南アルプス子どもの村。大切にしたい人間観と教育観。
その学校には、テストや宿題がない。”先生”もいない。
算数、国語、理科社会など見慣れた授業名が並ぶ時間割もない。
プロジェクトと呼ばれる体験学習の授業が毎日の大半を占めており、子どもたちは自分が参加したいプロジェクトを自分たちで運営しながら日々を過ごしている。教科書を開く授業が中心ではなく、週に14時間ほどあるプロジェクト学習の時間がこの学校の中心だ。
一般的なクラスには学年がなく、子どもたちは料理のクラスや建築のクラス、劇のクラスなどから自分の好きなクラスを選んで一年間在籍する。いろんな年齢の子どもたちで、共に考え、協力しながら活動を進めていく異年齢ミックスの形式で進んでいく。
この学校は外国の学校の話ではなく、日本で一条校として認可されている学校の話だ。しかも最近できた学校ではなく、30年以上も前の1992年から和歌山で「きのくに子どもの村学園」として始まり、現在では福井や山梨、北九州、長崎などでも学校を展開している。最近ではこの学校を取り上げた映画「夢みる小学校」が上映され、自主映画祭なども全国で積極的に開かれており、注目を集めている。
今回は、「夢みる小学校」で取り上げられた山梨の南アルプス子どもの村で中学校の校長先生を務める加藤さん(通称:かとちゃん)と、はぐくむ湖畔で「人の可能性を広げる教育のあり方とは?」というテーマで対談させていただいた中で感じた気づきや学びを書いてみたいと思う。
学校や教育にまつわる話が中心ということで、子育て世代の方々や教育に興味関心がある方々はもちろん、自主自立なチーム運営や会社経営を志している方々や、人の可能性の探究やその実現のお手伝いに興味関心がある方々にも何かインサイトがあったり、お役に立てれば嬉しい。
”先生”はいない。子どもが主役な関わりあい。
「主体的な子どもを育てたい」、「主体的なチームにしたい」と願う親やマネジャーは多いと思うが、どうやったら、人は自ら考え、自ら判断し、自ら行動する主体的な存在になるのだろうか?
南アルプス子どもの村の取り組み、教育方針は主体性をはぐくむために大事なことをたくさん僕らに示唆してくれている。
まず、南アルプス子どもの村では、”先生”がいない。いるのは、子どもと大人だ。一般的な学校でいう先生は、南アルプスでは先生としてではなく、大人として存在している。そして、大人は答えを教えたり、子どもたちに何をやるのか、何をしてはいけないのか指示命令することはない。何をするのか、どうやってするのかを決めるのは子どもたちだ。大人は話し合いの交通整理をすることはあっても、決して大人の正解を押し付けたり、大人の導きたい方向へ引っ張ることもない。与えることがあるとしたら答えではなく、問いであり、視点である。
一般的な学校によくありがちな”先生”と”生徒”という主従関係が南アルプスにはない。南アルプスでは、子どもたちが主役だ。だから、子どもたちは先生に言われたことを、先生の良し悪しの判断に従って行うことはない。
先生や学校に与えられたことをこなすために、子どもたちは登校しているのではなく、子どもたちは自らの”やりたい”や、”こうしたい”、”こうしたくない”といった意思に基づいて、互いに関わり合いながら日々を過ごしている。自分の興味関心があること、自分のやりたいに基づいているからこそ、携わることは”自分ごと”になりやすい。
人は当事者になったとき、自ら動き、最もよく学ぶ
かとちゃんが見せてくれた学校を紹介する映像の中で、羊の世話をする男の子のシーンがあった。羊係の彼が、ふとした瞬間に開けた扉から羊が一匹外に出て脱走した。男の子は「やばい、やばい、やばい」と言って、羊を追いかける。
1人で連れ戻すのは難しいので少し離れたところにいた別の子どもにコミュニケーションをとって、一緒に羊を追いかけ、その甲斐あって羊を飼育場所の扉付近まで羊を戻すことができた。しかし、今度は扉を開けて逃げた羊を戻そうとしているところで他の羊たちも外に出ようとしてしまう。
一歩間違うと、羊たちの大量脱走にもなっていきそうな場面で、もう一人、他の子どもも駆けつけて、「Mr.ガードマン!Mr.ガードマン!」と言いながら手足を大きく開いて羊の脱走を阻み続け、なんとか無事に羊たちを飼育場所に留まらせることができた。
ともすると、ただのトラブルシーンのように感じるかもしれないが、僕はこの一連のシーンから子どもたちのたくましさ、生き生きさ、そして生きる力を感じた。
何かが起きたとき、自分で考え、判断し、行動することができる人はどれくらいいるのだろうか?はたまた、何かが起きた時、自ら考え、判断し、行動することが許されている環境はどれくらいあるだろうか?
誰かの判断を仰ぎ、指示を待ち、それに従うことが大事な場面もあるだろうけれど、人は誰であっても自ら考え、判断し、行動することができる力をそれぞれがきっと有している。そして、その力を発揮し、それに基づいた経験を積み重ねていくことで、どんどん自らの考える力や、判断する力、行動する力を伸ばしていけるのだと思う。しかし、いつも指示命令に従っているばかりでは、せっかくのそれらの力を伸ばしていく機会が減ってしまうだろう。
子どもたちが決めていけるように、任せて待つ。
南アルプス子どもの村では、任せて待つ教育を大切にしている。「任せる」、そして「待つ」。言葉にすると短いが、その意味するところの奥行きはとても深い。
大人が決めない。子どもが決める。子ども(たち)が決める機会を奪わない。そして、子どもが決めたことに対して、大人が先回りして、ああだ、こうだ言わない。だからこそ、子どもたちは安心して自分で選べ、自分で決められ、自分で決めたことに対して挑戦してみれる。挑戦してみたことがうまくいかなかったからといって、大人はそれに対して「ほら、やっぱり失敗したでしょ」とか「失敗すると思ってたよ」なんて言うことはないし、「なんで出来なかったの!」なんて失敗を咎めるような話もしない。失敗こそが学びのスパイスだから、その体験一つ一つを大事に味わいたい。
だから、上手くいっていないことがあって、子どもが困っていることがあるとしたら、そばにいて一緒に話を聴く。アドバイスをしたり、ジャッジをするのではなく、聴く。その子のそばにいて、またその子がその子のタイミングで何かを決めて動き出すまで待つ。見守る。そばにいる。
任せて待つは、信じて待つにも近い。目の前のその子どもの可能性を信じてやまない心が「待つ」を可能にする。そして、そうした人間観から生まれる「間」だからこそ、自分で決め、自分で行動していく意思が自然と芽生えていくのを助けるのだろう。
大人も不完全だし、未完成
自分が正しく、相手が間違っていると思えば、相手の話を最後まで聞くことは難しく、相手の話を正したいという気持ちにもなるかもしれない。同様に、自分の方が偉いと思っていれば、相手に対して色々と言いたい気持ちも出てくるかもしれないし、相手がまだまだ未熟だと思っていれば、自分が導いたり、教えたりする必要があると感じるかもしれない。
南アルプス子どもの村では、大人も不完全で間違うこともあるし、知らないこともあるというスタンスで子どもたちと過ごしているのを感じる。だから、子どもの前で、なんでも知っているパーフェクトな”先生”であろうとせず、人として接している様子が伝わってくる。
「大人がいつも正解を持っているわけでもないし、いつも正しいわけでもない。だから、いつも正しい風に関わらなくていい。」そして、「わからないことがあれば、わからないことこそ大事にしたい。」と、かとちゃんは語ってくれた。
子どもたちが投げかける「空はなぜ青いのか?」「なぜ地球は丸いのか?」といった素朴な問いに対して、大人はすぐにわかったふりをしたり、わかった風で子どもに関わることがあるけれど、なんで空は青いのかを一緒に調べてみたり、一緒に考えていくプロセスこそ大事なのではないか。大人がなんでも知っているんじゃなくて、大人もわからないことがあることが子どもにとって面白かったり、嬉しかったりする。わからないことに一緒に向き合っていく時間を通じて、人と人としての人間関係も育まれていく。大人が特別で、子どもが劣っている存在ではなく、大人も子どもも1人の人間だ。そういう人間観も育っていくからこそ、南アルプスの子どもたちは大人たちの前で、萎縮したり、自分の個性を消して言われるがままになることがないのだと思う。誰を前にしても、自分として他者に関われる素養がそうやって育まれているのだろう。
安心安全な居場所でありたい
今回、かとちゃんと対談をさせてもらって、気づかせてもらえたことは本当に多い。まだまだ書いてみたいことが山ほどあるけれど、今回はそろそろこの辺で筆を置こうと思う。今回のnoteを終えていくにあたって、最後に2つ書き残しておきたいこと。その1つは、学校が子どもにとって、どれだけ安心安全な居場所であれているか?ということ。
子どもたちが安心して過ごせることを南アルプスではとても大切にしている。安心できて、居場所だと感じられるからこそ、子どもたちは伸び伸びとそれぞれに、それぞれらしく過ごせる。それは、家庭でも、会社でも等しく大事なことだと思う。家庭でも、会社でも、そこが自分の安心安全、居場所だと感じられるからこそ、人はそこで自分の持てるものを存分に発揮できるし、生き生きする。
「居場所は安心できる場所。安心とは、みんながそこにいられること。」そして、「居場所とは、自分が役に立つ実感が得られる場所。どんな子にも出番があるということ。」かとちゃんは居場所についてそう語ってくれた。
安心安全を感じられる関係性や環境と、自分が役に立つ実感が得られる役どころや出番があるか?これはどこの場やコミュニティにおいても大事な観点だと思った。
今、幸せであることを先延ばしにしなくたっていい
「学校は楽しいだけじゃだめ、もっと苦労したり、頑張らないといけないという雰囲気があるけれど、学校が楽しいことはすごく大事だと思う。」と、かとちゃんが話してくれたが、僕も楽しいことはすごく大事なことだと思っている。本来、学びはとても楽しいものだと思うし、仲間と学び合うことも楽しいもの。
ちっとも楽しくないなら、面白くないなら、何かがはまっていないのかなと思う。自分の興味関心や、やりたいが不在で、誰かの「やったら」、「やった方がいいよ」、「やりなさい」が先行しているのかもしれない。
かとちゃんは、子どもたちに自分を大事にできる人になって欲しいと語っていた。自分を大事にできる人は、自分ファースト。自分の人生の舵をとって大海原に出ていく。自分自身の人生を生きていくことが一番大事だし、それだからこそ生きている実感やよろこび、生きがいを感じるのではないか、と。
そんな”自分”を生きる子どもたちの、一瞬一瞬の生命のきらめきを大切にできたらステキだし、大人たちが未来を先回りして介入することで、子どもたちの”今ここ”の集中や夢中を妨げることないようにできたらいいと思う。
今、幸せであれたら、それは何よりじゃないか。今、幸せであることを未来を理由に先延ばしにする必要はないじゃないか。
幸せな今の積み重ねの中に、幸せな人生がある。そんな人生をともに分かち合っていけるつながりや関係性が溢れる社会を、学校の世界にも、企業の世界にも、もっともっと育んでいきたいと思った。
(文章・小寺 毅)
【お知らせ】
今回のかとちゃんとの対談動画を見てみたいという方々に向けてアーカイブ動画を提供しております。南アルプス子どもの村の取り組みや、かとちゃんの大切にしている子どもたちとの接し方や、教育観、人間観に触れてみたい方は当日の対談動画をぜひご覧になってみてください。
また、南アルプス子どもの村 小中学校に実際に訪問するツアーを開催します。かとちゃんに現場を案内してもらいながら、学校や子どもたちの様子をリアルに感じられる貴重な機会になると思いますので、興味のある方はぜひこちらのツアーご案内noteもご覧ください。