山羊を探す(うそのある生活 25日目)
4月1日 春の曇り
しばらく前に小説を書くのはやめてしまった。どうして、と聞かれることもあるけれど、やめてしまったというのはそういうことで、いつでもすごいものを書いているのならやめようとしたって周りがやめさせない。つまり、どうして、と聞かれる程度だったということで、だから、ほんとはどうしてと聞かれるほどのことでもない。
小説を書いていたころには、クローゼットに山羊を飼っていた。小説を書き上げると、クローゼットを開けて、遠くを見るようにして立っている山羊に小説を与える。山羊はその小説をむしゃむしゃと食べては、決まって「駄作だな、味でわかる」と言った。
小説を食べてもらう間には、その山羊の眼ばかり眺めていた。彼の眼から、いつか涙がこぼれないものだろうか。あの意思を外部化してしまったような、焦点の合わない眼を覗きこみながら、僕はそのいちもんじに願いをかけるようにして、最後の最後までそう思っていた。
小説を書いていて不安になると、山羊はどこだろうか、とあたりを見回したりした。小説を書くその横にいて、僕が駄目な文章を書いた途端にそのページをばりばりと食べてもらえないだろうか、そうしたらさっとあきらめて次を書くのに。けれど探すまでもなく山羊はクローゼットにいて、一歩だってそこからは出てこなかった。だから僕は物語になりようのない拙い文章をひとりで繰り出しては、いつもそれにしがみいて、それから決まって自分で全部消していった。
昨日、クローゼットを開けると山羊はいなかった。かわりに妻と娘の服が、隙間なくかけられている。本来の用途に戻ったクローゼットは、がらんとした印象がした。
夕方になって、山羊を探す旅にでようか、と言った。どこを探すの、と妻が聞く。さあ、山羊だから、やっぱり高いところかな?
「ううん、ちがう。あなたはちゃんとここにいないと。だって山羊なんてほんとはいなかったんだから」
少し間をおいてからはっきりとそう言った妻の声にはたしかな意思があって、彼女の眼の焦点もしっかり僕にあっていた。