ファイナルファンタジーⅡ二次創作小説 『野ばらの旗』 第四章 極北の風
一
十一月になっていた。サラマンドはもう冬だ。北のムースニー山脈からも、冷気を帯びた風が吹いてくるようになった。
ヨーゼフの家も、冬仕度をしていた。あと半月もすれば、街は雪に覆われる。毎朝の雪かきは決して楽な仕事ではないが、サラマンドに住む者にとっては馴れたものだった。男たちがセミテから帰ってきたことで、街にはかつての活気が溢れている。
雪が積もれば、防御の面でも有利だ。雪の中では進軍もままならず、仮に帝国軍が攻めてきたとしても、地の利を生かした闘いができる。
現在、サラマンドには五百の兵がいる。ヨーゼフの指揮のもと、五人の隊長が百名ずつの兵を預かり、調練を重ねていた。ただ、いくら兵を鍛えても、大戦艦の前では無力なのだろう。
バフスク奇襲は失敗に終わり、ジェイムズも戦死した。そして、完成した大戦艦によってアルテアが攻撃された、という知らせも入ってきている。今後、どう闘うか。ミンウなら、すでになんらかの対策を考えているはずだ。アルテアからの連絡を、ヨーゼフは待っていた。
夕方、馬蹄の音とともにフリオニールたちがやってきた。
「しばらくぶりです、ヨーゼフ殿」
「まさか、おまえたちがまた来るとはな。ミンウの指示だな?」
「はい。詳しくはこれに」
フリオニールが差し出した書状は、ミンウからのものだった。
「なるほど。女神の鐘を取りに行くために、雪原へむかうか」
「ヨーゼフ殿は、雪原の洞窟へ行ったことは?」
「話に聞いたことはあるが、実際に行ったことはない。クラスト高原は一年の半分が雪に覆われているし、山も越えなければならないからな」
「ミンウ殿から、少し聞いています。馬では無理があるとも」
「ああ。蹄が駄目になってしまうからな。まずは徒で山を登り、山頂近くにある山小屋を目指す。山籠りの稽古で使うために、俺が建てた小屋だ。まわりには、馴鹿を放し飼いにしてある」
「馴鹿ですか。聞いたことのない動物ですね」
「ひと言でいえば、寒冷地に住む鹿だな。家畜としても飼われていて、乳が採れ、肉も食えるし、毛皮は防寒着の材料になる。荷役にも使われていて、橇を引かせれば、雪原を進むこともできるだろう」
「わかりました。ヨーゼフ殿に、すべてお任せします」
フリオニールの言葉と同時に、ガイとマリアの二人も頷いた。
「よし、出立は明朝だ。今夜のうちに荷物をまとめておけ。フリオニール、ガイ。おまえたちは、夕飯まで稽古だ。木剣を持て」
「お願いします。実を言うと、俺もヨーゼフ殿の稽古を愉しみにしていました」
白い歯を見せて、フリオニールが笑った。バフスクで戦死した、ジェイムズを慕っている、とミンウが言っていた。悩み、苦しんだだろうが、思いつめてはいないようだ。
それでいい。死んだ者に対して、残された者ができるのは、忘れないということだけだ。涙など、自分を慰めるためのものでしかない。少なくとも、男にとってはそうだ。
「わたしは、ケイトさんのお手伝いをしてきます」
マリアが、家の方へ小走りで去っていった。マリアの弓も、なかなかのものである。戦場において、状況を見きわめる力に優れていた。しかし、なんといっても特筆すべきは、ミンウが認めるほどの魔法の才だ。このまま育てば、叛乱軍にとって大きな力となるだろう。
ケイトとマリアが呼びに来るまで、稽古は続けられた。陽が落ちて、あたりはすっかり暗くなっている。
フリオニールは身のこなしを、ガイは恵まれた体躯と膂力を活かした闘い方を、それぞれ身につけつつあった。ヨーゼフにはない、若さもある。まだまだ二人には負けないが、いずれは追い抜かれるだろう。正直を言えば、若い二人を羨ましいとも思う。
もう、彼らに教えるべきことはないのかもしれない。ここから先は、自分自身で考えるものでもある。奥義や秘伝なんてものはない。ヨーゼフは、ひたすら鍛練し続けることで、岩を砕き、大木を打ち倒すほどの体術を身につけた。最後にものを言うのは、流した汗の量だ、とヨーゼフは思っている。
夕食はとても賑やかだった。ネリーも愉しそうで、ヨーゼフも自然と笑顔になった。
夜が更けてから、ヨーゼフは、離れに住むケイトのもとを訪った。
最近は冷えこみも激しくなったが、ケイトの部屋には暖炉に火が入っていて、暖かかった。
椅子に座ったヨーゼフの頭に、ケイトが剃刀を当てた。
近ごろは、剃髪もケイトにやってもらうようになっていた。三年前に妻が死んでからは、自分で剃髪していたが、後頭部のあたりはうまく剃刀を当てられなかった。
剃髪を終えると、ケイトは剃刀を置き、杯に酒を注いだ。
差し出された酒を飲み干し、杯を卓に置いた。
再び酒を注ごうとするケイトの手を、ヨーゼフは押さえた。
「俺の、妻になってくれ」
ヨーゼフの言葉に、ケイトは眼を見開いて、驚きの表情を見せた。
「これまでも、わたしは身に余るほどの温情をヨーゼフ様からいただきました。もう、これ以上のお情けをかけていただくわけには」
酒瓶を卓に置きながら、伏し目がちにケイトは言った。
「同情からの言葉ではないのだ、ケイト。確かに最初は、おまえを哀れに思ってそばに置いた。そしておまえがいれば、ネリーの淋しさも紛れると思った。だがいまは、心の底から、おまえを必要としているのだ。帝国との闘いはまだ続く。それでも、俺はおまえとネリーとの三人で、未来を夢見たい」
立ちあがり、ケイトの手を握りながら、ヨーゼフは想いを伝えた。言葉にすることで、自分の気持ちもはっきりとわかった。俺は、この女を愛している。
「勿体ないお言葉です、ヨーゼフ様。女として、わたしはいまこの上なく幸せでございます」
顔をあげながら、ケイトが言った。眼には涙を浮かべている。
抱き寄せると、ケイトは眼を閉じた。目蓋からこぼれた涙を指で拭い、ヨーゼフはそっと唇を重ねた。
長い一瞬だった。
唇を離すと、両腕でケイトをやさしく抱きしめた。腕の中で、小さな躰がかすかにふるえている。毀れてしまいそうなくらい小さな躰を、ヨーゼフは愛おしいと思った。
ケイトを抱きあげ、寝台に運んだ。
服を脱がすと、ケイトは意外に豊満だった。体つきそのものは華奢なのだが、乳房はその小さな躰に不釣り合いなほど大きく、張りもあった。乳輪の色は薄桃色で、少女のようだった。
薄明かりに照らされ、絹のように白い躰が輝いている。その美しさに、ヨーゼフはしばし見とれた。視線に気づき、ケイトは恥ずかしそうに毛布で胸を隠した。そばに寄り、肩を抱いた。やや灰色がかった茶色の髪から、風呂あがりのいい匂いがする。見つめ合って、口づけをした。舌を絡ませ、吸っているうちに、ヨーゼフのものは怒張した。
ゆっくりと、ケイトを寝台に押し倒した。
毛布を剥ぎ取り、乳を揉んだ。滑らかで、吸いつくような手触りだった。
乳を吸いながら、片手を下腹部の方へやった。わずかな恥毛のその先へ、指を進めていく。秘処は濡れていて、熱かった。
ケイトの脚を拡げ、自分のものを秘処へあてがった。ものは大きい方である。ケイトの躰が毀れてしまわないだろうか。そんな心配をよそに、ものはするりと滑りこんだ。大きな吐息を漏らし、ケイトは両腕をヨーゼフの首に絡みつけてきた。ゆっくりと、ヨーゼフは腰を動かした。
「子が、欲しいです。ヨーゼフ様と、わたしとの子が」
ヨーゼフの躰の下で、ケイトが喘ぎながら言った。交合しているうちに、ケイトの躰は赤みが差していた。見ていると、さらに情欲が湧きあがってくる。
「俺と、おまえの子か」
「できれば、男の子が欲しいと思います。きっと、ヨーゼフ様のように強くなるでしょう」
「そうか、男子か。それもいいな。サラマンドで生まれた男子は、丈夫に育つよう願いを籠めて、雪解け水の産湯に入れる。古い慣わしだが」
言いながらも、ヨーゼフは腰を動かし続けた。二人の躰が、溶けて混じり合い、ひとつになっているようだった。そしてひとつになっているところから、とめどない快楽が溢れてくる。
妻を亡くしてから、一度だけヨーゼフは女を買ったことがあるが、あとに残ったのは虚しさだけだった。その後は以前にも増して稽古に打ちこむことで、気を紛らわせてきた。いまは違う。躰だけではなく、心も満たされている。
いまは溺れていい。自分に言い聞かせながら、ヨーゼフは動き続けた。
ケイトの喘ぎが、叫びに近くなった。徐々に、大きな快楽の波が押し寄せてくる。
腰を弾ませ、ヨーゼフはしたたかに精を放った。
二
山を登るにつれ、空気が薄くなってくる。
フリオニールたちは、ムースニーの山道を登っていた。
「だらしないぞ、フリオニール」
先頭を歩くヨーゼフが、ふり返りながら言った。
フリオニールと、隣りにいるマリアは少し息があがっていた。先頭を歩くヨーゼフと、最後尾のガイは平然としている。ガイは、マリアの分も合わせて、二人分の荷を背負っていた。
山道は、大昔に切り拓かれたものらしいが、急な斜面もあり、足場も悪かった。杖を用いて、慎重に登っていく。岩場には、平地には見られない草花が生えていた。
登りはじめて四日目に、山小屋に到着した。付近はなだらかな傾斜で、陽当たりもよかった。鹿のような動物が何頭かいて、苔のようなものを食べていた。ヨーゼフの言っていた、馴鹿だろう。
東西には、雄大な山なみが拡がっていた。遠くの嶺には雪が積もっていて、銀色に輝いている。こちら側には雪はない。ヨーゼフの話では、山の反対側は雪が積もっているらしい。もう少しすれば、北からの風が山を越え、サラマンドにも雪が積もるのだという。
山小屋で荷物をまとめ、夜を迎えた。丸木を組んで作られた、素朴な小屋だ。ヨーゼフが山籠もりの稽古で使うもので、広くはなかったが、それでも天幕と違って、開放感があった。
火を熾し、腸詰めを炙って食べた。腸詰めは、ヨーゼフが作って蓄えておいたのだという。香辛料や香草が効いていて、うまかった。
「山頂まではあとわずかだ。明日からは橇に荷物を載せて、馴鹿に曳かせる。山のむこう側は、雪が積もっているから、下りは橇に乗る。山を下るまで、あっという間だぞ」
酒を飲みながら、ヨーゼフが言った。
フリオニールたちも酒を飲まされた。躰を暖めるためだ。
サラマンドには飲酒に関する法律はなく、男はみな、この蒸留酒を好んで飲むのだという。
フリオニールも、酒を飲んだことがないわけではない。フィンでは、式典や祭りの場合には、十五歳以上の者であれば飲酒できる。
フィンで一般的に飲まれている、葡萄酒は好きだった。ただ、この透明な蒸留酒は、フリオニールには少しきつかった。ガイは少し飲んだだけで、もう大きな鼾をかいて寝ている。マリアはわりと平気そうだったが、顔が少し赤かった。
酔いが回り、目蓋が重くなってきた。寝袋に潜り、横になった。ヨーゼフは、自分の杯に二杯目の酒を注いでいる。
眼を閉じると、フリオニールはすぐに眠りに落ちた。
ケイトは、夕食の仕度をしていた。ヨーゼフたちが出立してから、七日が経っている。
ヨーゼフの留守を預かるということに、これまで以上の責任を感じていた。いまは使用人ではなく、ヨーゼフの妻なのだという思いが、そうさせているのだ。
夫と死別してから、まだ一年も経っていない。多少の後ろめたさはあったが、ヨーゼフの気持ちに応えたい、という思いの方が強かった。
いま思えば、ヨーゼフに抱かれたい、という願望は以前からあったのかもしれない。
悲嘆に暮れていた自分に手を差しのべ、生きる希望を与えてくれた。北辺の勇者と謳われるほどの武勇と同時に、大きく包みこむようなやさしさを持っていた。そして心のどこかに、哀しみを抱えていた。そういったところに、自分はいつの間にか魅かれていたのだ。
叛乱軍の戦士として、パラメキア帝国軍を打ち倒し、かつての平和を取り戻すために、ヨーゼフは闘っている。ヨーゼフほどの武勇を誇る戦士を、ケイトはほかに知らなかった。
いつか平和が訪れた時、ヨーゼフ、そしてネリーとの新たな生活がはじまる。そして、いずれはヨーゼフの子を産み、育てたい。その日のために、いまは自分の勤めを果たさねばならない。ささやかではあるが、女として幸福な人生ではないか。そう思っていた。
非常事態を告げる鉦が鳴らされたのは、夜が更けてからだった。
不安に駆られ洗い物の手を止めたところに、近所の男が飛びこんできた。
「帝国軍が攻めてきた。数は三百。こちらは五百の兵で応戦しているが、強すぎて歯が立たない。街へ入ってくるのも時間の問題だ。戸締まりを厳重にして、いますぐ隠れろ」
男が去ったあと、すぐさまケイトは、ネリーの寝室に走った。いまから家の明かりを消したところで、気配までは消せない。せめて、ネリーだけでも助けなければ。
異変に気づいていたのか、ネリーは起きていた。上体を起こし、こちらを見つめている。近づいて、ネリーの頭を撫でた。
ネリーの手を引いて、台所へむかった。もう片方の手には、毛布を抱えている。
床の絨毯をめくり、ケイトは地下の貯蔵庫へ続く戸を開けた。ネリーの背中を押して、中へ入るよう促す。
「よく聞いて、ネリー。しばらくの間、なにがあってもここに隠れているのよ。寒いけど、我慢してちょうだい。いいわね?」
「わかったわ、お母様」
頷くネリーの言葉に、ケイトは思わず毛布を落とした。
「いま、なんて言ったの、ネリー?」
「お母様、って言ったのよ。お父様が出立する前、これからはケイトさんのことを、お母様って呼ぶように、って言ってたの。ケイトさんがお母様になってくれるって聞いて、わたし、とても嬉しかったわ。ほんとうのお母様と同じくらい、わたしはケイトさんのことが好き。それに、お父様のあんな幸せそうな笑顔は、久しぶりに見た気がするの」
「ありがとう、ネリー。あなたのような子が娘になってくれて、わたしこそ嬉しいわ。大丈夫よ。なにがあっても、あなたはわたしが守るわ」
溢れる涙を、ケイトは拭おうと思わなかった。力強く抱擁したあと、毛布を押しつけるように手渡し、貯蔵庫の戸を閉めた。
外が騒がしくなってきた。帝国軍が、街へ侵入してきたのだろう。
棚の上の庖丁を手に取って、居間へ歩いた。
ネリーはわたしが守る。心の中で呟き、ケイトは涙を拭った。
炎を見ると、右頬の痣が疼く。
二人の部下とともに、ボーゲンは街の北東へむかっていた。幹だけとなった大木。それがヨーゼフの家の目印だと、街の者から訊き出していた。
ヨーゼフを含めた数名が、七日前にここを発ったということだった。おそらくは、ダークナイトの言っていた独立部隊だろう。家に行けば、なにかしらの手がかりが残されているかもしれない。確か、ヨーゼフには娘もいたはずだ。
すでにサラマンドは包囲していた。連れている二名以外の部下は、いまごろ略奪の最中だろう。急ぐ必要はない。燃える街を後ろに、ボーゲンはゆっくりと歩きながら、思考をめぐらせた。
パラメキアでは、皇帝マティウスと謁見した。
かけられた言葉はやさしかったが、その言葉の裏には冷たいものがあった。全身から溢れ出る強大な魔力には、背中が凍りつく思いだった。再び失態を演じれば、野望が潰えるどころか、間違いなく殺されるだろう。そう思わせるほどの恐ろしさを、ボーゲンは感じていた。
不思議に思ったのは、魔界から呼び寄せたという、魔物の軍団がいなかったことだ。それどころか、見た者もほとんどいないのだという。見たこともないものに、兵や民は怯えているのだ。それでも、マティウスの強大な魔力は、人々に恐怖を与えるには充分だった。そういった、心に潜む恐怖をうまく利用して、マティウスは人心を操っているのだろう。
ふと、ボーゲンは大戦艦のことを思い出した。
浮力の源である魔石は、マティウスによって生み出されたものだ。生成には、膨大な魔力を必要としただろう。そして、魔界から魔物を呼び寄せるのにも、魔力は必要とするはずだ。
もしかしたら、いまのマティウスは、魔力を消耗している状態なのかもしれない。だから、魔物の軍団を現世に留まらせることができないのではないだろうか。もしそうだとすれば、いずれマティウスを殺し、自分が皇帝となってパラメキアの頂点に立つことも可能に思えた。ボーゲンには、死をものともしない、精強な三百の麾下がいる。
さきほどの野戦で、サラマンドに駐屯する叛乱軍は、五百の兵で応戦してきた。そしてボーゲンの三百は、一兵の犠牲も出すことなく、敵の五百を殲滅した。
叛乱軍の兵の質は決して悪くなかったが、数名いた指揮官が無能で、動きがばらばらだった。数が多いだけで、実戦経験がほとんどない。そんな軍の陣形を崩すのは造作もないことで、総崩れとなったあとは、ただの殺戮だった。これまでに見た戦場の数も、殺した人間の数も、こちらの方がずっと上なのだ。
ヨーゼフがいればもっと苦戦しただろうが、戦というものは、ひとりの豪傑の力でひっくり返るものではない。個人の武勇と、軍の指揮は、また別のものである。もしあの場にいれば、いかにヨーゼフといえども、確実に息の根を止めることができていた。
「将軍、あれを」
部下が指さした先に、幹だけとなった大木があった。その大木のある広い庭の奥に、大きな家が見える。あれがヨーゼフの家だろう。明かりはついていた。
扉を開け、居間へむかった。
なにかが、物かげから飛び出してきた。女。庖丁を突き出してきた。かわしながら、鞘に収めたままの剣で、手首を打った。女が悲鳴をあげ、庖丁は床に落ちた。さらに背中を打つと、女は床に倒れこんだ。女が落ちた庖丁に手をのばす。取らせまいと、ボーゲンは庖丁を蹴り飛ばし、さらに女の服の裾を踏みつけ、逃れられないようにした。手首を押さえながら、床に這いつくばった女が、鋭い眼つきでこちらを睨んできた。色の白い、小柄な女だ。
「この家の下女か。ヨーゼフの娘はどこだ。言えば、命は助けてやる」
「ヨーゼフ様が出立した翌日、兵たちに護られ、アルテアにむかったわ」
「下手な嘘だな。まあいい。ヨーゼフの足取りは、すでに掴んでいるのだ。ところで女、名前をなんと言う?」
「ケイト」
「助かりたくば、俺の言うことを聞け、ケイト。服をすべて脱ぐのだ」
ケイトの服の裾からは、白い脚が覗いている。それが、ボーゲンの情欲を刺激していた。
「それがあなたたち、帝国軍のやり方なのですか。人としての心は、ないのですか?」
「黙って、言われた通りにしろ。命が惜しくないのか」
ボーゲンは、鞘から剣を抜いて、ケイトに突きつけた。気の強い女は好きだった。気の強い女があげる、苦痛と歓喜の入り混じった声を聞くと、背筋がふるえてしまう。
「誰が、あなたの言うことなど」
尻をついた状態で、ケイトが後退ろうとする。ボーゲンは、服を踏みつける足に、さらに力を籠めた。
「あまり、手間取らせるな」
言いながら、切っ先を襟元にねじこみ、上から服を引き裂いていった。下着も剥ぎ取り、ケイトの躰は剥き出しになった。服の上からでは想像できないほど豊満な躰で、眩しいほど白い肌に、ボーゲンは興奮を隠せなかった。
「もう一度だけ言おう。死にたくなければ、俺の言うことを聞け」
切っ先をケイトの恥毛に触れ、舌なめずりをしながらボーゲンは言った。
「あなたのような醜い欲望に歪んだ人に、躰を許すものですか。何度言われようと、無駄なことです。殺したければ、殺しなさい。いつか必ず、あなたたち帝国軍は、叛乱軍の前に敗れることでしょう」
ケイトの言葉に、ボーゲンは肚が熱くなった。醜い欲望に歪んでいる、と言われた。顔が醜いのは自分でもわかっている。しかし面とむかって人格を非難されるのは、屈辱以外の何物でもなかった。
「下女ごときが、なにを言うか」
叫びながら、怒りのままに肩から胸にかけて斬り降ろした。鮮血が噴き出し、ケイトはのけ反って倒れた。さらに、左右の乳房に剣を突き立てる。何度か突くうちに、ケイトの躰は痙攣し、やがてこと切れた。
「馬鹿な女だ。素直に言うことを聞いていればいいものを」
少し息を荒げながら、吐き捨てるようにボーゲンは言った。
付着した血脂を拭い、剣を収めると、玄関にむかって歩き、外に出た。
「家に火をかけますか、将軍?」
「いや、いい。全軍を広場に集結させろ。準備ができたら、すぐにでも進発する」
「はっ」
返事をして、二名の部下が、それぞれ別の方向へ駈け出していった。
ボーゲンは、歩きながら腕を組んで考えた。
ムースニー山脈を越え、ヨーゼフたちのあとを追い、小部隊を殲滅する。たやすい仕事ではあるが、しくじるわけにはいかない。 ダークナイト率いる百騎が、叛乱軍千二百を殲滅したという戦果には驚きを禁じえなかったが、あんな若造に、遅れを取っている場合ではないのだ。
いずれは権力を掴み、すべてを意のままに動かす。叛乱軍ごとき小石に、躓いてなどいられなかった。
右頬が熱かった。ボーゲンの右側で、家屋が音をたて燃えている。痣が疼いた。父を殺し、家に火をかけた時の記憶が、一瞬だけ脳裡を掠めた。
広場が見えてきた。
三百の麾下はすでに整列していた。列の端には、毒蛇の紋章の旗が、熱風に翻っている。炎に照らされた、不動の三百の麾下を見て、ボーゲンは一度頷いた。
右頬の痣が、まだ疼いていた。
口の端に笑みを浮かべながら、街を出るまでは治まらないだろう、とボーゲンは思った。
三
雪原を、ひたすら東へ進んだ。全員が、毛皮でできた防寒衣を着こんでいる。
橇は、五頭の馴鹿で牽いていた。馴鹿の蹄は大きく、接地面が広いため体重が分散され、雪の上でも沈むことなく歩けるのだという。
極寒の地を進むのは、困難をきわめた。食料や燃料は、計算してぎりぎりの量しか持ってきていない。無駄遣いは許されなかった。
夜は、天幕を張り、火を熾す。燻製を炙って食い、蒸留酒を飲んで暖を取った。
二日ほど吹雪が続いたが、それからは晴れた日が続いた。
極光と呼ばれる、天に架かった色彩豊かな光の幕も見た。サラマンドに伝わる古い話では、戦の女神が天を駈ける軌跡が極光になるのだと、ヨーゼフが教えてくれた。
七日ほど進んだところで、小さな岩山にぽっかりとあいた洞窟に辿り着いた。
松明を翳しながら進んでいく。空気は冷たいが、風がないからか、外よりは寒くない。
内部は意外に広さがあり、魔物も棲息していた。
剣を振り回し闘うには少しつらかったが、徒手で闘うヨーゼフと、魔法を遣うマリアが活躍した。
いつの間にか、マリアは火炎の魔法を習得していた。ミンウと較べるとその炎はまだ小さく、多数を相手に闘えるものではないが、これによりさまざまな戦法がとれるようになった。
洞窟の最深部の部屋には、二つの屍体があった。冷気のせいか、腐敗は見られない。
「カシュオーンの兵だな。ずっと、あれを護っていたのか」
ヨーゼフが指さした先には台座があり、その上には女神の姿を模った鐘があった。拳ほどの大きさで、銀でできているようだ。あれが、女神の鐘なのだろうか。
歩み寄って、フリオニールは台座の上の鐘を手に取った。ひんやりとした手触りだ。手首を振って鳴らすと、澄んだ音色が洞窟内に響き渡った。
「この音色で、ほんとうに魔法の封印が解けるのでしょうか?」
「やってみるだけだろう。魔法は、俺もよくわからん。さあ、急ぐぞ」
ヨーゼフの言う通りだった。いまは、考えても仕方がない。フリオニールは、物入れの中に鐘を収いこんだ。
洞窟をあとにした。
もとの経路を引き返していく。食料が減ったことで、荷は少し軽くなっていた。馴鹿にも疲れは見られず、橇は順調に進んでいった。
洞窟を出て、三日が過ぎた。四日目は晴れ、視界もよかった。
昼過ぎ、橇を走らせていると、前方になにかが見えた。旗。軍勢。
「あれは、ボーゲンか」
ヨーゼフが叫んだ。
「パラメキアに寝返った、元カシュオーンの」
「そうだ。あの毒蛇の旗は、ボーゲンの将軍旗だ」
「百はいるようです。迂回を」
叫ぶフリオニールの耳もとを、矢が掠めていく。すでに、射程内に入っていた。
「わかっている。しかし、確かボーゲンの麾下は三百。迂回した先には、必ず兵を伏せさせているはずだ」
言いながらも、ヨーゼフは橇を右へ転進させた。いずれにせよ、態勢の整った百を相手に、正面からはぶつかれない。ボーゲンの軍が、橇で追ってくる。フリオニールとガイは、飛んでくる矢を楯で防いだ。マリアは楯のかげから、弓で敵兵を射落としていく。
「俺たちは、確実に追い詰められているぞ。この先に、必ず伏兵がいる。いま、ボーゲンはこの状況を愉しんでいるだろう。じわじわと獲物を追い詰めて、なぶり殺す。やつは、そういうところのある男だ」
「サラマンドは、攻撃されたのでしょうか?」
「多分な」
ネリーやケイトは、無事だろうか。気になったが、言えなかった。おそらく、ヨーゼフも同じことを考えているだろう。
「軍人として、ボーゲンはどうなのですか?」
「戦術眼はある。部隊指揮にもたけているが、人格に問題がある。証拠はないが、戦のたびに数多くの略奪を行ったりもしていたそうだ」
嫌悪の表情を隠さず、ヨーゼフは言った。ボーゲン。フィン城での攻防戦で寝返り、反パラメキア連合軍の敗北の原因を作った張本人だ。別に、強い方へ付くことが悪いわけではない。ただ、やり口が汚い。そして殺された両親や、スコットのことを思うと、ボーゲンに対する憎しみのようなものが、いやでもこみあげてくる。
追撃をかわしながら、一時間ほど北西へ走った。あたりは起伏が激しく、橇は上下に揺れている。
ヨーゼフに土地鑑があるからか、敵との距離は開いている。しかし、どこか違和感を覚えた。もしかしたら、この地にうまく誘いこまれたのかもしれない。
視界の端で、なにかが光った。雪の反射とは違う。武具か。
「ヨーゼフ殿。右です」
「ボーゲンの策に、まんまと嵌まったようだな」
ヨーゼフが、橇を左に転進させる。ほぼ同時に、大量の矢が飛んできた。やはり、兵が潜んでいたのだ。右側の二頭の馴鹿に、何本もの矢が突き刺さる。制御の利かなくなった橇が横転し、フリオニールたちは橇から放り出された。敵兵が駈け寄ってくるのが見える。起きあがって、剣を抜いた。
「フリオニール、俺とおまえで迎え撃つ。ガイは、橇を立て直せ。マリア、援護を頼む」
ヨーゼフの指示に、全員が短く答えた。
「行くぞ、フリオニール。橇が直るまで持ちこたえればいい。敵をまとまらせるな」
「はい」
剣を低く構えて駈け出した。足が潜る雪の中での走り方も、この数日で身につけていた。
前方に三人。先頭のひとりと打ち合った。なにか感触が違う。ミスリルだ。よく見れば、敵の武具にも、ミスリルが使われている部分は多かった。
左。剣が来た。転がりながら、ひとりの足を薙いだ。勢いを利用して起きあがると同時に、首筋を斬りつけた。鮮血が噴き出し、白い大地を染めていく。
肩に衝撃を感じた。斬られてはいない。ミスリルの装備のおかげだ。呼吸をする間もなく、次の攻撃が来た。膝の裏をわずかに斬られ、態勢を崩した。横からの斬撃。かろうじて受け止めた。次の攻撃は防げるだろうか。不安が、フリオニールの頭をよぎった。
ひとりが倒れた。首に矢が突き刺さっている。マリアの援護だ。残るひとりが、斬りかかってきた。横にかわし、上から剣を振り降ろす。兜ごと、敵の頭蓋を両断した。
トブールの鍛えた剣は、すさまじい切れ味だった。手にもよく馴染む。ただ、敵も強かった。セミテにいた敵とは、較べものにならないほどだ。たった三人を相手に、苦戦した。この軍は、装備だけではなく、精兵揃いなのだ。自分は強くなったという、思いあがりもあった。その認識は、改めなければならない。
ガイの声が聞こえた。橇が直ったようだ。
「橇に乗れ、フリオニール。急げ」
敵の顎を拳で砕きながら、ヨーゼフが叫んだ。最初に遭遇した敵も、追いついてきた。このままでは、すぐに包囲されてしまうだろう。
「わかりました。ヨーゼフ殿も、離脱してください」
言いながらも、フリオニールは剣を振るった。敵は、次々と襲いかかってくる。マリアの援護がなければ、とても相手にしきれるものではない。剣を振りながら、橇の方へ駈けた。
橇に飛び乗ると、フリオニールは後ろをふり返った。ヨーゼフが、まだ敵と闘っていた。
「ヨーゼフ殿。早く」
「俺に構わず、橇を出せ。逃げたところで、いずれは追いつかれる」
「ヨーゼフ殿を置いて行くなんて、できません。それならば、全員で応戦しましょう」
「無理だ。この軍は強い。おまえも肌で感じただろう。全滅を免れたとしても、誰かが確実に死ぬ。ならば、ここで俺が敵を食い止め、その間におまえたち三人が逃げるべきだ」
「しかし」
「フリオニール。俺は、ミンウと約束したのだ。野ばらの旗に誓って、おまえたちを死なせないと。男は、誓いを果たすものだ」
矢が飛んできた。楯のかげから、フリオニールはヨーゼフの方を見た。飛んでくる矢を手刀で叩き落としつつ、ヨーゼフは敵の屍体を抱えあげ、それを楯にした。
「行け。そして、大戦艦を破壊するのだ。俺は、命を懸けてボーゲンを倒す。それを、俺とおまえたちとの誓いにしようではないか」
ヨーゼフの声はやさしく、それでいて強い意思を感じさせた。もしかしたら、ボーゲンの軍に遭遇した時から、ヨーゼフはこうするつもりだったのかもしれない。ほとんどすべての矢を防いではいるが、何本かの矢は、躰に突き立っていた。それでも、ヨーゼフはこちらを見て笑っている。
不意に、橇が動き出した。ガイが、馴鹿に手綱を打っている。
「待てよ、ガイ。ヨーゼフ殿が」
そこまで言って、フリオニールは口を噤んだ。ガイの両頬は、涙で濡れていた。
「ヨーゼフ殿は、俺たちにとって師匠のようなものだ。弟子は、師匠の言うことを聞くものだろう」
「行って、誓いを果たしましょう、フリオニール」
涙を拭いながら、マリアが言った。そして、追いすがってきた一台の橇に、火炎の魔法を放った。敵の橇に、炎があがる。
再び、ヨーゼフの方を見た。距離は離れたが、それでも眼が合ったのはわかる。
「さらばだ、三人とも。おまえたちと出会えて、愉しかったぞ」
フリオニールもなにか言おうとしたが、言葉が出なかった。ふるえる唇をきつく噛んで、小さくなっていくヨーゼフを、ただ見つめた。
橇の速度が、徐々に上がっていく。緩やかな下り坂のようになっていた。やがて、ヨーゼフの姿は見えなくなった。心が潰れそうだったが、唇をさらにきつく噛むことで、涙をこらえた。口の中に、血の味が拡がっていく。
前をむいた。いくら後ろを見ていても、もうヨーゼフは見えない。
「まずは、サラマンドに戻ろう。その後は、カシュオーンへ。俺たちの任務、いや、ヨーゼフ殿との誓いを、果たす」
二人に、というよりも、自分自身に言い聞かせるためだった。言うことで、落ち着きを取り戻した。マリアとガイも、もう泣いていない。
橇はさらに加速していく。冷気を帯びた風が、頬を切りつけてくるかのようだった。三頭に減った馴鹿は、ガイが並列に繋ぎ直していた。三頭でも、充分な速度が得られている。
ヨーゼフが乗っていない橇は、軽かった。
四
まわりの敵は、すべて打ち倒した。
フリオニールたちは、もうだいぶ進んだだろう。経路さえ間違わなければ、追いつかれることもないはずだ。
息を荒げながら、ヨーゼフは躰に突き立った矢を抜いていった。矢を抜きながらも、気息は整えていた。ここからが、正念場だ。その他の傷はいずれも浅傷で、すでに血が固まってきている。
前方の敵を見た。まだ、二百八十はいるだろう。陣を組んでいた。魚の鱗が合わさったような、堅陣だ。その魚鱗が二つに割れ、真ん中から、ひとりの小男が歩み出てきた。ボーゲン。遠間からではよくわからないが、笑っているように見える。
「おまえらしいな、ヨーゼフ。ひとり残って、仲間を逃がすとは。しかし、これでおまえの命運も、完全に尽きたな」
「久しぶりだな、ボーゲン。最後に会った時、貴様はまだカシュオーンの将軍だった」
「皮肉のつもりか。いくらでも言うがいい。すぐに、おまえもケイトとかいう女のあとを追わせてやる」
「なんだと。いま、ケイトと言ったな?」
「逆らったので、殺した。なかなかいい躰つきで、少々惜しくはあったが」
「ボーゲン。貴様」
「あの女に惚れていたか、ヨーゼフ。すさまじい怒りが、ここまで伝わってくるぞ、そういえば、おまえの娘だが」
「娘を、ネリーをどうした」
「うろたえるおまえを見るのは、愉快だな。安心しろ。娘は無事だ。大方、ケイトがどこかへ匿ったのだろう。わかったところで、おまえはここで死ぬのだが」
ヨーゼフは空を仰いだ。胸騒ぎはあったが、当たって欲しくない予感だった。自らを囮にすることで、ケイトはネリーを助けたのだろう。
怒りの炎が、心の底から噴きあがっている。気息を整えることで、その炎を鎮めた。闘いの中で感情が揺れれば、それは敗北に繋がる。そして新たに湧きあがってきたのは、純粋な闘志だった。
「ボーゲン。俺は死ぬが、貴様だけは、必ず殺す」
「つくづく面白いやつだな、ヨーゼフ。この状況で、本気で俺を殺せるとでも思っているのか?」
「本気だ。俺には、志がある」
「志だと。くだらんな」
ボーゲンが右手を挙げ、振り降ろした。魚鱗が元通りになり、さらに両翼から、五人ずつがむかってきた。左右の組はいずれも、前衛が三名、後衛が二名という、小さな魚鱗のようなかたちだった。
ヨーゼフも駈け出した。気力は充実している。止められるものなら、止めてみろ。俺は、北辺の勇者と呼ばれた、ヨーゼフだ。
突っこんだ。右の組。前衛のひとりが、剣を突き出してきた。避けながら、右の拳で下から顎を突きあげる。後衛の敵兵が、槍で突いてきた。しゃがんで避けると同時に、前衛の二人の足を払う。立ちあがりながら、後衛の二人を斃した。
切っ先が脇を掠めた。左の組からの攻撃だ。三発の横蹴りを連続でくり出し、前衛を仕留めた。右脚に、鋭い痛みが走る。転んだ右前衛のひとりに、ふくらはぎを浅く斬られていた。槍。転んでいる敵兵を蹴り飛ばし、跳躍してかわした。空中で蹴りを放ち、槍を持った後衛の顎を砕く。着地間際にもう一発蹴りを放ち、起きあがってきた右の前衛を仕留めた。もうひとりの後衛が、こちらを狙っている。着地と同時に低い姿勢で飛びこみ、顔面に拳を叩きこんだ。
息が詰まった。腹部に、鋭い痛みが走る。見ると、槍の穂先が脇腹に刺さっていた。間断なく、次の組が来ていた。
槍と剣が、同時に来た。肩当てが吹き飛び、よろけた。倒れそうになったが、両脚を踏ん張ってこらえた。引き抜いた槍を奪い取り、頭上で大きく振り回すと、ヨーゼフは雄叫びをあげた。三人、四人、群がる敵を槍で突き、あるいは薙いで斃した。
五人目を柄で打った時、槍が折れた。新たな組が、一斉に襲いかかってくる。折れた槍を投げ捨て、再び徒手で構えた。前衛の三人を相手にしている間に、後衛から、腹と腿を槍で突かれた。
何度か斬りつけられるうちに、ヨーゼフの中でなにかが切り替わった。限界を越えた先、死すれすれのところにある、別の領域に入っていた。斬られても痛みはない。ただ熱いだけだ。そして、気力は漲っている。
血みどろになりながら、五人を打ち倒した。右の側頭部が熱い。触ると、耳がちぎれていた。血のぬめりを、ヨーゼフは服の裾で拭いた。
新たな組が、こちらへむかってくる。同時に、矢も射かけられてきた。当然、矢は味方にも当たるが、この徹底ぶりが、ボーゲンの恐ろしいところだ。酷薄ではあるが、自分よりはずっと軍略に通じている。ヨーゼフは、敵にむかって駈けた。危険ではあるが、乱戦に持ちこめば、矢をそれほど気にしないで済む。
低い姿勢で潜りこみ、二人を拳で斃した。右。斬撃。躰をひねってかわしながら、横蹴りで仕留めた。左。剣を籠手で受け止め、右の拳で突いた。血を吐きながら、敵兵は崩れていく。
背中が熱い。後ろから斬られた。ふり返りながら、顔面に裏拳を叩きこみ、その勢いで廻し蹴りを放った。もうひとりを巻きこみ、敵兵は後ろへ吹き飛んだ。槍。とっさにヨーゼフは跳躍した。槍は空を突き、敵兵はつんのめった。蹴りを放ち、顎を砕く。着地と同時に、再び跳躍した。ヨーゼフがいた場所には、何本もの槍が交差している。
突然、左眼が見えなくなった。矢が刺さっている。右眼で確認した。着地しながら、ひとりを斃した。槍を奪い取ると、周囲の敵すべてを薙ぎ倒した。
矢を掴み、引き抜いた。矢の先端に、目玉が付いている。無造作に投げ捨て、槍を躰の脇に構えた。
敵陣には、明らかに動揺が走っていた。叫び声も聞こえる。兵に隠れて見えないが、間違いなく、ボーゲンは焦っている。
陣形が、少しずつ変わりはじめた。魚鱗から、大きく横へ拡がっていく。両翼が突出してきた。中央の兵も、少しずつ前に詰めてくる。二百以上で、押し潰す構えだ。
一瞬だけ、中央に隙間ができた。兵の間から、ボーゲンの姿がちらりと見えた。兵は左右に集中していて、中央はやや薄いようだ。
あそこにむかって、駈ける。ヨーゼフは走り出した。のどに、なにかがこみあげてくる。吐いた。血だ。膝が、がくりと折れた。まだ倒れるな。心の中で叫び、脚に力を籠めた。
頭上で槍を構え、ヨーゼフは全力で駈けた。左右の敵が押し包もうとしてくる。正面の敵も、その表情がわかる距離まで近づいている。
ぶつかる寸前で、槍を地面に突き立て、その勢いを利用して跳躍した。横列になった敵兵の頭上を、高く跳び越えていく。敵兵が、一斉にヨーゼフを見あげた。
眼下に、ボーゲンが見えた。まわりには、ほとんど兵はいない。ほぼ全員が、前に出てきているのだ。最後のところで、ボーゲンは指揮を誤った。
着地点には、五人の敵がいた。ひとりの首を蹴り、着地後に四人を槍で突き倒した。後ろから、服の裾を掴まれた。顔面を肘で打つ。何人かが追いついてきた。足もとを、槍でまとめて薙ぎ払った。
正面をむいた。もはや敵兵はいない。卑劣な小男が、ひとりいるだけだ。ボーゲン。叫びながら、ヨーゼフは槍を捨てて駈けた。
「信じられぬ。なぜ、死に損ないのおまえに、そんな真似ができる。なぜ、おまえはそんなになっても倒れぬのだ、ヨーゼフ?」
覚束ない手つきで、ボーゲンが剣を抜いた。
「言ったはずだ。俺には、志があると」
「志とは、なんなのだ」
かん高い叫びをあげながら、ボーゲンが突いてきた。腰が定まっていない。ヨーゼフは、突き出された剣を手刀で叩き折った。
「男の誓い。そして、それを果たすことだ」
叫びながら、左右の拳をボーゲンの顔面に叩きこんだ。ボーゲンは後ろへ吹き飛び、地面に落ちて倒れた。その頭部はほとんどかたちを成しておらず、血と脳漿が混ざり合ったものが流れ出ていた。手足だけが、別の生き物のように、ひくひくと動いている。ヨーゼフの言葉を理解できたかどうかはわからない。しかし、そんなことはどうでもよかった。
なにかが、躰を貫いた。
見ると、何本もの槍が、躰に突き刺さっていた。血を吐きながら、ヨーゼフは膝をついて、うつ伏せに倒れた。
意識が途切れ、ふっと眼が醒めた。
眠い、とヨーゼフは思った。血が失われ、朦朧としている。
後ろの方で、雪を踏む音が聞こえた。ボーゲンの麾下は、そのまま引き揚げていくようだ。
ボーゲンの屍体は、うち棄てられたままだった。このまま、自分も雪原で果てていく。サラマンドに生まれ、北辺の勇者と呼ばれた男には、ふさわしい死かもしれない。男の誓いは、すでに果たしたのだ。
なにかが、手の上に落ちてきた。
雪。体温で、じわりと融けた。
顔があがらない。ヨーゼフは、眼だけを動かして空を見あげた。灰色の空に、雪がちらついている。雪は見る間に勢いを増し、空を埋めた。これは、かなり積もる。サラマンドの街も、いまごろは雪に覆われているはずだ。
ヨーゼフの躰にも、大粒の雪が降り積もっていった。血に染まった雪原も、こうやってまた白くなっていくのだろう。
再び、眠気に襲われた。
ヨーゼフは、ゆっくり眼を閉じた。
雪の降る音だけが聞こえる。雪は、また強くなったようだ。
次に眼が醒めた時、またケイトに逢えるだろうか。
ケイトの手料理が恋しかった。サラマンドを出立してからは、腸詰めや燻製ばかりだった。
薄れていく意識の中で、ヨーゼフはケイトの手料理の味を思い浮かべた。
躰が温まっていく、そんな気がした。
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