳。()はオカモトが補足。

恋愛モノを読んでいたらそれっぽい雰囲気になって恋に落ちてしまった、というのは現代ではそれほど新鮮ではない展開かもしれませんが、700年前にダンテがこれを書き上げたからこそ”王道”になっている部分もあると思います。
ちなみにここまでの話を聞いたダンテは同情のあまり気を失ってしまい、目が覚めると次の地獄の第3層にいます(笑)。

「その日はもうそれ以上本を読み進めることはできませんでした。」という言葉でその後の二人の愛し合う様を語らずにほのめかしていますが、この「ランスロットの続きを読まなかった。」というのもこの恋愛物語の解釈において非常に重要な点になります。

魅力②:ランスロット物語とのすれ違い

ランスロットは「アーサー王物語」に登場する円卓の騎士のうちの一人です。彼はアーサー王に仕える身でありながら、王妃グィネヴィアと不義の恋仲に落ちてしまいます。このランスロットがグィネヴィア妃と初めてキスをするシーンを見て、パオロとフランチェスカもキスをしてしまったのです。

パオロたちは物語を読み進めていないためにランスロットを不義の恋愛の象徴として認識しており、自分たちと重ねています。しかし、物語の続きにおいてランスロットは自身の犯した過ちを苛んで出家します。
すなわち、二人が読んでいたキスのシーンは本来物語において償うべき過去であり、その後の出家に伴う精神の浄化を経て物語が完成するための一要素でしかありませんでした。

そうとも知らずにパオロとフランチェスカはキスシーンをクライマックスと捉え、そのまま二人の不倫現場を見つけてしまったジョヴァンニに殺されて地獄に落ちてしまいます。物語は読み手の解釈によって姿を変えるのです。

ただし、地獄に落ちた=バッドエンドと決めつけるのは早計です。なぜ作者ダンテは、旅人ダンテが同情のあまりに卒倒してしまうような悲しい恋人たちを地獄の住人として描いたのでしょうか。

魅力③:愛する二人にとっての地獄

確かに地獄に落ちるということは「永遠の呵責」に苦しむということであり、決して幸せなことではありません。煉獄に落ちた人間は贖罪を経て天国へと昇っていくことができますが、地獄は永遠に苦しみが終わることはありません。

二人にとっての地獄、の前にそもそもパオロとフランチェスカはなぜ「淫欲の罪で」地獄に落ちねばならなかったのか説明しておきます。
主流の解釈によると、その罪の肝は中世当時の「近親相姦」の定義にあるといいます。現代で「近親相姦」がタブーとされるのはもっぱら遺伝子上の問題のためでありますが、中世当時は義理の家族であっても近親相姦であるとして倫理的にNGだったようです。「ジョヴァンニと婚約していたのに他の男と恋に落ちてしまったこと」、すなわち現代でいうところの「不倫」が問題だったのではないようです。そもそも欺かれて結ばれた婚約関係だったわけですから。

悲しいかな、パオロがジョヴァンニの弟であったがために愛する二人は近親相姦とみなされて地獄に落ちてしまいました。しかしパオロがジョヴァンニの弟であったがために、二人を殺したジョヴァンニは地獄の最下層、兄弟殺しの罪を犯した者の層まで落ちることになります。
先述の引用部分で※とした「カインの国」というのは地獄の最下層、コキュートスの一部のことです。アダムとイブの息子であるカインは弟のアベルを殺して人類で最初の殺人犯となりました。そのカインと同じ罪にジョヴァンニはたった一人で問われるのです。

一方でパオロとフランチェスカは地獄の第二層という比較的浅いところに二人でいます。「愛の神は、私たち二人を一つの死に導きました。」とフランチェスカが語るように、二人同時に殺されたがために、地獄の風の中で愛する者同士永遠を共にすることが約束されたのでした。というお話になります。

「犯した罪は消えないが、大切な人とともに地獄に行くことである種の救済を得る」という展開を最近では「鬼滅の刃」などで見た気がします。今でこそたまに見かける展開かもしれませんが、前例となる文学史が今ほど紡がれていない中で実際の事件をこのようなドラマに落とし込んでいることには惚れ惚れしてしまいますね。

オデュッセウス

「地獄のヒーロー」

『神曲』の地獄篇26歌においてオデュッセウスは第八層の八番目、権謀術策をはたらいた重罪人の落ちる場所で炎に焼かれています。
神曲の主人公である旅人ダンテが炎に近づくと、まるで揺らぐ炎が舌のように彼の英雄譚を語り始めます。

息子の可愛らしさも、
老いた父への心配も、
妻ペネロペを喜ばせねばならぬという深い愛情も、
私の中に燃える情熱には勝てなかった。
この世の全てを経験し、
人間としての知と徳を備えたものになりたかったのだ。

地獄篇26歌、94~99行、オカモト拙訳

この話はホメロスの『オデュッセイア』のパロディであり、その後日談として神曲の作者ダンテが創作したものです。本家『オデュッセイア』については後述しますが、ここでは「漂流ののちに帰郷し、ようやく再開できた妻や子供を置き去りにしてでも冒険に出てしまった」という点を了承していただければ結構です。

そして最後の船旅に出たオデュッセウスは地中海を抜け、おそらくスペインのジブラルタル海峡と思われる場所にたどり着きます。そこにはヘラクレスが記した「人間はこれ以上進んではならない」という警告があります。
しかしここで引き返すという選択肢はとらず、仲間たちを激励するアツい演説がオデュッセウスによってなされます。

「同胞よ」私は語った。
「おまえたちは幾千里の旅路を経て西のかたここまでたどり着いたのだ。
この旅を続けたいという我々の意思に比べて
たいそうちっぽけなこの警告札をみたとて、
太陽の裏側を知り、人のひとりもいない世界を知るという経験を
拒絶しようとするではないぞ。

地獄篇26歌、112~117行、オカモト拙訳

お前たちの意味を考えてみるがよい。
獣のように生きるために生れたのではない、
知と徳を求めるために生れたのだ。」

地獄篇26歌、118~120行、オカモト拙訳

かっちょいい~(小並感)。
私はこの部分を読んだだけでも鳥肌ものだったのですが、本家ホメロスが語るオデュッセウスの英雄譚、すなわち神曲からみた彼の過去を知ればその知性を求める姿勢の先鋭さにもっともっと痺れることと思います。

それから南に航海をすすめるにつれて北極星が水平線に沈み、南極の星々が見えてくるなど、ダンテの世界における地球が球面であったことがうかがえる描写も出てきます。
その後のオデュッセウスの運命については以下の通りです。

遠く彼方にぼんやりと、我々の前に山が現れた。
それはだれも見たことがないほどに高くそびえていた。
我々は喜びにはしゃいだが、すぐに悲しみの中に引き戻された。
新たに見えた大地から突風が発生し、
たった一息で船を打ち揺らしたのだ。
その風は海の水とともに3度も船をかき回し、
4度目にして船尾が上へ、船頭が下へとひっくり返り、
何者かの望みのままに、
遂に海は我々の頭上で閉じた。

地獄篇26歌、133~142行、オカモト拙訳

こうして古代の英雄は海の藻屑となってしまうのでした。
最後に見つけた高い山というのはおそらく煉獄の山であり、煉獄の山はエルサレムの反対側にあるとされているので、オデュッセウスはまさしく地球の裏側まで人知れずたどり着いたということになるのでしょうか。

「何者かの望みのままに」という意味ありげな挿入句によって、彼の最期が不幸な偶然ではなく、神々のような超越者の意思であることが示唆されています。
結局人間は神の意思には逆らえないのか…と悲観的になるのではなく、死の運命が待っているとしても、それでも知と徳をもとめることこそが人間である、という点がこのエピソードのカッコよさを増しています。
神曲のオデュッセウスからみた「過去」であるホメロスの『オデュッセイア』を見ると、神の警告を無視することの危険性をオデュッセウスが重々承知していたこともわかり、先の演説の勇敢さがさらに実感されます。

ホメロスの描いた英雄オデュッセウス

改めて『オデュッセイア』24巻分を読む余裕は今はないので、岩波セミナーブックスから出ている久保正彰先生の『「オデュッセイア」伝説と叙事詩』という書籍を参考にしました。

『オデュッセイア』の物語の大きな構成は「漂浪・帰郷・計略・復讐」の4つに分けられると言います。

そのうちの漂浪記は以下の12の冒険譚から成ります。
I:キコネス人退治
II:ロトファゴイ人の国
III:キュクプロス退治
IV:アイオロスの島
V:ライストリュゴネ人
VI:キルケ―の島
VII:死霊神話
VIII:セイレーンの歌
IX:スキュラとカリュブディス
X:太陽神の牛
XI:カリュプソーの島
XII:ファイアーアスケス人の国

ギリシア語の固有名詞が並んでいていまいち話が掴めないかもしれませんが、ここでは VI:キルケ―の島と X:太陽神の牛について少しだけ触れます。

キルケ―の島にてひと悶着ののち、旅の疲れからオデュッセウス一行はなんと一年もキルケ―のもとに滞在してしまいます。仲間たちの帰郷を望む声に我に返ったオデュッセウスは島を出る決意をしますが、別れ際にキルケ―は預言者の死霊を呼び出して3つの予言を与えます。
・セイレーンの歌を聞いてはいけない
・怪物スキュラに出くわした際は怪物の母クラタイイスに助けをもとめるがよい
・太陽神ヘリオスの家畜である神聖な牛を食べてはいけない

こうして予言を参考にセイレーンの海域も怪物スキュラの住まう海域も乗り越えたオデュッセウス一行ですが、次の島にたどり着いたときには極限の飢餓に襲われてしまいます。
その島には太陽神ヘリオスの牛たちがおり、飢餓に耐えかねて牛を襲おうとする部下たちをオデュッセウスは制止しますが、彼の見ていない隙に部下たちは牛を食い荒らしてしまうのでした。
そうして太陽神の怒りを買い、オデュッセウスだけはなんとか生き延びたものの、他の仲間たちは皆殺しにされてしまいます。

この経験があることを踏まえて再び『神曲』に戻ると、神の警告に逆らった結果が悲惨なものになるということを重々承知した上での航海であることがわかります。

妻ペネロペとの再会についても触れておきます。

オデュッセウスの船旅の間、美人であるペネロペには多数の男たちが求婚に来ていました。それを断るためにペネロペは「いま織っている途中の機が完成するまで待ってほしい」と男たちに持ち掛けます。
それくらいなら待ってやろうという男たちを尻目に、ペネロペは昼は機を織り、夜な夜なそれを解いていくという作業をなんと4年も繰り返したのでした。4年目にして求婚者たちの一人がペネロペが糸を解いているのを目にしてしまい、ペネロペにそのことを問い詰めだしたそのときに、オデュッセウスが帰ってくるのです。

そこからオデュッセウスの復讐劇が始まるのですがそれは置いておいて、4年も自分のことを待ってくれた最愛の妻、4年間の漂浪を経て再会できた最愛の妻を『神曲』のオデュッセウスは再び置き去りにしてしまいます。

その徳と知への貪欲さはいかほどか。最愛の妻も、神に逆らって仲間を失った過去さえも、彼の大海原への憧れを止めることはできなかったのですね。

ちなみに、それってペネロペがかわいそうじゃないか?という指摘もごもっともだと思います。『デカメロン』などもそうなのですが、ある人物の勇敢さ、巧妙さなどにスポットをあてた話の裏になんだかかわいそうな人がいるというのは割とあるあるな気がします。

現代のオデュッセウス①

『神曲』中のオデュッセウスがカッコよすぎるあまり、もしくはホメロスの書いた膨大な英雄譚に比べて『神曲』の彼のエピソードが簡潔でわかりやすいために、後世の作品で「オデュッセウス」と言った時には神曲のオデュッセウスを指すことも珍しくありません。

ここでは例としてまずプリーモ・レーヴィ『これが人間か』を取り上げます。以前noteにも感想を書いたことがある作品です(今見返すといまいちな出来の記事ですが)。

アウシュヴィッツでの実体験をもとに書かれたこの作品では、タイトルにもあるように「人間であること」が一つのテーマとなっています。

これが人間か、考えてほしい
泥にまみれて働き
平安を知らず
パンのかけらを争い
他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。
これが女か、考えてほしい
髪は刈られ、名はなく
思い出す力も失せ
目は虚ろ、体の芯は
冬の蛙のように冷え切っているものが。

『これが人間か』序文

監獄での生活に耐えかねて思考を放棄した囚人たちはまるで獣か機械のようであった、とレーヴィは語ります。そして命を奪うこと自体よりもおぞましいものとしてこのような「人間の破壊」が描かれています。

そのような『これが人間か』を構成する章の中に、「オデュッセウスの歌」という章があります。ここでは配給のスープを取りに行く間にレーヴィが囚人仲間のフランス人にイタリア語を教えるのですが、その題材として『神曲』が選ばれます。
いやイタリア語初めての人に聞かせる難易度じゃないやろ、といいたくなるチョイスではありますが、レーヴィは「オデュッセウスの歌だ。どうして頭に浮かんだのかわからない」と神曲の一節、オデュッセウスの歌を教えます。

アウシュヴィッツの監獄の中で『神曲』の本を読めるわけもないため、レーヴィはおぼろげな記憶をたどりつつ飛ばし飛ばしに同僚に語っていきます。

そして「獣のように生きるのではなく、徳と知を求めるために生きるのだ」という部分に差し掛かったところでレーヴィのモノローグが挿入されます。

私もこれを初めて聞いたような気がした。ラッパの響き、神の声のようだった。

『これが人間か』、朝日新聞出版、145頁。

自分の記憶の中から引き出しているはずなのに「初めて聞いたような気がした」というのはこれいかに。先述したパオロとフランチェスカの話のように、文学は書かれた当初のコンテクストから離れ、読み手のコンテクストによって再構築されうるということなのでしょうか。

アウシュヴィッツの中で獣のような看守や囚人たちを目撃した経験から、英雄譚の読者としてではなくオデュッセウスの演説を当事者として「聞いている」のだと思います。

自分に関係があることを、苦しむ人間の全てに関係があることを、特に私たちにはそうなのを、感じとったのだ。

同上

明日生きているかもわからない状況でイタリア語を学び、神曲を読むことにどんな意味があるのか?そのように考えて思考を放棄するのではなく、人間である限りは気高く生きようという意志が生まれます。
(一応、西欧のキリスト教的世界観では死後の世界も想定されているので、私たちが想定するほど「死ねば終わり」という考えは支配的ではないのかもしれません。)

そうして古代神話の海に思いを馳せていたのも束の間、スープ配給の列についたところで現実に引き戻されてしまいます。

遂に海は我らの頭上で閉じた。

『これが人間か』、148頁

祖国の島に留まって余命を過ごすよりも大海原に漕ぎ出すことを選んだオデュッセウス、人間性を殺しにかかる監獄の中でも思考を放棄しなかったレーヴィ、二人の旅路がこの一行にて同時に終わりを迎えるのでした。

現代のオデュッセウス②

もう一つの例として、ディーノ・ブッツァーティが第二次世界大戦中に海軍に同行して執筆した’Un comandante’(ある指揮官)という記事を紹介します。

マッタパン海戦という戦いにて死亡した指揮官の様子を密着取材のような形で書き上げた記事の中でもオデュッセウスは登場します。

操縦室の暗がりの中で、彼は自分の船が壊れゆくのを見ていた。彼はたいそう誇らしげであったが、それは彼の致命的な気質、最後の船旅の終わり際のオデュッセウスにも似た気質であった。
(中略)
青白い手を挙げて彼はほんの一瞬合図を出した。それで充分であった。(・・・)。そうして彼は(ああ、彼だけでなく他の者たちも)夜の悲劇の舞台へと突入していった。どのような運命に向かっていったのだろうか?稲妻のような戦いの中で彼のそばにいた者は語る。ある瞬間、彼の手は鮮血の赤色に、いや、闇夜の中で黒色に染まった。
(中略)
いくらかの兵士が語るには、軍人らしく煙草をふかしながら、彼は船頭の方へと離れていった。そしてすでに傾いた甲板の上に立つと、静寂の中で煙草の雲の中に消えていったのだ。

Un comandante、オカモト拙訳

戦時中、特にファシズム政権下ということで想像がつくかもしれませんが、おそらく「残念ながら負けてしまいました~泣」という調子の記事は許されなかったことでしょう。基本的に自国が戦争に勝っているということを、それが真実でなくても報道せねば国民の士気や支持が下がってしまいますから。

しかし、敗戦の様子もオデュッセウスになぞらえればここまで勇ましくカッコいいものとなります。これを読んだ当時のイタリア人も「うおお祖国の英雄万歳!」となったのではないでしょうか。

この記事の文体でひとつ特徴的なのは「人が語るには、」という伝聞の形をとっている点にあります。そもそも新聞記事なので「事件の目撃者によると~」という書き方は常套句でもありますが、ブッツァーティがこれほど様々な人の伝聞に頼るのは珍しい気がします。
個人的に、これは叙事詩的な英雄譚の文体を意識しているのではないかなと考えています。英雄とは語られるものである、みたいなテーゼがあるような気がします。

おわりに

今回取り上げた二つのエピソードは二つ合わせても100歌から構成される『神曲』のわずか1歌文にも満たない範囲です。それでもここまで深堀り出来るとは、この作品がいかに名著であるか垣間見えるものと思います。

私事でありますが、卒論の中間発表会を無事に乗り越えました。
多少の傷は負えども、今の計画で夏休みの間頑張ってよいとのことでハッピーです。今回の記事は現実逃避ではなく気分転換ですが、思ったより膨大な量に、下手なレポートよりも長くなってしまいました。

酷暑の中、ご自愛くださいませ。

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