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夏目漱石
夏目漱石
l夏目漱石作「坊ちゃん」の朗読を聴いた。 その上、1994年の新春に放映されたNHKの映像で「坊ちゃん」も楽しんだ。
こんな贅沢が味わえるとは夢想もしなかった。 ユーチューブのお陰だ。
昔、中学校の英語教師をした経験があったので、 漱石の「坊ちゃん」と、時代が違うとは言え、職員室のややこしい人間関係を、久しぶりに思い出した。
昔の物語ではあるが、 21世紀に住む女性として、作品を分析すると、 坊ちゃんが始めて赴任した中学校の教師が、全員男性であるのが不自然だ。 男尊女卑が色濃く残っている時代だったのだ。
当時は男女別学で、坊ちゃん先生は男子校で教えているから、 生徒全員が男子であるのは頷けるが、 小説の中に登場する女性描写は、古い価値観に溢れ過ぎている。
そう言った批判はさて置き、 ホノルルで日本文学にどっぷり浸れる時間が持てた事は有難い。
良否はともあれ、 当時の日本をよくあらわしていて、高齢化した私には、 時代が違うにせよ、 なんらかの懐かしさを感じたのも事実だ。
しかも、数年教師の経験もしたので、描写のあちらこちらで、自分の個人的経験にもとずく思い出が重なった。
男性教師は私の時代でも、宿直があった。 私が教師をしていた1960年代は、共学の公立中学校では、数人女性教師がいた。 女性教師は宿直はしなかったが、 週末日直の仕事がよく回ってきた。
偶然私は四国の愛媛県に行った事があった。 四国の松山の町を歩き回った。 坊ちゃん先生が東京から数学教師として赴任した場所だ。
アメリカの首都であるワシントンD.C.郊外に長年住み、少数民族としての生活にどっぷりと浸かっていた者にとって、 外国人が登場しない日本の古い小説は、母国を彷彿と思い出させてくれるという点で、嬉しかった。
2年弱イギリスに洋行した経験のある漱石は、 小説の中で、画家ターナーだとかロシアの革命家トロツキーとか言った言葉を登場人物に言わせている。
一般人には、 その程度の外国理解度であったのだろう。 21世紀に入り、若い日本人は音楽やインターネットを通して、外国の文物に十分触れているし、海外旅行も珍しくなくなった。
漱石自身、若年50歳で亡くなっている関係か、登場人物も若い人が多い。 ばあや等と言っても 、50代の後半かせいぜい60代という所だろう。
もう半年もすれば、 昔風に言えば喜寿を迎える私から見れば、登場人物の年齢幅の狭さに物足りなさを感じるのは致し方のない事だ。
最近、 英語を忘れまいと固く決めた関係か英語の書物ばかり読み漁っていた。ユーチューブでも、 英語で話す講演会を拝聴ばかりしていた。
地球の温暖化、太平洋のど真ん中の島であるオアフ島住まいの身としては、海水の上昇は、直接身に降りかかる可能性が多いだけに、 深刻な問題と受け止めながら聴き入っている。
ユーチューブは便利で、日本語での講演会を拝聴したければ即できる。福島の原子力発電所の爆発で、 放射能汚染が福島をはじめ、近隣の県にもばらまかれ、海にも大量に流れ続けている。
現実の厳しさを知れば知るほど、耳を覆いたくなる。 目隠しをして、耳を覆い被しても、 現実が消えるわけではない。
21世紀の人類に突きつけられたひどい現実に身体が具合悪くさえなりそうだった。
古い小説の中にどっぷりと浸かり、しばし現実を忘れ、遠い時代、まだ汚染も大問題になる前の人間界を除き見れた事は幸運だった。