【日本史】折檻~江戸時代における吉原遊女の試練~
前回の記事は遊女の手練手管についてでした。
是非ご覧ください。
今回は吉原が苦界といわれる理由の一つ。
遊女たちを苦しめた折檻(せっかん)について
紹介します。
折檻(せっかん)とは
折檻とは、過ちをきびしく指摘すること、
責めさいなむことや叱って体罰を加えること、お仕置きのことでる。
では、どんな遊女が折檻されたのか?
客がつかない遊女、仮病をつかった遊女、
客の機嫌をそこねて逃がしてしまった遊女、
心中・逃亡を試みた遊女、間夫(遊女が真に惚れた男)に注ぎ込んでしまった遊女、
総じて遣手や楼主のいいつけを守らない遊女が折檻の対象となり、
楼主(店のオーナー)や楼主の妻、遣手(遊女や禿を統率する女)が
遊女に折檻を行った。
「仕置き(折檻・暴力)なしに取締りができない」と
暴力による遊女の管理が合法化されていたのだ。
折檻の内容としては暴力、断食、掃除などさまざまであったが、
遊女を裸にし、手足を縛り、口に手ぬぐいを入れられ、縄で吊り上げ、暴力を加える、つりつりという折檻が多くみられた。
この左ページが「つりつり」という折檻です。
怖すぎるでしょう?
楼主にとって一番困るのは、
遊女が間夫に溺れて、他の客を粗末に扱ってしまうことであり、
遊女が心中、逃亡をした時も同様に苛烈な折檻がされた。
心中や逃亡は思い罪であったため、
試みた者はもちろん、それを知っていた者、
関係者なども苛烈な折檻を受けた。
時には折檻が過ぎて遊女が亡くなってしまうこともあった。
亡くなってしまった遊女の死体は菰で包まれ
三ノ輪の浄閑寺や浅草の西芳寺などの墓地に
掘られた穴に投げ込まれた。
そのため投込寺とも言われた。
とはいえ、楼主にとって遊女も大事な商品であるため、
顔や体を傷つける折檻は稀であったとされるが、
格が高い吉原から格が低い岡場所などに
働く先を変える鞍替え(くらがえ)などもお仕置きとして存在した。
折檻が原因による放火
折檻に耐え兼ねた遊女による有名な放火事件も存在する。
江戸時代、放火に対する処罰は火炙りと過酷なものであったが、
遊女たちの刑を遠島(罪人を辺境や島に送り、その地で生活を強制すること)
と押込(部屋に閉じ込めること)にしたのは、
日常的にこの楼主からひどい折檻を受けていた遊女たちの辛い境遇を町奉行所が理解したからであろう。
1800年以降、倒幕するまでに23回の火事が発生し、
そのうち11回は新吉原遊郭が全焼。
原因のうち、13回は遊女の放火であった。
この事件の裁判調書として作成された『梅本記 参』には、
梅本屋抱え遊女小雛、豊平、桜木の3人の「日記」が含まれている。
(梅本記の研究は、国立歴史民俗博物館名誉教授である横山百合子教授が行っています。非常におもしろいです。)
まとめ
折檻とは、商売道具である遊女を楼主の思うままに働かせるために
責めさいなむことや叱って体罰を加えることのお仕置きであるが、
一番は遊女に対する見せしめの意味だと考える。
妓楼にとって不利益なことを試みた者に、
苛烈な折檻があったのは他の遊女に同じ真似をさせない意味合いが
込められていたのではないだろうか。
この厳しい折檻があることで、
遊女はもちろん新造や禿、遊郭の統率が取れていたと考える。
しかし、遊女を縛り過ぎて、反抗心から火災を起こす遊女もいた。
これだけのことをされたら、
放火をするのも、
好きな男を想うことも許されないのならと
心中や逃亡を企てる遊女がいたのも、理解に易い。
吉原が苦界と言われる一つの理由に
厳しい折檻も挙げられ、
この折檻に耐え、生き抜くことは遊女たちの試練であった。
私の個人的な感想
今回は遊女を苦しめた折檻について紹介しました。
皆さんはこんな世界があったと信じられますか?
恐ろしいですよね。
吉原は、もはや一つの小さな国のようになっていたんです。
吉原には吉原特有のルールがあり、
それで遊女を縛っていたんです。
安野モヨコ先生の作品である「さくらん」に
こんな台詞があります。
「惚れるも地獄 惚れられるも地獄
色がなければ生きてもいけぬ」
吉原遊女の世界観がこの台詞に詰まっているとすごく感じます。
色に縛られているのに、
好いても、好かれても地獄だと。
まさにその通りですよね。
江戸にはこんな女性たちがいたこと、
今私たちは自由に恋愛できていますけど、
自由に恋愛できることって、すごく幸せなことだと
遊女たちが教えてくれている気がします。
以上。