スッタモンダヴォーズ 歌広場の夜明け
『鏡の世の理解はもういい。外側と照らし合わせて観るだけだ。肝心なのは内観し、花子の内側にある観念を手放していかねばならない。もちろん手放さず、塗り替えながら掴んだままでもよいぞ。花子にはすべてを手放してもらうが』
「外側、内側・・」
『そうだ。ここで外側と内側を福習しておこう』
「そうよ!その意味がよくわかんない!!」
『モーホー。よくきくがいい。本当のあなたから観た視点でいう外側は”思考、身体、心(についた穢れ)、感情、外の事象すべて”。内側は”聖心、仙骨、臍奥、蝶形骨”』
「へ?・・」
『ここでいう本当のあなたはソレとは違うが、聖心=あなたとしておけばいいだろう。感情は逃げることなく、しっかり観ることで消えていく。どんどん味わえばいい。また知的理解が進めば、思考ではなく、その真ん中のハートで世界を観るのだ』
「ハ!・・思考で書かれたものか聖心で書かれたものかそれだけで理解できそうじゃん」
『そうだ。慣れてくるとすぐ観念に気づける。但し、スケベな話しは除外するように💛エロスもないと、自分を知ることはできないからな』
「ちょっと!それ聖心からじゃないでしょ!」
『はっはっは。モーホー。真剣さはトキに仇となる』
noteで知り合った御方とDMをする中で、
よきヒントがございました。
ご本人は「私は思考を超えて思考を使いこなしている。それは宇宙大にまで広がっている。奇跡の講座やその他の教典などを学習した」
といった感じ(違ってたらスビバセン)
やりとりを進めているうち、こうDMが。
「すべては光だという体験をした方を知っている。残念ながら私はそれを体験したことはなく、知っているだけだ」と。
え、それってまだ知識、思考の段階ではありませんか。あー、なるほど。花子のためにこの御方は「思考に囚われている役割」を演じてくれているんだな、と。まぁ、通常は思考が束縛されている、つまりすべては決まっていることに気づけません。自我は存在していたいですから。
自我をそんなに簡単に手放せれたら、あらゆる経典や宗教の教え、私の努力は何?ってなっちゃいます💦”在る”はまったく違う生き方、在り方をはじめるようなものですから。
一瞥体験は確かにステキな体験ですが、実際にはそれを何度体験しようが、知識として捉えるべきものなのです。
あはは~。もちろん、これまで書いてきたようにそれを超えてソレに戻るのは困難ですから、オススメはしません。すでにソレでもありますからね♡大いなる自然の愛。
ただ、この御方は奇跡講座等をお読みになられ、真実の愛にご興味おあり。ですので、思考から離れなければ、その一瞥体験(知識ですが)も起きませんし、イエスの望んでいるソレにも戻れませんよ、とお伝えしたわけです。これは宇宙の理です。知識を持ったままでは、ひとつになれないのです。(つまり、通常は亡くなればひとつなのです)
やりとりをする内、お互いが「勝手にそう思い込んでいただけ」であると気づきます。別にこの御方は愛そのものを観る体験もソレになるのもどうでもいいと仰る。こちらはただ一瞥体験に至るには思考から距離を取ればそのうち・・的なお節介をしていただけのようです。まぁお陰様でハゲも学ばせていただいたのですが、考えてみると不思議な世界です。真理ではこのようにやりとりする必要はない、すべてよし。拈華微笑。それなのに、DMの長文がやってくる。「あーそうか、花子の解放、誰かさんの気づきってことね」との理解が。もちろん、私の理解を深めるためでもあるのです。また、意味は全くないのかもしれません。観たら手放す、というのもよいでしょう。
またこの御方の現在の目的が今のそれであれ、今後はわかりません。変化の世にありますから。私も数年前はただのハゲだったわけで。今でもですが🤣
思い出します。「思考はあなたではないよ」「自我はあなたではないよ」という言葉を見た時の「は???何いってんのこの人」というあの感じ😅
みなさんのおかげで、こうして記事も進めることができます。もう感謝するしかないのです。本当にありがとうございます👏✨
この絶対的な安心感に包まれる至福。
永遠の我々はいつまでも、どこまでも。
どうか、あなたが本当の自分を思い出し、この安らぎの中に在ることを。
どうか、この神癒が必要とされる御方へ伝わりますよう。
世界へ祈りという愛を返します。
この全なる愛を。
実在の”ソレ”は簡単には思い出せません。それでもこの惑星ムチュウはすでにそれであり、あなたもそれです。その完全に救われたこの世界で起きている奇跡の愛を想う存分に楽しんで♡
実在も心もすべてひとつですが、
そこに在るのは紛れもなく、
あなただけの命です🔮✨
さて、外側と内側。鏡の世。あれこれ。
纏まりなく書いてきたように思いますが、真理においては、外も内も現象界も霊界もそれらのすべては実はすべて花子であるという冗談なのです。霊界があなたというのもちょっとややこしいのですが、あなたの中心が霊界ともいえましょう。境界はどこにもありません。
書く者の視点により変化しますから、まるで現実世界とは違うところに霊界があるように思えたり、次元を越えなければ、なんだか超人間になれない、みたいな解釈をしてしまいがちですが、実は、時間という概念も空間という概念も幻想であり、すべては”今ここ”の実在において一つ。正確にはあなたという自我が消えた真の今ここに全部あります。
ですので、死ねばあの世に行く、というのは真理から観れば、本当の自分の内側であらゆるものにカタチを変えているだけ、となります。所謂一者です。逆にいえば、生まれても死んでもいない。となります。
これを人間の視点でみると、肉体の消失=死、となりますから多くの人にとって死は恐ろしく映るわけです。
また、少し進化(便宜上)した人間の視点でみますと、幻想世界は自身の内側の想いや意識が外側の事象に映し出されますので、どうせ映すのならもっと平和で美しい世界にしようぜー、なんて感じで不要な観念を解き放ち、心の穢れを落として聖心で世界を観ようとするわけです。思考で観てもよいのですが、思考は考えた瞬間に分離しちゃってますから、なかなかひとつの平和な世界にならない。すべては愛だよーなんて聞いても、何となくイメージはできても、完全に自身がソレそのものであるとは認識できませんから。また自我ちゃんは自分が大好きですから、ときに目の前の相手を傷つけます。まぁ、そうしたことも思考に住んでいる限りはすでに決まっている、なんていうカオスな世界ともいえるかもしれません。
自分を知る運命にある者は探求をはじめます。そこで、”思考を手放しなさい”や”すべてを赦しなさい”や”明け渡し”などの言葉があるわけです。
本当の自分ではないもの、つまり幻想世界は過去からのプログラムによって、完璧に書かれております。その幻想世界の何か(思考、身体、想念、感情など)との同一化を解除すれば、本当の自分である真我(実在の愛)が輝き始める。即ち、それが聖典教典に書かれている、解脱や涅槃、梵我一如やイエスのいう赦しといえましょう。これを異なる言葉にすると”何も起きてなくすべては愛”となります。
他にも解脱表現があった気がしますが、最近は本も読まず、ドラえもんくらいしか観てませんので忘れました🤣
まぁ、真理の前ではこのようなガラクタ言葉に意味はありません。在るを実践することで、実在を確かめられるのはあなただけです。
また、このようなフザけた記事を書いているフザけたニックネームのハゲが真理に至ったとは誰も信じないでしょう。そうです。信じるべきはあなたの中心だけなのです💛
どのように生きても自由。
目的違えば、真理ですらガラクタとなりましょう🎵
ただ、スケベイダーより一言。
『現れたり消えたりするものが、本当のあなたのわけないだろう!💖』
「頭でなく聖心で観る・・。理解ったような・・気が」
『ほお、では聞こう。私はタオノ=スケベイダーだ。で?お前は一体何者なのだ?』
「花子・・」
『フルネームは?』
「花子・・。花子=スケベイダー」
『花子はまだ全く理解っちゃいない🤣』
「えーっ!!ちょっと何よソレぇ💢」
『はっはっは!SWのオマージュ的には完璧だ👍✨』