復興支援員後な私たち
私は3年4ヵ月「復興支援員」として福島県に住み、その後1年間は東京に移って復興支援員事業に携わった後、2018年3月に福島県での復興に特化した事業からは完全に卒業した。復興支援員は東日本大震災の後、総務省が作った制度で「地域おこし協力隊」の復興版と言われる。私たちが関わり始めたときは最長5年という期限付きのものでもあった。若くて優秀な、当然仕事を持っていたたくさんの人たちが、自分のキャリアを中断し岩手・宮城・福島に居を移して復興支援員になり、地域に深く関わった。
深く関わるから当然様々なつながりも生まれた。それは福島県内に止まらない。岩手・宮城・福島3県の復興支援員を対象にした研修で知り合ったり、復興支援員事業を受託する団体が複数の事業に関わっていたり、行政職員同士では実施しづらい行政組織の枠を超えた連携が必要なケースがあったりしたからだ。それぞれが困難な現実を抱えているからなおさら、そのつながりは貴重で強いものにもなり、復興支援の現場で得た経験とともに、これからの人生を助けてくれるに違いないものに感じる。
写真は今年6月上旬に訪れた「ひころマルシェ2019初夏」。ここに一緒に行った友人とは2014年2月大雪の郡山で出会った。彼女は復興支援員ではなかったが保健師として地元福島と向き合っている。そのマルシェの出店者にも元復興支援員がいて、旧知の仲。彼女は復興支援員後もその地に住み事業を起こし、現在は藍染めの衣類や雑貨を作って売る傍ら、地域おこし的な活動も続けている。その彼女をきっかけに他地域から移住したという、他のマルシェ出店者とも出会って、数時間で仲良くなれた。
復興支援員の多くは関東や関西の首都圏から移り住んでいた。首都圏とは人との距離、関係性のあり方が明らかに違う岩手・宮城・福島で、その後の人生に大きく影響する経験を得たという人は多いと思う。私も、新鮮な野菜の甘さ、「なんにもないよ」と言いながら春に採れる山菜や秋に採れるキノコの話を延々とするじいちゃんばあちゃんの楽しそうな顔、そういうものから、人生のほんとうの豊かさや人の幸せってほんとうは何なんだろうの答えのようなものが、自分の中で刷新された気がする。それを共に感じ話し濃い時間を共有した復興支援員後な仲間たちが、私たちがこれから生きる社会を豊かにしていくのではなかろうかと、今なんとなく思う。