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ステレオ写真師ピエール・ロシエの日本における足跡 1859–1860(2) 写真術伝来取調『古川俊平』[書き起こし] #日本ステレオ伝 014

[*は附記、注記となります。]

*寫真新報44号 佐藤鐵彌 編輯 1893–01に掲載された記事です。渡邊震次郎がその当時に古川俊平、前田凌海(玄造)の回想を聞き書きしたものです。*渡邊震次郎(古川震次郎)は古川俊平の娘婿です。古川写真館の後継ぐ前には上野彦馬の元で修行をしました。

[現代語訳]

写真術伝来取調に関する書類 (其の1)

去る1992年11月30日に出版された寫真新報第42号の雑報「寫真術之始」(*1)という記事を見たところ、日本における写真術の始まりの時代や、最初に伝授を受けた人物の氏名などの調査が既に着手されている様子が伺えます。私たち同業者としては、自分たちの業としている写真術の起源をその紙面上で確認できるのは、大きな喜びであることは間違いありません。

そのため、同調査に関して関係のある事柄は速やかに報告するよう求められていますが、これは「写真新報」がその大きな喜びが近いうちに訪れると予告すると同時に、同感する者たちに対して望んでいることでもあります。

そこで、少しでも私の家に関係する写真術の略歴を以下に報告しようと思います。

筑前博多東中洲千四十番地
古川俊平男
寫眞師 渡邊震次郎(*著)

*1857安政4 ダゲレオタイプ、古川俊平が任命された

安政年間(*1854–1860)のこと、藩主であった黒田長溥公は従二位松平美濃守として、西洋の様々な芸術に強い関心を寄せ、家臣たちにこれらの技術を習得するよう命じました。その際、安政四年(1857年)の春、薩摩藩主である島津公より「ダゲレオタイプ(銀板写真)」の器械一式と、その使用方法が書かれたオランダ語の書物一巻が黒田家に送られました。従二位公は薩摩藩の出身であったため、島津公は従二位公の志をよく理解しており、この贈り物をしたのでしょう。

黒田公は家臣にこれを研究させるため、適任者を選びました。当時、同藩の製煉所に仕えていた藩士であり、化学の実地経験があった古川俊平がその適任者とされました。彼に「ダゲレオタイプ」の器械と使用方法が書かれたオランダ語の書物、さらに藩士である瀧田茂吉が翻訳した部分を渡し、その試験を命じました。また、近臣である瀧田茂吉、側医の武谷掠亭、製煉所に勤務していた藩士の末永茂一郎を派遣し、試験に立ち会わせました。

古川俊平は自宅の福岡魚町でこれを試験し、末永茂一郎と町田元譲の全身写真をそれぞれ1枚ずつ撮影し、これを藩主に献上しました。これが黒田藩における写真術の始まりでした。

町田元譲は泉州(*現在の大阪府南部)の出身で、福岡藩士の塚本道甫、藤野良泰と共に防州(*現在の山口県)にいる大医である青木周弼に師事し、医学を学んでいました。青木周弼は当時オランダの書物に基づいて「ヨード」を製造しており、町田元譲もその製法を少し知っていました。何らかの縁で、この頃に塚本道甫と藤野良泰の紹介により福岡に来て、武谷掠亭(武谷祐之)の家に寄寓しました。「ヨード」は「ダゲレオタイプ」器械に必要な薬品であったため、試験で使用されました。この時に使用された「ヨード」は主に他の品を用いましたが、町田元譲に依頼して製造したものも一部使用されました。

この時すでに、このような技術で紙に写真を撮影する方法が存在していましたが、その理論はあっても、研究する手段はありませんでした。それでも、古川俊平は何とかしてこの技術を習得し、藩主の恩に報いたいと強く願い、一生懸命に取り組んでいました。

*1858安政5 湿板写真、ステレオ写真など

安政5年(1858)の春、古川俊平は諸芸を習得するために長崎に派遣されました。その滞在中、市内(*長崎市)を歩いていたところ、銅座町の骨董品店の店先で、1つの双眼鏡(*ステレオスコープ)と薄茶色(*鶏卵紙)の絵画12枚を見つけました。その12枚の絵画は、見たことがないもので、とても珍しいものでした。そこで、店主を呼んでその絵画の出所や来歴、そして何という絵画なのかを尋ねました。店主は、「あるオランダ人が交代して帰国する際、競りで手に入れた雑貨の中に含まれていたもので、何というものかはわからない」と答えました。

とにかく珍しい品であり、私(古川俊平)が探していたものかもしれないと思い、代金を支払って持ち帰りました。同じ藩の河野禎造と前田凌海という医師も、医術の研究をするために長崎に滞在していたので、その絵を見せたところ、2人ともそれに「ホトカラヒー」という銘があると言いました。(*日本人が湿板ステレオ写真に初めて出会った)

古川俊平は大いに喜び、2人と共にこの出来事を藩主に報告しました。藩主もまた、この方法を研究するよう命じられました。

この頃、ちょうど旧幕府が各藩に対して西洋のさまざまな技術や芸術を学ばせるよう奨励していた時期であり、西洋からの専門家が長崎にやってきて指導していました。オランダ海軍の二等軍医であるヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト(*1857安政4に来日)もそのひとりでした。各藩から、この技術を学ぶために藩の命令を受けて長崎に来た者たちがいましたが、その人数がどれほどであったかは分かりません。

幕府は、松本良順氏に医学を学ばせるため、勝麟太郎氏に軍学を学ばせるために、それぞれ十七、八名の人々を派遣し、それぞれが学問を怠ることなく学びました。

*1859安政6

安政六年(1859)の末から万延元年(1860)の初めまで講義は休みであったため、時間があったポンペ氏は写真術の試験を行いました。

ポンペ氏はもともと医師であるため、写真の実験はもちろん、本業の間の遊びのようなものだと考えたのでしょう。十分な成果は得られなかったものの、完全に失敗というわけでもなく、影像を見ることができました。この時撮影された写真12枚は、近年まで保存されていましたが、像影は自然に消えてしまい、跡形もなくなってしまいました。

松本良順と前田凌海の2人を一緒に写した、イギリスの一等医官ボンペ氏(*オランダ海軍の二等軍医)の医術の師の名前は詳しくわからないが、その写真が今も存在している。別紙の目録の中にその一葉がある。この種板はすべて松本良順氏から旧幕府に献上されたものである。

ここでは何度か写真術の試験が行われたが、そもそも多くの生徒の中で、この技術を学びに来た者はおらず、また教師ももともとこの分野の専門家ではなかったので、写真術を専門的に学ぼうとする者はいなかった。

黒田藩の3人の武士、すなわち古川俊平、河野禎造、前田凌海の3人は、以前から藩主の内命を受けていたこともあり、何事にも注意を払い、ある程度薬の使い方や手技を覚えていました。

遠堂和泉守殿の家臣である堀江鍬次郎という者も、この術に多少興味を持っていました。しかし、当時はまだ様々なことが発展していない時代であり、実験や研究を行おうとしても、必要な器具や薬が揃わず残念なことでした。結局、ただ机上の研究だけで時を過ごしてしまいました。

河野禎造は、故郷に「ダゲレオタイプ」の機械があることを知り、先に帰国してそのことをやり遂げようと思っていたのに、古川俊平と前田が彼に先立って藩に帰り、藩主の前で試してみたところ、その結果は非常に不十分で、映像さえも残らなかったため、大いに藩主の機嫌を損ねたという話である。

*1859安政6年4月ピエール・ロシエ来日。1860年元治元年)2月27日離日

兎角するうちに同じ年(1860)の四月頃になると、イギリス人(*スイス人)のピエール・ロシエという写真師が、数枚のレンズや他の薬品を持って来日しました。

そして、長崎の風景を撮影しようとしましたが、当時は外国人の自由な行動が許されておらず、大変苦労していました。そんな中、松本良順氏が非常に尽力したおかげで、ようやく撮影の許可が得られたのです。

この頃、前田凌海は松本良順氏の家にいて、ピエール・ロシエと親交を結んでその志を遂げようとしていましたが、機会を得られませんでした。ある日、ピエール・ロシエが相撲の興行場を撮影しようとした際に、多くの人で混雑して困っているところに出くわしました。そのため、前田凌海はこの好機を喜び、大いに力を尽くして助け、ついに知り合いとなりました。そして、徐々に傍らでその技術を見習っていました。しかし、容易にその本質を習得するには至らなかったため、何とかして古川俊平もピエール・ロシエと知り合いになり、共に宿志を達成しようと計画していたところ、ちょうど良い機会が訪れました。

ピエール・ロシエは、日本で異様な装いをしている僧侶や乞食などを撮影しようとしきりに企てていました。しかし、当時の日本人は写真術を魔法や妖怪のようなものと見なしていたため、どのようにしても彼らに応じてもらえず、ピエール・ロシエは非常に失望し苦慮しました。そこで、古川俊平と相談し、種々の奔走と尽力の末、同じ藩の永野圓助と共に協力して、ついにその志を成し遂げました。

永野圓助は写真師ではなく時計師でしたが、古川俊平とは元々親しい仲であったため、この時ピエール・ロシエの機械を使って撮影する目的で協力することになりました。

こうして、ピエール・ロシエの活動に協力して彼の歓心を得た結果、彼からレンズ1つと、薬品や感光紙などを譲り受けました。不足している器械については、すべてを図面に描き写し、最終的には模造して新たに作り、不完全ながらもひと通りの器具を揃えることができました。

この器械を新しく整えたとき、試験のために撮影したポンペ氏や松本良順氏、他の生徒数名の像、ピエール・ロシエの像、そして永野圓助の裸像およびその夫妻の像が、今でも別紙の目録に残っています。

この時、前田凌海と古川俊平の2人で交互に撮影し、その中から良いものを保存しましたが、今となってはどれが前田凌海の手によるものか、古川俊平の手によるものかを区別するのは難しいです。

その前に、当時の長崎奉行岡部駿河守がピエール・ロシエたちの写真技術について聞き、自ら撮影してほしいと望んでいましたが、外国人との直接の対面は、当時の状況から避けられました。そこで、古川俊平と前田凌海が相談し、松本良順氏の力を借りてピエール・ロシエから器械を借り受けて撮影することで、駿河守の承諾を得ました。そして、同所(*長崎)の御建山において、駿河守とその息女姉妹を撮影しました。

この撮影は前田凌海が主となって行われ、その写真は江戸にも送られました。この種版は、今でも古川俊平(*1834年 — 1907年)が保存しています。別紙の目録に二葉あります。

こうして新しく整えた器械は、ほどなく筑前に持ち帰られ、藩主の庭前に写真室が設けられました。前田、古川俊平、側近の藤野良泰が何度もさまざまな撮影を行い、長崎滞在以来のすべての版はこの写真室に保存されていました。しかし、廃藩置県の際にはどうなったのか、今は保存されているその3つの版があります(別紙の目録に3葉あります)。?

藩主の庭で時々写真を撮っていましたが、その当時はまだ発展途上で、特に田舎の人々はさまざまな噂を広めていました。この写真に写った者は数年のうちに死ぬという噂が広まり、写真撮影を行う者は魔法使いや妖怪と見なされ、命を狙われることになりました。

実際に、当時この藩の足軽で、権市という人物がいましたが、彼は以前に写真術を習得し、太宰府で写真を撮影しました。そのため、最終的に薩摩の人々によって斬殺されました。このような状況のため、他の人々も公然と写真を撮ることができなくなりました

*1866慶応2 ハラタマ来日

その後、古川俊平は文久年間に長崎へ派遣されました。この時、蘭学者のヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト(1857年来日)やアントニウス・ボードウィン(1862年来日)に代わり、医師クーンラート・ハラタマ(1866年来日)という化学者が来日し、化学と医学の教育を行いました。古川俊平は藩の命令を受けて、再び長崎に赴き、化学の学習に加え、写真術も研究しました。その後、ハラタマが江戸に上京した際、古川俊平もこれを追って江戸に赴き、研究を続けました。

この時、撮影のための板が4枚、今でも残っています。別紙目録に四葉と記載されています。

古川俊平と前田凌海の写真術の研究の経緯はこのようなもので、前田凌海はもともと医者だったため、この技術を業とするべきではありませんでした。古川俊平も元々士族に属していたため、旧藩の中ではこの技術を専念する理由がありませんでした。しかし、藩が廃藩になった後、数年間、故郷で流浪していたため、明治初年にこの技術を使って商売を始めました。

そのため、このことを知っている人は非常に少ないですが、日本で写真術を学んだ者が数人いたことは確かだと思います。残念ながら、この出来事は旧藩時代のものであり、これを証明する文書が残っていません。この事実を知る者としては、当時実際に現場を見た松本君(松本良順)や勝君(勝麟太郎)のような人たちしかいないのです。

ある日、遠堂和泉守(藤堂高猷)の家臣である堀江鍬次郎が、その後、長崎港の上野彦馬のもとに滞在することになった。上野彦馬が写真術に志を立てたのは、おそらくこの時期であり、開業はその後の1、2年後のことだろう。

内田九一が江戸に上り、開業したのもおそらくこの頃だろう。両氏のような人々は、開業以来その技術を磨き極め、日本国内で写真術の大家となり、その右に出る者はいないだろう。

もとより、写真術の伝習の順序にこだわるべきではない。また、当時は各藩の交流が少なかった時代であり、事実と異なる点があるかもしれないが、古川俊平や前田凌海らが記憶していることをそのまま付記する。あえて両氏の伝習の順序について争うつもりはないが、ここに記しておくのは、写真新報が望む事実に反しないようにするためである。

*1 寫真新報第42号(1892–11) 雑報「寫真術之始」

日本に初めて伝わったのはおおよそ何年前のことでしょうか。また、それを学んだのは誰だったのでしょうか。本新報の記者は、正確な記録を見つけたいと思い続けてきました。この頃、ある人に写真術が伝わった経緯をまとめて本新報に掲載するよう依頼しましたので、近いうちに記者の望みが叶うでしょう。読者の中にもこの件に関する記録を持っている方がいれば、その写しを送っていただけると、記者にとってこれ以上の幸せはありません。

*原文はこちらの書籍で参照することができます。寫真新報 (44) — 国立国会図書館デジタルコレクション

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