【怖?噺】異音
今から3年くらい前の話。
あらかたの家事を済ませ、少し横になるかと寝転がってうつらうつらとしていた昼過ぎのこと。
「プツッ」
その音は急に聞こえた。
その当時、住んでいたワンルームの部屋の中で、その不可思議な音は鳴った。
どこかで聞いた覚えのあるような音なのだが、それが一体なんの音なのか思い出せなかった。
湯沸かしの終わったケトルのスイッチが落ちる音?
炊飯器から出る蒸気の音?
冷蔵庫の製氷機で氷が出来る音?
いや違う。
その音はもっと硬く、くぐもったような音だった。
何の音だろう?としばし考える。
しかし、自分の中で満足のいく答えは出なかった。
だが1つの答えは出た。
気のせい。気のせいだ。
分からないことは分からない。
見てないものは見ていない。
気のせいは気のせいなのだ。
そもそも先ほどまで夢との狭間を行き来していたような状態なのだし、あの音が現実だったか本物かどうかだなんて確証がある訳でもない。
10代や20代前半ならいざ知らず、好奇心やら探究心やら情熱なんてものは「面倒臭い」で錆び付いてしまったお年頃である。なんとなく捻り出した「答え」に最もらしい「理由」をつけて片付けてしまった。
冷蔵庫を開き、麦茶の入ったキーパーを取り出して、コップに注ぐ。そしてまた横になってスマホを開き、ぼんやりとニュースサイトを眺める。
政治家の不正疑惑やら行方不明者の発見やら外国での戦争の話やらを適当に流し見る。
「ああ、そうだった。」
起き上がり、コップに手を伸ばす。
まだ頭が完全に働いていないからか、麦茶を飲むためにコップに注いだのに、麦茶を飲むことを忘れてしまっていた。最近こういう、些細な物忘れが多くなった。
ごくり。
コップに入った麦茶を一気に飲み干す。
「ああ、そういえば こういうお茶を入れるキーパーの蓋も、ヤカンで沸かした麦茶を入れたら変な音を立てて開くことがあるよな」と変なことを考える。
プーーーーー ....カポッ みたいな。
何の音か分からない時にいちいち驚いていた昔の自分を思い出して、少し笑ってしまった。
だいたいの物事なんて、道理が解ればなんてことはないのだ。仮にきちんと分からなくても、自分の中で納得のいく理由が組み立てられればどうにかなるのだ。
台所に行き、換気扇をつける。
タバコを取り出して火を付ける。
吐き出す紫煙は換気扇に吸われていく。
部屋着のポケットからスマホを取り出すと1件の通知が来ていた。その通知は惰性でやっているゲームからのものだった。1本目のタバコを吸い終えた僕は、少し迷って2本目のタバコに火を付けて、ゲームを起動した。
耳元からゲームの起動音が鳴り響く。
音が妙に近い。
指を右耳に当てると、コガネムシやハナムグリのような形のそれが嵌っていることが分かった。
ああ、そうか。昨晩も耳にイヤホンをつけたまま寝落ちてしまっていたのか。
いつからだったか、寝付けない日にスマホの画面を見ていると眠気が飛んでしまうことを体感してからというもの、寝る時には画面を見ずに片耳だけ取り付けたイヤホンを介して音楽やラジオを聞きながら寝ることが日課になっていた。
軽快な音楽が右耳から流れてくる。
左耳からは換気扇の回る音、少し耳をすませば冷蔵庫のモーターの回る音、そして更に遠くからは車やバイクの走る音もする。バラバラな音のどれに耳を貸すわけでもなく、ただ流れている大小様々な音を身体に流していく中、スマホの画面上では目まぐるしくゲームのキャラクターが動いていた。
そんな時だった。
プツッ
またあの音だった。
不意をついて鳴ったその音は先程聞いた時よりもやや遠くの方から鳴ったような気がした。
つまり、音の主は僕の手元のスマホや耳元のイヤホン、そして台所よりも、先程、僕がいた寝床の近くにあるということになる。
少し頭の中を整理する。
先程、考えたケトルや炊飯器、冷蔵庫の位置は確かにその条件には符号する。だが、そのどれらの音でもないということは先程僕自身が結論付けている。
「気のせい」と片付けるにしても2度目である。
そうなってくると、ケトルや炊飯器などのキッチン家電の音だったのに「違う音だ」と認識したこと自体が「気のせい」だったのだろうか。
今は無音の、音の鳴った方向へと歩いていく。
耳元では未だ自動周回機能で鳴り響くゲームの音が忙しく鳴っている。
そんなに広くもないワンルームということもあり、大体の音の出処くらいは検討が着く。キッチン向かい、冷蔵庫と対面している食器棚周りのあたりだろう。
カチッ カタッ
ケトルの電源ボタンを上下に動かす。
いやこんな音ではなかった。
もっと、こう。
少しくぐもった音が混ざっていた。
耳に残る音の幻像を思い出しながら、答えを探すように食器棚の周りを眺める。色々なものを手に取っては振ってみたり、スイッチを押してみたりするもどれも先程の音とは合致しない。
分からない。
分からないものは、分からない。
そのうち考えることをやめた....と言わんばかりに僕は再び横になることにした。テレビを付ける。
プッチ...
液晶が生気を取り戻して映像を映す際に鳴る音。
これも違う。
似通ってる部分は確かにあるが...違う。
そもそもあの時、僕はテレビを付けてない。
プツッ
僕の後方からまたその音が鳴る。
振り返る。
なんだ、一体何の音だ?
そんなことを考えながらスマホを開く。
いつの間にか自動周回機能を終えたゲームはリザルト画面で止まっており、耳元から鳴る音も穏やかな音に変わっていた。
ゲームアプリを閉じて、音楽アプリを起動し適当なミックスリストを流す。
耳元からは誰もが知る名曲をカバーするアーティストのミックスリストが流れ始める。
そしてしばらく経った頃
プツッ
まただ。また鳴った。
相変わらず音の正体は分からない。
分からないものは、分からない。
分からないからこそ「怖い」のだ。
流石の僕もこの異音に、少しづつ。
恐怖を抱き始めていた。
耳に残る、あの音を脳で反芻する。
そして落ち着いて頭で整理する。
音自体には変化は無い。
音の鳴る間隔はおそらく不規則。
そして多分、僕が視認していないもの。
では、あの異音は何なのか。
今まで全く聞いた覚えのない音では無いはずだ。
つまり、記憶の引き出しの中に存在している。
あの機械的で、くぐもったような感じを孕む音。
「あっ」
僕は唐突に合致する音を、記憶の引き出しから取り出すことに成功した。正確ではないが、とても類似している音。
「受話器が落ちる音....?」
一人だというのに感動からか、それとも底知れぬ恐怖からか、声に出していた。そう、受話器の落ちる音だ。いやこの表現は間違っている。ただ、なんと言うのが正解なのか僕のボキャブラリーには存在していない。
内線、保留音のメロディに繋がる時に鳴る、あの「プツッ」という音だ。相手側が操作する時の、あの音。
その音に似ている。
だが、しかし音の鳴った状況と合致する「モノ」が見当たらない。身体を起こし、音の鳴った方向を中心に周りを見渡す。大豪邸ならいざ知らず、ワンルームの室内だ。これくらい物陰に逃げ込んだ害虫を探すよりも簡単だ。
プツッ
また 視界の外であの音が鳴った。
だが、そのおかげで音の出処は理解出来た。
モニターホンだ。正式には「モニター付きインターホン」と言うのだろうか。それがこの異音の出処だろうということが僕の導いた答えだった。
モニターホンから外を覗く時に、モニターを起動して外を見た「後」の音だ。モニター機能を「切る」時の音だったのだのだろう。
そして、そこから導かれた いくつかの「嫌な仮説」に僕は生唾を飲み込んだ。
いや、そんな馬鹿な。
邪念を振り払うかのように、テーブルの上に置かれたコップに残った麦茶をぐいっと飲み干した。
そして、ふらふらと立ち上がり再びキッチンへと向かう。換気扇のスイッチを付け、床にどかっと座り込むとポケットからタバコとライターを取り出し、火を付ける。そして、深呼吸をするようにタバコの煙を吐き出す。
もし。もしもの話。
仮に、何かの故障で音が鳴ってたとして。
モニターのプツッと切れる音だったとして。
モニターが切れる前には何が映っていたのだろう。
仮に故障ではなかったとしたら。
モニターを起動したのは誰だというのだろうか。
そして起動した存在は僕に何を見せたかったのだろう。
もし、何かが映っていたとしたら。
僕はどうなっていたんだろうか。
「分からないものは分からない。」
自分に言い聞かせるように、ぼそりと呟いた。
そして、さっきまでの嫌な妄想を、煙草の煙に乗せて自分の外に出した。ふう、と溜息のように吐き出して、その嫌な煙が換気扇へと吸い込ませていくのをぼんやりと眺める。
そして、もう一本吸うかとタバコの箱に手を伸ばす。
指先が空を切る。箱の中身は空だった。
生憎、ストックは切らしている。
面倒だが買いに行かねばならない。
上着を羽織り、ポケットに財布やカギを詰め込み、僕は玄関を出る。
「あ」
出てから気付いた。先程に吐き捨てた妄想にも似た仮説が当たっていたとしたら今、玄関先に出るのは不味いのではないかと。
一瞬、ドアを閉める姿勢のままフリーズしてしまった。
いや、だがもう遅い。
これは出る前に意識すべきことだったのだ。
最近、こういう些細な不注意も増えた気がする。
正体が分からなくとも、出処は分かった。
だから、それでいい。
実際には何も起きていない。
だから、問題はない。
気のせいだし、気の持ちようなのだ。
意趣返し、ではないだろうがたまにはコンビニではなく、イオンあたりまで足を伸ばしてみるのもいいのかもしれない....なんてね。
車に乗り込みエンジンをかける。
エアコンから生暖かい風が流れて顔にあたる。
そういえば、ホラー映画の定番はエンジンがかからないって鍵をガチャガチャするけれど、昨今のスイッチ式の場合ってどうするんだろうな。
そんなことを考えているうち、もう僕の中からあの「異音」のことは跡形もなく消えていた。
だから、気のせい、だったのだ
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