意思は行動の神様じゃない

今読んでいる、國分功一郎さんの『中動態の世界』。

この第1章の冒頭部分に、面白い記述がある。

現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうとする意思が意識の中に現れてくるのだという。

つまり、
無意識下での運動プログラム作成→意思の現れ
という順番になる。
意思が最初ではないのだ。
こうした理由から「行動は、自分の意思によって厳格にコントロールされている」とは言い切れない。

多くの人が、その行いによって賞賛されたり、批判されたりする。
しかし、行為の中に、どれほどその人の主体性が含まれているか分からない今、私は軽率に人を判断することができないでいる。

いや、そもそも、判断すべきは人ではなく、行為の発露に至るまでの過程なのかもしれない。

行為にかかわった人と、その周りの人とで、行為が辿ったプロセスを取り出して真ん中に置く。
そして「これ、どうしようか」と一緒に思索する

裁判のように人を判断するよりも、はるかに面倒臭いけれど、これをなんとか日々の暮らしの普遍とすることは、できないのかしらん。

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