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【日本史】江戸時代における心中の始まりと流行②


今回は前回の記事の続き。
なぜ上方と江戸では心中発生の時期に差が生じたのか
江戸での心中流行は誠か

についてです。

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江戸での心中発生のきっかけ

上方で心中が多発したきっかけは
近松門左衛門の心中物による影響であった。
そして、近松の作品をみても
すべて上方が舞台となっており、
江戸のものはない。

では、どのように江戸に心中が渡ってきたのか?

江戸での心中発生の契機は
近松門左衛門の心中物に加え、
豊後節が関係していると考える。

急に出てきた豊後節(ぶんごぶし)・・・

豊後節とは
上方浄瑠璃語りの都一中の弟子である
宮小路豊後掾が
一中節から出て、これよりもさらに艶美で、
扇情的とされ一世を風靡した。

享保(1716~1735)の末、
豊後掾は数名の門人と共に江戸へ下り、
それまで江戸にあった土着の音楽よりも
豊後節が優美であったため、
江戸で人気を博し、
この豊後節が心中物を扱ったことから
江戸において心中が発生したとされる。

このことから心中事件などが発生し、
男女間の風紀の乱れは、
この豊後節によるとされた。

そのため、1739年(元文4)に
江戸幕府により豊後節禁止令
が出された。

この間に豊後浄瑠璃の相互間で
競争や自然淘汰がなされ、
常磐津、富本、新内という
豊後節の分派が生まれた。
新内浄瑠璃は「明烏」「尾上伊太八」等の
有名な心中作品を生み出した。

簡潔に
上方由来の浄瑠璃が江戸に移り、
それが人気になって、心中物を扱った。

というわけですね。


禁止された心中物の瓦版

心中事件は浄瑠璃などの作品だけでなく、
瓦版でも報じられた。

特にこの類の瓦版は人気が高かったが、
幕府によって心中物の瓦版は禁止された。
このことが江戸幕府の法令集『御触書寛保集成』に記される。

  二〇二二 享保七寅年十二月
        覺
  一當前世上ニ之無筋噂事幷男女申合果候類を心中と申觸、板行致し、讀賣候儀前々より御停止之處、此聞猥の賣あるき候段相聞、不届候、自今捕方之者相廻し召捕、急度曲事ニ可申付候、ヶ様之類之者見當り次第、其町々ニても捕置、月番之番所え可申來候、若見逃しニ致し、捕方之者召捕候ハ、其町々名主、月行事迄越度可申付候間、此旨可相守もの也、

『御触書寛保集成』


1723年(享保8) 2月に幕府から
男女相対死処罰令(心中禁止の法令)が
発令されたが、
心中物の瓦版禁止は心中が禁止されるより前
1722年(享保7)12月に出された。
内容としては、以下の通りである。

世間のいい加減な噂や相対死を心中といって、出版し、瓦版で売ることは、前々から禁止されているが、最近はみだりに瓦版を売り歩いていることは不届きである。今後は、奉行所の者を派遣して、捕まえて厳しい処分を与える。このようなものを見つけ次第に、それぞれの町でも捕まえ、当番の町奉行のところへ報告をする。もし見逃して、町奉行所の役人が捕まえたら、その町の名主、月行事も処罰するので、以上の内容を守るようにといった内容である。

1684年(貞享1)年に読売禁止令が出され、
瓦版全般的に違法となったが、
余程のことがない限り、
役人は読売(瓦版の売り子)を捕まえず、
黙認された。
ただし、記事の内容が、
「幕府批判」「心中事件」
関係するものは許されなかった。

もし見つかれば、
読売や制作者たちの命の保証はなかった。
心中に関する瓦版の法令が出されたということは、
心中は少なからず人気があり、
またこの瓦版によって心中する者が増えると
予想されたからではないだろうか。



この心中物の瓦版が禁止された後、
男女相対死処罰令が発令され、
心中が世間で注目される話題であったことが理解できる。
心中について記載された瓦版で現存しているものは極めて少ないが、
心中事件が多く発生していたことが記載される瓦版がある。

1行目には「古今昔より色道金故に命捨者数多有。」と記され、
昔から今に至るまで、
遊女などでは経済的理由で心中する者が多くいたとされる。

(しかもこの瓦版は嘉永7年に出された瓦版なので、
心中が禁止された享保からこれまで、
心中が多発していたことが
推測できますね。
まあ土地を限定して言っていないので、
詳細はわかりかねますが。)


江戸のおいて、遊女において、
心中は流行していたと考えられる。


江戸での心中流行って本当?


「江戸においても、遊女においても、心中は流行していたと考えられる」
とさっき言いましたけど、
有名な学者様たちは江戸での心中流行に
疑問を残しているんですね。

三田村鳶魚は、大坂では天和から享保の初め(1681~1716)までの30年余り頑固に心中の流行性は維持したが、
江戸での心中発生は年限が短く、10年内外としている。
上保国成も同様に、江戸における心中の流行について、記録の残存性から心中事件が少なかったように錯覚させるとする。

江戸時代の日本では、
心中が流行していたとされ、
その中でも上方で心中が流行したことは
明白である。

江戸での心中流行については、
上方と江戸で発生時期に差が生じ、
豊後節の影響により流行していたとした。

また、江戸の心中は上方と比較し、
年月が短いとされ、記録の残存性も低く、
流行性に疑問が残る。


★さっきの瓦版では、昔から心中が流行していたと書かれていましたが。。。
実際流行していたのか?気になりますね。

しかも。
特に、江戸期における吉原遊女の中での心中流行
について記される公式的資料は管見の範囲で極めて少ない。

吉原遊女の心中事件の資料は本当に少ないです。

これはなぜなのか・・・
なぜ資料が少なく、江戸での流行に時期が短いとされるのか。


次回は、
吉原遊女の心中事件の資料が少なさ
心中の流行性について、
書こうと思います。
謎が解けると思います。


以上。







伊原敏郎『歌舞伎年表 第2巻(享保六年-延享四年)』(岩波書店、1957年)306頁
高柳眞三 石井良助『御触書寛保集成』(岩波書店、1977年)994頁
三田村鳶魚『近松の心中物・女の流行 鳶魚江戸文庫31』(中央公論新社、1999)
上保国成『研究年報 第28集』(日本大学三島学園、1980年)

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母がバツ2の女子大学院生。瑠奈
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