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【コラム】「芸術」として文章を楽しんでみようよ

外出自粛が呼び掛けられ、家で過ごす時間が増えている人がたくさんいるのではないだろうか。

YouTubeやNetflix、Nintendo switch。時間が足りないくらい娯楽の多い現代だけど、そんな時ふと読書に立ち返ってみるのはどうだろう。(twitterでは#こんな状況だからこそ本を読もうじゃありませんか というタグが流行っているみたいだし)


けど、本題に入る前にちょっとだけ。

ふとしたきっかけで特定の事柄についてとりとめもなく思考が展開していき、「この世の真理を知ったような」気になる瞬間はないだろうか。

僕はある。

それは霞がかっていた景色がスッと晴れるようでもあるし、点と点で捉えていたもの同士が繋がりバシッと電気が走るようでもある。

でもそのたどり着いた”世界の真理”は他人に話すと当たり前だったり、みんなが概念的に理解できている事をただ自分が納得感を得ることができただけだったりする。

そのタイミングはそれぞれで、自然に囲まれている時だったり、夜空を見上げている時、風呂に入っている時...など人によっても様々だと思う。


ここまで盛大な振りをしておいて、何を書くのかというと、つい先日、「文章が芸術の一種である」ことに気が付いた。笑わないでほしい。


何をいまさら...と言われるかもしれないけれど、恥ずかしながら僕はこれまで本を読むときに「スラスラ読めるな」とか「中々進まないな」とか「次の展開はどうなるんだろう。この人が犯人ぽいな」くらいの事しか感じてこなかった。あ、それは嘘だ。もうちょっと深く考えたこともある。

けれどもそれはストーリーについてであって、その作家の表現方法、つまり、その人の文体に特段、着目して読んだことはなかった。

何を言いたいのかというと、例えば、

・自分の思考をアウトプットする。

という文章も、

・自分の奥の奥にある何か思考の塊のようなものを、まるで土から何かを掘り起こすようにしてえぐり取り、感情やら思想やらを繊細に紐解き、するすると外につまみ出す。

と書くと、事象としては同じことが起きているだけだけれど、受ける印象がまるで違う。上の例だと、同じ「自分の考えを外に出す」という行為でも、ちょっと書き方を変えるだけで、どんなイメージで外に出すのか伝わりやすい。

つまり、淡白な文章でもその作家のちょっとした癖や色つけ方によって文章はどんどん表現の幅が広がっていくのだ。

まるで作家の見て感じている世界を、その人のフィルターを通して覗き見ることができるように、だ。


これってとても面白いんじゃない。


そう思い、作家による表現の比較のために同じ文章を書いているものを探してみると、2017年に宝島社からこんな本が出ていた。

太宰治、芥川龍之介、村上春樹、又吉直樹、シェイクスピア…日本と世界の文学者をはじめ、芸能人など110人が、多彩な文体でカップ焼きそばの作り方を綴ります。かやく、湯切り、ソース…3分間に込められた状況から心象風景まで、バラエティ豊かに繰り出される、至高の知的サブカルエンタメです。

多様ないわゆる物書きと呼ばれる人たちの文体が模され、「カップ焼きそばの作り方」が書かれているらしい。

という事で早速ポチって読んでみた。

なんだかその人のものの見方とか、妄想の膨らみ方とか価値観みたいなものが伝わってくる。

こんな風に書くと、気になる人もいると思うので、いくつか独断と偏見で紹介させてほしい。

①1973年のカップ焼きそば 村上春樹

1973年のカップ焼きそば
きみがカップ焼きそばを作ろうとしている事実について、僕は何も興味を持っていないし、何かをいう権利もない。エレベーターの階数表示を眺めるように、ただ見ているだけだ。勝手に液体ソースとかやくを取り出せばいいし、容器にお湯を入れて三分待てばいい。その間、きみが何をしようと自由だ。少なくとも、何もしない時間がそこに存在している。
好むと好まざるとにかかわらず。
読みかけの本を開いてもいいし、買ったばかりのレコードを聞いてもいい。同居人の退屈な話に耳を傾けたっていい。それも悪くない選択だ。結局のところ、三分間待てばいいのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、一つだけ確実に言えることがある。
完璧な湯切りは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
村上春樹

②焼きそば失格 太宰治

焼きそば失格
【第一の手記】
申し上げます。申し上げます。
私はお腹が空いてしまいました。このままでは得意のお道化芝居もままなりません。空腹に耐えかね、私は台所の戸棚を出鱈目に開けました。
これは、ヘノモチン。
これは、バビナール。
これは、カルモチン。
うわっはっは、と私は可笑しくなりました。
これは真っ当な人間の生活ではありません。
【第二の手記】
私は賭けに出て、最後の戸棚を開きました。カップ焼きそばがありました。カップ焼きそばは、まずお湯を入れなければいけません。私に立ちはだかったこの厳然たる事実は、私を湯の沸騰へと向かわせました。
点線までを開け、かやくを振りかけて、お湯をかける。そうれ、俺ならできる。自分で自分を鼓舞しながら、私はお湯を注ぎ込みました。私に湯切りをする資格があるのでしょうか。きっと、あるのです。あるはずなのです。「許してくれ」そう呟きながら、私はお湯を捨てました。
【第三の手記】
カップ焼きそば。
よい湯切りをしたあとで一杯のカップ焼きそばを啜る。
麺から立ち上る湯気が顔に当たって
あったかいのさ。
どうにか、なる。
太宰治


③エヌ氏の発明 星新一

エヌ氏の発明
「よし、できたぞ」
エヌ氏は得意げな表情で顔を上げた。手には白い四角形の箱をもっていた。
「わたしの計算が正しければ、お湯をいれて三分したら完成するはずだ」
箱の中にお湯をいれると熱が逃げないようにフタをしめた。三分後、エヌ氏がフタをひらいてお湯をすてると、すばらしい麺ができあがっていた。
「成功だ、焼きそばになっている」
声をあげてよろこぶと、エヌ氏はソースをかけてそれを食べた。
「これを売れば大儲けになるぞ。名前はなににしよう」
エヌ氏は知らなかった。それが「カップ焼きそば」という名前ですでに売られているということを。
星新一


④糸井重里

この本を受けて、本人がホンモノとして書き直し、完成させたものがある。それがこの人だ。

(1)まずは、小袋を取り出す。
小袋を取り出すのは、少しもめんどうくさくない。
めんどうくさいと思う人は、生きるということにあたっての、なんか根本的なところを見直したほうがいいかもしれない。
(2)お湯を入れる。あわてるとこぼれる。毎日いくつもカップ焼きそばをつくるような人は、「あわてるな」と目の前に張り紙しておくといいかもしれない。
(3)3分待つのだけれど、これはもう、とにかく待ってくれ。たのむ。せっかちなぼくでも待っているのだ。いっそ焼きそばより3分を好きになってほしいくらいだ。
焼きそばはいいよ、だいたいのカップ焼きそばはいい。ちぢれてるものは、好かれたり嫌われたりが激しいけれど、カップ焼きそばおおむね好感が持たれている。
なんだったら、あなたはもう、カップ焼きそばになってはどうだろう。
糸井重里
@itoi_shigesato ーより引用


どうだろう。

わかる人にはわかると思うし、読んだことない人でもクスッとなるんじゃないかと思う。

なんとなーく書き手による文章の違いの面白さの感じ方を伝えられたんじゃないだろうか。

上であげた村上春樹のなんかは独特な世界観が世界中で評価されているし、文章の書き方はなんだか癖になる。声に出して読んでみると文章構成が特徴的なのが分かりやすい。

それはなんでだろう?と思い、調べてみると、彼はこんなことを言っている。

「僕は文章を書く方法というか、書き方みたいなのは誰にも教わらなかったし、とくに勉強もしていません。
で、何から書き方を学んだかというと、音楽から学んだんです。それで、いちばん何が大事かっていうと、リズムですよね。文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まないんです。
<中略>
新しい書き手が出てきて、この人は残るか、あるいは遠からず消えていくかというのは、その人の書く文章にリズム感があるかどうかで、だいたい見分けられます。でも多くの文芸批評家が、僕の見るところ、そういう部分にあまり目をやりません。文章の精緻さとか、言葉の新しさとか、物語の方向とか、テーマの質とか、手法の面白さなんかを主に取り上げます。でもリズムのない文章を書く人には、文章家としての資質はあまりないと思う。もちろん、僕はそう思う、ということですが。」
  (村上春樹・小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』より引用)

文章を音を連ねるようにして書いているなんて…天才だ。

そう思った人は、カップ焼きそばの書き方ではない、本物の彼の作品を読んでみて欲しい。

まとめ

ここまできて、結局なんで文章は芸術なの?と聞かれると思う。

そこに対する個人的な答えは

その人独自の世界観を文章を通じて可視化できるようにして読者に伝えられるから。その世界観は好きかもしれないし、嫌いかもしれない。中には全く理解できないものもある。

そんな”各人の感性に帰属して受容する点”が絵なんかの美術作品と一緒だからだ。

そんな芸術の一種である文学の楽しみ方は、それぞれの作家の表現を今の自分なりの解釈で捉えることだろう。


『感性を磨く』という言葉がある。

絵を見たり、音楽を聞いたり、映画を見たりすることで、自分の良いと感じる感覚がどんどん洗練されて見えてくるし、それは年齢や経験とともに変化していくんだろう。

「あの時に受けた感覚とまた違う」そんな楽しみ方ができるのが文章であり本なんじゃないかと思う。

折角、家で過ごすんなら”今”しか味わうことができない時間の為に、読書に時間を費やしてみてはどうだろう。







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