ファイナルファンタジーⅡ二次創作小説 『野ばらの旗』 第九章 叡智の風
一
半年ぶりに、山を降りた。
秋も終わりに近づいているが、肌寒さはなく、むしろ暑かった。ミシディアは熱帯に位置し、一年を通して温暖な気候なのだ。雨量も多く、密林には、南方特有の植物がうっそうと茂っている。
ミンウは、全身に気が満ちているのを感じていた。
村の長老に命じられ、深山に籠もり気を練っては、魔力を高め続けた。長老に認められるだけの魔力がなければ、アルテマの封印を解くことはできないという。
奇跡を起こす秘法というが、アルテマがいったいなんなのか、いまだにわからない。長老に訊いても、叡智の結晶、と言うだけだった。封印を解けば、アルテマの正体は判明するのだろうが、帝国との戦に勝つために、果たしてそのような秘法が必要なのかは、ずっと疑問に思っていた。
元はといえば、フィン王ロベールの遺言に従い、故郷であるミシディアに戻ってきたのだ。しかし、ミシディアに近づくにつれ、なにか眼に見えない大きな力のようなものを感じた。そして長老は、ミンウが来ることを予見していた。運命という言葉で片付けていいものかはわからないが、確実に、自分はなにかに導かれている。
山の空気がよかったのか、あるいは修行によるものなのか、この半年間、病による発作は起きなかった。ただ、根は深く張っていて、じわじわと躰を蝕んでいた。
死期が近づいているのが、自分でもよくわかる。だからこそ、確実に自分の役割を果たさなければならない。
麓で、叛乱軍の密偵が待っていた。接触するのは、半年ぶりだ。人と話すこと自体が、半年ぶりでもある。山に籠もっている間、外界との接触は一切絶っていた。
半年の間に、かなりの動きがあった。ヒルダを救出し、さらにはフィン城を取り戻したという。払った犠牲も大きかったが、叛乱軍の勝利は着実に近づいている。
ヒルダが戻ってきたことで、フィンの城郭にはかなりの活気が溢れているらしい。志願兵も多く集まり、ゴードンの指揮で調練を重ねているという。文官たちの補佐を受けながら、二人はうまく兵と民をまとめているようだ。
ゴードンとヒルダは、互いに魅かれ合っている。それは、以前から感じていたことだ。帝国との闘いに勝利したのち、二人は結ばれ、民の祝福を受けるのだろう。スコットも、いまのゴードンを見ればきっと満足するはずだ。
ミンウは三十歳になっていた。思えば、十五年以上フィンに仕えてきたことになる。死んだスティーヴとともに国政を担当するほか、ヒルダの教育係もつとめた。やがて、ヒルダは美しく成長した。その美貌は眩しいほどだったが、恋愛の感情までは抱かなかった。
恋と呼べるものを、フィンに出仕する前に一度だけ経験したことがある。相手は、同い年の村娘だった。十四歳の時のことだ。
ほどなくフィンに出仕することになり、娘とは別れたが、気持ちは残っていた。五年後に、暇を貰って、一度だけミシディアに戻ってきたことがある。娘はすでに結婚し、子ももうけていた。それで、ミンウの恋は終わった。もう、遠い過去の話だ。
過去を思い出すのは、死が近いからだろうか。思い出して、どうなるわけでもない。額の汗を拭い、ミンウは足を速めた。
中央の村が見えてきた。
ミシディアという国は、いくつもの村が集まって成り立っている。国土は広大だが、人口はそれほど多くない。城郭もなければ、産業と呼べるものもない後進国だが、中央の村の書庫には、数多くのめずらしい文献が収められている。文献によれば、ミシディア人の先祖に当たる魔導師たちは、魔法を遣う以外にも、あらゆる学問を修め、優れた知識と技術を有していたようだ。
はるか昔、この世界には、いまよりもずっと進んだ科学文明が存在していたという。
地上は巨大な建造物で溢れ、科学技術の発達により、人間の世は栄華をきわめた。魔法も、そのころに生み出されたものらしい。
しかし、自らの力に溺れた人間は、環境破壊や戦をくり返し、滅びの道を辿った。
魔法を遣う者は、そのほとんどが戦で命を落とした。わずかに生き残った、魔導師と呼ばれる知識人たちはミシディアに逃れ、密林を開拓しひっそりと暮らし、子孫を残した。
そうした歴史背景があり、現代でもミシディアは他国と一定の距離を置き、軍備を持たず中立を保っている。村が魔物に襲われることもあるが、魔法を遣う者たちで撃退する。
魔導師の末裔だからか、ミシディアには、魔法を遣う者が多い。というより、ミシディア以外の国ではほとんど見かけることがない。文明の中で生活していくうち、人々は魔法を忘れたようだ。マリアなどは、かなり稀有な例だろう。
村に入ると、ミンウは長老の家を目指した。顔見知りの者が、何人か声をかけてきた。
ミシディアの民は、主に農耕や機織りで生計を立てている。織物は独特の文様が珍重され、フィンやポフトなどでは、高値で取引されている。
長老の家に着いた。
靴を脱ぎ、使用人の案内で居間へむかった。起きている間、長老はずっと居間で過ごし、時にはほかの村の長たちと会って話をする。すべてのミシディアの民は長老の言葉に従うが、ふだんはこれといって指示をすることはない。
以前会った時と同じように、長老は居間の奥に座っていた。どこか、置物のようでもある。長くのびた白髪を後ろで束ねているが、頭頂部はほとんど禿げている。顔中に深い皺が刻まれ、眼は、皺と長い眉毛に埋もれていて、よく見えない。
ミンウが子供のころから、長老の外見はずっと変わっていない。かなり高齢のはずだが、誰も長老の年齢も、名前も知らないのだ。昔からずっと、長老は長老だった。
「ミンウか。よくぞ、そこまで気を高めたのう。これで、アルテマの封印は解けよう」
長老の声は、低いがよく透っていた。
「明朝、さっそく出発しようと思います。船の手配を、お願いできますでしょうか?」
長老は、無言で頷いた。
北へ二日ほど進むと、ティマール海に出る。そこから、船で沖にある島を目指す。島には塔があり、その塔の最上階に、アルテマは封印されているという。塔が、いつの時代に建てられたかはわからない。書庫にはたくさんの文献があるが、閲覧を禁じられているものもあるのだ。
「なにか、気になることがあるような顔じゃのう、ミンウ?」
「閲覧を禁じられている文献についてです、長老。やはり、アルテマに関係するものなのでしょうか?」
ミンウが言うと、一瞬だけ、長老の眼が光ったような気がした。
「その通りじゃ。詳細は言えんが、これまでにも、アルテマの封印が解かれたことはあった。いずれも、この世界が滅亡の危機に瀕した時じゃ」
「確かに、パラメキア皇帝のマティウスは、強大な軍事力と魔力をもって、世界征服に乗り出しました。しかし、滅亡の危機というのは、少し大げさな言い方のような気もします」
「ふむ。どうやらおぬしは、マティウスの真の目的に気づいていないようじゃの」
「真の目的?」
「マティウスは、この世界を魔界に呑みこませようとしておる」
「この世界を、魔界に。そんなことが、可能なのですか?」
「人々の血と、恐怖を供物にすればな。戦は、あくまでそのための手段じゃ」
ミンウは、長老の言葉を信じた。長老には、神通力のようなものがあり、しばしば未来を予見したりもするのだ。ミンウがフィンに出仕したのは、長老の推挙によるものだが、それも、こういった事態を予見してのことではないか、とさえ思えてくる。
もはやこの戦は、帝国軍と叛乱軍の闘い、という枠には納まらないようだ。しかし、マティウスは魔界にこの世界を呑みこませて、どうしようというのか。破滅こそが、マティウスの望む世界だとでもいうのか。
「アルテマがあれば、マティウスの野望を阻止できるとして、マティウスほどの者が、指をくわえて見ているとも思えませんが」
「あの島には、太古からの結界が施されておる。マティウスのような、暗黒面に心が偏った者は、立ち入ることはおろか、島の存在にすら気づかんよ。すべては、ミシディアに移ってきた魔導師たちの叡智によるものじゃ」
「最後にアルテマの封印が解かれたのは、いつのことなのでしょうか?」
「確か、六百年ほど前だったかのう。そうじゃ。ひとり、頼りになる男がいる。供をして貰うといいだろう」
長老が言うと、金髪で青い眼の、逞しい男が居間に入ってきた。歳は、ミンウより三つか四つくらい上だろう。
「リチャードと申します。ディスト王国の、竜騎士団副長をつとめていました」
「お名前は、存じ上げております。冬ごろ、叛乱軍の者をディストへ派遣したのですが、ご無事でなによりです」
密偵からの報告を聞く前から、リチャードという名前だけは知っていた。竜騎士団の副長で、槍に関しては天下無双と言われている。竜騎士の生き残りを探す、というのは、なかば苦し紛れに近いものがあったが、ほんとうに竜騎士はいた。彼ひとりいるだけで、戦局は一変するに違いない。あくまで、国同士の戦という次元の話ではあるが。
「一年半ほど前、ディストが陥落する寸前に、私ひとりが密命を帯びて戦場から離脱しました。ミシディアの長老から、アルテマについて訊け、と国王に言われたのです。しかし、途中で魔物に襲われ、かなりの深傷を負いました。長老のお世話になり、ようやく躰を動かせるようになった、というわけです」
「ここに辿り着いたときは、飛竜もリチャード殿も血まみれで、生きているのが不思議なくらいじゃった。しかし、ここまで回復するとは、さすがは竜騎士じゃ」
ミンウが読んだ文献の中には、竜騎士に関するものもあった。ディストの深山にしか棲まないという飛竜を、数十年かけて飼い馴らしたハーンという男が、最初の竜騎士らしい。
「飛竜の方も、飛べるまで回復しました。いまは山にいますが、この竜笛を吹けば、呼ぶことができます。沖の島までは、飛竜で行きましょう」
言って、リチャードは首にかけた紐の先に付いた、小さな笛を見せてくれた。
「リチャード殿。よかったら、今夜はうちにお泊まりください。いろいろと、お話したいと思います」
「それは、ぜひ。私も、白の賢者といわれたミンウ殿とは、かねてから話をしてみたかったのです。武具を持ってきます。しばらく、お待ちいただけますか」
リチャードが、居間を出て行った。
再び、長老と二人きりになった。
「ミンウ。おぬし、病じゃな?」
少しの沈黙のあと、唐突に長老が言った。ミンウは長老の眼を見たが、やはり皺と眉毛に埋もれていて、表情はよくわからなかった。
「長老は、すべてをお見通しなのですね」
「見通せるがゆえに、己の無力さを感じることの方が多いものじゃ」
ミンウはふと、長老の年齢を訊いてみたい衝動に駆られた。もしかしたら、普通の人間ではありえないほどの年月を生きている、という気がしたのだ。しかし、訊いたところでどうする、という思いが、その衝動を抑えこんだ。長老は、長老のままでいい。
「アルテマの封印を解くまでは、死ぬつもりはありません」
ミンウの言葉に、長老はかすかに頷いたようだ。
「お世話になりました、長老」
「さらばじゃ、ミンウ」
それで、長老との会話は終わった。
しばらくして、リチャードが武具をまとめて持ってきた。
一礼して、居間を出た。
引き戸を閉める時も、長老は、置物のようにじっと座ったままだった。
母の手料理が、心に沁みた。
十一年ぶりに会った母は老いていたが、この半年間で、母の躰はまた縮んだようだ。顔にも、かなり皺が増えている。
父はミシディア一の魔法の遣い手であったが、ミンウがまだ七歳のころ、魔物との闘いで命を落とした。
父を失った悲しみと、魔物に対する怒りから、ミンウは錯乱した。
気づいたときには、山に入り、習ってもいない魔法で、魔物を何体か仕留めていた。
以後、ミンウは長老のもとで、本格的に魔法を修行することになった。
最初に長老から言われたのは、力の使い方についてだった。憎悪で心を満たせば、誤った力の使い方しかできない、と言われた。
マティウスは、おそらく独力で魔法を体得したのだろうが、その力を、野望を満たすために使うことを選んだ。そうなる可能性はミンウにもあったが、長老のもとで学び、人々の役に立つために修行をした。
フィンに出仕し、広い世界を知ってからは、さまざまなことを考えた。
大学を設立し、研究に没頭したいと思ったし、国のありようや、民が豊かに暮らせる方法などを考えるようにもなった。
そのためにも、一部の貴族だけではなく、民による政事を、いつか実現させたいと思った。民の投票によって選ばれた議会を作り、議会から上げられた法案を、国王が可決する。国王の権威はそのままに、直接の統治はしない制度だ。
それにはまず、すべての人々が学校で学べるようにする必要がある。教育制度については、国王に何度も上奏し、いくつかは採択された。
戦が終わり、平和な世になれば、多くの学校が建てられ、人々は多くのことを学び、自らの生活を豊かにすることができるだろう。
新しい世を見ることはできないが、自分が後の世の役に立てる。そう思えば、満足だ。
食事を終えると、リチャードが外に出て行った。鈍った躰を動かしてくる、と言っていたが、母と二人にするために、気を利かせたのだろう。それほど多く語ってはいないが、なによりも誇りを大事にすると同時に、とてもやさしい男だということはわかった。
ほんとうに強い男は、みんなやさしい。スコットやジェイムズ、ヨーゼフもそうだった。
片付けを終えると、母がミンウの前に来て、座った。
「ほんとうに立派になりましたね、ミンウ」
「母上と、長老のおかげです」
「長老から、話は聞いています。沖の島に、行くそうですね」
「はい。どうしても、私が行かなければならないのです。母上との夕食も、これが最後でしょう」
「わたしのことは気にせず、自分のつとめを果たしなさい。それによって、多くの人々が救われる。とても、素晴らしいことではないですか」
「はい」
ミンウの頬を、熱いものが伝っていた。
「あなたは、わたしの誇りですよ、ミンウ」
気づけば、母の顔も、涙で濡れていた。
ミンウは、母の小さな手に、自分の手をそっと重ねた。
泣きながらも、母はやさしく笑っていた。
二
船に乗ってから、胸騒ぎがいっそう強くなった。
甲板で、マリアは風に靡く髪を押さえながら、ティマール海に浮かぶ島を見ていた。
島の中央に、塔が建っているのが見える。アルテマの封印を解くため、ミンウはあの塔へ入っていったのだ。
ミシディアの長老の話によると、ミンウが村を発ったのは、五日前のことだという。
竜騎士のリチャードが、ミンウに同行しているらしい。探していた竜騎士が生きていたのはよかったが、素直には喜べなかった。
ミンウの命が、もうすぐ尽きようとしている。
離れていても、ミンウを感じることができるようになった。自分の能力が高まった、という自覚はあるが、それ以上に、ミンウの放つ気が強くなっていた。そして、ミンウが強い気を放つたびに、命の灯は少しずつ小さくなっていくのだ。
もうひとつ、気になっていることがあった。
ダークナイト。フリオニールから、この男の話を聞いた。すさまじい剣の遣い手で、全身を黒の武具でかため、やはり全身を黒で統一した、百騎の騎馬隊を率いているらしい。
最近は感じなくなったが、以前感じた黒い想念のようなものは、この男のものなのだろうか。恐ろしくもあるが、どこか哀しい、そんな印象だった。
背格好は、兄のレオンハルトに近かったというが、フリオニールも言うように、兄であるわけがない。帝国軍は、両親の仇なのだ。
兄は、なによりも強さを追い求める男だった。孤独を好み、人を遠ざけるところはあるが、その思いは純粋で、厳しさの中にもやさしさがある男だった。
もし兄が、純粋さや、やさしさを捨ててしまえば、どうなるのだろうか。家族や、仲間を、捨てられるのだろうか。考えても、わからなかった。
兄が死んだとは、どうしても思えない。全滅したと言われていた竜騎士だって、生き残りがいたのだ。兄はどこかで必ず生きていて、いつか叛乱軍に力を貸してくれる。そう信じている。
見る間に、島が近づいてくる。赤鯱の速力は世界一だと、ディスト海軍提督のフランシスが言っていたことを思い出した。レイラの手下の大半は、フィン城での闘いで命を落としていたが、パルムで新たに乗組員を募り、欠員は補充されている。
海はおだやかで、波はそれほどなかった。
入り江で投錨し、小舟で島に上陸した。
フリオニールを先頭に、レイラ、マリアと続き、最後尾をガイが歩いた。小さな島で、樹木もほとんどない。
塔までは、すぐに着いた。大昔に建てられたというが、かなりしっかりした造りである。これほどの高い建物は、フィンにもなかった。
フリオニールが軽く押しただけで、扉はあっさり開いた。魔法による封印が施されていて、それを解くために、ミンウは半年ほど山に籠もっていたのだという。
中に入ると、黴と血の匂いが鼻を衝いた。レイラが、松明に火をつけた。炎の揺れで、空気が流れていることはわかる。
上の階へのぼっていく。階段の幅が狭く、ガイは歩きづらそうだ。
いたるところに、見たことのない魔物の屍体が転がっていた。ほとんどは、武器によるものだった。竜騎士リチャードの槍だろう。フリオニールたちは、屍体の傷を見ただけで、すさまじい遣い手だ、とわかるようだ。フリオニールが言うなら、そうなのだろう。
十階へ上がったところで、ひとりの男が現れた。兜で顔は見えないが、口もとからすると、三十過ぎというところだろう。うなじのあたりから、金色の髪がこぼれている。背は、フリオニールよりも頭ひとつ分くらい高い。具足の上からでも、筋骨隆々だということがわかる。この男が、リチャードなのか。
「君たちは、叛乱軍の者か?」
声をひそめて、男が言った。
「はい。俺は、フリオニールといいます。もしかして、リチャード殿では?」
フリオニールも、声をひそめて言った。
「その通りだ。私は、ディスト王国竜騎士団のリチャード。君たちの話は、ミンウ殿から聞いているよ」
「いま、ミンウ殿は?」
「この奥だ」
リチャードが、後ろにある扉を指した。声をひそめていたのは、ミンウの集中を乱さないためだろう。塔の中では、普通に話していても声はよく響く。
「この部屋の先に、封印された最後の扉がある。その封印を解くため、ミンウ殿は、三日もの間、休まずに魔力を注ぎこんでいる」
「休まずに、三日も」
マリアのこめかみを、冷たい汗が伝った。確かに、扉のむこうでミンウが魔力を放っているのを感じる。三日もの間、魔力を一点に集中し続けるなどという真似は、自分にはとてもできそうにない。
「われらができることは、なにもない。ここで、ただ待とう」
リチャードの言葉に、全員が無言で頷いた。これは、ミンウだけの闘いなのだ。
二時間ほど経ったころ、扉の奥で変化があった。ミンウの放つ気が、急激に弱くなった。声が出そうになるのを、マリアはかろうじてこらえた。
「お入りください、みなさん」
扉のむこうから、ミンウの声がした。
全員で眼を見合わせ、中へ入った。
部屋の中央に、ミンウが倒れていた。マリアは駈け寄って、ミンウの上体を抱きあげた。全身が、汗にまみれている。顔を覆う布は付けていない。ミンウの素顔を見るのははじめてだが、彫りが深く、整った顔立ちだった。翠色の瞳は、吸いこまれるように美しく、やさしかった。
「来ると思っていましたよ、マリア」
「ミンウ殿」
全員で、ミンウを囲むかたちになった。マリアは、懐から手拭きを取り出し、ミンウの額の汗を拭った。顔からは生気が失われているが、それもどこか美しかった。そう思ってしまう自分が、とても愚かな女だという気がする。
「しばらく見ない間に、ずいぶんと力をつけましたね、マリア。私の予想を、はるかに超えました。あなたには、とてつもない魔法の才があったようです」
「アルテマの封印は、解けたのですね」
「はい。あの扉のむこうに、アルテマはあるはずです」
ふるえる手で、ミンウは扉を指差した。
「これで、マティウスの野望を阻止できる」
フリオニールが言った。
マティウスの目的については、長老から聞いていた。途方もない話ではあったが、魔法がいまだ失われることなく存在し、他国とは異なる位置づけにあるミシディアの長老の言葉には、説得力があった。
しかし、マティウスはこの世界を魔界に呑みこませて、いったいどうしようというのか。新たな世界を創り出し、神にでもなるつもりなのか。政事のことはよくわからないが、ひとりの権力者の思いつきで、たくさんの人々が殺されていいわけがない。マティウスは、狂っているとしか思えなかった。
突然、ミンウが激しく咳きこんだ。口から鮮血が溢れ、頬を伝った。慌てて、マリアはミンウの口もとを拭った。
「封印は解けましたが、私も力を使い果たしました。アルテマは、マリア、あなたに託します」
マリアの手首を掴んで、ミンウが言った。手首を握る力はとても弱々しく、マリアの胸は締めつけられた。
「大丈夫。自信を、持ってください。フリオニール。ガイ。あなたたちも、ほんとうに強く成長しましたね。正直、ここまでのものとは、私も思っていませんでした」
「ミンウ殿。ひとつだけ、訊きたいことがあります」
「なんでしょう、フリオニール?」
「以前ミンウ殿が言っていた、運命という言葉が、俺の中でずっとひっかかっています。俺たちが闘うのも、いまミンウ殿がこうしているのも、すべては運命なのですか? 決まった運命は、変えられないのでしょうか?」
「結局のところ、運命というのは、自分自身で切り開くものだと思います。ただひとつ言えるのは、私は、自分の使命を果たした、ということです。心に決めたことを、私はやり遂げました」
「ありがとうございます、ミンウ殿。俺も、心に決めたことを、必ずやり遂げます」
「俺も」
フリオニールとガイが言うと、ミンウは笑って頷いた。
「レイラ殿。あなたのことは、話には聞いていました。これからも、彼らのことを、よろしくお願いいたします」
「あいよ。任せときな」
「リチャード殿も」
「うむ」
「さあ、マリア。早く、あの扉のむこうへ」
「はい」
頷いた拍子に涙がこぼれ、ミンウの頬に落ちた。
ミンウは微笑み、そのままゆっくり眼を閉じた。
三
奥の小部屋には、暖かな光が満ちていた。どういう原理かはわからないが、床がほのかに光っているのだ。
部屋の中央に、彫刻が施された青銅製の台座があった。その上に、人の頭ほどの透明な玉が乗っている。どうやら、水晶でできているようだ。
マリアが、眼で合図を送ってきた。フリオニールが頷くと、少しためらいながら、マリアは水晶玉にそっと手をのばした。
次の瞬間、水晶玉が閃光を放った。眩しさのあまり、フリオニールは眼をつぶった。
しばらくすると、光は収まったようだ。少しずつ眼を開けたが、眼が眩んで、まわりがよく見えない。
「いったい、なにが起こったってんだい」
レイラの声だ。フリオニールは、全員に呼びかけた。マリアだけ、返事がなかった。
何度か呼びかけるうち、少しずつ視界が戻ってきた。
マリアは、床に倒れていた。
「大丈夫か?」
フリオニールがマリアの上体を抱え起こすと、閉じていた眼がゆっくりと開いた。
「ごめんなさい。少し気を失っていたみたい」
言って、マリアはよろけながら立ちあがった。
「水晶に触れたとたん、いろんなものが見えたの。まだ人間がいない太古の昔から、現代、そして、未来。街には見たこともない高い建物がそびえてて、夜でも明かりが溢れ、空には、飛空船とも違う乗り物が飛んでいたの。多分、この世界のことだと思う。なんとなくだけど、わかったの」
「ちょっと見ておくれよ、フリオニール。水晶の玉が」
レイラに言われて見ると、台座の上の水晶玉は、梅の実ほどの大きさまで縮んでいた。
「いったい、なんなんだ。マリア、わかるか?」
「うまく説明できないけど、わたしの中に、さまざまな思念が入りこんできたの。この水晶の玉を持って行け、という声も聞こえたわ」
「アルテマは究極の魔法ともいうが、それが遣えるようになった、ということか?」
「これまでのように、わたしの意志で遣う魔法とは、ちょっと違うみたい。とにかく、この水晶の玉を持っておくわ」
「もしかすると、この水晶玉には、古代ミシディア人からの伝言、あるいは予言のようなものが籠められているのかもしれんな」
リチャードが、腕を組んで言った。
「なるほどね。あたいにゃ、よくわからないけど」
「もう行きましょう、フリオニール。いつまでも、ミンウ殿を冷たい床の上に寝かせておきたくないわ」
水晶玉を懐に収って、マリアが言った。
「そうだな。行こう」
小部屋を出て、さきほどの部屋に戻った。
ミンウの顔は、微笑を浮かべたままだった。声をかければ、いまにも起きそうな気がする。
もっといろいろなことを、ミンウから教わりたかった。叛乱軍に加わって闘うことができたのも、ミンウがいたからだ。
「まだミンウ殿の言葉が欲しいのなら、心の中のミンウ殿に聞け、フリオニール。ひたすら、自問しろ。そして、答えは必ずしもひとつではない」
フリオニールの心を見透かしたように、リチャードが言った。
リチャードの眼を見て、フリオニールは頷いた。リチャードも、頷き返した。忘れないかぎり、ミンウは、心の中でいつまでも生き続けるのだ。
塔を降りて、外に出た。ミンウの亡骸は、ガイが担いだ。
「ミンウ殿は、この地に埋めよう。母御との別れは、すでに済んでいる」
リチャードの言葉に従い、塔のそばの地面を掘り、ミンウを埋めた。塔が墓標になる。それも、悪くないだろう。
「さて、帰るとするかね」
「待ってくれ、レイラ。私が、飛竜を呼ぼう。フィンまで、一日で行ける。私を含め、四人までなら、乗れるようになっている」
「なるほど。確かに、その方が速いね。あたいは、船で新しい手下を鍛えながら帰るよ」
「すまん、レイラ。みんな、それでいいか?」
「お願いします、リチャード殿。帝国に察知される前に、フィンに帰還しましょう」
フリオニールの言葉に、ガイもマリアも頷いた。
「よし。決まりだ」
言って、リチャードが、胸もとからなにかを取り出した。首からかけた紐の先に、小さな笛が付いている。笛を吹いたが、音はしなかった。犬笛と同じで、人間には聞こえない音が出ているのかもしれない。
しばらくして、南の空になにかが見えてきた。あれが飛竜なのか。翼を羽ばたかせ、ものすごい速さでこちらに近づいてくる。
あっという間に、飛竜は島の上空まで来た。以前パラメキアで闘った、ベヒーモスという魔物と同じくらいの大きさだが、両翼もまた全長と同じくらいあり、いっそう巨大に見える。
風を巻きあげながら、飛竜が降りてきた。着地すると、飛竜は翼を折りたたみ、リチャードにむかってひと声啼いた。
飛竜には、ほかの魔物とは違う、知性や気高さのようなものがあった。銀色に輝く鱗は、どこか神秘的な美しさを漂わせている。
竜という存在を、フリオニールは伝承では知っていたが、実際に見るのははじめてだった。太古の昔には、飛竜以外にも、さまざまな竜がいたというが、いずれも高い知能を有していたという。
「すごいね、飛竜ってのは。昔、遠くから見たことはあるけど、こんなに近くで見るのははじめてだよ」
風で乱れた髪を直しながら、レイラが言った。
「名前はハイウィンド。雄の飛竜だ」
言って、リチャードは飛竜の首を撫でた。ハイウィンドと名づけられた飛竜は、嬉しそうな表情をしている。
「装具類が飛ばされないように、しっかり点検してから乗ってくれ」
リチャードに言われた通り、装具を点検し、革帯はきつく締め直した。
「それじゃ、あたいは行くよ」
「先にフィンで待ってるぞ、レイラ」
フリオニールが言うと、手を振って、レイラは小舟の方へ歩いていった。
飛竜の背中には、大きな鞍のようなものが乗せられていて、革帯と留め金で、数ヵ所にわたって固定されていた。さらに前部には、馬の鞍と似たようなものがあった。おそらく、リチャードがそこに乗り飛竜を操るのだろう。
リチャードに促され、飛竜に乗った。ガイが前で、その後ろにフリオニール、最後尾がマリアというかたちだ。上にも革帯と留め金があり、腰を降ろすと、リチャードの指示で躰を固定した。フィンまで一日で着く速度ということは、シドの飛空船より速いはずだ。飛空船と違い、乗る者の躰には、相当の負荷がかかるだろう。
リチャードも飛竜に乗り、先頭の鞍に座ると、脇にある箱からなにかを取り出した。
「この風防眼鏡をつけろ。風で、眼が開けられなくなるからな」
手渡されたのは、両眼をすっぽり覆うような眼鏡だった。三人が風防眼鏡を装着すると、リチャードは、兜の目庇を降ろした。眼の部分は硝子で覆われていて、それが風防の役割を果たすのだろう。竜騎士ならではの装備だ。
「では、行くぞ。できるだけ姿勢を低くし、前の者や革帯に掴まっていろ」
リチャードが言うと、飛竜は翼を羽ばたかせ、ゆっくり浮上をはじめた。いちおう手綱のようなものもあるが、それで操っているようには見えない。なにか、飛竜と意思を交わす方法が、竜騎士にはあるのだろうか。
飛竜が前進し、加速しだした。風が、全身を強く打ってくる。先頭のリチャードは、ものすごい風圧を受けているに違いない。フリオニールは、ガイの革帯と、自分の革帯の根もとを掴み、前傾姿勢をとった。
マリアが、フリオニールの腰に腕を回し、強く抱きついてきた。
しっかり掴まっていろ。言ったが、風の音で聞こえていないだろう。
西の海に陽が沈みかけていたが、夕暮れを見る余裕はなかった。
マリアの体温をかすかに感じながら、フリオニールは全身に力をこめ、風圧に耐えた。
夜中に一度着陸し、休憩をとった。
フリオニールは、寒さで躰が強張っていた。厚手の外套をまとっていても、隙間から入ってくる風は、身を切るほど冷たかった。この季節に飛竜に乗るには、サラマンドの雪原に行くくらいの防寒対策をする必要があるようだ。リチャードとガイはそれほどでもなさそうだったが、マリアもフリオニールと同様、全身が強張り、唇は紫色に変色していた。
火に当たりながら、リチャードが持っていた酒を、湯で割って飲んだ。それでようやく、躰がほぐれてきた。マリアの血色も、よくなってきた。
軽く食事と仮眠をとり、夜明け前にまた飛竜に乗った。
夕方、フィンに着いた。リチャードが言った通り、ちょうど一日で着いたことになる。
寒さと疲労で、体力をかなり消耗していた。ヤニックの店で酒を飲み、躰を暖めてから城へむかった。
大広間では、ゴードンとヒルダが待っていて、そのまま軍議という流れになった。
フリオニールは、アルテマの入手とミンウの死、マティウスの真の目的について、ひと通りの報告をした。
場の空気は重くなったが、悲しみに浸る余裕などなかった。蝙蝠の報告によると、帝国軍の動きは活発になり、かなりの兵が動員されているという。マティウスが、野望実現にむけ本気で動き出したようだ。帝国軍は五万の兵力を維持しているようだが、マティウスひとりでも、万の軍勢以上の脅威を持っている。
軍議は、各方面軍の編成と配置、兵站などの、かなり細かなところにまで話が及んだ。現在、フィンの軍は一万、セミテとサラマンドの軍はそれぞれ七千に達し、ポフト近辺で調練を重ねているという。
解放後のフィンでは、多くの民が兵に志願してきた。十五、六歳くらいの若者が特に多いが、自分とさほど変わらない年齢なのに、ひどく幼く見えてしまう。戦場で、多くの死を見てきたからなのか。多くの敵を、斬ってきたからなのか。
自分が荒んでいるとは、思わなかった。男なのだ。自分がどうあるかは、自分で決める。
区切りがついたところで、運ばれてきた食事をとった。
ゴードンとリチャードは、面識があるようだ。ゴードンの父である、カシュオーン国王の在位二十年を祝う式典で、リチャードは槍の演舞を披露したのだという。
ミンウのことも、話題にのぼった。それぞれの心の中に、ミンウは生き続けている。
食事を終えると、ガイとリチャードに声をかけ、練兵場へむかった。ゴードンも誘ったが、軍の編成など、やらなければならないことが山積しているようだ。翌日からは、再編成されたフリオニールの部隊も、調練に入ることになっている。
練兵場に着いた。フリオニールは木剣を、リチャードは棒を手にむかい合った。
リチャードの躰から、みるみる闘気がたちのぼってくる。すさまじい遣い手だということは、最初に会った時からわかっていた。リチャードなら、ダークナイトとも互角以上に闘えるだろう。ただ、どうしてもダークナイトだけは、自分の手で倒したかった。リチャードとの稽古で、いまより少しでも、自分を高めたい。
リチャードの闘気に押され、対峙しているだけで呼吸が乱れ、汗が吹き出てきた。しかし、このひりつく感覚は嫌いではない。
「どこからでもいいぞ。来い、フリオニール」
「おう」
気合いを発し、フリオニールは地を蹴った。
四
出動の準備が整ったのは、年が明けてからだった。
三万の軍で、マティウス自らフィンを攻める。
ただ世界を征服するだけなら、たやすかった。あえてそうしなかったのだが、いささか時をかけすぎた気もする。
思っていた以上に、叛乱軍の兵力が増えた。そして、人々は希望を取り戻しつつある。人々の恐怖が薄れれば、それだけ計画の実現は遠のいてしまう。人間は、脆いようでなかなか強いのかもしれない。
必ずしも、フィンを陥す必要はない。兵も民も皆殺しにし、血で大地を染めあげる。それで、計画は成就するはずだ。
気になっていることが、ひとつあった。アルテマの存在だ。奇跡を起こす秘法で、世界が危機に瀕した時、その封印が解かれるという。
魔法に対する興味から、ミシディアには間諜だけを送りこんでいたが、すべて殺された。諜報や破壊工作といった闇の部隊に関しては、叛乱軍の方がずっと上だった。
軍を投入しなかったのは、甘かったのかもしれない。どうせ、この世界ごと滅ぼすのだ。いまさら思っても、仕方のないことだった。
ずっと掴めなかったミンウの消息が、ようやくわかった。死んだのだという。なにか、アルテマに関係してのことだろうか。
アルテマの封印が、解かれたのか。しかし、ミンウがいないのなら、アルテマを気にすることはないのかもしれない。マリアという女はなかなか遣うが、ミンウには遠く及ばない。
マティウスは玉座を立ち、地下室へむかった。魔物召喚の儀式を、再び執り行うためだ。
全滅させたはずの、竜騎士の姿を見たという報告があった。再びディストに魔物を送りこみ、竜騎士がいれば、始末する。ディスト艦隊とやらも、眼障りだ。
足音だけが、廊下に響き渡る。
寒さなど、ほとんど感じない躰になっているが、自分の足音の響きは、どこか冷たいような気もする。
冬だからか。そんなふうに思った自分がおかしくて、マティウスは声をあげて笑った。
笑い声も、どこか冷たい気がした。
ダークナイトは、二千騎を率い、カシュオーン北の平原を駈けていた。
マティウスが、自ら三万の兵を率い、フィンにむけて進軍をはじめた。親征というやつだ。
バフスクの軍にも出動命令が下されたが、ダークナイトは麾下の百騎を合わせた二千騎を引き連れ、帝国軍から離反した。
この時のために、マティウスに不信感を持つ兵を集め、騎馬隊を組織しておいた。麾下の百騎ほどではないにしても、かなり鍛えてある。
ひそかに、金で雇った者たちを各地に放ってもいた。
そのひとりから、驚くべき話を聞いた。マティウスが戦をはじめた、真の目的についてだ。この世界を、魔界に呑みこませるのだという。途方もない話ではあるが、マティウスならできるのだろう。魔界から魔物を召喚し、使役するほどの男なのだ。
思惑とは少し違うかたちになったが、マティウスを討つことに変わりはない。世界が滅んでは、戦もできなくなる。
マティウスを討ったのちは、自分が帝国軍をまとめ、叛乱軍と闘う。政事は、できる者に任せておけばいい。自分が欲しているのは、敵の存在だ。それも、強敵でなければならない。
フリオニールとなら、いい勝負ができるだろう。軍と軍のぶつかり合いなら、ゴードンも強敵と言える。
ダークナイトはふり返り、旗手が持つ黒い獅子の旗に、一度だけ眼をやった。もう、昔には帰れない。しかし、後悔はない。
飛影の鬣を、そっと撫でた。耳をふるわせて、飛影は応えた。
後方から、斥候が戻ってきた。
バフスクの二万が、ポフトの北で叛乱軍一万四千と戦闘に入ったようだ。
誰もいない店で、シドは酒を飲んでいた。
ポフトの民は退避し、街には人影ひとつない。
北では、叛乱軍と帝国軍がぶつかり合っている。数は帝国軍が上だが、なんとか均衡を保っているようだ。しかし、一度その均衡が崩れれば、あっさりと叛乱軍は負けるだろう。
シドは煙草に火をつけ、煙を吐いた。店の天井は、煙草の脂ですっかり黄ばんでいる。しばらく、天井に昇っていく煙を見つめていた。
躰の異変に気づいたのは、半年ほど前だ。やたら咳が出て、痰に血が混じるようになった。風邪ではないと思い、先月医者に見せたところ、肺と胃に腫瘍がある、と言われた。
病はかなり進行していて、もはや手の施しようがないらしい。あと半年の命、という宣告もされた。
酒と煙草が原因とのことだが、酒も煙草もない人生は、つまらない。やりたいようにやって、そのつけが回ってきた、というだけのことだ。
志半ば、という思いはある。戦が終わったあとは、新型の飛空船を造り、人を雇って空の交易路を作ってみたかった。
正直、フリオニールが羨ましいとも思う。突っ走れるだけの、若さがある。
死んだ息子の歳を数えたくはないが、生きていれば、フリオニールと同い年だったはずだ。
飛空船の開発に没頭したのは、妻と息子を失った寂しさを紛らわすためでもある。最近になって、ようやくそれを素直に認められるようになった。
半年の間で、なにができるだろうか。その前に、叛乱軍は、帝国軍に勝てるだろうか。杯に残った酒を、ひと息に呷った。強い酒だが、大して酔いはしない。その代わり、全身が痛む。やはり、自分の躰は毀れている。
足音が聞こえた。シドはとっさに、傍らに置いてある剣に手をのばした。大戦艦で闘ってから、また剣を佩き、暇があれば素振りをするようになった。剣は捨てたつもりだったが、躰に沁みついたものまでは、捨てようがなかった。
扉が開き、人が入ってきた。店主のケニーだ。
「親父か。なぜ戻ってきた?」
「なぜでしょう。店への、愛着ですかね」
「愛着か。わかる気もする」
「旦那は、なぜ残っていたんですか?」
「さあな」
「旦那は、また剣を佩くようになりました」
「もう、帝国軍に捕まりたくないからな」
「昔の旦那は、それはもう眩しい存在でした。いまの方が、味はありますがね」
「昔の話はやめろよ。酒がまずくなる」
「すみません」
「まあ、いいさ。短い付き合いじゃないんだ」
シドは剣から手を離し、短くなった煙草を揉み消した。
若いころに較べ、やはり体力は落ちた。しかし、一瞬の技の冴えは、むしろいまの方が上のような気もする。馬上で一回だけの勝負なら、フリオニールにも勝つ自信はある。
もしかしたら、剣を再び佩くようになったのは、フリオニールを意識していたからかもしれない。そう思うと、自分を嗤いたくなった。
「なあ、親父。じきに、帝国軍はこの街に来るぜ。いいのか?」
「店に来たら、追っ払ってやりますよ」
笑いながら、ケニーは自慢の力こぶを作ってみせた。たちの悪い酔客を、よくケニーは店の外につまみ出していた。昔は、軍にいたこともあるという。親父と呼んではいるが、歳は五つかそこらしか離れていない。
「面白いな。親父がどこまでやれるか、俺が見てやるよ」
「あとで、納屋から槍を出してきますよ。さて、少し飲みますかね」
ケニーが杯を持ってきた。表情に諦めの色が滲み出てはいるが、自棄になっているわけではない。ふだんはおどけているが、肝の据わった男なのだ。
シドは、ケニーの杯に酒を注いだ。
「よし、乾杯だ」
言って、二人で杯を触れ合わせた。
硝子の鳴る音は、剣の鍔鳴りのようにも聞こえた。
五
闘いがはじまって、三日目の朝を迎えた。
兵の表情は疲労の色が濃いが、眼の光は失われていない。
フィンに進攻してきた帝国軍三万を、叛乱軍は、一万の兵で城郭に拠り食い止めている。
籠城を選んだのは、兵力の問題からではない。マティウスの目的が、兵も民も関係ない、皆殺しだとわかっていたからだ。城郭を空けてしまえば、そこを魔物が襲うことは明白だ。
ディストを襲った魔物の群れの行方は、まだ掴めていない。ディストは、軍はおろか、都市も壊滅させられたという。ディスト艦隊と連携していたレイラがどうなったかは、わからない。ポールとの連絡もとれていないが、サラマンドとセミテの軍は全滅し、北は帝国軍にほとんど制圧されたようだ。
ゴードンは、四千を指揮し、南門を守備していた。西門には六千の兵を当て、フリオニールとガイ、マリアを配置してある。
上空では、飛竜が飛び回っている。リチャードは、遊撃隊として空から味方を援護したり、敵に奇襲をかけたりしていた。敵の大砲の、ほとんどすべてをリチャードが潰している。すさまじい武勇の持ち主だ。
戦況は、悪くない。叛乱軍一万に対し、帝国軍は三万。兵法上では互角の戦力だが、戦の勝敗というものは、兵法を超えたところにある。帝国軍は、マティウス自身が率いてもいるのだ。万の軍勢よりも、マティウスひとりの方が手強い。それは、身をもって感じている。
ゴードンは、一瞬だけ城壁の下を見降ろした。ゴードンが姿を見せたとたんに、銃声が鳴る。当たりはしなかったが、一発だけ耳もとを掠めていった。こちらにも鹵獲した銃はあるが、数が少なく、威力はそれほど発揮できていない。
敵は銃の援護を受けながら、城壁に多数の梯子をかけ、次々と登ってくる。こちらは投石や火、弓矢で対抗していたが、それでも攻め手の数は多い。城壁を登ってきた敵兵と、斬り合いになっているところもある。
すぐ近くに、敵が登ってきた。三人だけだが、味方は押されている。梯子を登ってくる敵は、剣技にたけた者が選ばれているようだ。ゴードンは駈け出し、跳躍しながら抜き撃ちでひとりの首を飛ばした。左右から、同時に斬撃が来る。わずかに、左の方が速い。躰を沈め、左の敵を斬りあげ両腕を飛ばし、返す剣で、右の敵の肩から腰までを斬り下げた。左の敵は、味方が止めを刺した。ゴードンの息は、まったく乱れていない。
西門の方で、爆発音が轟いた。城郭全体が揺れるほどの、大きな爆発だ。
しばらくして、伝令が駈けこんできた。
「西門が、破られました。マティウスの魔法です」
ゴードンの背筋を、冷たい汗が伝った。やはり、マティウスひとりいるだけで、戦場の色は違ったものになる。
「二千を回す。持ちこたえろ。城郭内に、敵を入れるな」
城壁を、敵がまた登ってきた。銃撃に身を晒しながら、ゴードンは駈けた。
西門が破られ、敵兵が殺到してきた。
マティウスが遠間から魔法を放ち、味方の兵をも巻きこむ爆発で、西門を吹き飛ばしたのだ。
ガイは、フリオニールとともに、城壁を降り地上で闘っていた。
なだれこんでくる敵兵を、ほとんど二人だけで食い止めているかたちだ。
二人が討ち漏らした敵は、部下が仕留めていく。再編成によって、部下は五百名に増えていたが、すでに半数近くが死傷している。
城壁の上にはマリアと弓兵がいて、敵の銃兵を集中的に狙っていた。おかげで、こちらは敵の銃をそれほど気にせずに済んでいる。
浅傷は、いくつも受けていた。血はすぐに固まるが、失血で呼吸が乱れる。フリオニールも、肩で息をしていた。叫びとも喘ぎともつかぬ声をあげながら、剣を振っている。
ガイにむけて、槍が一斉にくり出されてきた。左の斧で槍を叩き折り、右の斧で敵をまとめて薙ぎ払った。ひと薙ぎで、四、五人が胴から真っ二つになり飛んでいく。
ガイの全身は、敵の返り血で真っ赤に染まり、汗で湯気があがっていた。まわりには、飛び散った血とはらわたが、海のように拡がっている。
屍体の山を踏み越え、一隊がさらにむかってきた。ガイが雄叫びをあげると、敵は一瞬怯んだ。すかさず飛びこみ、フリオニールと二人で片付けた。
間断なく、敵はむかってくる。部下も前に出て、城門付近は再び乱戦になった。
後方から、味方が二千ほど駈けてきた。ゴードンが、増援を寄越してくれたようだ。
「一旦退がってください、フリオニール殿、ガイ殿。ここは、われらが引き受けます」
先頭を駈ける指揮官が叫んだ。双斧を遣いながら、ガイはフリオニールの方を見た。意識ははっきりしているが、足もとがややふらついている。全身は、ガイと同じように血と汗にまみれ、湯気があがっていた。
「一度退こう、フリオニール」
「そうだな。マリアの魔法で、傷を治して貰うか」
味方と入れ替わりながら、ガイは後ろをふり返った。敵の本陣。豪奢な造りの車に乗るマティウスは、小さな点ほどにしか見えない。敵味方が入り乱れ、すぐに見えなくなってしまったが、それでも、確かにマティウスとは眼が合った。
湯気があがるほど躰が熱いのに、かすかな寒気を、ガイは背筋に感じた。
マティウスは、西門を見据えながら、呼吸を整えていた。
額は、うっすらと汗ばんでいる。爆発の魔法は威力も高いが、その分魔力を大きく消耗し、連続して放つことはできない。
西門付近では、乱戦が続いていた。敵の士気は高く、一度は押し返されたが、数にものを言わせ、攻め続けている。
少し前に、フリオニールとガイが退き、敵の前衛が入れ替わった。二人とも、かなりの手練れである。二人だけで、四百人近く倒しているはずだ。ガイとは、一瞬だけ眼が合った。闘志の漲った、いい眼をしていた。
マリアの魔法も、以前パラメキアで見た時より、数段力が上がっていた。帝国軍にも、あれだけの魔法を遣う者は、自分以外にはいない。
ゴードンが守備する南門は、なかなか攻略できず、犠牲だけが増えていた。さすが、スコットの弟だけあり、優れた指揮官に成長した。むしろ指揮官としては、ゴードンはスコットより上かもしれない。
上空では、飛竜に乗った竜騎士がうるさく飛び回っていた。リチャード。竜騎士団の副長だった槍の達人で、その武勇は一万の兵に匹敵すると言われている。
ディスト攻めには、数千の魔物を投入した。それでやっと、竜騎士団を全滅に追いこめた。しかし、ひとりだけ生き残りがいた。そのひとりに、いいようにやられている。大砲が潰されただけでなく、三人いた魔法を遣う者も、リチャードひとりに全員倒されていた。
叛乱軍には、強者が揃っている。いずれも、倒し甲斐のある者ばかりだ。決して強がりではなく、そう思っていた。やはり、戦場の空気は血を騒がせる。自ら戦に出るのは、カシュオーン攻め以来だ。
「南門の攻撃を中止。兵力を、西門に集中しろ」
伝令を走らせた。面白い。軍略で、ゴードンと勝負してやろうではないか。ただし、使えるものはすべて使う。
南の空に一瞬だけ眼をやり、マティウスは再び西門に視線を移した。
陽が、中天に差しかかっている。
ヒルダは、自室の窓から戦況を見ていた。
逐一報告は上がってくるが、ここからでも、外で大きな動きがあったのはわかった。
傍らには、ネリーが控えている。少し前から、ネリー以外に侍女は置いていない。
ネリーのおかげで、自分はずいぶん救われた気がする。ネリーもつらい体験をしているが、人前ではいつも明るく振る舞っている。決して過去を忘れたわけではなく、これからどう生きるかに気持ちがむいているのだ。たまには、父ヨーゼフのことも話している。まだ十一歳だが、今年で二十一になる自分よりも、ずっと芯が強いと感じる。
かたちの上では侍女だが、心の中では、妹だと思っている。
時間を作って、勉強やさまざまな習い事をさせた。もともと利発なこともあり、ネリーの習得は早かった。五日に一日は、休みも与えている。休みの日でも、ネリーはどこかで手伝いなどをして過ごすことが多い。誰からも好かれていて、ネリーがいると、みんな気持ちが和むようだ。
近ごろネリーは、ガイとよく話しているようだ。
もしかしたら、ネリーはガイに父の面影を見ているのかもしれない。ガイは誰もが圧倒されるほどの巨躯で、戦場では勇猛果敢に闘うが、性格はとても温和でやさしい。そういうところが、ヨーゼフに似ている気もする。ガイは、ヨーゼフから体術を習ってもいた。
喚声が、ひと際大きくなった。西門で、激しいぶつかり合いが続いているのだろう。いまのところは互角でも、門が破られたからには、次第に数で押されてくるはずだ。
しかし、ここでマティウスを討ち果たせば、二年近く続いた戦も終わる。ゴードンやフリオニールはじめ、野ばらの旗のもとに集った者たちなら、きっと勝てる。信じるしかなかった。
「ヒルダ様、見てください」
ネリーが叫んだ。はっとして、ヒルダは視線をネリーが指さす方向へ移した。南の空。群れをなしたなにかが、近づいてくる。鳥ではない。魔物だ。「魔物、ですか?」
ヒルダは頷き、不安そうな表情をしているネリーの手をとった。
「大丈夫。みんなを、信じましょう」
「はい」
ネリーが眼を閉じた。ガイたちの無事を祈っているのだろうか。
再び、南の空を見た。飛竜が、魔物の群れにむかっていく。
六
地上に意識がむいていて、気づくのが遅くなった。南門の攻略を諦め、ただ西門に兵力を集めたわけではなかったのだ。
羽の生えた魔物の群れ。五百はいるだろうか。南から来たということは、アルテアはもう壊滅しているのだろう。ディストを襲ったのも、この魔物たちに違いない。
「行くぞ、ハイウィンド」
槍を握り直し、リチャードは正面から魔物の群れに突っこんだ。速度が乗っているため、槍を出しているだけで、魔物は叩き落とされていく。
群れの中を抜けた。反転し、突っこむ。それを、何度かくり返した。ハイウィンドの翼や尾に、数体の魔物が噛みついている。ハイウィンドが振り落とせない魔物を、リチャードは槍で突き落とした。
倒した魔物は、五、六十というところか。まだ、四百以上は残っている。
竜騎士団長フィリップは、ひとりで数千の魔物を相手に闘い果てたという。それに較べれば、四百など、物の数に入らない。フィリップの話は、フリオニールから聞いた。フリオニールは、それをフィリップの妻であるエリナから聞いたという。
エリナも、息子のチャールズも、もはや生きてはいないかもしれない。ディストは、この魔物たちによって壊滅させられたのだ。
魔物が、数十単位に分散して動き出した。百ほどが残り、リチャードはまわりを囲まれるかたちになった。足止めのつもりか。
「こざかしいな。突破するぞ、ハイウィンド」
ひと声啼くと、ハイウィンドは首をもたげ、口から炎を吐いた。十二、三体の魔物が一瞬で黒焦げになり、進路が開けた。雄の飛竜だけが、炎を吐くことができる。ただし、体力を著しく消耗してしまうため、一日に二度以上炎を吐かせたことはない。ハイウィンドの羽ばたきは、さきほどより重くなっていた。それでも、魔物よりはずっと速く飛べる。
二十ほどの群れに追いついた。槍を振り回し、手当たり次第に叩き落としながら先へ進んだ。
すでに大半の魔物は城郭内に侵入し、味方を攻撃しはじめている。弾薬が尽きたのか、味方の銃声はまったくない。正面の帝国軍に数で押されている上に、後方、しかも上空から攻撃されている。なんとか持ちこたえているのは、ゴードンがうまく指揮しているからだ。
追いついた。急降下しながら、リチャードは三体の魔物を突き殺した。上昇した時、ハイウィンドは両足の爪で魔物を掴んでいた。再び降下の体勢をとりながら、ハイウィンドは爪で魔物を引き裂いた。
この魔物を討つことは、アルテアだけでなく、ディストの兵や民の仇を討つことでもある。槍を遣いながら、リチャードはエリナの姿を思い浮かべた。
ずっと、エリナのことが好きだった。ただ、フィリップとは奪い合いたくなかった。酒を飲みに行った先で、ほかの女と遊んだりして誤魔化した。竜騎士というだけで、女はたくさん寄ってきたが、あまり派手にはやらなかった。竜騎士団の名を、汚したくはなかった。
一度だけ、フィリップにエリナのことが好きなのか、と訊かれたことがある。リチャードは、興味ない、と答えた。次の瞬間、拳が飛んできた。躰ではなく、心に響く拳だった。リチャードも殴り返し、フィリップもさらに殴り返してきて、結局、お互いが倒れるまで殴り合った。それから、もうエリナの話はしなくなった。やがて、フィリップは竜騎士団長になった。武勇に優れるだけでなく、器の大きい男だった。そして、フィリップとエリナは結婚した。二人を、リチャードは素直に祝福できた。
二十四歳で副長になってから、リチャードは団員を徹底的に鍛え抜いた。槍の稽古では、何人も失神させた。リチャードを恨む者もいたが、まったく気にしなかった。部下からの憎まれ役は、二番手の人間がやるものだ。自分が鍛え、フィリップが統率する。竜騎士団は、以前にも増して精強になった。
あれから十年が過ぎた。戦で仲間たちは倒れ、自分だけが生き残った。しかし、ひとりでも生き残り、闘い続けているかぎり、竜騎士団は健在だ。心の中で、竜騎士たちは生き続けている。憶えている者がいるかぎり、肉体は滅んでも、魂は生き続ける。
雄叫びをあげながら、リチャードは槍をくり出した。全身を、熱い血が駈けめぐっている。
炎よりも熱い、竜騎士の血だ。
陽が傾きつつある。
魔物に後ろを衝かせたが、敵はさほど浮き足立たなかった。やはり、リチャードは手強い。ゴードンの指揮も、さすがだった。兵のひとりひとりが、ゴードンを信じてもいる。
こちらの弾薬も尽きていた。歩兵同士のぶつかり合いは、叛乱軍に分がある。数では優っているものの、攻めきれないでいた。
マティウスは、椅子に座り片肘をついていた。焦りはない。殺せるだけ、殺す。こちらの兵は二万を割ったが、叛乱軍も、半数の五千に減っている。
陽が暮れはじめたころ、本陣に伝令が駈けこんできた。
「報告いたします。ダークナイト様が、謀叛を起こしました。二千の手勢を率い、後方の兵站部隊に攻撃をかけています」
マティウスの顔から、笑みが消えた。いつか、牙を剥いてくるとは思っていた。しかし、フィンを攻めているいまを衝いてくるとは。ダークナイトは、この機をずっと待っていたのか。
「総攻撃だ。フィンを陥せ。後退は許さん」
再び笑みを浮かべ、マティウスは車を降り、大地に立った。たちこめる血の匂い。土煙。喊声。すべてが、心地よかった。
一歩一歩、マティウスは戦場の土を踏みしめながら歩いた。城門付近では、激しいぶつかり合いが続いている。少し離れた間合いから、マティウスは氷結の魔法を放った。大気中の水分から生まれた氷の矢が、敵を刺し貫いていく。
戦に、愉しさを感じている自分がいる。感情を、隠すつもりはなかった。すべてが滅ぶまで、闘おうではないか。
後方で、馬蹄の響きがした。ふり返ると、土煙があがっていた。ダークナイトの騎馬隊が、追いついてきたのだ。
けものの牙。ここまで、届かせてみせろ。呟いて、マティウスは城門にむき直った。叛乱軍にも、牙を持ったけものたちがいる。来い。すべて、叩き折ってみせよう。
腕先に魔力を集中し、マティウスは再び氷結の魔法を放った。
黒い闘気が、近づいてくる。
強大でありながら、どこか哀しく、そして懐かしい気。
ダークナイトは、兄レオンハルトだ。近づくたびに、確信はさらに強まっていく。
魔物の群れが現れ、後方を衝かれた。それはリチャードが相手をしているが、マティウスが前線に姿を見せたことによって、闘いは激しさを増した。
勝負の機と見たのか、ゴードンは四百の騎馬を率い、城から討って出た。マリアたちは、その騎馬隊の後ろに付いて駈けている。マリアの前はフリオニール、後ろはガイで、駈けながらそれぞれの得物を遣っていた。敵を断ち割りながら、騎馬隊は進んでいく。
フリオニールの背中からは、すさまじい闘気が噴き出していた。ダークナイトのことを告げた時は驚きの表情を浮かべたが、すぐに認めもした。レオンハルトなら、あの強さも納得がいく。言ったフリオニールの表情には、固い決意が見えた。
フリオニールは、レオンハルトを斬るつもりだ。止めようとしたが、聞いては貰えなかった。ガイに言っても、首を横に振るだけだった。
決して、フリオニールはレオンハルトを憎んではいない。レオンハルトも、そうだろう。闘う男同士の間に、女には理解できないなにかがあるのならば、自分はそれを見届けるしかない。そう心に決めた。
前方で、騎馬隊の動きが乱れてきた。マティウスの魔法で、何騎かがやられたようだ。すぐにマティウスは見えてきた。動きが止まった騎馬にむかって、再び魔法が放たれる。氷結の魔法。列を離れたマリアは弓を捨て、火炎の魔法を放った。狙い通り、マティウスの魔法を相殺できた。
「やるではないか、マリア。フリオニールたちもいるな。よし、思う存分闘おうか」
「悪いが、おまえは後回しだ」
言って、フリオニールが駈け抜けていった。馬腹を蹴って、マリアもそれに続いた。
「いまさら逃げようというのか。失望したぞ」
「おまえの相手は私だ、マティウス。行け、フリオニール」
ふり返ると、ゴードンが剣を構えて立っていた。さきほどの魔法で、馬はやられたのだろう。
「俺も残る。ここは任せろ」
馬を停め、ガイもその場に残っていた。
「頼んだぞ、ゴードン、ガイ。すぐに戻ってくる」
一度だけふり返ると、フリオニールはさらに馬を疾駆させた。マリアはフリオニールの横に付き、寄ってくる敵は魔法で退けた。アルテマの封印を解いてから、魔法を放っても、以前ほど消耗しなくなった。眼には見えない、なにか大きな力が宿っている。ミンウがくれた、新たな力。自分では、そう思っている。
前方に、二千ほどの騎馬隊が見えてきた。先頭の百騎は、全身を黒い装備でかためている。その中から、単騎で駈けてくる者がいた。黒い闘気。ダークナイト。いや違う。レオンハルト。兜で顔が隠れていてもわかる。マリアの胸はざわつき、手綱を握る手には、じっとりと汗をかいていた。
レオンハルトとの距離は、みるみる縮まっていく。剣を構え、フリオニールが雄叫びをあげた。レオンハルトも、剣を構えた。
やめて。のどまで出かかった言葉を、マリアは呑みこんだ。見届ける。そう決めたではないか。自分に言い聞かせ、速度を緩めフリオニールから離れた。
ぶつかった。二人の闘気が弾ける。少し進んだところでお互い馬首を返し、むき合うかたちになった。フリオニールは、右肩に手をやっていた。血が噴き出している。
レオンハルトは、兜を飛ばされ顔があらわになっていた。表情は以前よりも険しいが、間違いなくレオンハルトだ。
「兄さん」
「マリアか。母さんに、似てきたな」
一瞬だけ微笑むと、レオンハルトはすぐに厳しい顔になり、再びフリオニールとむかい合った。
フリオニールが、剣を構え直した。頷いて、レオンハルトも剣を構えた。
二人の姿が、滲んで見える。気づくと、涙が溢れていた。
なにがあっても、眼は開けていよう。マリアは涙を拭った。
七
右肩の出血は、まだ止まらない。
フリオニールは、大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。大柄の黒い馬に跨るレオンハルトは、ここまで長駆してきたにも関わらず、息ひとつ乱れていない。
レオンハルトの闘気は、大戦艦で対峙した時よりもずっと大きくなっていた。考えてみれば、あの構えと太刀筋は、レオンハルト以外に見たことがない。感情の乱れが、判断力を鈍らせていたのだろうか。レオンハルトであるわけがない、とも思っていた。
「ひとつだけ訊く、レオンハルト。ジェイムズ殿を斬ったのは、おまえか?」
「ああ。強敵だった。あの男と、親しかったのか?」
「フィンから逃げる途中、帝国兵から俺たちを助けてくれたのが、ジェイムズ殿だった」
「そうか」
動揺はなかった。むしろ、心気は澄み渡っていく。レオンハルトほどの遣い手に斬られたのなら、ジェイムズは満足だろう。そういう男だ。
横眼でマリアを見た。落ち着いている。芯の強い女だ。マリアだけではない。女の方が、心は男より強いのかもしれない。最近、そう思うようになった。
フリオニールは気を発した。それに呼応するように、レオンハルトの気も大きくなっていく。
お互いの闘気の波が、押し寄せては引き、やがて満ちてきた。
潮合。
行くぞ。眼で語り合い、同時に馬腹を蹴った。右肩が軋む。剣が重い。打ち合えるのは、数合というところだろう。その数合に、すべてをぶつける。それでいい。
馬を左につけた。レオンハルトの剣が届かない位置から薙ぐ。かわされた。手綱捌きではなく、馬が自らの意志で避けたように見えた。体躯に似合わず、俊敏な動きだ。剣を返し、再び薙いだ。腕に衝撃が伝わる。止められた。斬りあげてくる。左に回りこみながらかわし、上段に構えた剣を振り降ろした。振り降ろした先に、レオンハルトはいない。馬が、横に跳んでかわしたのだ。人馬一体どころではない。この黒い馬は、乗り手の意思を汲み闘っている。
踏みこんだ。馬の動きが鈍い。レオンハルトの馬に、気圧されているようだ。右下から斬りあげる。弾かれた。右肩に痛みが走る。上段から斬撃。手綱を引くと同時に上体をのけ反らせ、紙一重で見切った。剣圧が躰を打つ。上体を戻しながら薙いだ。レオンハルトが躰を沈める。剣はレオンハルトの頭上を掠め、何本かの髪の毛が風に舞った。がら空きになった胴を狙われている。重心を左に移した。黒い剣が弧を描いて迫る。斬られたが、皮一枚だ。今度は、レオンハルトに隙が生まれた。左上から斬り下げようとしたが、レオンハルトの馬がぶつかってきてぐらついた。正面。翻った外套のかげから、黒い剣尖が覗く。左の片手突き。レオンハルトの得意技だ。鋭い。とっさに、躰の中心線に剣を置いた。激しい衝撃に全身が痺れる。馬が膝を折った。剣を見ると、突きを受けたところから折れていた。
「これまでだな、フリオニール。どのみち、これ以上剣を振ることはできまい」
言って、レオンハルトは剣を収めた。くやしいが、レオンハルトの言う通りだ。右肩の傷が拡がり、さらに血が噴き出してきた。激しい呼吸で肩は上下し、顎からは汗がとめどなく滴り落ちている。
馬首を回し、レオンハルトが歩き出した。
「どこへ行く、レオンハルト?」
喘ぎながら、フリオニールは言った。馬を停め、レオンハルトがふりむく。
「パラメキアだ。帝国軍は、俺が掌握する」
「どういうつもりだ。マティウスを倒せば、戦は終わるんだぞ」
「俺は、強い敵と闘いたいだけだ。マティウスは、おまえたちの手で討て。邪魔者がいなくなったら、また闘おう」
外套を靡かせ、レオンハルトが駈け去っていく。もう、昔のようには戻れない。夕陽にむかって駈けるレオンハルトの背中が、そう言っていた。
マリアは、レオンハルトの背にじっと視線を注いでいた。夕陽が、マリアの顔を茜色に染めている。兄を見つめる眼は、どこか悲しげではあるが、弱々しくはない。
フリオニールは、折れて半分ほどの長さになった剣に眼を落とした。馬もそうだが、それ以上に剣の技倆に差があった。しかし、まったく闘えないほどではない。
「戻ろう、マリア。まずは、この戦を終わらせるんだ」
そして、次はレオンハルトを止める。それは心の中で呟いた。
「うん」
力強い声で、マリアが返事をした。
氷の矢が、頬を掠めた。
それだけで体勢を崩し、ゴードンは膝をついた。
呼吸をするたびに、脇腹が引きつる。肋が何本か折れていた。肋だけではない。左腕も折れ、倍の太さに腫れあがっている。
「どうしたゴードン。口ほどにもないな」
冷笑を浮かべたマティウスが、ゆっくり近づいてくる。何度か斬りつけはしたが、致命傷は与えられなかった。肉体そのものが、人間を超越している。強力な魔法を遣うだけではなく、杖を遣った肉弾戦もやってみせた。
雄叫びとともに、ガイがマティウスに突っこんでいった。ガイも、かなりの深傷を負っていた。自分を庇って受けた傷もある。ガイがいなければ、何度死んでいたかわからない。
「まだむかってくるか。しぶといな」
マティウスが魔法を放った。氷の矢ではない。地面から氷の槍が突き出し、ガイの右腕と左腿を刺し貫いた。低い叫びをあげ、ガイは地面に倒れた。
「そろそろ終わらせようか。ほかに、片付けなければならない者もいるしな」
マティウスが、ちらりと横に眼をやった。魔物の群れを殲滅したリチャードが、今度はマティウスの親衛隊数百を相手に闘っている。飛竜に騎乗はしていない。傷を負い飛行が困難になった飛竜は、戦場から離脱していた。撥ねあげられた敵が宙を舞う。リチャードの姿は見えないが、数百人に囲まれながらも、怯むことなく闘い続けているようだ。
マティウスが、すぐそばまで歩み寄ってきた。立たなければ。勝利を信じ闘い続ける者や、散っていった者たちの思いに応えなくては。気持ちとは裏腹に、躰は言うことを聞かなかった。
「終わりだ、ゴードン」
魔力で輝く掌が、眼の前に翳された。
やられる、と思ったその時、マティウスの背で炎があがった。二頭の馬が並んで駈けてくる。フリオニールとマリア。炎は、マリアが放ったのか。
「遅れてすまない、ゴードン」
フリオニールの剣は、半分ほどに折れていた。ダークナイト、いやレオンハルトとの勝負がどんなものだったか、それでなんとなく想像がついた。「ようやく役者が揃ったか。来い、フリオニール、マリア」
まだ燃えている外套を脱ぎ捨て、マティウスが氷の矢を放った。フリオニールとマリアが左右に分かれ回避するが、それを読んでいたのか、マリアの馬の足もとから、氷の槍が突き出した。落馬したマリアを、収束された氷の矢が襲う。
立ちあがり、マリアが火炎を放った。どうやら、掠り傷で済んだようだ。火炎と氷の矢がぶつかり合った。マリアが押している。そこへ、フリオニールが斬りかかった。フリオニールの攻撃はかわされたが、火炎がマティウスの右腕を焼いた。
「私が魔法で押されるとは、少し力を使いすぎたようだな。しかし、なぜおまえは魔力が衰えないのだ、マリア?」
「ミンウ殿が与えてくれた、新たな力のおかげよ」
「まさか、アルテマか」
マリアが頷く。マティウスが、焼け爛れた右手から杖を落とした。
「なるほど、おまえがミンウの後継者か。面白い。見せて貰おうか、究極の秘法とやらを」
「アルテマは、あなたが思っているようなものではないわ。この世界を守るために存在する大いなる叡智で、自分の意志で使う魔法ではないの」
「ならば、その叡智で、世界を守ってみせよ」
言って、マティウスが魔力を集中した。右腕の皮膚が、みるみる再生していく。
馬蹄の音。フリオニールが再び突っこんできた。杖を拾いあげ、マティウスが横に跳んだ。突進をかわすと同時に、杖を叩きつける。馬の頭部が潰れ、フリオニールは宙に投げ出された。マリアが火炎を放つ。撃ち合いは分が悪いと見たのか、マティウスは跳躍してかわした。
ゴードンは、躰の奥底から新たな力が湧きあがってくるのを感じた。折れた左腕と肋の痛みも、それほど感じなくなっている。これも、アルテマの力なのか。なんでもいい。立って、闘わなければ。両脚に力を籠め、ゆっくり立ちあがった。ガイも、両腕をつき躰を起こしている。
感触を確かめるように何歩か歩き、それから駈け出した。前方では、氷の矢がフリオニールを襲っていた。低い姿勢で駈けながら、フリオニールは氷の矢を掻い潜っていく。マリアが火炎を放った。かわそうとしたマティウスが体勢を崩し、もろに火炎が命中した。右腿に、ガイの斧が刺さっている。投げたのだ。
距離を詰めたフリオニールが、マティウスを肩から斬り下げた。剣は胸のあたりで止まり、少し置いて鮮血が噴き出した。躰に剣を食いこませたまま、マティウスが杖でフリオニールを殴り飛ばした。傷を再生させてたまるか。ゴードンは駈け続けた。マティウスがこちらをむき、魔法を撃つ構えを見せる。火炎が、それを阻んだ。
「行け、ゴードン」
雄叫びで応え、ゴードンは剣を薙いだ。マティウスが杖を振るより早く、ゴードンの剣はマティウスの首を飛ばした。頭部を失った首から、勢いよく血が噴きあがる。
「やったな、ゴードン」
「ああ。ついに、マティウスを討ち果たした」
あとは、マティウスの首級を掲げれば、残った敵は撤退か投降をするだろう。
首を拾おうとして、ゴードンは息を呑んだ。首だけになったマティウスが、口の端に笑みを浮かべたのだ。
紫色の炎があがり、マティウスの首を包んだ。笑みを浮かべたまま、マティウスの首は燃え尽き、灰になった。胴体の方を見ると、首と同様に燃え、やがて灰になった。
「いったい、どういうことなんだ、ゴードン。俺たちは、幻でも見ているのか?」
「間違いなく、私はマティウスの首を刎ねた。その感触は、まだ手に残っている」
背筋が、得体の知れぬ恐怖でふるえた。あれは、マティウスが死に際に見せた幻術なのか。いや、幻術ではない。灰は、ゴードンの足もとに残っている。
「まさか、マティウスはまだ死んでいないのか」
「マティウスは討ち取った。戦は、叛乱軍の勝ちだ、フリオニール」
言いながらも、自分の言葉が、どこか空虚なものに聞こえた。勝った。それは間違いない。しかし、死んだ人間がその場で燃え、灰になるなどということがあり得るのか。
立ち尽くしていると、暖かい光が躰を包んだ。マリアの回復魔法だ。礼を言い、ゴードンは微笑んだ。ガイはすでに手当てを受けていて、傷も塞がっている。眼が合って、ガイが笑った。
「気にしても、仕方ないな。とにかく、ここは勝った。それだけは確かだ」
異変に気づき、敵が撤退をはじめた。追撃はしなかった。陽が落ちていたし、マティウスの恐怖から解放された帝国軍の兵士とは、闘う必要がないとも思った。
屍体の山の上に、人影が立っている。リチャードだ。フリオニールが呼びかけると、手を挙げて応えた。
味方の鬨を聞きながら、ゴードンは、マティウスが最期に浮かべた笑みの意味を考えた。マティウスが死んだことで、この世界は魔界に呑みこまれずに済んだはずだ。しかし、なにかがひっかかる。
フリオニールの横顔を見た。まだ終わっていない、という胸中の声が聞こえた。フリオニールが考えているのは、レオンハルトとの決着だろう。二人だけの勝負、というわけにはいかない。レオンハルトの動き次第では、また戦になる。
歓声が、ひと際大きくなった。ふり返ると、城壁の上にヒルダが姿を現していた。宵闇に、白い衣装が映えている。ヒルダが手を振った。ゴードンも、手を振って応えた。
城塔には、篝に照らされた野ばらの旗が翻っている。少し前から、風が出ていた。城壁の上で、ヒルダは髪を押さえている。
ふと、ゴードンは足もとに眼をやった。灰になったマティウスが、少しずつ風に運ばれ、闇に溶けていく。
もう一度、ゴードンはヒルダにむかって手を振った。
やるべきことは山ほどあるが、ヒルダの笑顔が、束の間すべてを忘れさせた。