12/11(月) さみしさを抱えたまま生きていく
12月11日(月) ぬるい空気、雨。
1週間ぶりに出社をする。
月曜日は出勤者が多めなはずなのに、昨日は両手もいなかった。わたしも在宅勤務をしたかったが、どうしても受け取らないといけない書類、発送をしないといけない書類があったので仕方なく……。
数年ぶりぐらいにスープマグを持っていく。中身は出かけに適当に作った和風スープ。あとはコンビニでおにぎりを買って……今日は節約できてるじゃん!と思っていたのに、zoom会議前にイヤホンを忘れたことに気づいてしまう。出席マストだったので、コンビニで安いやつを買ってしまった(1200円)。
終日雨が降っていて、小雨の間に帰宅を試みたけれど、自宅まであとちょっとのところで雨が強くなり、かなり濡れてしまった。折り畳み傘の敗北。
帰宅をすると、植本一子さんの最新日記『こころはひとりぼっち』が届いていた。濡れた服を着替えるついでにシャワーを浴び、ビールを飲みながら晩ごはんの支度をしながら、『こころはひとりぼっち』を読む。
パートナーとお別れをされ、さみしい気持ちに溢れた日々が綴られていて、古傷が疼く感覚。つらいつらいつらい。植本さんもつらい、わたしもつらい。
その一方で、友人が多い植本さんが羨ましくって仕方がない。
読みながら、こんな感想をメモっていた↓
そばに誰かがいてくれても「さみしい」いなくても「さみしい」。
満たされることがないこころ。どうしてこんな風に思っちゃうんだろう。
毎晩子どもが眠る前に「さみしいから誰か一緒に寝てほしい」「パパもママも一緒に布団にごろんしてほしい」と言う。必ず言う。(ちなみに小4)
寝室のドアを開けているのに、隣の部屋にいるのに、それじゃダメだと言う。一緒にいてほしい、と。
ライナスの毛布的なTシャツを抱え、たくさんのぬいぐるみに囲まれ、足元にネコが眠っているのに。親もいないとダメらしい。
ひとりっ子で甘えん坊。親の愛情は子どもにしか向いていないのに、どうしてさみしい感情を持っているの?さみしさを感じさせないよう、一緒に過ごす時間を多く取っているはずなのに。どうしてさみしいの?
子どもが感じている「さみしい」感情ってどういうものなんだろう。わたしが持っている「さみしい」とはきっと違っている。
日曜日に読了した『40歳がくる!』(雨宮まみ/大和書房)もさみしさに溢れたエッセイだった。(なんとなくだけど、太宰治『人間失格』を思い出すようなエッセイだと感じた)
天気も悪いし、気候もおかしい。外からも、中からも、不安定になっていく、やばい。
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