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ファイナルファンタジーⅡ二次創作小説 『野ばらの旗』 第十章 望郷の風

 


   一


 春も終わり、初夏になろうとしていた。
 若葉の緑が眩しい時季だ。マティウスを討ってから、四ヵ月が過ぎている。
 ヒルダは、自室でネリーが淹れた茶を愉しんでいた。
 マティウスが死んだ影響か、このところ、森や山でも、魔物が出たという話は聞かなくなった。商人も頻繁に出入りするようになり、フィンはにわかに活気づいている。
 戦の勝利をもって、軍は正式にフィン王国軍と名を改め、叛乱軍という呼称は使われなくなった。そもそも叛乱軍とは、反パラメキア連合軍の残党に対し、マティウスがつけた呼称である。それを、あえて総帥である自分が名乗ったのだ。軍の指揮権は途中からゴードンに移ったので、立場としては、盟主と言った方が正確ではある。
 いまは、叛乱軍の盟主でもなく、再びフィンの王女となった。
 王女といっても、これからは直接の統治はしない。民の投票によって選ばれた議会を作り、民主主義にもとづく政事を実現させる。かつて、ミンウが考えていたことだ。
 フィンだけでなく、すべての国々が、生まれ変わらなくてはならない。民が健やかに暮らせる、戦のない平和な世の中を、これから作っていくのだ。
 しかし、問題はフィン国内だけでも山ほどある。
 特に難しいのが、投降してきた帝国兵の処遇だ。
 マティウスを討ったのち、撤退した帝国兵が、まとまって投降してきた。フィン城奪回の際と合わせると、その数は一万五千を超える。
 いまは軍の監視のもと、城壁の修復工事などをやらせているが、いつかはパラメキアに返すか、あるいは国籍を与え、フィンの民にする必要がある。
 国籍を与えるとなった場合、もとからのフィンの民からは、相当な反撥があるのは明白だ。大勢のフィンの民が、帝国軍の兵士に殺され、財産を奪われてきたのだ。
 フィンに住ませたとしても、差別や偏見が生じてしまう。仕方のないことかもしれないが、それを乗り越えないかぎり、新たな国は作れない。それは、ゴードンとの共通の意見だった。
 いま、ゴードンは軍を再編し、いつでも出動できる態勢をとらせている。
 パラメキア帝国で、かつてダークナイトと名乗っていたレオンハルトが、皇帝に即位した。行方不明になっていたマリアの兄で、フリオニールの義兄でもある。
 どういうつもりで即位したのかはわからないが、レオンハルトに、和平の意志はないようだ。マティウスの恐怖から解放され、帝国軍ではほとんどの兵が抜けたようだが、残った兵をまとめあげ、戦の準備を進めているという。
 つまり、ゴードンが編成したのは、レオンハルトを討伐するための軍なのだが、その編成から、フリオニールとマリア、そしてガイもはずされた。
 総司令官としては、仮にも敵国の皇帝となった者の身内に、部隊を預けるわけにはいかないのだろう。それについては、自分も承認するしかなかったし、フリオニールたちも承知した。
 パラメキアの情勢については、常に報告が上がってきている。政事に関して、レオンハルトは大臣たちに一任しているが、税は大幅に免除していた。バフスクからの物資で、パラメキアの民はなんとか生活を繋いでいるという。バフスクは依然として帝国領ではあるが、マティウスの時よりも緩い統治で、商人の出入りも活発なようだ。
 ポフトも一時は帝国の占領下に置かれたが、駐屯軍を維持できず、結局撤退した。避難していた民も戻り、セミテとサラマンドの残存部隊によって、復興が進められている。
 ポフトといえば、帝国軍が攻めてくる直前まで酒場にいたというシドを、ポールが助け出してきた。なんでも、店主に薬を盛られ、眠っていたのだという。
 店主の方は、侵入してきた帝国兵相手にひとりで闘い、果てたという。ケニーという名の、恰幅のいい男だった。
 現在、シドはフィンの東に建てられた小屋で、ポールに介護されながら生活している。少し前に会いに行ったが、すっかり痩せ細っていた。内臓の病で、もはや長くはないという。
 なにか言おうと思ったが、うまく言葉が出てこなかった。うつむいた自分に、シドは笑いかけてくれた。シドの笑顔のおかげで、なんとか気持ちを落ち着かせることができた。
 煙草はまだ喫っていたが、酒に関しては、きっぱりやめていた。ケニーに対して、決して返すことのできない借りを作った。だから、あの世でケニーと乾杯するまで、酒は飲まないのだという。そう語ったシドの眼は、昔から変わらずやさしくて、輝きも失われていなかった。
 ネリーが、息を弾ませ部屋に入ってきた。
「どうしたの、ネリー?」
「中庭で、野ばらが咲いていたんです。少し前に蕾がついてから、わたし、毎日観察していたんですよ」
 野ばらはフィンの国花で、花言葉は、素朴な美しさ、孤独、痛手からの回復などいろいろある。
 世界が戦の痛手から回復し、生まれ変わるためにも、レオンハルト率いる帝国軍を倒し、完全なかたちで戦を終結させる必要がある。
 戦が終結したのち、パラメキアはフィンに併合することなく、平和と協調を重んじる国家として生まれ変わらせる。ゴードンは、そこまで考えて、軍を進めるつもりだ。
 戦のない、平和な世界。しょせんは理想かもしれないが、平和は、すべての人々の望みでもある。平和実現のために、自分はまた世界を飛び回るだろう。
 一生かかってもいい。いつの日か、平和が実現した世界で、王族という身分から離れ、ひとりの民として生きたい。ゴードンと、子供たちに囲まれて暮らしたい。それが、自分の一番の願いだった。
「野ばら、見に行きましょうか、ネリー」
「はい」
 椅子から立ちあがり、ネリーのあとに続いて中庭に降りた。
 植え込みの野ばらは、青々と茂っていた。いくつかの白い小さな花が、かたまって咲いている。栽培種に較べると地味だが、素朴な美しさがあって、幼いころから野ばらの花は好きだった。
 そういえば、野ばらの花言葉には、詩というのもあった。
 平和が訪れたら、詩を作るのもいいだろう。
 蜜蜂の羽音を聞きながら、なんとなく思った。

 城外の練兵場で、フリオニールは剣の素振りを終え、汗を拭った。
 レオンハルトの突きを受けて折れた剣を、魔物の襲撃から生き延びたトブールに、打ち直して貰っていた。以前よりも、若干刃が短くなったが、その分扱いやすくなった。もともとが、普通の剣より長く、刃幅も広く作ってあった。これなら、その気になれば片手で遣うこともできる。
 アルテアで生き残ったのは、トブールを含め、わずかに六人だった。建物も破壊され、ひどい有り様だが、少しずつ復興を進めているところだ。
 ディストでも、復興は進んでいた。故郷に戻ったかたちのリチャードが、復興の指揮を執っている。エリナとチャールズも、生き残っていたようだ。
 ディスト軍は艦隊が全滅し、提督のフランシスも戦死したが、レイラは生き残っていた。右脚の膝から下を失ったため、義足をつけている。いまは船の修理も終わり、パルムから各都市へ物資を輸送している。
 マティウスの死によって、大戦は一応の決着を見たが、その爪痕は大きい。いや、レオンハルトが帝国軍を率いている以上、ほんとうの意味で、戦はまだ終わっていない。
 軍の編成からははずされたが、ミンウから与えられた独立行動権は、まだ生きている。もしかすると、ゴードンは忘れたふりをして、残しておいてくれたのかもしれない。
 マリアとガイには、すでに自分の意思は伝えてあった。しかし、たった三人でパラメキア城に乗りこむのは、かなり無理がある。
 足音がして、フリオニールはそちらに眼をやった。近づいてくる者がいる。トブールだ。相変わらず見事な肉体で、とても七十過ぎとは思えない。
「どうだ、フリオニール。打ち直した剣の調子は」
「いいですね。以前よりも躰に馴染むし、短くなったせいか、軽くも感じます」
「人を斬りすぎた。だから、折れちまったんだよ」
「剣が、脆くなっていたということですか?」
「まあそうなんだが、ちょっと意味が違うな。いままで、おまえは何百人も斬っただろう。それだけの人間の血が、絡みついてたんだよ。剣にも、おまえ自身にもな。業を背負った、とでも言うのかな」
「敵を斬らなければ、生き残れませんでした」
「確かにな。おまえの活躍がなければ、戦は負けていたとも思うし、最初にこの剣を渡した時、わしは、おまえにわしの分も闘えと言った。だがな、もうマティウスは倒したんだ。聞けば、おまえは軍の編成からはずされたそうじゃないか。そろそろ、剣以外の生き方を見つけてもいいんじゃないのか?」
「まだ、戦は終わってはいませんよ。それに、どうしても闘わなくてはいけない相手がいます」
「レオンハルトか。折れたおまえの剣を見て、すさまじい遣い手だということはわかったよ。多分、おまえよりも多くの人間を斬っているだろう。しかし、おまえと違って、レオンハルトは、背負った業を力に変えている気がする。強いが、どこか哀しい男だな。レオンハルトの剣は、哀しみの剣だ。おまえの剣を打ち直している間、そんな声が聞こえてきたよ」
 六十年も鍛冶をやっているトブールには、剣の声というものが聞こえるのかもしれない。哀しみの剣。言われてみれば、そういう気もする。
「俺にも、剣の声が聞こえるようになるでしょうか?」
「さあな。だが、二人にしかわからない、剣で語るものもあるだろう。だから、わしはおまえを止めはしない」
「はい」
「できれば、おまえとレオンハルト、どちらにも死んで欲しくないがな。マリアだって、本心ではそう思っているはずだ。まあ、結果は結果だ。後悔はするなよ」
「勿論です」
「戦が終わったら、わしに弟子入りしてもいいぞ。そうすれば、剣の声が聞こえるようになるかもしれん」
 真っ白な髭を擦りながら、トブールは去っていった。
 城内に戻り食事をとると、フリオニールは居室の寝台に寝そべった。
 パラメキアに行くなら、空からだ。リチャードはディストに帰っているので、頼めるのはシド以外にいない。
 死期が近づいているからか、いままで以上に、シドは飛空船にこだわっている。
 なるべくなら、シドを刺激するようなことは言いたくなかった。しかし、のんびりしてもいられない。いつパラメキアにむけて軍が出動するか、わからないのだ。
 どうしたら、シドを説得できるだろうか。天井を見つめながらしばらく考えたが、いい考えは浮かばなかった。
 棚にかけてある剣を見た。
 剣の声は、やはり聞こえない。

   二


 政事について、まったく関心はなかった。
 即位したのは、ほかにまとめる者がいなかったからだ。自分の意思で軍を動かすことさえできれば、帝位など、いつほかの者に譲ってもいい。
 執務室で、レオンハルトは上がってきた書類に眼を通していた。
 関心がないとはいえ、政務を放棄するわけにはいかない。それに、国内を安定させなければ、軍の強化もできないのだ。
 即位してすぐに、レオンハルトは、マティウスのころに不遇を囲っていた官吏たちを要職につけた。彼らは情熱に溢れ、国を立て直すために次々と進言してきた。与えられる権限はすべて与え、内政に関してはほとんど一任している。
 少しずつではあるが、民の暮らしはよくなってきた。数年後には農地も拡大し、食料の供給も安定するはずだ。
 書類に署名をすると、レオンハルトの興味は軍の方へ移った。
 現在、フィン軍が、パラメキアにむけて進軍中だという。しばしばフィン領まで軍を侵入させたことが、ゴードンを刺激したのだろう。
 マティウスを討ち果たしたことで、叛乱軍は呼称を改めた。別に、名前などどうでもいい。大事なのは、強い敵と闘えるかどうか、それだけだ。
 本来なら、自ら陣頭に立つところだが、フリオニールとガイ、マリアの姿がないという報告を聞き、副官に軍を預けた。
 ゴードン相手の野戦も、面白いかもしれない。それでも城に残ったのは、フリオニールたちがここへ来るという気がしたからだ。その思いは、確信に近いものになっている。
 いま城にいるのは、レオンハルトひとりだけだ。出入りするのは伝令や下級の文官くらいで、兵は置いていない。大臣たちは、城とは別に作った庁舎に詰めさせている。アエナという商人の娘をそばに置いていたが、それも故郷のバフスクへ帰らせた。
 全身の血が、滾っている。強敵だけが、それを鎮めることができる。
 いまなら、フリオニールとはもっといい勝負ができるはずだ。
 来い、フリオニール。俺はここにいるぞ。心の中で呟き、レオンハルトは傍らに置いた剣に手をのばした。
 この剣も、強敵と闘いたがっている。そんな気がした。

 ゴードン率いる八千の兵が、パラメキアにむけて進発した。
 その日のうちに、フリオニールはシドに飛空船を出して貰うよう頼んだが、聞き入れてはくれなかった。
 あいつにはもう飛空船しかないんだ。見送りに出てきたポールは、そう言った。
 それから三日目の夕方、ポールから使いが来た。シドが、話をしたいのだという。
 フリオニールは、マリアとガイの二人とともに、シドの小屋へ急いだ。
 シドは、車椅子に座り小屋の外にいた。ポールが、すぐそばに付いている。格納庫の飛空船を見ているようだ。
「シド殿」
 声をかけると、シドは首をゆっくりとこちらへむけた。ポールが車椅子の向きを変えようとしたが、それより先に、フリオニールたちはシドの正面に立った。
「来たか、小僧」
 口もとには笑みを浮かべているが、シドの呼吸は荒く、焦点が定まっていない。命の灯が、いまにも消えようとしているのがわかった。
「へっ。なんて顔してやがる。用件はわかってるだろう。飛空船、使っていいぜ」
「シド殿がいなければ、動かせませんよ」
「安心しろ。ポールに、教えこんだ。整備も、完璧だ」
「しかし」
 言いかけたところで、突然シドが激しく咳きこんだ。近寄ろうとすると、手で制された。
「小僧が、余計な気ぃ遣うんじゃねえよ。小僧は小僧らしく、自分のことだけ考えてろ」
 喘ぎながら、シドがこちらを見あげた。その顔からはすでに生気が失われているが、眼だけは異様に光っている。
「わかりました。ありがとうございます、シド殿」
 シドから眼をそらさず、フリオニールは答えた。
「それでいいんだよ」
 言って、シドが笑みを浮かべた。眼の光も、やさしいものになった。
「そろそろ休もうか、シド」
「いや、いい。それよりポール、煙草をくれ」
 一瞬ためらったのち、ポールは煙草を取り出し、シドの口にくわえさせた。火をつけると、シドはうまそうに煙を吐き出した。
「勘違いするなよ、小僧。飛空船は、くれてやったわけじゃない。あくまで、貸すだけだ」
「わかってますよ。大事に、使います」
「ああ。大事に、使え」
 眼を閉じながら、呟くようにシドは言った。死が、シドの躰を包みこんでいく。
 一度大きく痙攣し、シドの上体は前に倒れた。それから少しして、指の間から煙草が落ちた。
「最後まで、恰好つけやがって」
 言いながら、ポールが落ちた煙草を拾いあげ、口にくわえた。
「ヒルダ様に、知らせないと」
「待て、マリア。このまま、飛空船でパラメキアにむかう。それが、シドの望みさ」
「でも」
「このまま、シドを置いていきやしないさ。そうだな、マクマホン山脈の、一番高いところに埋めてやろう。あそこなら、フィンを一望できる」
「空にも、近いですしね」
「そういうことだ、フリオニール。飛空船を格納庫から出したら、シドを運びこんでくれ」
「わかりました。ガイ、手伝ってくれ」
 ガイが無言で頷く。ポールは煙草を捨て、飛空船の操縦席に乗りこんだ。
 フリオニールは、ガイと二人でシドの亡骸を抱えあげた。シドの躰は、驚くほど軽かった。
 シドを運び、全員が乗りこむと、飛空船は上昇をはじめた。シドに較べるとぎこちないが、ポールはうまく操縦している。
「なあ、フリオニール。シドの躰は埋めちまうが、魂は残り続けるぜ」
 窓の外から山脈を見あげていると、操縦桿を握り、正面をむいたままポールが声をかけてきた。
「はい。俺たちの、心の中に」
「もっと、わかりやすいもんだよ。この、飛空船さ」
「なるほど、そうですね」
「いつか、おまえにも飛空船の操縦を教えてやるよ」
「お願いします。でも、シド殿に悪いな」
「仕方ねえな、小僧。きっと、そう言って許してくれると思うぜ。さて、少し飛ばすぞ」
 ポールが飛空船を加速させる。フリオニールは、支柱に掴まって衝撃に耐えた。
 寝かせてあるシドの顔を見た。シドの表情は穏やかで、気持ちよさそうだった。
 飛空船は、さらに加速していく。
 
 対峙が続いていた。
 フィンとパラメキアの中間の原野だ。かつて大戦艦の補給基地だったあたりからは、やや南になる。
 ゴードンは、騎馬七百とともに、歩兵七千三百の中央にいた。陣の前面には、馬防柵を出してある。
 敵は歩兵二千で横長の陣を組み、左右に騎馬を一千ずつ配置していた。
 歩兵の中央に黒い獅子の旗があり、その旗の下には、百騎の黒い騎馬隊がいる。ただ、フリオニールたちが編成からはずされたのを知ってか、レオンハルトは来ていないようだ。
 総司令官としては、敵の総帥の身内を編成に加えるわけにはいかなかった。フリオニールたちの実力は誰もが認めるところではあるが、古参の兵たちの中には、特別扱いされていると感じている者もいる。秘密裡の行動が多かったせいなのだが、ここでまた部隊を預けることになれば、それこそ特別扱いということになる。これまでの勝利は、苦しみに耐えてきた兵の存在があったからだ。それを忘れたら、兵はついてこない。
 もしかしたら、レオンハルトは城でフリオニールを待っているのかもしれない。フリオニールは、必ずパラメキアにむかうはずだ。独立行動権については、なにも言わず残しておいた。そんな真似をせずとも、フリオニールなら、軍規に反してでも行くという気もする。
 フリオニールとレオンハルトは、まるで互いに引き寄せ合っているようだ。そして二人は、再び剣で語り合うのだろう。そんな世界を少し羨ましいとも思うが、自分はフィン軍を預かる総司令官である。眼の前の戦に、勝利する。それが、いまの自分の為すべきことだ。意識を引き戻し、ゴードンは敵陣を注視した。
 まだ、敵に動く気配はない。レオンハルトはいないが、侮られているとは思わなかった。総兵力ではこちらが上回っているが、騎馬の数は敵の方が三倍ほど多い。この原野では、騎馬の能力を十二分に発揮できる。
 なによりも、あの黒い百騎が脅威だ。二倍近い兵力差はそれで埋まるどころか、こちらの方が押されるかもしれない。七百騎でも、黒い百騎を撃ち破る自信はなかった。
 南からの風が、聞き憶えのある音を運んできた。
 ゴードンはふり返り、空を見あげた。飛空船。やはり、フリオニールは行動を起こした。レオンハルトが待っている、と信じているのだろう。そしてレオンハルトは、フリオニールが来ると信じている。
 飛空船は上空を通過し、北の空へ消えて行った。
 不意に、敵が動き出した。両翼の騎馬隊が、歩兵の前に集まった。後方からは黒い百騎が現れ、百騎を先頭に、敵の騎馬隊は楔形になった。
 ゴードンは、歩兵の指揮官に指示を出した。前面の兵が、五名単位で馬防柵のかげに集まり、槍を構えた。後方の兵は、矢をつがえ弓を引き絞っている。火薬の製造が間に合わなかったので、銃はない。
 黒い百騎を先頭に、二千の騎馬隊が駈け出した。三千の歩兵も魚鱗を組み、続いてくる。
 ゴードンは馬腹を蹴った。七百騎が動き出し、歩兵の脇から抜けた。騎馬同士のぶつかり合いは不利だが、攪乱しながら少しでも勢いを殺ぎたい。
 楔形を乱すことなく、二千の騎馬は駈けてくる。まるで、一頭の巨大なけもののようだ。
 駈けた。馬蹄と具足の音以外は、なにも聞こえない。
 けものの首が、こちらをむいた。
 剣を掲げ、ゴードンは馬腹を締める脚に力を籠めた。

   三


 なにか、予感のようなものがあった。
 三日前にディストを発ってから、その予感はますます強いものになっている。
 茫漠たる思いを抱えたまま、リチャードはハイウィンドの背に乗っていた。
 パラメキア城が見えた。城塔には、黒い獅子の旗が翻っている。マティウスが皇帝だったころは、黒い鷲の旗だった。
 平らな場所を見つけ、リチャードは高度を下げた。なにかある。飛空船だ。ちょうど着陸し、機関を停止させたところだった。
 飛空船の近くに、ハイウィンドを着陸させた。
「リチャード殿。どうしてここへ。まさか、俺たちが来ることを、わかっていたのですか?」
 ハイウィンドから降り、風防眼鏡を上にずらすと、フリオニールが声をかけてきた。
「なにか、予感のようなものがあってな。レオンハルトと、決着をつける気だな?」
「はい」
 力強く、フリオニールが頷いた。その闘気は、以前にも増して強くなっている。
 フリオニールがレオンハルトと闘う。予感の正体は、もっと違うなにかだ。答えは、城に行けばわかるのか。黙って、リチャードはフリオニールたちに付いていくことにした。
 飛空船で待機するポールを除き、四人で城に入った。
 城内に、人はいないようだ。強い闘気だけが、奥から漂ってきている。レオンハルトは、ひとりこの城でフリオニールを待ち続けていたようだ。
 最上階の大広間に着いた。床には赤い絨毯が敷かれ、その奥の玉座に、レオンハルトは座っていた。その両眼は、まるで肉食獣のような光を放っている。
 近づくと、レオンハルトはゆっくりと玉座から立ちあがった。
「待っていたぞ、フリオニール。思う存分、闘おうか」
「兄さん。お願いだから、もう戦はやめて。これ以上、人が死ぬのを見たくないわ」
「フリオニールに頼むのだな。俺に勝てば、戦は終わる」
「退がっていろ、マリア」
 剣を抜き、フリオニールが前に出た。折れた剣を、打ち直したのだろうか。刃が、以前より短くなっている。
 レオンハルトが黒い剣を抜き、一歩前に出た。
 突然、リチャードの全身に粟が立った。レオンハルトの闘気に押されたわけではない。なにか、禍々しい気を感じたのだ。なにかが起こる。予感が、現実になろうとしている。
「待てっ。二人とも、剣を引け」
 リチャードが叫んだ時には、二人はすでに駈け出していた。大広間の中央で、一度だけ打ち合い、互いに跳び退った。
 再び二人が駈け出した。次の瞬間、轟音とともに天井が破れ、レオンハルトの背後の玉座に、雷が落ちた。二人はぶつかり合う直前で足を止め、玉座の方を注視した。
 玉座は瓦礫に埋もれ、周囲はうっすらと煙に覆われていた。その煙の中に、何者かが立っている。リチャードの背筋を、冷たい汗が伝った。
 煙はすぐに晴れ、顔があらわになった。
 顔を見た瞬間、リチャードは戦慄した。瓦礫の上に立っていたのは、死んだはずのマティウスだったのだ。
 確かにマティウスは並の人間をはるかに超越していたが、首を切り離された人間が、蘇るなどということがあるのか。リチャードの口の中は乾き、しかし全身からはとめどなく汗が噴き出していた。リチャードだけではない。全員が、その場で凍りついたように動けなくなっていた。
「久しぶりだな、レオンハルト。皇帝になった気分はどうだ?」
 ぞっとするような、声の響きだった。なにか、人間でないものが喋っているようだ。よく見れば、マティウスの全身は薄い光に覆われている。
 マティウスの復活。どうやらそれが予感の正体だったようだが、なぜマティウスが蘇ったのか、そして、なぜ自分がそれを感じたのかはわからない。
確実にわかるのは、いまのマティウスは、もはや人間ではない、ということだ。理屈ではなく、肌がそれを感じていた。
「どういうことだ、マティウス。死んだはずでは、なかったのか」
 訊いたのは、レオンハルトだった。語気は強いが、さきほどまでの猛々しい闘気は、すっかり萎んでしまっている。
「確かに、私は一度死んだ」
 冷たい笑みを浮かべ、マティウスが瓦礫に手を翳した。瓦礫は一瞬で砂になって崩れ、埋もれていた玉座が現れた。その玉座に腰を降ろし、マティウスはゆっくりとこちらを見回した。眼が合っただけで、リチャードの背筋は凍り、呼吸も荒くなった。
 玉座に肘をついたマティウスが、再び話し出した。
「フィンに攻めこむ前、私は万が一に備え、転生の儀式を施しておいた。さらなる戦によって夥しい血が流れたことで儀式は成功し、いまここに蘇ったというわけだ。そして、私の計画も、ようやく成就する」
「世界が、魔界に呑みこまれるというの?」
「そうだ、マリア。少しずつ、この世界は魔界に呑みこまれていく。これも、おまえたちが戦を続けてくれたおかげだ」
 いま、南ではゴードン率いるフィン軍が帝国軍と闘っている。ゴードンは戦を完全に終わらせるために軍を出したが、それが裏目に出たというのか。いや、ゴードンだけが原因ではない。自分がいなくなったあと、レオンハルトが皇帝に即位することまで、マティウスは見越していた。フィンでの闘いはぎりぎりのところでこちらが勝利したが、どう転んでも、マティウスの計画は阻止できなかったということなのか。
「すべては、計算のうちだったということか?」
「あそこでおまえが離反するところまでは、考えていなかった。もうひとつ、誤算があった。嬉しい誤算というやつだ。魔界で蘇った際、私は新たな力を手に入れた。この力を遣い、私は新世界の創造主となるのだ」
 ゴードンの話では、マティウスの躰は、紫色の炎に包まれ燃え尽きたという。あれは、転生の儀式のなせる業だったのか。新たな力がどういうものかはわからないが、確かにマティウスは、以前にも増して、強烈な気を放っている。
「ふざけるな。そんな真似、させるかよ」
「相変わらず威勢がいいな、フリオニール。しかしいまの私の前では、おまえたちはただの無力な存在だ」
「俺には、人間をやめて化け物になっちまったおまえの方が、よっぽど無力に見えるぜ」
 吐き捨てるように言って、フリオニールが剣を構えた。
「どうやら、口で言ってもわからないようだな」
 眉間に皺を寄せ、マティウスが玉座から腰をあげた。
 弾かれるように、リチャードは竜笛を吹いた。いまのマティウスには、どう足掻いても勝てない。ここは、ひとまず退却すべきだ。
 ハイウィンドは、すぐに飛んできた。両脚で天井を崩し、着地すると同時に、マティウスにむかって炎を吐いた。
「さすがに、まともにこれを浴びるわけにはいかないな。まだ、私の躰も安定していない」
 言いながら、マティウスは自分の前方に光の壁を作り出した。炎は、光の壁に遮られている。魔法による、楯のようなものか。
「一旦退くぞ。いまのうちに乗りこめ。フリオニール、おまえが先頭だ」
 リチャードが叫ぶと、フリオニールたちは急いでハイウィンドに乗りこんだ。レオンハルトだけが、その場に立ち尽くしている。
「おまえも行け、レオンハルト」
「俺は、貴様の指図は受けん」
 駈け寄って、リチャードはレオンハルトに当て身を食らわせた。崩れ落ちたレオンハルトを担ぎあげ、投げるようにしてハイウィンドに乗せた。ガイがレオンハルトの躰を引き摺り、鞍の上に座らせた。
「くそっ。どういうつもりだ」
 ガイに留め金で固定されながら、レオンハルトが呻いた。
「レオンハルト。確かに、おまえは強い。しかし、おまえの強さは、弱さを理解しない強さだ。それでは、けものと変わらん。人間の強さというのは、もっと別のところにある。それがわかった時、きっとおまえは、ほんとうの意味で強くなれる」
 レオンハルトがなにか言おうとしたが、無視してフリオニールの方へ近寄った。
「この竜笛を、エリナに渡してくれ」
「リチャード殿、まさか」
「ハイウィンドに乗れるのは、四人までだ。私が、ここで足止めをする。さあ、行け」
 竜笛をフリオニールに押しつけ、リチャードはマティウスとむかい合った。ハイウィンドの炎は、すでに熄んでいる。周囲の壁や床は焼け崩れていたが、マティウス自身は、まったくの無傷のようだ。
「化け物め。私が相手だ」
「私とやり合うつもりか。面白いな」
 マティウスは、超然とした笑みを浮かべている。
「リチャード殿」
 背後で、フリオニールたちの声が聞こえた。それをかき消すように、ハイウィンドはひと声啼き、上昇をはじめた。
 リチャードは槍を構えた。たとえ死ぬとしても、最後まで自分の闘いをする。それだけだ。
「ディスト王国竜騎士団副長リチャード、参る」
 ハイウィンドの羽ばたきを背に、リチャードは床を蹴った。

   四


 ポールが、魔物の群れに囲まれていた。
 飛空船を背に、ポールは焙烙玉で応戦している。地すれすれを飛び、ハイウィンドは飛空船に近づいた。
 飛び降りると同時に、フリオニールは魔物を斬り倒した。少し遅れて、マリアとガイ、レオンハルトも飛び降りてきた。
「待ってたぜ、フリオニール。いきなり、魔物が湧いてきやがってよ」
 ポールの呼吸は、かなり荒かった。左腕の袖は、邪魔にならないよう縛ってある。
「マティウスが復活しました。魔物が現れたのは、多分その影響です」
「なんだって。さっき雷が落ちたが、そういうことだったのか。おい、そいつは」
「わたしの兄、レオンハルトです。リチャード殿が、ひとりで残って」
 話しながら、マリアは火炎の魔法を放った。火炎は、四体の魔物を焼いた。
「いろんなことが起こりすぎて、なにがなんだかわからねえな、まったく」
 視界の端で、レオンハルトが剣に手をかけた。抜きざまに、二体の魔物を斬り倒した。
「レオンハルト」
「勘違いするな、フリオニール。俺は、ここで死ぬつもりがないだけだ」
「話はあとだ、二人とも。まずは、ここを切り抜けようぜ」
「はい」
 ガイとともに、フリオニールは魔物の中へ斬りこんだ。
 剣を遣いながらも、城に残ったリチャードが気になっていた。リチャードの言っていた予感というのは、マティウスの復活だったのだろうか。リチャードの強さは身をもってわかっているが、これまで以上に強大な魔力を得たマティウス相手に、勝てるのか。
 心の声に応えるかのように、ハイウィンドの啼き声がした。
 見あげると、さきほどまで上空を旋回していたハイウィンドが、城の方へ戻っていった。

 また、立ちあがってきた。
 これで何度目だろうか。全力を出していないとはいえ、リチャードの耐久力は、常人をはるかに超えるものがある。
 兜は吹き飛び、素顔があらわになっていた。全身の骨が折れ、内臓もずたずたになっているだろう。それでも、リチャードの青い眼には、まだ闘志の炎が燃え続けている。
「飛竜がいなければ、こんなものか。まあ、何度も立ちあがるその闘志だけは、認めよう」
 ふらつきながらも、リチャードは槍を構え、むかってきた。
 マティウスは、一本だけ氷の矢を放った。もはや、避けるだけの体力はないようだ。かなり力を抑えたつもりだが、リチャードの左腕はちぎれ飛んだ。
 体勢を崩し、リチャードはその場に転んだ。
 久しぶりに実体を得たからか、どうもまだ躰が安定しない。それでも、自分の魔力がどれほど強力になったかはわかった。一騎当千といわれる竜騎士さえ、指一本触れさせることなく、軽々とあしらうことができる。
「もう、そのへんにしておいたらどうだ。いずれ、この世界は滅びるのだ。いま、ここで死ぬこともあるまい」
「指をくわえて、滅びを待てというのか。ふざけるな。私は、闘い続ける。散って行った、仲間たちのためにもな」
 言って、リチャードが立ちあがった。さすがにマティウスは辟易した。いったいどこから、この闘志は湧いてくるのか。
 そろそろ終わりにしよう。闘うための力など、魔界で得たほんの一部のものだ。あとはこの世界が呑みこまれるのをゆっくり見届けて、新たな世界を創るのだ。
「最後にひとつ訊こう。なにが、おまえをそこまでして闘わせる。ディストを滅ぼした、私への憎しみか?」
「誇り。竜騎士の、誇りだ」
「誇りだと。むなしいな、リチャード。では、その誇りとやらを踏み潰してくれよう」
「無理だな。大空を翔ける竜騎士の誇りは、誰にも踏み潰すことなどできぬ」
 右脇に槍をたばさみ、リチャードが駈け出した。歯を食いしばり、脚を引きずりながら駈けてくるさまは、悲しいほど不恰好だった。
 踏み潰せないのならば、叩き落とすまでだ。心の中で呟き、マティウスは腕先に魔力を集中した。せめて苦しまぬよう、一瞬で終わらせてやろう。
 魔法を放とうとしたその時、マティウスの背後で風が起きた。
 ふりむくと、飛竜が空中で首をもたげていた。炎。とっさに、マティウスは魔法楯を張った。間一髪間に合った。魔法楯にぶつかり軌道が変わった超高熱の炎が、マティウスの両脇を通り過ぎていく。いかに魔界で強大な力を得たとはいえ、この炎をまともに浴びれば、ただでは済まないだろう。
 リチャードの方にむき直った。思わず、マティウスは眼を見開いた。炎に身を焼かれながらも、リチャードは前進を続けていたのだ。
 汗が背筋を伝った。炎の熱によるものではない。冷や汗だ。驚愕したまま、マティウスは動けなかった。誇り。それだけで、人間はここまでできるものなのか。
 炎が熄んだ。
 われに帰った時、マティウスの胸には槍が突き立っていた。傷は浅い。しかし、肉体ではないなにかを、深く抉られた。
 リチャードは、口の端に笑みを浮かべたまま、いまにも力尽きようとしている。
 急に、怒りがこみあげてきた。リチャードに対してではない。一瞬とはいえリチャードに恐怖した、自分自身への怒りだ。
 自分の内側で、制御できないほどの魔力が増幅していく。やがてその魔力は臨界点を超え、マティウスの周囲に大爆発が起きた。リチャードの肉体は瞬時に消滅し、大広間も消し飛んだ。
 もはや自分でも、溢れる魔力の奔流を止めることはできなかった。
 爆発はさらに拡がり、城を呑みこんでいく。

 上昇中に、大爆発が起きた。
 激しく揺れた船体を、ポールがなんとか制御した。
「パラメキア城が」
 マリアが、窓の外を見て叫んだ。
 フリオニールも、窓の外を見た。マティウスの魔法によるものなのか、パラメキア城が、爆発で完全に消滅していた。
「ポール殿。離脱する前に、城の上空を飛んで貰えませんか?」
 リチャードを探したかった。あの爆発で、生きているわけがない、とも思う。それでも、このまま去ることなどできなかった。リチャードがひとりで残ったから、自分たちはあの場を逃れ、生き延びることができたのだ。
「一度だけだぜ、フリオニール」
 言って、ポールが船首を城の方へむけた。
 跡形もなく、城は消滅していた。地表は抉られ、ところどころで煙があがっている。
 リチャードはおろか、マティウスの姿も確認できなかった。もしかしたら、マティウス自身も爆発で死んだのではないだろうか。都合のいい考えが脳裡に浮かんだが、それはすぐに打ち消した。
マリアの方を見た。マリアは、無言で首を横に振っただけだった。
「フリオニール。ハイウィンドが」
 ガイが指さした先に、ハイウィンドがよろよろと低空で飛んでいた。その背に、リチャードの姿はない。翼が破れ、全身に傷を負っていたが、飛べるだけの体力はあるようだ。北にむかっているということは、ディストを目指して飛んでいるのだろう。
「ディストまで、着けるかしら」
 マリアの声が届いたのか、ハイウィンドが、ちらりとこちらをふり返った。一瞬だけだったが、眼が涙に濡れ、光っているのがわかった。
「きっと、大丈夫さ」
 拳を強く握り締めながら、フリオニールは言った。
 やがて、ハイウィンドの姿は見えなくなった。
「行こうぜ、フリオニール。とにかく一度、フィンに戻った方がいい」
「はい」
 ポールの言う通りだ。まずはフィンに戻って、報告しなければ。マティウスの復活、そして、この世界に滅びが迫っていることを。
 南に転進した時、どこからともなく声が聞こえてきた。
「聞こえているか、叛乱軍の諸君」
 マティウスの声だ。地上を見回しても、マティウスの姿はない。いったい、どこから話しているのだろうか。声は、もっと上空から聞こえたような気もするし、直接頭の中に聞こえたような気もする。
「聞こえているぞ、マティウス。さっきの爆発は、おまえの魔法か?」
「そうだ。加減ができなくて、城まで吹き飛ばしてしまった」
「リチャード殿は、死んだのだな」
「ああ。諦めずに、何度も立ちあがり続けた。見事なものだったよ」
 マティウスがそんなふうに人を賞賛するのが、どこか不思議だった。同時に、マティウスは決して倒せない存在ではない、という気もした。
「おい、見ろよ、フリオニール。空の、ずっと上の方だ」
 ポールに言われ、窓から上空を見あげた。うっすらと、天が赤く染まっている。夕陽ではない。陽はすでに落ち、夜になっている。
「いま、なにが起きている、マティウス」
「魔界による侵食が、はじまったのだ。いまおまえたちがいる世界は、徐々に魔界に呑みこまれていく。しかし、止める方法が、ひとつだけある」
「なんだって」
「簡単だ。私を、倒せばいい」
「おまえはいま、どこにいるんだ」
「私はいま、魔界と現世の狭間に築いた、伏魔殿にいる。どうもまだ、この肉体は不安定なようでな」
「その伏魔殿には、どうやって行けばいい」
「それは、自分たちで見つけるのだな。待っているぞ」
 それきり、マティウスの声が聞こえてくることはなかった。
 右手にパラメキア砂漠が見えてきた。
 不意に、マリアが短く叫んだ。首からぶらさげてある、ミシディアの塔から持ち帰ってきた水晶玉が、光を放っている。
「なにが起こった、マリア?」
「いま、水晶玉から声が聞こえたの。直接、わたしの頭に語りかけてくるように。伏魔殿に行け。そこでアルテマは、真の力を発現する。そう言ってたわ」
 アルテマがなんなのか、いまだにわからなかった。眼に見えてわかったのは、マリアの魔力が上がったことぐらいだ。それだけでも人智を超えたものではあるが、奇跡と呼べるほどではない気もする。
 伏魔殿に行けば、奇跡は起こるのだろうか。それで世界が救われる、などと都合よくはいかないだろうが、とにかく、マティウスを倒すためにも、伏魔殿に行くしかない。
 しばらくして、水晶玉から光は消えた。
 みんな無言で、船内には、蒸気機関の音だけが響いていた。
 誰も、レオンハルトに声をかけられなかった。マリアの視線を無視するかのように、レオンハルトは壁の一点を見つめ続けている。大人しくついてきているが、レオンハルトがなにを考えているのか、まだよくわからなかった。
 話したいことはいろいろあるはずなのに、言葉が出てこない。敵味方に分かれたからか、それとも人の死を見すぎたからか。レオンハルトはレオンハルトで、自分とは違う地獄を見てきたのだろう。憎しみはないが、かつて一緒に暮らしていたころのようにもいかない。それが、つらかった。マリアは、きっともっとつらいだろう。
「レオンハルト。フィンに着いたら、おまえの身柄は、総司令官のゴードンに預ける」
「好きにしろ。抵抗はしない」
 壁を見つめたまま、レオンハルトは言った。マリアがなにか言いかけたが、ガイが手で制した。
 レオンハルトの身柄を引き渡して、その後どうなるのだろうか。もしかしたら、処刑ということもあるかもしれない。マティウスの復活によって事態は大きく変わったが、敵軍の総帥であることに変わりはないのだ。
 しかしゴードンが、レオンハルトにそんなつまらない死を与えるわけがない、とも思う。総司令官という立場ではあるが、実際に剣を交え闘った者だけがわかる感覚を、ゴードンは持っている。きっと、処刑以外に適切な判断をしてくれるはずだ。
 茫漠とした思いを抱えながら、フリオニールは赤く染まった空を見あげた。
 マティウスを倒さなければ、この世界は魔界に呑みこまれる。レオンハルトについては、いま答えを出す必要はない。
 すべての闘いが終わったら。そう思うことにした。

   五


 昼だというのに空は薄暗く、上の方は赤く染まっている。
 赤い部分は、日に日に拡がっているようだ。フリオニールの話では、この世界は少しずつ魔界に呑みこまれていくのだという。
 どこから湧いてきたのか、魔物が再び姿を見せるようにもなった。防備をかためるよう、ゴードンは各地に命令を発していた。
 マティウスが復活してから、五日になる。
 ゴードンが帝国軍を撃ち破り帰還してすぐに、フリオニールたちも戻ってきた。そして、マティウスの復活と、リチャードの死について聞いた。フリオニールたちを逃がすため、リチャードはひとりでマティウスに挑み、果てたのだという。
 現在マティウスは、魔界とこの世界との狭間に築いた、伏魔殿というところにいるらしい。マティウスを倒せば、魔界による侵食は止まるようだ。
 ミシディアから使者がやってきて、伏魔殿に行く方法はわかった。ただ、フリオニールたちはいま、リチャードの形見の竜笛をエリナに届けるため、ディストにむかっている。それは、止めようがなかった。
 ゴードンは、フィン城の地下へ降りた。地下の牢獄には、レオンハルトが入っている。
 レオンハルトを処刑すべき、という声もあったが、結論は保留しておいた。フリオニールたちの身内だから、というわけではない。真に倒すべきなのはマティウスであり、レオンハルトを処刑したところで、なんの解決にもならない。そして、これからの世界で必要なのは、国家間の協調なのだ。
 レオンハルトとは、何度か話した。話したといっても、言葉はそれほど多くなく、しばらく二人で過ごした、と言った方が正確かもしれない。レオンハルトの両眼は、肉食獣のように光っていたが、強さの中に、どこか哀しさを宿した光だった。
 レオンハルトは、決して強いだけの男ではない。心の弱さを認めることができず、戦にこだわり続けることで誤魔化してきた、という気がする。
 牢番に命じ鍵を開け、ゴードンは牢獄の中へ入った。
 いつも通り、帯剣はしていない。レオンハルトには枷などはめてなく、自由に動くことができるが、殺気が感じられたことは一度もない。
 座ったまま、レオンハルトが顔をあげた。むかい合って、ゴードンは床に座った。
「きのうの夜、黒い騎馬隊が夢に出てきたよ。起きた時、私は全身が汗まみれだった」
「そうか」
「五日前の戦で、私は死を覚悟した。最後の一騎になっても、私めがけて駈けてきたのだ。あの百騎を討ち取るために、こちらは二千の犠牲を出した」
「俺が、鍛えに鍛えた騎馬隊だ」
「強いだけでなく、誇り高い男たちだった。美しいとさえ言える、と私は思っている」
「俺もきのう、ひとりひとりの名前を思い出していた。全部で、百二十五名だ」
「これまで死んで行った者たちも含めて、ということか?」
「ああ」
「やはり、おまえは処刑するには惜しい男だ」
「いつまでも閉じこめられるくらいなら、処刑の方がましだ」
「その気になれば、抜け出す機会は何度もあったはずだ」
 レオンハルトが、口の端にかすかな笑みを浮かべた。
 それからしばらく、いつものように無言が続いた。
「ゴードン様」
 息を切らせて駈けてきた兵士の声が、沈黙を破った。
「何事だ」
「西門付近に、見事な体躯の黒い馬が現れました」
 兵士の言葉に、レオンハルトが眼を見開いた。
「それで、その馬はどうした?」
「悠々と、草を食んでいます。下手に近づけないと思い、遠巻きに監視しています。しかし、あのような見事な馬は、いままで見たことがありません」
「飛影。俺の馬だ」
「おまえの馬なのか、レオンハルト?」
「ああ。間違いない」
 パラメキア城は爆発で消滅したというが、飛影というレオンハルトの馬は、その爆発を生き延び、主を追ってここまで来たというのか。
「西門まで行こうか、レオンハルト。飛影に、会いたいだろう?」
「いいのか?」
「主を追ってパラメキアからフィンまで駈けてきた馬を、私は見てみたい」
 レオンハルトと二人で、外に出た。数日ぶりに地上に出たこともあり、レオンハルトは最初ほとんど眼を開けられずにいた。
 西門に着くころには、レオンハルトの眼は陽の光に馴れたようだ。
 草地から少し離れたところに、数名の兵士たちがいた。その先に、遠眼からでもわかる見事な黒い馬がいる。あれが飛影か。
 こちらに気づき、飛影が駈けてきた。兵士たちが、慌てて道を開けた。
 レオンハルトの眼の前で、飛影が停まった。普通の馬よりも、ひと回りは大きい。毛並みも、立派なものだった。
 レオンハルトが、飛影の首を撫でた。飛影は、鼻を鳴らしている。
「見事な馬だな、レオンハルト。普通の馬なら十日以上はかかる距離を、五日で駈けてきた。そして、それほどの馬に慕われるおまえも、見事な男だ」
「なにが言いたい、ゴードン」
「マティウスを倒すため、力を貸してくれ。頼む」
「本気なのか。俺はこれまで、おまえたちの味方を数えきれないほど殺したんだぞ?」
「本気だ。確かにおまえには苦しめられたが、そのことについてはもういい。闘いが終わったあとは、この飛影と、自由にどこまでも駈けてくれ」
「わかった」
 言って、レオンハルトは再び飛影の首を撫でた。
 飛影を見るレオンハルトの眼に、哀しみの光はなかった。

 魔物に荒らされたディストの復興は、かなり進んでいた。
 赤い空を見て不安に思う者もいたが、街には活気が溢れていた。各地で再び魔物が現れるようになったが、ディストにはまだ現れていないようだ。
 湯気の立つ紅茶に、フリオニールは口をつけた。
「リチャードは、ディスト復興のため、自ら先頭に立って行動していました。性格も明るくなって、わたしたち家族の面倒まで見てくれて」
 卓の上の竜笛を見つめながら、エリナが言った。昨年会った時より、少しふっくらした印象だ。
「リチャード殿がひとり残ってくれたおかげで、俺たちは生き延びることができました。マティウスは復活しましたが、必ずまた倒します」
「お願いします。今度こそ、世界を平和にしてください。わたしは闘うことはできませんが、これから生まれてくる子に、リチャードのことを語ってあげようと思います」
 言って、エリナが腹に手をやった。
「エリナ殿、まさか」
「はい。リチャードと、家族として生きたい。そう思うようになったのです」
「ぼく、お兄ちゃんになるんだ。だから、強くならないと」
「なれるわよ、きっと」
 マリアが言った。
「うん。リチャードさんに、槍の稽古もつけて貰ったし、これからは、ぼくがお母さんたちを守るんだ」
 チャールズの肩に、ガイが無言で手を置いた。チャールズの背丈も、この一年でかなりのびていた。
「ねえ、フリオニールのお兄ちゃん」
「なんだ、チャールズ?」
「リチャードさんが言ってたんだ。男には、死んでも守らなければならないものがあるって。それはなに、って聞いたら、リチャードさんは、誇りって言ったんだ。お兄ちゃん、誇りって、なにかわかる?」
「少しはな」
「ぼくにもいつか、わかるようになる?」
「ああ。きっと、なるさ」
 竜騎士の誇りは、不滅。壁に張られた飛竜の旗を見ながら、フリオニールは紅茶をひと息に飲み干した。

   六


 前方に、山なみが見えてきた。アルテアの南東、カシュオーンからは南西にあたる、ジェイドの山々だ。
 ジェイドの泉に行け。それが、ミシディアの長老からの伝言だった。
 ゴードンから聞いた昔話によると、ジェイドの泉に落ちた者は、魔界に行くのだという。レイラも以前、ジェイド海峡のあたりでは船の計器が狂う、と言っていた。昔からジェイドの地に人が近づかないのは、なにかいわくがあるからだろう。
 マリアは、レオンハルトにちらりと眼をやった。会話は少ないが、ともにマティウスと闘う決意をしてくれただけでも、嬉しかった。表情には出さないが、フリオニールとガイもそう思っているはずだ。いつか、みんなでゆっくり話せる時も来るだろう。
 ポールが、山の麓に飛空船を着陸させた。
「それじゃ、行ってきます、ポール殿」
「頼んだぜ、フリオニール。俺は、ここでおまえたちを待つ。死ぬんじゃねえぞ」
「はい。マティウスを倒し、必ず生きて帰ってきます」
 山に入った。突然、胸にぶらさげていた水晶玉が、光り輝きだした。光に導かれるように、マリアたちは進んでいった。
 木立を抜けたところに、泉はあった。あたりには、霧がたちこめている。水晶の光は最初より強く、なにかに共鳴するかのように、高い音を発していた。
「ここでいいのか、マリア?」
「ええ。間違いないわ」
「よし。みんな、行くぞ」
 言うが早いか、フリオニールが泉へ飛びこんだ。
 マリアたちもすぐに続いた。めまいがして、水が歪んだような気がした。そして、意識が途切れた。
 眼が醒めると、洞窟のようなところへいた。ほかの三人は、すでに起きていた。
 奥へ進んだ。見たことのない魔物が現れたが、それらを倒しながら、前進を続けた。ゴードンから聞いた昔話の通り、この先は魔界に通じているのだろうか。
 不思議と、疲れは感じなかった。水晶玉の力によるものなのか、躰の奥底から、力が湧きあがってくるのだ。みんなも、同じことを感じているようだ。
 道は、宮殿のようなところへ続いていた。通路の壁は、うっすらと光る鉱石のようなものでできている。ここが、伏魔殿なのかもしれない。
 魔物を倒しながら、いくつかの階層を上がった。
 大広間のようなところへ出た。両脇に篝がある。前に進むたびに紫色の炎が点き、道を照らし出していった。
 いちばん奥に玉座があり、そこにマティウスは腰かけていた。
「やはり来たか。地上に召喚できぬほど強力な魔物たちを相手に、よく闘い抜いた」
「おまえをぶちのめすだけの体力は、まだ残ってるぜ」
「言ってくれるな、フリオニール。では、最後の闘いをはじめようか」
 外套を翻し、マティウスが玉座から跳躍した。頭上から降り注いでくる氷の矢をかわし、マリアは火炎を放った。空中でマティウスが魔法楯を張り、火炎は弾かれた。
 マティウスの着地と同時に、フリオニールとレオンハルトが、左右から同時に斬りかかった。フリオニールの剣は魔法楯に弾かれ、レオンハルトの剣はかわされた。正面からガイが突っこむ。氷の矢を脚に受け、ガイは体勢を崩した。フリオニールが上段から斬り下げ、同時にレオンハルトが脚を薙いだ。マティウスは跳躍してかわし、爆発の魔法を放った。直撃はまぬがれたが、三人とも負傷した。遠間から、三人にむけて回復魔法を放った。遠間からの回復魔法ははじめてだが、魔力が充実しているいまなら、できる自信があった。
「やるではないか」
 マティウスが、数えきれないほどの氷の矢を放ってきた。相殺しきれず、マリアは左腿に氷の矢を受けた。すぐに回復し、三人の方を見た。ガイがひどい。ほぼ全身に氷の矢を受け、片方の斧は折れていた。回復魔法を放った。氷の矢はなおも飛んできたが、火炎で相殺できた。
 レオンハルトの剣が、マティウスを捉えた。左腕が切断しかけていたが、すぐに傷は塞がり、マティウスの手刀が、飛び退こうとしたレオンハルトの顔面へ突き刺さった。もんどり打って、レオンハルトは倒れた。マティウスが、なにかを左手に握っている。目玉だ。冷笑を浮かべながら、マティウスはレオンハルトの目玉を握り潰した。
「兄さん」
 慌てて、マリアは回復魔法を放った。レオンハルトの傷は塞がったが、右眼は失われたままだった。低く呻きながら、レオンハルトは再びマティウスに斬りかかった。それに合わせて、フリオニールとガイも突っこんでいく。フリオニールの傷を回復すると同時に、マリアは火炎を放った。火炎は魔法楯に止められたが、ガイの斧がマティウスの右腿に食いこんだ。フリオニールとレオンハルトの剣もマティウスの両肩を斬ったが、傷はすぐに塞がり、三人は爆発の魔法で吹き飛ばされた。三人を回復しながら、火炎を放った。火炎はやはり防がれたが、その隙に三人は後退した。
「フィンで闘った時より、桁違いに強くなってやがる」
 滝のような汗を流し、肩で息をしながら、フリオニールが言った。
「まさか、これほどの強さとはな」
「眼は大丈夫、兄さん?」
「死ななかっただけ、ましだ。あと一瞬飛び退くのが遅かったら、脳まで抉られていた」
 レオンハルトもガイも、フリオニール同様、全身が汗にまみれ、呼吸が荒くなっていた。回復魔法で傷を塞ぐことはできても、失われた血までは補えない。このままの展開が続けば、いずれ力尽きてしまうのは明白だ。
「もっと、力を見せてみろ」
 マティウスは余裕の笑みを浮かべ、汗ひとつかいていない。こんな相手に、ほんとうに勝てるのか。マリアははじめて、自分も肩で息をしていることに気がついた。
「なにがなんでも、倒すんだ」
 マリアの心を見透かしたように、フリオニールが言った。
「これまで、俺たちのために、何人もの人間が死んで行った。いまこそ俺たちが、誰かのために、命を使う番だ」
 フリオニールの言葉に、レオンハルトとガイは、それぞれの得物を構え直すことで応えた。
 飛来する氷の矢を散開してかわし、三人はマティウスに突撃していった。
 それから、めまぐるしい攻防が続いた。
 いったい、どれだけの時間が経ったのだろうか。マリアは、急速に自分の魔力が衰えていくのを感じていた。
 マティウスの放つ氷の矢も、少なくなってきた。好機と見て、三人が一斉に突っこんだ。
 次の瞬間、床から氷の槍が発生し、三人の下肢を貫いた。誘いだったのだ。マリアは回復魔法を放とうとしたが、もう魔力の限界だった。
 マティウスが魔力を集中しはじめた。爆発の魔法が来る。下肢を貫かれた三人は、その場で動けない。このままでは、もろに爆発に巻きこまれてしまう。
 思わず、マリアは水晶玉を握った。
 お願い。力を貸して。奇跡を、起こして。
 祈りが届いたのか、伏魔殿に来てからはまったく反応がなかった水晶玉が、再び輝きだした。これまでにないほど強烈な光で、水晶玉を中心に、光はどんどん拡がっていく。
「なんなのだ、この光は」
 叫びながらマティウスが魔法を放ったが、光が眩しく、眼を開けていられなかった。
 光が収まると、マリアは恐る恐る眼を開いた。
 自分の見ているものが、信じられなかった。フリオニールたちは、三人の男たちに助けられ、魔法をかわしていたのだ。フリオニールにはジェイムズが、ガイにはヨーゼフが、レオンハルトには、リチャードが付いている。これはいったい、どういうことなのか。
「よく頑張りましたね、マリア」
 はっとして横をむくと、ミンウが、微笑んで立っていた。
「ミンウ殿。わたし、夢を見ているの?」
「夢ではありませんよ。アルテマの光が、私たちの魂を呼び寄せたのです」
 ミンウは言って、フリオニールたちに回復魔法を放った。フリオニールたちも、信じられないような表情をしている。
「生き返ったのですか、ミンウ殿?」
「いえ、生き返ったわけではありません。ここは現世と魔界の狭間、あえて言うなら、霊界のようなもので、だからこそ、私たちは存在できているのです。ともかく、マティウスを倒しましょう。二人の魔力を、水晶玉に集めるのです」
「はい」
 マリアは、水晶玉を躰の前に構え、魔力を集中した。やはり、夢ではない。流れこんでくるミンウの魔力で、そう実感した。
「いったい、どういうことなのだ。これも、アルテマの力なのか」
 狼狽の表情を見せながらも、マティウスは魔法を放った。フリオニールたちはそれを回避し、攻撃の構えをとった。水晶玉に魔力を送りこみながら、マリアは彼らの攻防を見つめた。
 氷の矢を手刀で叩き折りながら、ヨーゼフが、正面から突っこんでいく。マティウスの懐へ飛びこみ、何発もの拳をくり出した。のけ反ったところに、ガイが斧を振り降ろす。斧は左肩から、腰のあたりまで食いこんだ。それでもマティウスは爆発の魔法を放ち、二人をまとめて吹き飛ばした。直撃は、なんとかまぬがれたようだ。
 マティウスの傷はすでに塞がりかけていたが、フリオニールが飛びこみ、下から斬りあげた。続いてジェイムズも斬りつけ、左腕を飛ばした。間髪入れずに、レオンハルトが突きを放つ。剣は魔法楯に止められたが、がら空きになった胸部をリチャードの槍が貫き、マティウスは串刺しのようになった。
 水晶玉が、すさまじい熱を発してきた。
「いまです、マリア」
 ミンウの合図で、水晶玉に集められた魔力を、マリアは一気に解放した。魔力は光の束となって、動きが止まったマティウスに命中した。
 断末魔の叫びとともに、マティウスは消滅した。
 光は、さらに拡がっていく。まるで、伏魔殿そのものを、呑みこむかのようだった。
 再び、視界が光に覆われてきた。隣にいるミンウも、もう見えない。
 眼の前も足もとも、すべてが光に呑みこまれていく。
 やがて、マリアの意識も、光に呑みこまれた。
 
 気がつくと、飛空船に乗っていた。飛空船は、空を飛んでいるようだ。
「眼が醒めたか、マリア」
 言って、フリオニールが躰を起こすのを手伝ってくれた。ガイも、レオンハルトもいる。みんな、生きている。ただ、レオンハルトの右眼は、やはり失われていた。
「わたしたち、なんで飛空船に乗ってるの?」
「さあな。俺が訊きたいぐらいだぜ」
 ふりむいたポールの口には、煙草がくわえられていた。ふだんポールは煙草を喫わないが、一度だけ、ポールが煙草を喫うのを見たことがある。シドが最期に落としたものを、ポールは喫っていた。
「ポール殿。その煙草は」
「あったんだよ。操縦席の、灰皿にな」
 煙を吐き出し、ポールは続けた。
「窓から外を眺めてたらよ、いきなり巨大な光の柱が現れたんだ。そう、ちょうどおまえらがむかったあたりだ。光はどんどん拡がって、山からなにから、すべてを包んでいった。気づいたら、飛空船は動いてた。灰皿に、煙草の吸い差しがあってよ。で、後ろをふりむくと、おまえらが倒れてたってわけだ」
「もしかして、シド殿が飛空船を」
「そう思うってことは、おまえらも」
「もう駄目だ、って思った時、水晶玉が輝きはじめました。一度光に視界が覆われ、元に戻った時、ミンウ殿やヨーゼフ殿やリチャード殿、それにジェイムズ殿がいたんです。八人で力を合わせ、マティウスを倒しました」
「まるで、おとぎ話じゃねえか。なあ、フリオニール」
「ほんとうのことです、ポール殿。最後は、マリアとミンウ殿が強力な魔法を放ちました。そのあと、拡がった光に意識が呑みこまれ、気づいたらここにいた、というわけです」
「なるほど。アルテマが起こした、奇跡ってやつなのかな。おまえらのことも、ミンウ殿たちが運んできてくれたのかもしれねえな」
 そういえば、光に意識が呑みこまれたあと、誰かの背中に、自分は躰を預けていたような気がする。あれは、ミンウだったのだろうか。思いながら、胸の水晶玉に手をやった。水晶玉は、なくなっていた。もしかしたら、またミシディアの塔の最上階に戻ったのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。
「まあ、そのへんのことは、あとでゆっくり話そうか。それよりも、見てみろよ、窓の外を」
 窓から外を見た。昼でも薄暗かった空は青く澄みわたり、不気味な赤い色も消えていた。
「世界は、救われたのね」
「ああ。世界は、救われた。まあ、いろいろ後始末はあるだろうけどな」
 アルテアの町が見えてきた。故郷のフィンから逃れ、あの町で叛乱軍に加わり、帝国軍との闘いに身を投じた。二年にわたる闘いの中で、さまざまな出会いと別れがあったが、その闘いが、ようやくいま終わった。
 海を越え、アルテアの上空を通り過ぎた。
 もうすぐ、フィンが見えてくる。
 闘いは、終わった。
 心の中で、マリアはくり返し呟いた。

   七


 フィンに到着すると、ヒルダとゴードンに報告だけして、泥のように眠った。
 翌朝、ヒルダがフィン国民の前で、終戦の宣言をした。最後は、平和を願う言葉で締めくくられた。二日もあれば、この宣言は世界じゅうに伝わるだろう。
 昼食後、フリオニールはマリアとガイとともに、大広間にむかった。ゴードンから、昼食後に集まるよう、言われていたのだ。
 レオンハルトが、いつの間にか姿を消していた。マティウスとの闘いが終わったら、自由に駈けてくれ。ゴードンは、レオンハルトにそう言ったらしい。いまごろは、愛馬の飛影と、どこかを駈けているのかもしれない。
 なにも言わず去って行くなら、それでいい。寂しい気もするが、別れには、もう馴れた。
 大広間に着いた。祝宴の準備のため、長卓と椅子が、いくつも並べられている。その一角に、ヒルダとゴードンが着席していた。ポールとレイラも、すでに来ている。
 フリオニールたちが着席すると、ヒルダが話しはじめた。
「お集まりいただき、ありがとうございます。皆様のおかげで、戦は終わりました。この平和を保つため、わたしたちは努力していきます。まずは、平和を維持し、また経済面で相互協力するための、国際組織を作ります。これからは、国同士が協調、連合していく時代です」
 途中からゴードンも加わり、しばらく、平和維持や、国家間の協調についての話が続いた。難しい話は苦手だが、いままでにない試みであることはわかる。しかし、ほんとうに戦をなくすことはできるのだろうか、という気もする。
「どうした、フリオニール。さては、ほんとうに戦をなくすことができるのか、と思っているな?」
 ゴードンに図星を指され、フリオニールは一瞬うろたえた。
「わかりやすいな、フリオニール。確かに、戦の根絶は難しい。民族や宗教の違いで、人は戦をくり返してきた。これからも、戦が起きないともかぎらない。だから、戦が起きた時、それを調停する組織も創設するつもりだ。仮に、平和維持軍と名づけておく」
「平和維持軍、か」
「おまえたちを呼んだのは、そのことについてだ。平和維持軍の指揮を、フリオニールとガイに任せたいのだ。マリアには、医療面で力を貸して欲しい」
「ちょっと待て、ゴードン。いきなりそんな話を振られても、困るぜ」
「いますぐ、答えなくてもいいさ」
「すまん、ゴードン。ずっと考えていたんだが、戦が終わったら、一度この世界をゆっくり見て回りたかったんだ。マリアと、ガイも一緒に行く。しばらく、旅をさせてくれ」
 この二年で、数々の知らない土地へ行った。しかし、それらはすべて、闘うためだった。いまなら、海や山、いろいろなものが、以前とは違って見えるような気がする。
「わかった。待っているぞ、フリオニール。さて、ポールにも話があるのだが」
「おっと、勘弁してくださいよ。しばらく、シドの小屋で暮らします。たまにゃ、墓に花も供えてやりたいし、飛空船の整備もしないと」
「そうか」
「やっぱり、国の仕事ってのは柄じゃないんでね。ところで、レイラは俺より早く来て話してたが、なにかやるのか?」
「まあね。海の荷を、仕切ることになったよ」
「元海賊が、今度は取り締まる側か」
「食わせなきゃならないやつらが、たくさんいるからね。そうだ、フリオニール。旅先で金に困ったら、あたいのところへ来なよ。日当は弾むよ」
 全員が、声をあげて笑った。
 みんなそれぞれ、新しい人生を歩むことになる。これから、自分はどうするのか。決めるのは、旅を終えてからでいい。
 その後しばらく談笑して、解散した。祝宴は夕方で、まだ時間はある。
 居室に戻ると、机の上に紙切れが置いてあった。
 なにか書いてある。手にとって、読んでみた。
 夕方、俺たちの家があった場所で待つ。
 レオンハルトの字で、そう書かれていた。

 鏡に映った自分の顔を見て、マリアはしばし呆然としていた。
「これ、ほんとうにわたしなの? 別人みたい」
「とっても綺麗よ、マリアさん」
 鏡越しに、化粧をしてくれたヒルダの侍女が笑った。
 もう一度、マリアは鏡を見た。これまで、化粧などしたことがなかった。服も、動きやすいものを選んでいた。化粧も服も、闘いには不要だった。しかし、女らしい恰好に憧れてもいた。
 いまは、服もヒルダから借りた、上品な衣装を着ている。背中の部分が大胆に開いていて、少し恥ずかしいが、気分は高揚していた。自分も、やはり女なのだ。
「そろそろ、みんな集まっているころね。マリアさんを見たら、フリオニールさん、どきっとしちゃうかも」
「ちょっと、変なこと言わないで」
 顔を赤くして、マリアは言った。確かに、フリオニールに見て欲しい、という気持ちはある。どんな言葉を、フリオニールはかけてくれるだろうか。
 会場の大広間へむかった。踵の高い靴は歩きにくいが、一歩進むたびに、心は弾んだ。
 大広間へ着いた。ガイが手を振っている。躰が大きいから、わかりやすい。来賓たちの視線に恥ずかしさを覚えながらも、マリアは背筋をのばして歩いた。
 席が、二つ空いていた。フリオニールは、まだ来ていないようだ。
「フリオニールは、来てないの?」
 ガイの隣りの席に座り、マリアは言った。
「あとで、来る」
「そう」
 フリオニールに、女らしくなった自分を見て欲しい。さきほどから、そんなことばかり考えていた自分が、どこか馬鹿らしくなった。
「綺麗だね、マリア」
「やめてよ、ガイ。恥ずかしいじゃない」
 おもむろに言われ、マリアの頬は紅潮した。照れ隠しに、ガイの肩を思い切り叩いたが、ガイはにこにこと笑ったままだった。
 楽団による演奏がはじまり、奥の方で、どよめきの声があがった。見ると、ゴードンが、ヒルダの手をとって入場してくるところだった。二人は輝いて見え、ゴードンの凛々しさも、ヒルダの美しさも、この世のものとは思えなかった。子供のころに聞いたおとぎ話に出てくる、妖精の王と、王妃のようだ。
 ヒルダとゴードンが挨拶をし、乾杯の合図とともに祝宴がはじまった。この祝宴は、終戦の祝いであると同時に、二人の結婚披露宴でもある。晴れて、二人は正式に結ばれたのだ。
 いつかは自分も、と一瞬だけ思ったが、頭を振って、マリアは葡萄酒をひと息に飲み干した。酒が苦手なガイは、大きな肉にかぶりついている。
「ねえ、ガイ。フリオニールがどこにいるか、知ってるんでしょう?」
 ガイは無言で、肉を頬張り続けていた。口のまわりが、肉の脂でてらてらと光っている。
「ねえ、教えて。もしかして、兄さんと一緒にいるの?」
 マリアは立ちあがろうとしたが、ガイに腕を掴まれた。
「ここで、待つんだ」
 低い声で言って、ガイが見つめてきた。
「わかったわ」
 ひとつため息をついて、マリアは浮かせた腰を降ろした。
 ガイが手を引っこめて、手拭きを差し出してきた。肉を持っていた手で掴まれたので、腕には肉の脂が付いていた。
「ごめん」
「いいのよ。気にしないで。それにしても、男って、いろいろ面倒なのね」
 呟きながら、いつの間にか注がれていた葡萄酒に口をつけた。
 渋味だけが、心に拡がっていった。

 焼けた柱に、転がっている煉瓦。家の面影は、まだ残っていた。
 ただ、記憶は遠いものになっている。
 レオンハルトはすでに来ていて、壁に寄りかかっていた。飛影は、柱に繋いである。
 夕陽が、レオンハルトの顔を照らしている。マティウスに抉られた右眼には、黒い革の眼帯が当てられていた。
 無言のまま、レオンハルトは庭だった場所へ移動した。フリオニールも、ついて行った。
 木剣が二本、地面に置かれていた。そのうちの一本を、レオンハルトがほうって寄越した。受け取ると、フリオニールは何度か振って感触を確かめた。
 この場所。そして木剣。レオンハルトを見て、フリオニールは笑った。レオンハルトも、笑っていた。
 フリオニールは、木剣を躰の右横に構えた。レオンハルトは左手に木剣を持ち、両腕をだらんと下げた。隙だらけのようでいて、まったく隙はない。
 しばらく、固着が続いた。ただ動かないだけではない。互いに剣気を高め、剣気の波による押し引きをくり返していた。
 陽が、完全に落ちた。互いの剣気の波が、ぶつかり合って弾けた。
 動いたのは、二人同時だった。打ち合って、やはり二人同時に跳び退った。再び前に出て、打ち合って、離れる。それを、十回以上くり返した。
 低い姿勢で、レオンハルトが突っこんできた。下から振りあげてきた木剣を右に跳んでかわし、左から薙いだ。空を切った勢いのまま、右に跳ぶ。レオンハルトの突きが、肩を掠めた。着地と同時に地面を蹴った。再び、木剣は空を切る。右上段。体勢が崩れたところに、振り降ろされてきた。かろうじて受け止めた。突き。思い切って飛びこんだ。風の唸りが、耳の脇を通り過ぎていく。間合いは狭い。躰ごとぶつかり、レオンハルトを撥ね飛ばした。違う。レオンハルトは、自ら飛んだのだ。溜めを作り、すさまじい速さで飛びこんできた。突き。見える。右に跳んだ。レオンハルトが肘を曲げた。二段突き。反射的に、フリオニールは後ろに跳んだ。
 かわした、と思った瞬間、衝撃とともに撥ね飛ばされた。三段目の突きがあったのだ。背中を地面に打ちつけた。上体を起こすと、左の鎖骨あたりに痛みが走った。
 立ちあがり、手の甲で額の汗を拭った。まだやれる。眼で伝えると、レオンハルトは頷いて応えた。
 闇の中で、レオンハルトの左眼が異様に光っていた。レオンハルトは、一撃で決めようとしている。剣気を通して、それが伝わってきた。ならば自分も、次の一撃にすべてを賭けよう。
 再び、剣気の波がぶつかり合った。
 レオンハルトが、突進してきた。フリオニールも、地を蹴った。レオンハルトの動きが、止まって見える。レオンハルトだけではない。自分自身の動きも、止まっている。時間そのものが、止まっているのか。
 気がつくと、互いの位置が入れ替わっていた。右腕の袖を見ると、真剣で斬られたように裂けていた。
 レオンハルトは、地面に片膝をついていた。手で、右の脇腹を押さえている。
「やられたな。肋が、二、三本いかれちまった」
「右眼が、見えていれば」
「心眼は、鍛えているつもりだ。隻眼かどうかは、関係ない」
「あの三段突きを、なぜ出さなかった?」
「もう一度見せたら、かわされる気がしてな。ともかく、俺の負けさ。強くなったな、フリオニール」
 繋いである飛影のところまで行くと、レオンハルトは、鞍の上にかけてあった黒い外套を羽織った。
「これから、どこへ行くつもりだ、レオンハルト?」
「気のむくまま、どこへでも」
 飛影に跨り、レオンハルトが馬首を回した。さらば。レオンハルトの背中が、そう言っていた。さらば。心の中で、フリオニールも言葉を返した。
 飛影とともに、レオンハルトは夜の闇の中へ消えて行った。
 地面に、レオンハルトの木剣が置かれていた。自分の木剣を並べて置くと、フリオニールは城へ戻った。
 居室に戻り、服を脱いだ。鎖骨のあたりに、痣ができている。
 フリオニールは苦笑した。あとわずか、剣尖に力を籠めるだけで、鎖骨は砕けていただろう。手心を加えるだけの余裕が、レオンハルトにはあったのだ。
 着替えると、大広間にむかった。だいぶ遅くなったが、まだ祝宴は終わっていなかった。音楽に合わせ、踊っている者たちもいる。マリアとガイを見つけ、フリオニールは席の方へと歩いた。
 マリアがこちらに気づき、席から立ちあがった。化粧をして、白い衣装を着ている。華やかというわけではないが、どこか野ばらのような可憐さがある。
「遅くなって、すまない」
「兄さんと、逢ってたの?」
 酔っているのか、マリアの頬はほんのり赤かった。
「ああ。レオンハルトは、旅に出た。またどこかで、出会うこともあるだろう」
「ほんと、男って面倒」
「なんだって、マリア?」
「なんでもない。それより、フリオニール。わたしたちも、踊りましょう」
「宮廷の踊りなんて、わからないぜ」
「いいのよ。好きに踊れば」
 マリアに手を引かれ、フリオニールは来賓たちが踊る中へ連れて行かれた。ゴードンとヒルダも優雅に踊っていて、眼が合うと、ゴードンは笑った。
 マリアと手を繋ぎ、音楽に合わせ踊った。踊りはぎこちないものだったが、マリアは愉しそうだった。
 突然、マリアが躓いた。酔っているからか、あるいは履き馴れない靴のせいか。とっさに、フリオニールはマリアを抱きとめた。
「大丈夫か、マリア?」
「うん。ちょっと、飲み過ぎたかも。少しだけ、このままでいてもいい?」
「ああ」
 腕の中で、マリアが笑った。
 野ばらのようだな、とフリオニールはまた思った。



         『野ばらの旗』完

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