野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 3月号 特選 4首
投稿歌人、八号坂唯一です。
前書きとしていろいろと書かなければならないのでしょうが、どうやら私は人より劣っている(でなければこんな状態にはなっていない)らしく、上手く文章を書くことができないので、そのまま短歌鑑賞に入りたいと思います。私に期待されている方を裏切ってばかりで、本当に申し訳ありません。
野性時代2020年3月号の288ページ、野性歌壇の右側四首を鑑賞します。
テーマ詠「写真」
2020年3月号 加藤千恵 選 特選 1首
大阪府 藤田哲生
テーマ詠に使われたモチーフ『フラッシュ』
エレクトロニックフラッシュ(英: Electronic Flash )は主に写真撮影の際に使われる発光装置。発明以前に広く使われていたフラッシュバルブ(閃光電球)との区別のためこの名称となったが、その後フラッシュバルブが使用されなくなったため単に「フラッシュ」と略称されている場合が多い。 (以下略)
エレクトロニックフラッシュ-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手はふと自分の過去を振り返ってしまう。それは一日の終わり眠る前なのか、それとも通勤時のことなのかわからない。詠み手はなんとなく自分の過去を振り返ってしまったのだった。頭の中にはいくつもの幸せだった時間が浮かび上がる。
詠み手はなんとなくそれらの幸せだった時間が分類できると予感した。そして、しあわせとはフラッシュの光のように与えられる瞬間と、気が付けばその時期は満ち足りていたという木漏れ日のような時間に分かれることに気づいた。おそらくこれから訪れるしあわせも、そのどちらかになるのだろう。
詠み手が感じたことをそのまま短歌にした内容である。作者はこのようなことを考えておらず詠み手のところまで表現を落としているのか、それともこれがそのまま作者の意図する内容なのかは判断できない。しかし、この言いきりによって読者に共感してほしい部分がむき出しになっている。
この短歌ではしあわせには2種類の時間があると書いている。一つはフラッシュの光のように瞬間的にやって来るもの、もう一つは木漏れ日のようにやわらかく降り注いでいる持続的にやって来るものである。
簡単な例を挙げるとするなら、フラッシュの光のようなしあわせとは、受験や就職、結婚などのように人生の節目に自らが選ばれるような突然やってくるものだろう。そこに至るまでは様々な苦労があるが、その瞬間的なしあわせはその苦労さえも吹き飛ばしてしまうほど力強い。
木漏れ日のようなしあわせとは、その生活自体を指している。学校生活や仕事、家族生活など、些細でなんでもないと思えるような日でも、そこには確かにしあわせの時間が差し込まれている。苦労の時間もあるが、トータルで見れば確かにしあわせだったと思えるような柔らかさがある。
フラッシュも木漏れ日も、どちらも光を軸に対比している。フラッシュのような強烈な光も、木々の影から放たれる淡い光にも、それぞれ違った印象を読者ごとに持つだろう。私の場合は瞬間と期間と解釈したが、また別の捉え方もあると考える。
どちらの光にも実際は強烈なエネルギーがある。フラッシュの光は一瞬ではあるがフィルムに永遠を焼き付けるほどの光であり、木漏れ日は木陰の中で弱く見えるが太陽から降り注ぐほぼ永続的な光である。過ぎてしまえば大したことないような光であっても、その時確かに自らにそのようなエネルギーが与えられている。
過去を振り返ったとき、今置かれている状況にしか、そのようなしあわせを味わえないのだろうか。詠み手はそのような過去のしあわせを整理をしたことで、これからやって来る些細な瞬間や、時間をしあわせと認識できるようにしたのではないだろうか。
そう考えると、このしあわせの時間の断定には過去へのなつかしさだけではなく、未来のしあわせを受け止める前向きな意思も感じられる。読者にも、そのような光のようなしあわせがおそらく確実にやって来るであろう。受け止められるような感度を持っておきたい。
2020年3月号 山田航 選 特選 3首
大阪府 たろりずむ
テーマ詠に使われたモチーフ『静止画』
画像(がぞう)とは、事象を視覚的に媒体に定着させたもので、そこから発展した文字は含まない(例:文字と画像、書画)。定着される媒体は主に2次元平面の紙であるが、金属、石、木、竹、布、樹脂や、モニター・プロジェクター等の出力装置がある。また、3次元の貼り絵、ホログラフィー等も含まれる。
(中略)
・時間を基準とすると、静止画、動画に分類され、静止画動画はモーションピクチャーという。画像は一般に静止画像をいうことが多い。(以下略)
画像-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は写真撮影が苦手である。みんなで集まってカメラの方を向き、撮影の合図を待つ。合図が来るまで詠み手はずっと笑顔を作っている。しかし、合図はなかなか来ない。詠み手はふと気が緩んで普通の顔になってしまう。その時、撮影の合図がかけられる。撮りなおす勇気もなく、写真撮影は終わる。
後日、詠み手は送られてきた写真を見る。普通の顔だと思っていた自分の顔は、思ったよりも笑顔だった。けれど、それは本当に笑顔になっていたわけではなく、笑顔と呼ばれる顔の筋肉の動かし方をしただけである。詠み手はしばらくその写真を眺めた後、そのままアルバムに片付ける。
この短歌の読み方は集合写真の中に入っている詠み手を想像して読んでみたが、実際にはスマホで自撮りしている詠み手や、少人数の集まりで写真を撮っている時と考えた方が自然だろう。
写真はいつから笑顔を作って撮らなければならなくなったのだろうか。思えば、子供の頃から写真を撮る時は笑顔でと、大人から言われてきたように思う。しかし、そこまで子供は言う事を聞くわけではないから、後になって子供の頃のアルバムを見返せば笑っている写真というのはあまり多くない。
ある程度分別が付くようになってから、写真は笑顔で写るものという常識を受け入れることになる。これは後で写真を見返したときに誰かが気分を悪くしないようにするという配慮があるのだろう。おそらく記憶というのは、人の顔を見ただけで簡単に入れ替わってしまうものなのかもしれない。
写真を撮られるのが楽しいという人でなければ、何かの時に写真を撮るときには必ず笑顔を筋肉から動かしている。心から笑っている時に誰かが写真を撮ってくれることはあまりない。大抵は心では笑っていない笑顔の状態で写真に撮られている。
詠み手はそれを笑顔っぽいと表現している。完全に笑顔になったわけではなく、筋肉の動きで笑顔のように見える状態である。笑顔のように見えるのだから、後から見返せばそれは笑顔だと勘違いするだろう。その時、本当に楽しくなかったとしても。記録は嘘をつかないとされているが、こういう点から見ても人は簡単に過去の記憶を偽ってしまう。
別の見方もできる。笑顔っぽいというのは、笑顔になるまでの過程の状態ともいえる。芸能人が何かの表情になる時の筋肉が緩んでしまっている状態を、面白画像としてネットにあげられたりしているけれど、あれも何かの表情っぽい状態と考えることが出来る。
完全に楽しいという状態が永遠に続くわけではないから、完璧な笑顔の状態のままなどなく、楽しい時でも笑うほどではない瞬間もあると考えられる。この場合だと、先に挙げた笑顔を先に作ってから楽しいとする加算的な考え方とは逆であり、確かに楽しいけれど笑顔になるほどではないという減算的な考え方になる。
喜怒哀楽どのような表情にも、そこに至るまでの筋肉の動きがあるはずなのに、どうして詠み手は笑顔だけに注目したのだろうか。それは写真を撮る時には笑顔になるという常識が存在し、しかし現実にはそうではない場合もあると知っているからである。
自分を偽るという行為は、他人との関係によって生まれてしまう。他人にどう見られているかで、心や体を決めてしまう場合がある。写真を笑顔で撮る時も、ことさら派手に怒っている時も、他人を私の感情でどうにかしようとする意識から発生している。
この他人からどう見られているかという自意識の揺れが、この短歌に表現されている。自らの姿を写真によって自らに晒してしまうことにより、見た目の価値や評価を意識させられてしまう。少しでも他人に印象よく見せるためには、人は清潔感のある笑顔にならざるを得ないのである。
例えそれが笑顔っぽいところで止まっているだけだとしても、写真を見ている人にはその表情の下の本当の感情が、おそらく無意識下で理解されているのである。だれしもが経験している状況と行為であるがゆえに、この短歌の下にある詠み手の苦痛が共感されやすいのである。
東京都 シロソウスキー
テーマ詠に使われたモチーフ『飛行機雲』
飛行機雲(ひこうきぐも)は、飛行機の航跡に生成される細長い線状の雲。ジェット機などのエンジンから出る排気ガス中の水分、あるいは翼の近傍の低圧部が原因となって発生する、排煙ではなく雲である。別名航跡雲(こうせきうん)、英語ではcontrail(コントレイル)。
(中略)
観天望気では「飛行機雲は天気の変わる兆し」といわれており、飛行機雲がはっきりと表れるときは上空の空気が水蒸気を多く含んでいるため天気が悪くなることを示している[2]。「飛行機雲がすぐに消えると晴れ」ともといわれており、このようなときは上空の湿度が少ないため天候は悪化しないことを示している [3]。 (以下略)
飛行機雲-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手はその時本当にその瞬間を写真に収めたいと思ったのだろう。そこには後で誰かに見せるわけでもなく、自分で見直すだけではなく、その時の状況に立ち会えたことをどうにかしようと思った。真っ青な空に、ゆっくりと空の向こうへと伸びていく飛行機雲があまりにも素敵だったのだ。
この感動をいま風にあらわすと、いいね、になるんだろうかと詠み手は思う。けれど、それ以上の感動が詠み手の体の中から溢れそうになっている。このいましか味わえない感動が大事だと詠み手は思う。いいね、この飛行機雲、本当に、いいねって思う。
この短歌は、詠み手が飛行機雲の写真を撮るという行動を描写しているけれど、その写真自体に詠み手は価値を見出していない。あとで見返す必要はないと初めに書いてしまっている。わざわざスマホかカメラを取り出してまで、その飛行機雲を写真に撮る理由とはなんだろうか。
この状況に立ち会えたという自らに生まれる感情を自身に残そうとするために写真を撮っている。ここには写真の外部記憶に残すという方法では、自らの感情を再現できないという現在の限界がある。今詠み手にできることは、この感動を自らの記憶に強く残すということだけである。
もちろん写真ではなく、動画で自分の声と共に収めればいいだろう、という現実としての褪めた目もある。おそらく写真を撮ることよりも、自らの声色や視線や手持ちカメラの微かな動きまでが、後で見返さないという前提を覆すほどの確かな感情の再生装置になるだろう。
ここで詠み手の感情と行動に矛盾が生まれていると気づく。選者の 山田航 は短評にてこの撮影行為を「ありのままで純粋な感情の冷凍保存」と書いているが、何か保存をするという行為にはあとで見返してそれを確認するという未来へ価値が期待されている。
飛行機雲を見て感動に打ち震えたとしてもわざわざ残す必要はない。確かに写真を撮るという初期衝動はあるけれど、それは写真という自らの手によって対象を切り取るという価値が発明されたことによって生まれた衝動である。写真が生まれ、そして動画まで手軽に撮れるようになった現在であれば、詠み手はより初期衝動の価値と未来への価値を高める行動をとるはずだろう。たとえその時は見返すことがないと思っていたとしても。
このテーマ詠が写真であるがゆえに、写真を撮るという行為へと詠み手の行為が制限されてしまっている。この短歌では、撮る、とまでしか書いていないので、この誌面から解き放たれれば私が考えているように動画を撮影しているとか、さらには個人的にネットで配信しているという部分まで想像力を推し進められるだろう。
撮影するという行為は保存行為である。しかし、詠み手はその保存行為の価値を一時的に放棄している。よってこれが保存行為でなければ、これは消費していると考えるのが筋が通りそうな読み方だろう。
この飛行機雲が空に伸びていく時間、そして詠み手が感じている空気や音や粘膜に触れるその五感。それらによって体から湧き出る感情を最大限に消費するために、詠み手には何かしらの増幅が必要になっていたのだ。それがここでは、写真を撮るという行為による価値が増幅へのトリガーになっている。
人は常に矛盾するので、詠み手がそう現実そう思っていても、自らに生まれている予感や未来は違っているという事はよくある話である。この短歌は、そのような自己矛盾を客観的な言葉で取り繕う事もなく、さらけ出してしまうことにより、この時の感情の高ぶりをそのまま表しているように見せている。
写真という一方的なテーマでありながらも、詠み方によって詠み手のその状況での在り方が拡張されていくのが、この短歌の面白い所だろうと考える。読者であるあなたはどのように詠み手の、いいね、を捉えるのだろうか。
大阪府 森村真好
テーマ詠に使われたモチーフ『連写』
モータードライブ(Motordrive )とは、カメラのフィルム巻上げの自動化と高速化を可能にするためのカメラアクセサリーである。「モードラ」の略称が浸透している。
ロールフィルムを使用するカメラでは、シャッターレリーズによる露光終了後に人の手によってフィルムを巻き上げレバーまたは巻き上げノブにより巻き上げ、シャッターをチャージするという作業が必要である。このため報道写真や動物写真で必要な高速連写が不可能に近かった。そこで高速連写を可能にするために開発された自動巻き上げ装置がモータードライブである。
モータードライブ (カメラ)-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
その時はしょうもないことで私たちふたりは笑いあっていたと思う。一体なんで笑っていたのかは今となっては思い出せないけど、とにかくその時は楽しくて仕方が無かった。私はなんとなくスマホを取り出して私たちの顔を撮り始めた。相手は嫌がるそぶりでスマホのカメラから離れようとする。
私は写真を撮るつもりだったのに、シャッターのアイコンを長押ししてしまった。スマホから連写音が響く。私たちは笑いながらスマホに写ったり写らなかったりする。そして、さっきの撮った写真を見直すと、そこには画面に全く映る気の無い私たちの姿があった。その歪んだふたりの姿が面白くってさらに笑えてしまう。
とても楽しそうな雰囲気の短歌である。どのような楽しさがあるかは、読者各自の経験によるだろうが、そのような雰囲気の中で撮られた連写の画像が全てぶれてしまっているという様な内容である。
詠み手とその相方、この相方の性別も同性、異性で細かい部分の意味などが変わってくるのだろうが、あくまでもここでは連写された画像を詠んだ短歌であるので、その状況描写は省かれている。そこにはふたりだけの世界が作られている。
ふたりだけで作られた世界であるのに、それを客観的に描写するはずのカメラでさえ、ふたりを捉えることが出来ない。その点もふたりだけの世界をより強くする描写に繋がっているのだろう。
ふざけきったふたり、という描写もふたりの仲の進展が十分に進んでいるというイメージを与えている。あくまでもその時にじゃれ合っていたという描写でしかないけれど、ふざけている、という言葉を使っていないので、そのような別の意図があると想像させている。
後の文章は、選者の山田航の短評にもあるように、4句が6文字、結句が7文字と字足らずの構成になっているのだけれど、読み方の妙により違和感を感じさせない。そこには厳密な短歌の7拍子+休符の8拍子のリズムではなく3連符の4拍子のリズムになっているからだろう
この短歌では、ぶれて、を3回繰り返している。普通の短歌であれば2回目と3回目の間に、足りない1文字と休符の1拍が欲しいと思うはずなのだが、実際に1文字足してみるとそちらの方が違和感を感じてしまう。
ぶれて、の、ぶ、が頭になって3回続くことで、自然と文章が3拍に変化している。短歌は57調の4拍のリズムであるので、そのまま4拍目として4文字分を、ぶれて、のように読んでしまう。短歌としてではなく音楽として読むとすんなりと受け入れられてしまう言葉の面白さだろう。
このテンポの良さも、このふたりの関係性を表しているようで、とても面白い。ここでの言葉が短歌の領域ではなく、音楽の領域に変化しているように、ふたりの関係も普段とは違う感情の状態を表しているかのようである。それを補強するように、ふざけきった、という完了した言葉が最初に置かれている。
次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 4月号』の短歌鑑賞なのですが、次回の更新からは1首単位での鑑賞で記事を作成していきます。いま、4月乃至6月号までの短歌が溜まっていて、それを随時鑑賞して記事にしたいと思います。本当に仕事が遅い人間で申し訳ありません。
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