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絵日記を書かなかったら、青汁一杯の刑


 みなさん、唐突ですが、夏休みの宿題はどのように済ませる子どもでしたか?
 
 私は、7月中に大半をこつこつ終わらせて、お盆期間中くらいに大体終わり、ポスターの色塗りなどをのんべんだらりと終わらせて、夏休みの最終日前、27日あたりから読書感想文の清書をし、30日や31日に名前を書いたり、名札を貼ったり、鞄に宿題を詰めたりして、

「なんでもっと早く用意しておかないの!」

と怒られている子どもでした。
 
 今でも解せません。だって、月曜日の用意は日曜日にするじゃんね!
 
 さて、今回は、そんなよくある小学校や中学校の悲喜こもごもではなく、幼稚園の頃のお話です。
 
 そうです、幼稚園です。
 年長さんの頃のお話なんです。
 
 私は、おとんが「英語が喋れる子にしよう」と思ったおかげで、英語の授業があるバリバリのお勉強重視の私立幼稚園に通っていました。
 とはいえ、身に付いた英語力は、当時に習った単語だけは発音がとてもよい、という残念なもので、おしゃべりができるどころか、高校まで行きますと「この単語どう読むの?」の連続、という親の期待を裏切る結果となったのですが。
 
 閑話休題
 
 そんな幼稚園でしたので、夏休みには宿題が出ました。
 計算問題のドリルや、ひらがなカタカナの文字のけいこ。
 なんやらかんやらとあったのですが、別段お受験にもお勉強にも重きを置いていないオカンが言いました。
 
「せめて絵日記だけは書きなさい」
 
 今なら答えたでしょう。
 その選択肢なら、絵日記以外を全部やる方が好き。
 
 そもそも条件が悪いんです。
 私は大のお絵描き嫌い。
 絵なんて描いても、どうせ下手で、だれも褒めてくれないし、描いた絵が何かちゃんとわかってくれないんだから、描いたところで意味がない。
 
 それに加え、我が家は大の外出嫌い。
 外食なんてめんどくさい。
 公園に連れて行ってもらったこともなければ、動物園や遊園地に遊びに行くなんて夏休みの思い出を家族で作りに行こう!という考えがまずありません。
 さすがにたまにはありますが、「夏休みだし、どこかに連れて行ってあげよう」と言われたことはありません。行くとすれば、おじいちゃんおばあちゃんの家だけです。
 
 ならば代わりに家で何かレクレーションを、なんて柄でもありません。当然のことながら、毎日は単調です。いえ、分かりますよ。日々を生きるだけで大変なことは。
 年長の私と1歳か2歳の妹二人、面倒みながら家事をやるだけで大変なことは分かります。
 規則正しい生活を覚えることもとても大事です。
 むしろ、おかん、よく私を8時に寝かせてたな?といまならしみじみ思います。
 ワンオペ大変だっただろう、と思いつつ、いやでもオカンめっちゃ若かったし、おとん帰ってくるの10時だからこそできたルーティンだったし、親戚付き合いとかもない環境だったから、やろうと思えば毎日同じ時間に同じことができた環境ではあるな、とも思いつつ。
 
 ともかくも、そんな環境だったために、私の毎日は完全に決まっていました。
 ゆえに、絵日記なんて書くことは一緒です。
「きょうは、うえのかいの〇〇ちゃんといっしょに、にわでおままごとをしました。たのしかったです。」
 
 これだけです。
 おままごとが、砂遊びになったり、団子づくりになったり、石集めになったりするだけです。要は、ご近所さんと遊びました、しか書くことがないんです。
 
 これを、毎日毎日、代わり映えのしない内容を、なんとか工夫して、先生も納得するような絵日記に仕立て上げるような才能は、当時幼稚園児だった私にはありません。
 いや、いまでもありませんね。
 
 ですから、子どもとしてはなんにも面白くない。
 同じ事ばかり書いても怒られるかも、と思うと、余計に書けない。
 
 さて、どうしたかと申しますと、答えは単純でした。
 
 サボったんです。
 
 まあ当然ですよね。妹にかかりきりで、私は放任なわけですから、「書いたの?」「うん~」くらいのやりとりをたまにしていたくらいで、毎日確認して、「上手に描けたね」とも言われなければ、「ていねいな文字で書いていて素敵ね」とも言われない宿題を、どうして6歳ができるでしょうか。
 
 しかしながら、おかんとしては約束をしたわけですよね。
「絵日記だけはやりなさい」と。
 
 今であれば、育児書のひとつも読んでいれば、少し意識高い系の「子育てのタブー」なんてのをネットで見たことのある人であれば、「約束は、大人が押し付けるのではなく、子どもと一緒に納得する形で決めましょう」という基本を知っているのですが、当時はまったくそんなことは言われていなかった。
 
 そんでどうなったかと言いますと、ばれました。
 
 当然、オカンは怒ります。めちゃくちゃに怒られて、私は泣きながら謝って……、怒り心頭したおかんは、判決を言い渡しました。
 
「サボった数だけ、ご飯抜き」
 
 飲み物はお茶だけ。おやつもなし。

 さあ、どうなるでしょう。
 
 私は嘘をつきました。本当は12回だったのですが、9回にサバを読みました。

 だって、4日も何も食べられないなんて、辛すぎる。
 
 いや、3日でも辛いのですが、それ以上はごまかせないだろうと判断しました。
 あまりサバを読みすぎても信憑性がなく、おかんの手によって検められてしまえば4日ご飯にありつけないのです。

 当時6歳の私は、懸命に知恵を絞りました。
 
 時刻はお昼過ぎでしたから、その日の夜から食事が抜かれました。それでも母と妹(こっちはまだ離乳食)は私の目の前でご飯を食べます。
 ルーティンは変わりません。空腹で辛くても、朝は7時に起こされるし、ご飯を食べる時間には遊んでいた外から帰ってこなくてはなりません。たとえ私のお昼ご飯が用意されていないと分かっていても。
 
 ちびまる子ちゃんなら、親が何をくれなくても、おじいちゃんの部屋に行けば、お母さんには内緒だぞ、とこっそりおやつがもらえたでしょうが、あいにくうちは、典型的な核家族。
 家族構成から、親の職業まで、まるで教科書のような状態でしたから、こっそり食べ物を恵んでくれる存在はないのです。
 
 いやあ、私、偉かった。
 
 よくよく考えてみれば、たかだか6歳がよく3日も我慢しましたよね。
 泣いて喚いて、わがまま言って、家じゅうの物を壊して回っても同情しかされない案件です。
 まあ、あまり暴れると、親にも同情が行くかもしれませんが、例えばスーパーで「ごめんなさい、おかあさん、ごはんたべさせてください」と訴えて泣いたら、周りの人がぎょっとすること請け合いでしょう。
 
 いまなら、窓からそんなギャン泣きの声が聞こえてきたら、すわ虐待かと通報がいくかもしれません。
 
 それほどのことをされていながら、当時の私は懸命にひもじさに耐えていました。
 一方的に押し付けられたとはいえ、やらねばならないことを放棄した罰なのだから当然だと思っていたのです。
 
 悪いのは自分なので、悪いことをした自分は、親にどんな目に遭わされても文句は言えないのです。
 
 それが、私の価値観でした。
 いやあ、びっくりです。
 
 下手にそんな経験があるもんですから、食糧難の戦時中の話を聞いても
「あ、なんだ、なにかしら食べてはいたのか。よかった」
なんて感想が浮かぶ子供になるのです。
 先生が、それはもう悲惨な感じに「お腹が空いても食べるものがない」なんていうから、配給を待つまで一週間くらい食べ物がひとつもない、くらいを想像したからこそ出てくる感想ですから、
人は経験によって考え方が変わるという良い事例ですよね。
 
 
 その中で、唯一許されたのが、青汁でした。
 
 当時、我が家では、お風呂上りに栄養補給として、青汁を飲んでいました。めためたにどろどろとした青汁を、オレンジジュースで割って飲むのです。

 わざわざお金を出して届けてもらっているものでしたから、私が飲まないとなると余ってしまいますから、それは困る、ということで、この青汁だけは飲むことを許されました。

 食品ロスの解消にご協力ください、ということです。
 決して、それ以上でも、それ以下でもありません。
 それくらいの栄養は取らせないと、なんて親心でもないんです。
 だって、青汁を取っていなければ、その青汁すらなかったのですから。

 お風呂上がりの喉が渇いているときだからこそ、まだそこそこ飲める、といったシロモノでしたが、そのときの青汁のおいしかったこと!
 
 
 空腹は最大の調味料とは、よく言ったものですね。不幸中の幸いで、それから青汁がそこまで苦手ではなくなりましたが、そういう変な苦手克服は今後お断りしたいと思います。

 そもそも、罰として子どもの食事を抜くというのはどうなのでしょう?

 それも、6歳の子どもです。
 中学生とかじゃないんです。
 放っておけばお小遣いで何か買って食べるでしょう、という年でもない。

 夏休みですから、給食だけは食べる環境でもない。

 虐待されている子だって、給食は食べてもいいんです。
 むしろ、虐待児は、夏休みのような長期休暇の間に食事が満足に食べられなくて栄養失調になったりするそうです。

 そんな夏休みに、勝手に決めたルールで、後付けの罰をつけて、三日もご飯を用意しないなんて、親のすることでしょうか。

 確かに、離乳食の子と、自分のご飯と、好き嫌いの多い子供のご飯を作るのは大変ですから、
 私がご飯を食べなければ母の負担はかなり減ることでしょう。

 きっとあの3日間は、すこし楽ができたのだと思います。

 それでも、私はしません。

 どれだけ娘が悪さをしても、抜くのはせめて一食だけでしょう。
 それでも、後から夫か義母に頼んで、こっそり何かを食べさせてもらうでしょうし、後から罰を決めたりしません。

 この経験があるからしない、というのも大きいでしょうが、当然のこととして子どもの衣食住を保証する、というのが最低限の親の義務だと思うからです。

 おやつ抜き、ならします。
 それでも、おやつの代わりになるおかずを残しておいたり、おにぎりを作っておいたりするでしょう。

 なぜ、3日間も子供に食事を与えないでいられたのか。
 
 なぜ、それを疑問に思わなかったのか。
  
 やりすぎたと謝られたこともありません。
 
 そして、なぜ私は、それを「当然」として粛々と受け止め、理不尽で人権を侵害された罰を受け入れて耐えるしかない子どもであったのか。
 
 愛情いっぱいに育てられ、親に十分に甘えることができた子どもなら、それを「耐える」ことなどないでしょう。

 私は知っていたのです。

 私が泣いても意味はない。
 私の言葉は親に届かない。
 
 親の判断は絶対で、私への情などでは決して覆らない。
 なぜなら、私への情などないから。

 それを、「自分が悪いから」と思い込むことで、気付かないふりをしました。
 でなければ、生きていけないから。

 私は、そんな環境で生きていかなければならない子どもだったのです。


 虐待でもなく、ネグレクトでもなく、ちょっとしつけが厳しいだけの厳格なお家。
 
 だって、あそこはお父さんがしっかりした会社に勤めてらっしゃるから、
 だって、あそこは教育がしっかりした幼稚園に通わせてらっしゃるから、

 そんなイメージでいれば、だれも疑問に思わないような家庭でしたから、家庭の中で私が傷ついていることなど、だれも思いもよらなかったでしょう。

 発達障害には「グレーゾーン」があります。
 障碍者とも言えないけれど、何の問題もない、と言い切るには難しい中間の数値です。

 グレーゾーンの子どもには、こう接しましょう。
 こんなふうにすると生きやすくなりますよ、といった本が出ています。

 私はあれが羨ましい。
 いえ、もちろん、発達障害が羨ましい、というわけではありません。
 きっと恐ろしい苦労をされて生きてらっしゃるのだと思います。
 私が羨ましいのは、そうやって「グレーゾーン」として表に取り上げられていることです。

 虐待でもない、ネグレクトでもない。
 けれども、円満で健全な家庭とも言い難い「グレーゾーン」の環境。

 リンチを受けたわけでもない。
 持ち物や学校の備品を傷付けられたわけでも、
 金品を奪われたわけでもない、いじめの「グレーゾーン」

 私は、この二つの環境で、ずっと「グレーゾーン」に居たのです。

 発達障害の「グレーゾーン」を認めるならば、
 虐待の「グレーゾーン」もいじめの「グレーゾーン」も認めてほしかった。

 手を差し伸べてほしかった。
 
 「グレーゾーン」は、発達障害がそうなように、世間の中に隠れてなかなか表立って出てきませんでした。

 発達障害が研究されるにつれ、理解されて出てきた部分です。
 私が子供の頃は、「言うこと聞かない子」で済まされてきた子供たちなのです。

 だから、私は、これから先の世の中に、「虐待のグレーゾーン」や「いじめのグレーゾーン」を認識するようになってほしいと思います。

 そして、「小さな子供の食事を抜くなんて、酷い親だったね」と言ってほしい。
 「まあ、あなたのところは、しつけが厳しかったからね。それもお母さんの愛情だったんだよ」
 なんて言わないでほしい。
 
 だって、私は酷いことをされていたんです。
 傷ついて、泣いて、声を聞いてもらえなくて、
 親からの愛情を、たった6歳で諦めなければならなかった子どもだったんです。

 もうひとつ、これを書いていて思いついたことがあります。

 親から軽んじられている姉の様子を、ずっとそばで見ていた1歳の妹。

 たった1歳でも、周りのことはよく見ています。
 しゃべらなくても、立って歩かなくても、周囲を見て、聞いて、
 ありとあらゆることを吸収するのが1歳という時期です。

 娘を見ていても、1歳のときに私が何度か口ずさんだ歌を、2歳になって唐突に唄いだしたり、

 随分前に読んだ本を持ってきたと思えば、覚えているフレーズを一緒に唱えたり、
 そんなことがありました。

 赤ちゃんは、覚えているのです。
 見て聞いたことを、インプットしています。なんでもかんでも、際限なく。

 ただ、喋れなかったりして、アウトプットがないだけなのです。

 そんな1歳の妹が、親に粗雑に扱われている姉を見て育ったら、どうなるでしょうか。

 妹も、姉をないがしろにしていい、と学びます。
 事実、妹は成長するにつれ、私を馬鹿にする言動を繰り返すようになり、私を軽んじ、私の好きなものの全てを否定する子どもに育ちました。

 親の真似をしているだけです。

 親は子供を支配していい、という環境が、
 妹には、姉を支配してもいい、という構図に見えたのでしょう。

 結果、私は、家の中で味方がいないという環境に身を置くことになりました。

 今だから気付けたことです。
 
 当時はそれが当然で、日常で、それが不遇なんて思いもしなかったのです。だって、気付いてしまったら、傷ついてしまうから。

 堂々巡りになってきたので、ここらで終わりといたしましょう。

 この件に関しては、まだ飲み込むのに時間がかかるようですから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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