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【福祉を読む】先崎学『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』

それは、6月23日にはじまった。

疲れが取れない。頭が重い。気分が暗い。それが一日中続く。一人で家にいると、猛烈な不安がおそってくる。家を出ようとするが、今度は家を出る決断ができず、ソファーで寝込んでしまう。対局中も集中できず、座っているのが精一杯。

精神科医の兄がすっ飛んできた。すぐに病院に行けと言われ、担当医からは「おそらくうつ病でしょう」といわれた。その後1年にわたる「うつ病生活」のはじまりであった。

★★★

本書は滅多にない本である。棋界トップクラスのプロ棋士が書いたうつ病体験記だから、ではない。そもそも、うつ病の当事者が自分の言葉で、発症から回復までの過程をすべて書いた本が少ないのである。実際、本書は刊行後話題になり、漫画やラジオドラマ、テレビドラマになった。もちろん内容が素晴らしいからではあるが、それに加えて、本書の「希少さ」も影響しているように思われる。
もちろんうつ病といっても、症状は人によって違う。だから、本書で書かれていることが、すべてのうつ病患者に当てはまるわけではない。そのことはこの種の本を読む前提だが、念のため。

とはいえ、著者が書く「当事者の心理」は、読んでいてドキッとさせられる。
例えば発症当初、著者は無理して対局に出かける。駅に行くと、無性に怖くなる。電車に乗るのが怖いのではない。ホームに立つのが怖いのだ。

なにせ毎日何十回も電車に飛び込むイメージが頭の中を駆け巡っているのである。いや、飛び込むというより、自然に吸い込まれるというのが正しいかもしれない。死に向かって一歩を踏み出すハードルが極端に低いのだ。

本書p.17

健康な人間は生きるために最善を選ぶが、うつ病の人間は時として、死ぬために瞬間的に最善を選ぶ。

本書p.18

そんな状態であるから、棋士としての生活どころか、通常の生活さえ成り立たない。著者は入院することになる。入院中の生活もつぶさに描写されているが、印象的だったのは、とにかく何もできなくなることだった。本を読んだり将棋を指すどころか、考えることさえできず、ニュースを見ても意味が理解できない。「ただただ横になり、食べ、薬を飲み、眠るだけの日々だった」と著者は書いている。

面白いのは、徐々に回復するにつれ、文章は読めないのに「エロ記事だけは読める」ようになったというくだり。「週刊文春」は読めないのに「週刊現代」は読めるようになったという。あと女性誌のどうでもいいような記事がなぜか読めるようになったそうだ。

かけられて嬉しい言葉、というのもある。一番嬉しいのは「みんな待ってます」という一言だった。似たエピソードは退院後にも出てくる。やはり「楽しみにしてます」「また元気になって将棋を教えてください」といった言葉かけが、一番力になったという。

うつの人間は自分なんて誰にも愛されていないのだと思うので、みんなあなたが好きなんだというようなことをいわれるのが、たまらなく嬉しいのである。あとはできれば小さな声でボソボソと話し、暗い人間を元気づけようとして無理に明るいことをはなさないようにすれば完璧である。

本書p.41

本書に書かれていることの中には、将棋のプロである著者にしか当てはまらないようなものも多い。リハビリに詰将棋をやったり、若手の棋士と対局し、その出来栄えによって回復の度合いを測るといった方法は、他の人は真似したくてもできないだろう。だがこれは、リハビリ法は必ずしも一定ではなく、その人の得手不得手や好みを反映したものであったほうがよい、ということでもある。

★★★

それにしても本書を読んで思うのは、家族でもあり精神科医でもある、著者の兄の存在の大きさである。家族が専門職だとかえってうまくいかないこともあるが(だからケアマネでもふつう自分の家族のケアプランは作らないし、リハビリ職でも家族のリハビリは他の専門職に任せたほうが無難である)、このお兄さんは稀有な例外で、とにかく家族としての近しさと精神科医としての専門性のバランスのとり方が絶妙だ。特に、兄の名言録はそれだけで一本の記事が書けそうなくらい。特に印象に残ったのは次の言葉だった。

医者や薬は助けてくれるだけなんだ。自分自身がうつを治すんだ。風の音や花の香り、色、そういった大自然こそうつを治す力で、足で一歩一歩それらのエネルギーを取り込むんだ!

本書p.63

うつ病は必ず治る病気なんだ。必ず治る。人間は不思議なことに誰でもうつ病になるけど、不思議なことにそれを治す自然治癒力を誰でも持っている。だから、絶対に自殺だけはいけない。死んでしまったらすべて終わりなんだ。(略)究極的にいえば、精神科医というのは患者を自殺させないというためだけにいるんだ。

本書p.158

本当は、本書はうつ病の当事者に読んでほしい一冊なのだが、渦中にいるとなかなかそういうわけにもいかないだろう(そもそもうつ病になると本が読めなくなることは、本書でもたびたび書かれている)。だから、本書はうつ病の患者を抱える家族や、患者にどう接してよいかわからない友人、同僚の人におススメしたい。とくに家族は、どん底の状態もいつかは抜け出せること、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、それでもいつかは回復することがわかり、見通しを持つことができるだけでも、かなり気が楽になるのではないか。そして、そんな効用が得られれば、著者がこのような本を書いた甲斐もあるように思われる。


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