野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 2月号 山田航 選 佳作 10首

 投稿歌人 八号坂唯一です。好きなものはお金と承認です。

 前回の短歌鑑賞はご覧になったでしょうか。更新速度が遅くて待ってられないという人もいると思います。私もそう思います。自分でもここまで人の短歌を鑑賞するのが辛いとは思っていませんでした。1首鑑賞を書いてはパソコンの前から逃げ、数日経ってからまた1首鑑賞を書くという歩みの遅さで、むしろ特選まで鑑賞できたことを褒めたいぐらいです。

 2月は日数が少ないので、先延ばしにしているとあっという間に3月になってしまう。(注*そして、なってしまった)楽になるためにはできるだけ早めに書き終えたいですが、さて、どうなることでしょうか。(注*おそらく無理そう)他人の短歌を眺めるのは楽しい、どうしてこんなことを考えたのかと相手の立場になろうとすると、その経験は私には無いので、想像できずとても苦しい。ただの人間としてみれば、どの言葉も同じであるはずなのに、重みや風景が違うように見えるのは何故なのでしょうね。

 「小説野性時代2020年2月号」の393ページを開いてください。今日は左側の10首を鑑賞します。

 テーマ詠「日付」

2020年2月号 山田航 選 佳作 10首

 大阪府 野呂祐樹

 テーマ詠より使われたモチーフ『(会社を)辞める日』

 会社(かいしゃ)とは、日本法上、株式会社、合名会社、合資会社及び合同会社をいう。また、外国法における類似の概念(イギリスにおけるcompany、アメリカにおけるcorporationなど)の訳語としても用いられる。
 (中略)
 2008年(平成20年)10月末現在、会社法上の会社は334万1000社(清算中の会社を除く)あり、うち株式会社(特例有限会社を除く)が139万4000社、合名会社が1万8000社、合資会社が8万5000社、合同会社が、1万4000社である[9]。 (以下略)
会社ーフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 「あの人」や「この人」について、私たち読み手が知る手掛かりは全くない。ただ「会社」を「辞める」という事実しかなく、どのような業種の会社なのか、なぜ辞めるのか、辞める人たちは男性なのか女性なのかも読み取れない。それらの人物を知っているのは、今も会社で働いているであろう詠み手しかいない。
 しかし、どうして「あの人」や「この人」と言った、指示語を使っているのだろうか。そのせいで辞める人たちと詠み手の関係性が見えず、会社の中の希薄な感じを読み手に与えるのだ。具体的に「原さん」や「西本」など、名前を用いてその人物との関係性を想像させるのも可能だったはずだ。
 この短歌では名前を出すことによる読み手との関係性の濃さよりも、「あの人」や「この人」という指示語をあえて使用することにより、関係の希薄さを狙っているとも読める。どうしてそのように読めるのかは、後に続く「五日で辞める」や「十日で辞める」という言葉にある。
 私は初め、何月かの五日と十日に辞める人たちを詠んだのだろうと思っていた。だから、何か月か、あるいは何年かは分からないが職場の中で長い付き合いだったであろう、「あの人」や「この人」への詠み手の関心の薄さが気になってしまったのだが、むしろこの関心の薄さはそこまで関心を持てるような長い付き合いではなかったからなのではないか。
 つまり「あの人」も「この人も」職場で働いてから数日で辞めてしまう人たちなのではないか。そう考えると「五日で辞める」という言葉もしっくりくる。すでに先に書いていたが辞める日付を指定している場合は、五日に、の方が通じやすいからだ。「五日で」だと日付と日数の両方で読めてしまう。どちらの意味にも取れるような助詞を使っている場合は、そもそも使われるべき助詞が持っている意味ではない方を選択して読むべきだろう。
 ただそのように読んでしまうと、すぐに辞めてしまう人たちの実態とは違っているように見える。そこまで早く辞めてしまう人は、既に会社には行っていないか、一方的に会社に辞めると伝えているかだろうし、どちらにしろ円満に辞めるということは難しいように思える。彼らが正社員ではなく、パートやアルバイトであったとしても、やはり「辞める」には会社との話し合いが必要になるので、そうそう簡単に「辞める」とはいかないだろう。
 「辞める」という言葉ではまだ会社に所属している感じがするので、辞めたとしたほうが合うような気がするが、それは私が「辞める」人たちを過去の事として、この短歌を読んでしまっているからだろう。
 「あの人」や「この人」の雇用形態や勤務態度についてどちらでも読める、ということは、どちらでも読んでいいということになる。詠み手の意図は「辞める」人たちにではなく、「会社は続く」という部分に置かれているのだ。
 どのような人であれ、いつかは会社を「辞める」。そして会社は経営状態にもよるが、働く人が居る限りは続けられる。詠み手の職場では立て続けに人が辞めてしまった。職場の人手が足りなくなってしまうが、すぐに新しい人を入れるのは難しい。辞めてしまった人たちの分だけ、詠み手の仕事量が増えるだろう。しかし、それでも詠み手が会社に所属している以上は、会社が無くならない限り、何とかやっていかなければならない。
 ある種、ブラック企業についての短歌とも読めなくはないが、「辞める」という事実しか書かれておらず、その詳細な部分は書かれていないので実際は分からない。「会社は続く」のは、詠み手以外の会社にも当てはめられる。
 「会社」というのは、突き詰めると人の出入りなのだ。会社の成長や利益、業績など、生存するには様々なものが必要であるが、それを生み出すためにはまず人が居なければならない。しかし、そこで働く人は有能であればどのような個性でもいいのだ。短歌の意図はこの部分にありそうな気がする。だから、「辞める」以外の詳細には書かれていないのだ。
 「あの人」も「この人」も詠み手もどのような生活があるのだろうか。それは読み手が勝手に想像するしかないが、読み手には辞めてしまった人たちと詠み手には大きな差はなく、「会社」に残った人か、そうでないかの違いでしかないのだ。しかし、その違いは詠み手にとって大きい差のように見えているのだろう。「会社は続く」と詠み手が「会社」を主体として見ている以上、「会社」を自身の構成要素として感じているのは確かだ。

 気になった点
 「会社は続く」という詠み手の意図は分かりますが、「会社」という範囲が大きすぎるので働く人誰にでも当てはまりそうな短歌でありながらも、漠然とですが、でも自分の「会社」とは違うな、という安心への逃げ道があるような気がしました。おそらくこれは詠み手自身がまだ「会社」に所属しているという安心感があるからかもしれません。
 この「会社」という部分を、もう少し「地球」や「命」など範囲を広くしたらどうなるかを考えてみましたが、途端に詠み手が説教臭くなってしまいます。どの大きさの範囲が詠み手と読み手の交わるコミュニティなのかを考えると、「会社」や「学校」などと行った、ある程度の他人が集団で生活する環境を当てはめるしかないのでしょう。


 大阪府 たろりずむ

 テーマ詠より使われたモチーフ『(お守りの)有効期限』

 お守り(おまもり、御守り、御守)とは、厄除け(魔除け)、招福(開運、幸運)、加護などの人の願いを象った物品(縁起物)である。護符、御符[1]とも呼ばれる。外来語で言うとアミュレット、タリスマン、チャームなど。 (以下略)
お守り-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 その人が持っていた「お守り」は一体何だったのだろう。健康祈願、無病息災、交通安全、家内安全、旅行安全、安産祈願、厄除けなど、自身の生命に影響がありそうな災いを避けてくれそうなお守りは多種多様であるが、有効期限が切れてしまったために効力が無くなり、死の間際に「死ね」と言われてしまうようなお守りを授けられて、さぞ後悔していることだろう。
 詠み手、ここでは神様かもしれないし、神様の使いの人なのかは分からないが、お守りを授けられた人よりも目線が高い所からこの短歌は作られている。一見するとくすっと笑ってしまうような短歌であるが「死ね」と言われているのに、どうして笑えてしまうのだろう。笑いを説明するのは無粋なのであるが、これは詠み手とお守りの所有者、どちらの立場から見てもおかしい所があり、それが笑いを生んでいるのだ。
 まずお守りを授けた詠み手はおそらくは神様であるのだろう。今際の際にいる人間に直接「死ね」と言いに行ける存在は、近親者か被害者か債務者ぐらいなものだが、どちらにしろ放っておけば死ぬのだから、わざわざそんなことを言わなくてもいい。
 あと少しで死んでしまう状況で、お守りの瑕疵のクレームに「申し訳ございません」と丁寧に謝罪しながらも、しかし契約上に則った上でお守りの非を認めないといった面倒なやり取りが出来るのは、お守りの所持者は日常生活よりも死に近い階層で行われているからだろう。そんな場所でクレーム対応できるのは神様ぐらいしかいない。
 しかし神様であれば六法に縛られず、質量保存の法則にも縛られないはずで、「お守りの有効期限」云々問わず、困っている人は全て助けてやれよとは思うが、それは私たちとは違う法則によりできないのだろう。そうなると「有効期限」内や、道徳や能力の範囲だったら助けるのか、という人間界の慣習に神様は落とし込まれることになり、それだったら人間同士で出来る限りやれる話なので現実で十分である。じゃあ神様の存在意義って何だという事になるが、そのことには答えずただ神様は謝罪しにくるだけである。謝罪されてもその先は死でしかない。
 そして「お守り」を持っている人には、どうして神様の力を求めているのに、その能力の有効範囲や「お守りの有効期限」を気にしなかったのかという、肝心な部分での人間の脇の甘さを感じてしまう。そもそも論として、どうして死の状況にいるのかという部分は、人間にはいろいろと限界があるからさておくとしても、神様と接見できる状況にいて直接死を回避できる権利を行使できるのに「お守りの有効期限切れ」によってその権利が無くなってしまうのは全く持って残念な話だ。
 ということは、この「お守り」を持つ人は最初から神様の能力について信じてはいない節があり、だとしたらなぜ無能と思われている神様の「お守り」を持っているのだろうか。誰かから貰ったのだろうか。そうなると、誰かから譲渡された「お守り」の効力について考えてしまいたくなるが、それを考えると現実界に縛られた神様の思うつぼになってしまう。ここには人間の現実を越えた部分についての実感の無さを共感しつつ、最後の最後でチャンスを逃してしまう人間の可笑しみがある。
 死神、という古典落語がある。死神によって人の死期が見えるようになった男の話だ。男は医者として生計を立てるようになるが、自らの欲によって本来、死ぬべき患者を生きながらえさせてしまう。怒った死神は人間の寿命が蝋燭の火となって置かれている洞窟に男を連れて行き、自ら欲によって短くなり火が消えかけようとしている男の蝋燭を見せる。死神から新しい蝋燭を渡され火を移せば助かると言われて何とかして火を移そうとするが、男の必死な労力もむなしく火は消えてしまう。
 短歌では死のうとする人間がお守りを握っているとは書かれていないが、ふと落語の死神でロウソク片手に絶命した男と重なって見えたのは、そのような人間の間際の必死さとその手前の自業自得が誰にでも起こりうると私が思っているからだろう。
 人は絶命の瞬間に何を握っているのだろうか。溺れる者はわらをもつかむということわざは比喩や大げさではなく、実際に人間の最期の意思表明であるような気がする。人の死や検死という部分まで考えてみたいが、このままでは短歌鑑賞からは外れてしまうので、鑑賞はここでおしまいにする。

 気になった点
 お守りの有効期限はいつまでなのでしょう。ネットで調べてみますと、一年ごとに新しくする方がいいという説と、願いが叶うまで持ち続けていいという説の両方があり、おそらくは叶えたい願いによって有効期限も違うのかもしれません。やはり神様のルールというのはわかりません。
 「申し訳ございませんが」という申し訳には有無を言わさぬ力があり、それ以上何を言っても先方には伝わらないという凄みを感じます。この言葉によって生死の際を人間の日常にまで落とし込む要素になっているのですが、作者も「申し訳ございませんが」という言葉によって通らなかった希望があるのでしょう。


 神奈川県 小鷹佳照

 加藤千恵 選の特選に選ばれている為、『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 2月号 特選 3首』にて鑑賞します。


 埼玉県 雨月茄子春

 テーマ詠より使われたモチーフ『(死亡推定の)日めくり』

 孤独死(こどくし)とは主に一人暮らしの者が誰にも看取られることなく、当人の住居内などで生活中の突発的な疾病などによって死亡することを指す。特に重篤化しても助けを呼べずに死亡している状況を表す。
(中略)
 性別に関しては、阪神・淡路大震災以降に被災者内に見られた孤独死事例やまたは随所で行われているその他の集計において男性は女性の2倍以上の高率で孤独死しやすい傾向が見られる。(以下略)
孤独死-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 この短歌は、いつ頃に詠まれた短歌だろうか。「孤独死」してしまった人の部屋には「日めくり」が、死亡した日からめくられずに残されている、という短歌である。印象が悪くなるだろうから、後の入居者が見つけたとは考えにくい。となると、その部屋に入ったのは大家か警察関係者か、近親者か、特殊清掃業者ぐらいだろうか。もしくは短歌における詠み手は誰でもなく、作者がその状況を俯瞰しているという視点もある。
 「孤独死の男の部屋」と書かれている。これは私が見聞きした「孤独死」というイメージになってしまうのだが、その部屋は整理されているとは言えないのだろう。床に直にゴミや物が置かれている状態を想像してしまうが、これはメディアによる「孤独死」の現状として広められたものであり、実際はさまざまな部屋で起きているのだろう。突然死と表記することもできるが、それでは広い意味での死を扱うので、「孤独死」に込められた広く伝わっているイメージを使えなくなってしまう。
 孤独死と突然死という内包的な関係から見えるが、この短歌が書いている状況には矛盾がある。「孤独死」してしまう男は毎日「日めくり」をするような部屋の領域や、欠かさない習慣があるのだろうか。現実では整理整頓できるような性格の人間であっても死を避けるのはできないのは確かだ。この短歌は整理された部屋の中の「日めくり」に注目することで、死自体の逃れられなさを表そうとしているのかもしれないが、その状況では「孤独」という部分の印象が薄くなってしまう。
 また「孤独死」には自死もある。身辺整理の果てに行われるものであれば、整った状態の部屋というのもあるだろう。しかし、その場合であれば「孤独死」よりも自死や自殺という言葉であった方が、より短歌の背景が伝わりやすくなる。自ら選ぶ自死でもなく、不慮の事故という突然死でもない死の範囲の中に、それらの要素をまだらに含んだ「孤独死」が存在しているのだ。
 テーマが日付であるので、そこから導き出された短歌であるのは確かだ。人には誕生日があるが、そして死亡日がある。どちらを選択するかは作者が短歌に何を感じているで変わってくるが、死亡日と選択した作者がその死の状況に「孤独死」を選んだのは、やはり最近のメディアによる「孤独死」の報道があるからだろう。作者の身近に「孤独死」してしまった人がいるのかもしれないが、短歌でそのように詠み手や作者の身近な事として書かれていない以上は、余計な推察でしかない。
 詠み手が「孤独死の男の部屋」に足を踏み入れた時、一体何を感じたのだろうか。この短歌には、部屋で死んだ男に対する恐怖心は読み取れない。詠み手の印象に残っているのは、部屋に置かれている「日めくり」である。「日めくり」にはめくり始めてから欠かさずめくり続けることで日を伝える機能しかなく、部屋の男が実際の日と照らし合わさなければ、正しい日を表示できない。だから、残された日付のままの日めくりを見て、その日を死亡日と詠み手は考えたのだろう。「日めくり」から見れば、男は日を正しくめくるための機能として存在していた。
 詠み手は部屋の中で止まったままの「日めくり」には関心を寄せているが、「孤独死の男」には関心を寄せていない。「孤独死」で停止した部屋の中の時間と、以降の詠み手と劣化していく部屋が過ごした現実の時間の差だけに意識が向けられている。この「孤独死の男」の中にある部屋の中の物には関心が薄い、その男に対して関心が薄いのだ。それは「孤独死の男」と事実だけを表現している部分からも明らかだ。
 詠み手は死によって不在となった部屋と、その死亡日の確認という努めて事務的な態度で、この状況に接している。そのように見ると、上記にも既に書いたように詠み手は他人の死や誰かの部屋に入るのを躊躇わない職業か、職業でなくともそういう性格をしているのだと言える。詠み手にとっては死は感じ取れるほど身近なものでありながらも、それ故に私たち以上に客観的な認識になってしまったのかもしれない。
 最後に短歌としての言葉の使い方を見る。ここでは何度も繰り返すという作者が用いた技法を考えてみたい。短歌では「孤独死の男」と二回使われているが、実は「その死」にも、死という言葉だけではない、作者の強調が隠れている。その、が何を指しているのかは、「孤独死の男」であることは間違いないが、字数の制限の為に「その死」と省略している。よって読み手は「その死」と読んだ時、その、の中に「孤独死の男」が無意識に代入されているのだ。つまり、この短歌では実際には三回の「孤独死の男」が使われていることになる。
 ここまでの強調によって見えてくるのは、なぜここまで男であることを伝えたいのかという事だ。死は誰にでもやってくる平等であるのだから、住人でも、女でも、この短歌の状況は変わらないように見える。作者の性別は公開されていないが、統計上の「孤独死」現状や、各世代に関わらずに蔓延する男というイメージを取り巻く環境を考えると、何らかの短歌の外側の認識による意図があって男としたのは間違いない。
 突き詰めると創作上の作者の持つ性と詠み手が抱えてしまう性の違いという、短歌でのジェンダーの問題も浮き彫りになるのだが、それを考えるのはまた別の機会にする。

 気になった点
 三回も重ねた「孤独死の男」の部分を、「孤独死」ではなく自死や自然死と振り分けでもいいのかもしれません。短歌の状況はさらに限定されていきますが、その分、読み手が「孤独死の男」に対して共感や親しみを覚えるかもしれません。
 どのみち死んでしまっているのだからそれ以上の交流はありえないのですが、それでも男に対して余計な関心を持つことを避けるという詠み手の選択が短歌でされています。これ以上関わってしまうと、何かの感情が呼び起こされてしまうのでしょうか。それが気になります。


 北海道 伊藤 誠

 テーマ詠より使われたモチーフ『(平成の天皇誕生日である)12月23日』

 天皇誕生日(てんのうたんじょうび)は、日本の国民の祝日の一つである。旧:天長節(てんちょうせつ)。
 (中略)
 天皇誕生日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「天皇の誕生日を祝う。」ことを趣旨としている。 (以下略)
天皇誕生日-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 2020年の日本において、国民の祝日は16日と制定されている。振替休日を含めると18日になるのだが、毎年祝日に関心を持ちながら生活をしている人は少ないだろう。去年の国民の祝日はいくつありましたかと問われても、それが将来の何の役に立つか分からないのも、祝日自体の関心の低さにつながっている。2019年は祝日が振替休日を含め22日と、祝日法が制定されてから過去最多だった。
 その2019年の祝日を増加させる要因になったのが、新天皇即位による5月1日の『新天皇即位日』と10月22日の『即位礼正殿の儀』である。去年は令和への改元や、それに基づく皇室行事によりどのメディアも例年以上に天皇に関心を寄せていた。先の戦争が終わって以降、この年ほど、天皇陛下万歳、が映像メディアから何度も叫ばれたことはなかっただろう。
 そのような大きな変化の中で、この年だけ消えてしまった祝日がある。「12月23日」の『天皇誕生日』は、現上皇陛下の誕生日であるが退位によって無くなってしまった。2020年からは2月23日が『天皇誕生日』となり、以降も続いていくと思われるが、誕生日という偶然性により天皇誕生日という毎年迎えるはずの概念が、すっぽりと抜け落ちてしまうのは私には奇妙な感慨を持ってしまう。
 この短歌の詠み手は、毎年の慣習として祝日に家の先に国旗を掲げているか、それを見ているのだろう。祝日は旗日と呼ばれ、祝日になると家の前に日の丸の旗を掲げる。個人的な話になってしまうが、私の祖父も祝日になると日の丸の旗を家の先に掲げていた。いまでも祖父の家には日の丸を掲げるための器具が、長年の風雨によって錆びていながらも玄関先に取り付けられているはずである。
 この短歌では「12月23日」としか書かれていないので、日本在住でなければ分からないただの日付である。しかし、初句の「三十年」という言葉と二句の「日の丸」という言葉により、連想的に平成の祝日の『天皇誕生日』が導き出される。そのような気づきがこの短歌の仕組みなのであるが、それは別の点から見ればこの短歌が時代性に大きく縛られているという弱さでもある。
 この短歌が平成31年、令和元年でなければ読み手へ共感させられないのは、先に上げたように読み手には祝日自体への関心があまりないからだ。もう何十年も時間が過ぎてしまうと、この短歌だけで何を伝えようとしているのかすぐ分かる人は、年長の者か歴史を研究しているものに限られてしまうだろう。このように時代性による新しい見方や経験を不自由なく共有できるのも、読み手や作者分け隔てなく、最新の短歌に触れている人たちにしかできない。
 この短歌の詠み手は「12月23日」の短歌を書いているが、その祝日は『天皇誕生日』であった。祝日はその時の時勢によって流動することがある。ハッピーマンデー制度によって固定週の月曜日に移動した祝日は、成人の日や海の日、敬老の日、そして名前自体変わってしまった体育の日、現スポーツの日がある。それらの祝日を題材に短歌を作っても問題はないはずだ。
 そのような変化する旗日の中で、なぜ読み手は「12月23日」にこだわるのか。『天皇誕生日』だった「12月23日」という日付に対して「その任」と、長年の重労をねぎらう意識は詠み手にある。そこには30余年続いた平成という時代が終わったことへの何某かの感傷があった。詠み手にはそれは大きな変化だったのだろう。今の時代では、改元は人生に一度あるかというとてつもない変化であるのは、その前の昭和が64年も続いたことからも明らかである。
 元号法により元号と直結している現天皇制度により、元号の変化には天皇の存在があるのは否定できない。詠み手は時代の大きな変化を天皇の継承であると見た。平成から令和へという時代の変化と、その背景に存在する天皇という制度、そしてその制度によって存在する『天皇誕生日』の移動という作者の連想は確かにあっただろう。
 作者のその時代性によって生まれたこの発想と、この短歌で詠み手が上皇陛下に対してどのような心境を持っているのかには、はっきりとした関連はない。ただ旗日には「日の丸」を「掲げた」詠み手の習慣があり、これからは「12月23日」に「日の丸」を掲げる必要がなくなったという文章に、一つの時代が終わったのだと共感できる人たちが今は多くいるというのは確かである。

 気になった点
 人の思想に踏み込む部分なので気を付けたいところではあるのですが、この作者は改元と天皇誕生日には意識が向けられています。では、その先の天皇本人にはどのような意識を持たれているのかが気になりました。
 先の鑑賞でも何度も書いているのですが、この短歌では祝日や元号といった制度には何らかの感情をもっているのに、その制度の根幹にいる人物への感情は見えないようになっています。これは興味深い関係性だと思います。
 他の人にもそのような触れようとしても触れられない見えない膜があるのでしょうか。


 大阪府 寺阪誠記

 テーマ詠より使われたモチーフ『賞味期限』

 賞味期限(しょうみきげん)とは賞味期間の限界すなわち賞味期間の最終日時[1]。
 (中略)
 賞味・消費期限が必要以上に短いと、大量の食品廃棄の一因になるとの指摘もある。実際に農水省の調査によれば、2007年度の食品廃棄などの年間発生量は、1134万t余りに上ると言う。 (以下略)
賞味期限-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 辛さは痛覚であるため、食べた人はその感覚を大げさな動きで表現しやすい。食べた人の動きが大きければ大きいほど、見ている人はその動きを痛みに変換できる。その動きの滑稽さと食べたものの辛さが、笑いや凄みという面白さになるので辛さの度合いは辛ければ辛いほど良い。
 口に含むものであるから、大抵の製造食品には賞味期限が設定されている。普段は「罰ゲーム用」として人から食べられるのを忌避される「激辛ソース」も例外ではない。「激辛ソース」として有名になってしまったデスソースにも賞味期限が設定されている。この短歌にある「激辛ソース」がデスソースであるのか、それともカプサイシンを抽出しただけの液体であるのかは不明だが、世の中には辛さを主張した食べ物が数多くあるので、実際はどれを当てはめても問題はないのだろう。
 「激辛ソースさえ」という「さえ」には、ある枠組みの中の極端な地位にある物事を指している。この短歌の場合であれば、可食できる食べ物の全ての物から「激辛ソース」を挙げている。口に入れるのはできるが、進んで口に入れたくはない食べ物として極端な存在である。そのようなものにも、食べられるものである証明と、存在理由である「賞味期限」が設定されている。 しかし、この短歌では語られていないが比べられている食べ物には、人が普通に食べられるものであるのに「賞味期限」はないのだろう。その語られていない食べ物は、食べ物としての存在理由を問われていると読める。
 賞味期限が設定されていない食べ物として有名なのがアイスクリームである。アイスクリームはマイナス18度で常時保存される為に、微生物が増殖せず、品質が劣化しないために賞味期限を設定していない。「激辛ソース」とアイスクリームでは、辛さと甘さと対比するには確かに両極端の食べ物である。しかし、アイスクリームには賞味期限がないことを短歌の以後の文章として当てはめてみると、見た目としては至極当然な文章になってしまうのがわかる。むしろ、いいことを聞いたみたいなお得感が出てきてしまう。わざわざ「あるというのに」で止めて、読み手に想像させる必要がない。
 食べ物から離れてこの短歌を読み直してみる。この短歌は食べ物の「賞味期限」について書いている文章である。詠み手の主眼が食べ物ではないとすると、「賞味期限」の存在について考えていることになる。「賞味期限」とは、その食べ物が特定の管理状況においておいしく食べられる日時であり、それは製造者と購入者に存在する一種の約束のようなものである。「消費期限」を過ぎた食べ物を食べて体を壊しても、周りに自業自得と言われてしまうのは、そのような約束を破っているからである。
 食べられなくはないけれど、進んで口に入れたくはない「激辛ソース」にも、そのような食品としての最低限の約束が交わされている。そのように考えると、詠み手がそのような最低限の約束もない存在について語っていると読める。そのような期限がない約束とは何だろうか。
 身近な例を挙げれば仲間内での約束はきちんとした期限を定めてないのが殆どであろう。また、大きな視点で見れば、人の寿命というのはいつまでに終わるとは約束されてはいない。ミクロでもマクロでも期限が設定されていない約束は、世の中に沢山あるというのがよくわかる。読み手はこの短歌から、期限のない約束に対して、どの約束にどのような不快感をもっているのかを無意識の内に問われている。
 別の見方もできる。この短歌は忌避される何かであっても何か存在する理由がある、それに比べて語られていない何かはその理由が無いと読むこともできる。「激辛ソース」は「賞味期限」を与えられて、なんとか食品として認められている。ある何かとして存在するには、最低限の約束でもいい、何かしらの理由が与えられなければ、存在する価値があるものとして見てもらえないのである。そのような理由さえも与えられない存在とは何であるのか。それもやはり詠み手や読み手が各自、それぞれに不快感を持つ存在が当てはまるのかもしれない。
 私の読み方になってしまうのだけれど、私は自分が嫌いなので、この短歌の以下の文章は私の存在理由について問われているような気がしてしまった。「激辛ソース」は日常では忌避されているもけれど、人の口に入るための「賞味期限」という食品としての存在理由がある。しかし、お前は人間として存在する理由があるのか、と。もちろんこれは詠み手にしてみれば被害妄想の何物でもない。自分に対する過剰に肥大した自意識が、理想と現実の差による失望を引き起こし、そのように短歌を読ませてしまうのである。
 作者は読み手がどのような存在を不快だと思っているのかを、詠み手が最後まで語らない事によってそれぞれの無意識の内に引きずり出そうとする。不快なものは他者であったり、世の中の仕組みであってり、もしくは自分自身であったりと千差万別だろう。
 この短歌で詠み手自体が肝心な部分を語らないことにより、全ての存在が不快と思われてしまう。そしてそれは作者自身にも当てはまる。一見すると自己否定にもなりかねない表現である。短歌という表現にするためには、あえて語らない部分や作者自身の環境ではない、歪められた部分や嘘がどうしても入り込んでしまう。それらの表現が詠み手の全てである以上は、その歪められた部分や嘘により詠み手は作者から離れてしまうのである。それ故に詠み手は作者に図らずも否定的な言葉を投げつけてしまうこともある。
 もちろん作者がそのように思っていなければ、この想像自体成り立たないものではあるけれど、読み手にとって短歌は与えられた三十一文字が全てである。それだけを手掛かりに読み手の想像力や教養を駆使して読まなければならないものであるから、作者が自己否定していると読まれてしまえばそれまでの短歌になってしまう。
 この短歌は誰もが積極的に対比する何かを考えることで完成する短歌である。貴方にとって不快なものは何であるのか。詠み手はその手掛かりになる例を与えたにすぎないのだ。そしてその何かは、この世の全てに当てはまるのである。

 気になった点
 単純に何を対比しようとしていたのかでしょうか。読み手に答えをゆだねられているのがこの短歌の仕組みであり面白さでもあるのですが、作者にとってもその存在は必ずあるはずで、個人的な興味として聞いてみたいです。


 千葉県 八号坂唯一

 テーマ詠より使われたモチーフ『誕生日』

 山田航 選 佳作に選ばれました。ありがとうございます。


 北海道 ナカヒラカオリ

 テーマ詠より使われたモチーフ『(打ち上げ花火が打ちあがった)8月2日』

 花火(はなび)は、火薬と金属の粉末を混ぜて包んだもので、火を付け、燃焼・破裂時の音や火花の色、形状などを演出するもの。火花に色をつけるために金属の炎色反応を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によって様々な色合いの火花を出すことができる。原則として野外で使用するのが一般的。 (以下略)
花火-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 この短歌での下の句は一見するとありえない情景である。「打ち上げ花火」は空に飛ぶものである。しかし、詠み手はその「中を泳いで」いる。詠み手の想像力によって、遠く空中で爆ぜる花火を見ながら意識だけは花火に寄り添っているのかもしれない。
 それとも正三尺玉をいくつも夜空に打ち上げる花火大会のように、眼前に巨大な花火の大輪が眼前に迫っている状況を「泳いで」いるかのように捉えていたのかもしれない。あるいは詠み手は何処かのプールの中を泳いでいて、水面や水中に「打ち上げ花火」が投影され本当に「花火の中を泳いで」いたのかもしれない。
 誰が「空を飛ぶ」のか、どうやって「空を飛ぶ」のかは示されていない。下の句の「打ち上げ花火」の玉が真っすぐに飛翔していく感じ、もしくはいくつもの「打ち上げ花火」の無数の光を掻い潜って泳ぐ感じ、それが「空を飛ぶ」という初句に戻って結び付けられる仕組みである。「空を飛ぶ」のは飛行機であるかもしれないし、意識だけが「空を飛ぶ」のかもしれない。「空を飛ぶ」とは泳ぐことに似ていると発想しているのである。
 おそらくは詠み手が「空を飛ぶ」のであろう。しかし、詠み手はなぜ「空を飛ぶ」のだろうか。その理由はこの短歌では説明されていない。しかし詠み手は「空を飛ぶ」必要に迫られている。具体的に「8月2日」と日付を決めているのであるから、それはいつか必ずやらなければならないことなのだろう。ある日、ふと見た「打ち上げ花火」を全身に感じながら、詠み手はとうとうその日を「決めた」。
 ここに悲しいや嬉しいという感情はあるのだろうか。詠み手が「空を飛ぶ」と決意するのは、ここではないどこかに行くという暗喩があるように読める。何かしらの事情があり、今いる場所を去らなければならないのである。その状況に読み手が感情を寄せるのは可能であるが、詠み手の行動が逃避であるのか、希望であるのかは、読み手の想像力や背景によって違ってくる。
 それは、何処かに行くという行動には詠み手の喜怒哀楽、全ての感情を紐づけられるためであり、読み手がどのような感情を持ってこの短歌に接しているかで、様々にその行動の理由を解釈できてしまうからである。ここでは詠み手と読み手は鏡写しのような状態になり、この短歌の世界に没入できるようになるのである。
 この「打ち上げ花火」の花火大会は何時だろうか。花火大会は夏のイメージがあるが、日本では一年中花火大会が行われている。無理に読もうと思えば詠み手は冬の「打ち上げ花火」を見て、「空を飛ぶ日」を「決めた」のかもしれない。しかし、どの時期の「打ち上げ花火」であっても、詠み手が「空を飛ぶ」という結末を「決めた」のは変わらない。
 何も分からない詠み手の状況の中に、「8月2日」という決定的な結末がはっきりと示されている。それが、この幻想的な世界の短歌に目をそらすことができない現実を読み手に与えているのである。その不安定な文章に読み手は現実との合理性を求めようとして、詠み手には届かない想像力を巡らせてしまうのだろう。

 気になった点
 「空を飛ぶ」と「打ち上げ花火」は飛翔という部分で似ています。だから「空を飛ぶ」というやや不十分な言葉でなければ、似ているというイメージを読み手に与えられないのは分かりますが、具体的に詠み手にとって何の日であるのかを書いても良かったのかもしれません。
 例えば、街を出る、とすれば、この短歌における状況は、よりはっきりとすると思います。ただ、幻想的な雰囲気からは遠ざかってしまうので、この塩梅を難しいです。


 千葉県 芍薬

 テーマ詠より使われたモチーフ『マフラーを編み上げる(日)』

 襟巻き(えりまき)・首巻き(くびまき)・マフラー(英語: muffler)は、首の周囲に巻く細長い長方形をした厚手の布で、防寒具のひとつである。 (中略)
 日本では、江戸時代には隠居がするものであり、若者の着用は病人に限られた。1883~1884年ごろには、襟巻きは皮膚の抵抗力を弱め、衛生保健上かえって有害であると唱えられた。 (以下略)
襟巻き-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 詠み手は誰かの為に「マフラー」を編んでいる。七色の毛糸を使っているのだろう、それはまるで「虹色」の様だ。「マフラー」を編んでいる静かな時間は、冬の長雨の打ち付ける音が自然と耳に入ってくる。ここ最近はずっと雨が続いていて、一日の終わりに書きつける手帳の日付欄には、詠み手が付けた雨と雨傘のイラストが並んでいる。
 この雨はいつまで続くのだろうかと詠み手は思う。「マフラー」は次第に誰かの首に収まるほどの長さに伸びていく。手帳の雨のイラストは変わらず続いていく。何日か後に詠み手が満足する長さに編み上げた時、ふと家の外の雨の音が止んでいるのに気づく。明日、この「マフラー」をその人にプレゼントしたら、きっとその首元の「虹色」は、晴れた空にとても映えるだろう。
 もちろんこの「マフラー」は自分の為に編んでいるかもしれないし、編んでいる最中にふと編み上げた時の情景を詠み手が想像したのかもしれない。しかし、どのような状況であっても、この短歌で使われている「虹色」と「雨」という関係性は変わらない。自分がしていることが、将来の世界に何かしらの影響を与える、与えただろうという、ある種の願いが込められている。
 「マフラー」という存在により季節を感じさせるものになっている。このテーマの短歌の締切は2019年10月末日で、「虹色」でなくても実際に「マフラー」を編み上げながら思いついたのかもしれない。生活の中にある自分の視点を大事にする作者であり、その発想の源のようなものが仄かにみえるのも読み手への共感を高める要素となっている。
 しかし、これは穏やかな短歌のように見えるが、現実の時間と対応させると少し違った面も浮かび上がってくる。作者の住所である千葉県が、2019年の9月と10月に経験した二つの台風である。
 2019年9月9日に千葉県に上陸した台風15号、後に『令和元年房総半島台風』と名付けられる、その台風は深夜に猛烈な勢いの風を伴い茨城県の海上へと抜けていった。その台風は千葉県に長期にわたる停電、屋根の損壊といった住宅被害の影響を与えた。
 私も千葉県に住んでいるので、その異様な被害状況を見た。木々は葉っぱを路面にまき散らしながら倒れ、近所の家々の屋根瓦やボードがはがれてしまっている。停電は2週間程度続き、その影響による断水や冷蔵食品への被害、そして夏が過ぎていない蒸し暑い夜を毎日繰り返していた。
 多くの家が対処としてブルーシートを屋根に被せた。日々、ブルーシートの青い色が街並みを少しずつ侵食していった。次第にそれらは元の街並みに戻っていったのだけれど、未だにブルーシートの屋根は2020年3月現在も残っている。この台風の被害はまだ完全には復旧していない。
 そして、2019年10月12日に静岡県に上陸した台風19号、こちらも後に『令和元年東日本台風』と名付けられる、この台風は東日本に河川の氾濫や鉄道の計画運休など、多くの県に多大な影響を与えた。こちらも2020年3月現在、実被害や風評被害などの影響が続いている。
 その2つの台風により、私は雨に対して敏感になっていた。屋根に被せたビニールシートの音は、普段の屋根の音とは違う乾いた音を立てていた。それはさらなる被害の影響を想起させるような暗い音であった。作者も、この時期の雨に対して日常とは違う、何かしらの印象があったのではないかと一方的に共感してしまう。
 その現実と照らし合わせると、この「雨も止む」という短歌の終わりには、台風の被害による先の見えない不安に対する作者なりの希望が込められているのではないか。その希望を「虹色のマフラー」という、鮮やかな色彩によって、詠み手に対して分かりやすく表現しているのだろう。

 気になった点
 実際の千葉県の天気を調べてみたのですが余りにも範囲が広いので、どのぐらいの長雨が作者に降り続いたのだろうか分かりませんでした。実際に、そのような長雨も、そして「マフラー」も存在しなかったとしたら、その日常の作り方の上手さに頭を垂れるばかりです。
 あと、個人的にはその手帳に綴られた雨は、イラストなのか文字なのかが気になりました。些細な部分ですが、それが違うだけでも詠み手の性格や情景が違って見えてくるのです。

 東京都 シロソウスキー

 テーマ詠より使われたモチーフ『(くじを引いた)大晦日』

 『ラブライブ!シリーズ』は、学校で結成された架空のアイドルグループの奮闘と成長を描く日本のメディアミックス作品シリーズ。 KADOKAWA及びバンダイナムコホールディングス傘下のバンダイナムコアーツとサンライズの3社によるプロジェクトである。 (以下略)
ラブライブ!シリーズ-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 詠み手はある日、部屋の片づけをしていたのだろう。クローゼットかタンスか、ハンガーに掛けたままだったのかは分からないけれど、詠み手は部屋に置かれたある「Tシャツ」に目を止めた。それは『ラブライブ』の「Tシャツ」で、昔、大晦日に何処かの「くじ」で当てたものだった。詠み手は「この夏は」この「Tシャツ」を着ていなかったことに気づいた。
 ラブライブのイベントに行かなかったからなのか、はたまた新しい部屋着用のTシャツを買っていたからなのか、冷夏だったのかはもう詠み手は思い出せないけれど、再びそのTシャツを目にするまで『ラブライブ』のことさえも忘れていたのだろう。興味や愛着、関心は、時間と共にいつしか薄れてしまう。けれど、その頃の記憶だけはずっと残っていて、何かの拍子に思い出し懐かしさを感じてしまうのである。
 この短歌は「大晦日」がテーマ詠のモチーフであるけれど、過去の記憶として明確にするためだけに使われていて、詠み手がこの「ラブライブTシャツ」を着なかったのを気づかなかった時期は不明である。「この夏」であるから、秋か冬、年末であれば大掃除の時に、この短歌の状況になったのだろう。この記憶の「くじで当たった」という誰にでも起きうる普遍性が、共感に繋がっているのである。
 しかし、その共感を止めてしまう部分がこの短歌にはある。それは「ラブライブTシャツ」である。普遍性だけを求めるなら、単に「Tシャツ」や別の服でも、何なら別の種類の雑貨であっても良い。ここで「ラブライブ」という作品が出てくることによって、この詠み手の背景のようなものが仄かに見えるのである。
 「大晦日」に「くじ」で「ラブライブTシャツ」が出てくるような状況とは、一体なんだろうか。同じ世代の同好の人たちが集まっていた飲み会なのか、そのアニメグッズを扱う会社の忘年会なのか、それともコンビニやアニメショップなどで展開されている「一番くじ」で当てたものなのだろうか。想像はいくつも膨らませることができるけれど、それらは「ラブライブ」という作品を中心として広がっていく。
 詠み手はアニメには興味があるのだろうけれど、それ以上の想像は短歌には届かない。詠み手がどのような人間で、どのような生活をしているのか、までは読み手には分からないのである。「大晦日」という殆どの人たちが経験する日常に、「ラブライブ」というある特定の集団にしか伝わらないものが、この短歌には同時に存在している。
 確かにアニメの「Tシャツ」を着る人もいれば、高級ブランドの服を着る人も、ファストファッションを着る人もいる。人の見た目が、そのまま個性として認識される世間の風潮ではあるけれど、人が何を着ていようがその人には私たちと同じような日常があるのを下の句で意識させているのである。
 同じような日常があると意識させたうえで、「ラブライブTシャツ」という言葉によって、詠み手の持つ個性をどのように扱うかを試されている。私はそのようなTシャツを着ている人を見ると、そのまま目で追ってしまう時もある。そこに何らかの違いを見てしまっているのだろう。
 私もこの短歌の違和感として「ラブライブ」を挙げている以上、この短歌を普遍的な出来事として認識が出来ていない。しかし、その状態ではまだ、アニメというメディアにある種の距離感を置いていると認めてしまっているようなものである。固有名詞を使うのはイメージを借りて伝えたい方向性を定める効果があるけれど、それらのイメージに引っ張られて短歌が負けてしまうという弱点もある。この短歌では、その塩梅が丁度良いバランスで配置されている。
 最後に、この詠み手が「着なかった」と書いている部分に注目する。この「着なかった」には「大晦日」から今までの長期にわたる詠み手の変化がある。「この夏」とあるのだから、その前の夏は着ていたのだろうか。それとも「大晦日」に手に入れたときに、来年の夏に着ようと思っていたのだろうか。
 詠み手の生活状況によるが、そのような服を着なかったという変化には、とても興味が惹かれる。短歌で「ラブライブ」と書けてしまう詠み手が、なぜ「この夏」は着なくてもいいと思ってしまったのだろうか。今も「ラブライブ」、およびアニメなどに興味を持ち続けているのだろうか。詠み手の意識が消極的に変化した、という解決していない不安定な感覚を読み手に残したまま短歌は終わってしまった。

 気になった点
 この「ラブライブTシャツ」という言葉にはどのような雑貨も当てはまるので、他の作者が作ろうとすればそれぞれの個性が出てくると思います。自分にとって他の人には違和感になるようなものを見つけてみるもの面白いでしょう。
 あと作者はアニメが好きなのでしょうか。もし、アニメが好きなのであれば、おすすめの作品を教えて欲しいです。あと、もし本当に「ラブライブTシャツ」をもっているのであれば、今年の夏は着るつもりなのか聞いてみたいです。


 次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 2月号 加藤千恵 選 佳作 10首』に続きます。

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