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新巻鮭のレシピが雲隠れしていた理由は大人の思春期

『かならず年の瀬に届くもの』だった、新巻鮭。
たしか、北海道の親戚からのお歳暮だったと思う。

冬休みに入って年賀状を書いている頃、普段はまったく台所に立たない、というか、普段ほとんど家にいない昭和な父が大きな魚を前に、出刃包丁もってオラオラと格闘する不思議な光景が見られた。

台所から伝わる、一大センセーショナル感。

母は「わては力がないし、捌けへんねん」って言って周りでウロウロ。

父が捌き→母が調理という、男性性と女性性の原始的連携プレイで、それは行われていた。




バラバラにされた、カマやハラスは、年の瀬の忙しい時期の夕飯に、ただ「焼いて食す」。

中骨についた身は、スプーンで削ぎ落として、いわゆる中落ち、父が酒のつまみにしていたと思う。

あとは、皮をとってお刺身のように食べやすい大きさにカットして玉ねぎとレモンで「マリネ」、昆布たっぷりいれた「酢の物」になる。これがおきまりのコース。


切り分けられた新巻鮭

大きなタッパー(昭和に一世風靡したタッパーウェアね)にぎゅうぎゅうに入れられたマリネと酢の物。

冷蔵庫には入らないので、階段や玄関というシベリア並みの極寒の地で保存され、三が日のご馳走とともに毎回食卓に並ぶ。

1月3日にもなると、テーブルに登場しても華麗にスルーされる、新巻鮭マリネ率いるおせち御一行は、最後は父が舐めるように平らげていた。

冷えるとサラダ油が半分凝固してヌラヌラしているマリネが子どもの頃は苦手だったけど、成人して実家を出てから、ふと「あのマリネが食べたい」となり、スーパーで買ってきたサーモンで作った。

ふいてまうくらい、まったく違う味のものが出来あがって、違いすぎて驚愕した。


母が料理できなくなった


その時にはじめて、新巻鮭のおいしさに気づいた。

とはいえ、新巻鮭は手軽に買えるものではないので、自分で作らなくても正月に実家へ行けば食べられる〜と思ってた。

しかし、状況というものは常に変化するもので、父が定年退職したころ、あらゆるお歳暮は届かなくなり、新巻鮭も御多分に洩れず、お見かけしなくなった。

それでも食べたい父が、車で市場まで行って調達するようになるが、
ほどなく、母が料理ができなくなった。

作っても、斜め上を行く斬新なものが出来上がるようになってしまったのだ。

もう諦めた方がいいのだが、年の瀬がやってくると母がつくる「おせち」を夢見る父。

なんとか父が調達して、捌いたとしても「新巻鮭のマリネ」に辿り着けない。こんな感じ?だったかな?と作ってみるも、何かが違うねーとなる。

さらに時が経ち、だんだんと父の車両運転技術の雲行きが怪しくなっていき、しょうがなく「わたしがやってやるよ(ドヤ)」と調達から調理まで丸ごと請け負うことになった。

母にちゃんと聞いておけばよかったなぁ、と悔やんだ。毎年なんとなく試行錯誤したけど、やっぱりなんか違った。新巻鮭のせいにしたりした。

それから3〜4年、恩着せがましく頼まれた仕事のようにやってきて、今年気づいたことがある。


あ、違うわ



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