野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 3月号 山田航 選 佳作 10首
投稿歌人、八号坂唯一です。春の手前の少し寒い日々、いまだに外出を控えるように、屋内に大勢が集まらないように、などと言われております。これも後で見返せば大変な時期だったねと思える日が来るのでしょうか。そんな平穏な日よりもこのnoteでの連載が途絶えてしまう可能性の方が高いですが、私も貴方もお元気で穏やかに。
野性歌壇の短歌鑑賞を一年やりきるために、小説野性時代を定期購読しました。本屋ではなく出版社から家に届くようにしてもらったので、引きこもりでも新鮮な活字を読めるようになりました。あとは今使っているパソコンが、この一年壊れないことを願うばかりです。もし壊れたらどうしましょう。スマホから投稿しましょうか。
さて「小説野性時代2020年3月号」の289ページ、左側です。私たちは短歌を読んでいるようで、ただ都合の良い自分を読んでいるのかもしれません。
テーマ詠「写真」
広島県 堀 眞希
テーマ詠に使われたモチーフ『証明写真機』
証明写真(しょうめいしゃしん)は、その人物を判断し、他人のなりすましを見分けることなどを目的に身分証明書や書類などに貼付される人物写真。パスポートや運転免許証等の公文書、履歴書等の私文書、入学試験や資格試験等の願書などに用いられる。
(中略)
映画監督、発明家でもある円谷英二が発明したと言われている。 (以下略)
証明写真 ー フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は何らかの理由で証明写真が必要になった。写真館で撮影するほどのものではないので、近所の証明写真機で済ませた。椅子の高さを合わせ、正面の顔型に自分の顔を合わせ、その他いくつか細かい指示をされながら撮影する。撮影自体は数分で終わった。すぐに現像された写真が排出される音がする。
詠み手がそれを持ち、写真機から出て仕上がりを確認する。そして驚く。なぜなら、そこには皺だらけの老人の姿が映っていたからだ。いやよく見ると目元や口元、鼻筋に詠み手の名残がある。証明写真を撮っていたはずだと詠み手が証明写真機を見ると、そこには老け顔機能搭載と大きく書かれていた。
実際に証明写真機で老け顔加工された証明写真が印刷されたら、誰でも驚くだろう。そのような世の中の常識から外れていた驚きが、最後の、じゃん、という短歌ではあまり使われない若者言葉に表れている。日常から外れてしまった現象を、詠み手の日常の言葉遣いで元に戻そうとしている。
証明写真機が、老け顔という加工によって本人を証明できない写真を印刷してしまう。お金を出して写真を撮ってもらっているのに注文通りの写真が出てこないのは、消費者としては文句の一つでも言いたくなってしまう出来事だろう。
しかし、お金を払って、本人そのままの姿でない写真が出てくる写真機というのも、世の中には存在している。プリントシール機である。プリントシール機と証明写真機を同一に語るのは、利用者の使用目的が違うのでおかしいと読者は思うだろう。その使用目的を改めてもう一度考えてみたい。
プリントシール機は近しい友人や仲良くなりたい他人に見せるために、自分の見た目を良い方向に過剰に加工して撮影される。証明写真機は初対面や、自分を評価する他人に対して、自分の見た目をそのままより少しだけよく見せるようにライティングなどを工夫して撮影されている。
どちらも撮影した写真にさまざま加工処理しているのには変わりがなく、それを誰に見せるかによって加工の度合いが違っているのである。ここには利用者の、他人により良い自分の姿を見せたいという欲求が込められている。
この短歌に登場する老け顔アプリというのも、現実に存在する。一時期、メディアで話題になっていた自分の数十年後の顔を予測するアプリというものであったが、自分で満足するというよりも他人と一緒に撮り合って、その変化を楽しむという使い方をしていた。
プリントシール機によって良い方向に加工される自分の顔とは逆の、老化した自分の顔が他人に共有されて楽しまれるのは不思議だと思われるが、このアプリが無料であることと使用目的が近しい友人と楽しむことがその負の加工を許容させている。お金を払ってまで老け顔という加工をされた自分の顔を他人に見たい人はいないだろう。
そう考えると、この証明写真機が老け顔アプリ搭載されているのは、世の中の常識と照らして二つの間違いが含まれている。一つは、見ず知らずの他人に本人であると証明する目的の写真機に楽しむ目的の老け顔機能がある。二つ目は将来の老け顔という加工に僅かとは言え料金がかかっている。
それでは、サービスで老け顔加工写真も印刷してくれる証明写真機であればいいのか。おそらく利用者はその老け顔加工写真を使用しないだろう。利用者がどの種類の他人に見せるかを証明写真機という存在で決めている。その存在が根底から覆されるような機能は、利用者は無料であっても望んでいないのである。
どちらも世の中に存在しているのに、それが一つになると途端に望まれなくなってしまう。このような利用者の使用目的が違っている同種の商品は、ここまで正反対ではないにしても世の中にはあるので、それらを見つけてみるというのも面白いかもしれない。
大阪府 野呂祐樹
テーマに使われたモチーフ『ツーショットチェキ』
ライブアイドルとは、マスメディアへの露出よりもライブ等を中心に活動するアイドルのこと[1]。
(中略)
プレアイドルの時代から、ライブアイドルは小規模なライブに多く出演し、会場での物品販売などと組み合わせ収益にしてきた[3]。CD、Tシャツ、ライブで用いられるサイリウムや、ケミカルライトなどの販売やチェキ撮影における売上が主な収益となっている。(以下略)
ライブアイドル-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手には推しと呼ばれる応援している人物がいる。その人物は有名メディアで出演している人というよりも、何処かのライブ会場で小規模なライブをしているか、もしくは飲食店で接客営業している人物である。その人物が活動しているだけで詠み手は目的を感じている。
その推しは会場でファンの為にツーショットチェキ撮影を受け付けている。一枚二千円。三枚であれば六千円。これは詠み手の一日分の賃金に相当する。詠み手はその推しの為にこの祝日、仕事を入れて働いている。次にその推しと会った時にお金と好意を示す事で、その推しが喜んでもらえるように。
かなり偏った状況の人物として恣意的に読んでしまっているので、不快感を持ってしまう人もいるだろう。素直に読むとしたら、好きなアイドルもしくはバンド、俳優と一緒に写真を撮るために休日返上で仕事をする詠み手となる。しかし、この短歌では登場する言葉によって、そのような素直な読み方を作者側が制限しているように見える。
例えばツーショットチェキ、これは推しの人物とツーショットでインスタント写真を撮れるというサービスで、撮った写真にその人がその場でサインを入れて渡してくれる。ファンにとってもイベントの思い出が形になり、枚数が多ければ多いほどその人物に与えた時間やお金が見えるようになる。
これを会場に来ている希望者に全員行うとするなら、その人物が有名であればあるほど対応に時間が掛かってしまう。小規模なイベントや、対応する人数が少ないからこそできる営業方法であり、この言葉を用いることである有名ではないが一定のファンがいるアイドルなりバンド、俳優を推していると読者に想像させる作者の意図がある。
そして詠み手もどのような人物であるか、読者に想像させる描写がある。六千円と祝日の関係である。推しの人物を応援するというだけの描写であるなら、このような具体的な言葉を用いらなくても読者には伝わる。
ここで具体的な金額と祝日という、他の人にとっては特別な休日を入れることで、詠み手にとってこの六千円と祝日の労働は大切なものであるのだと想像させている。この六千円と祝日の関連には詠み手の一日分の賃金、つまりは時給労働者か日雇労働者と想像させる仕組みがあると私は考えている。
ここに見えるのは詠み手の小規模な行動の価値基準だろう。イベント会場などで直接対面できる推しという存在を詠み手は求めている。そして、その推しに対して売り上げを与えるという消費行動に満足している。そのための一日六千円という低賃金の労働を現状肯定している。
この金額はどのような金額設定であったとしても、この短歌においては推しとツーショットチェキを撮るという目的が優先順位の上にあり、それが推しとの関係を担保している要素になっている。しかし、その関係性の担保が六千円という金額として客観的に示されてしまっている。
この独自の仕組みによる金額設定に対して、より高額であればその関係性はより強化により濃密になるのではないかという、この推しという界隈の外側にある邪な考えが入る隙も読者に見せている。その邪な隙を界隈を経験している人や、見聞きしている人にどう思われるかは関係が無い。
お金という絶対的な価値基準が、この界隈での推しを応援するという行為を、経済活動に変えてしまっている。それにより全ての人間関係による経済活動との比較から逃れられなくなる。これは身も蓋も無いお金にまつわる現実である。
しかし、この短歌ではその読者の邪な考えを差しはさむ余地はない。詠み手の推しの活動を尊重し、お金ではなく応援という行為に価値があるという現状を肯定している。そこにはお金以上の価値を肯定しようとする詠み手の姿勢がある。そして読者にも、そのようなお金以上の価値が各々にも存在しているはずだ、と問いかけているのである。
千葉県 芍薬
テーマに使われたモチーフ『グーグルフォト』
Google フォト (グーグル フォト)は、Googleによって提供されている写真、動画用クラウドストレージサービスである。2015年5月に、Google+ フォトから分離されてリニューアルした[1]
(中略)
Google フォトでは、写真や動画はアップロードされた日付ではなく写真が撮影・作成された日に基づいて時系列に並べられる。したがって、昔撮影した写真をGoogle フォトにアップロードして確認したい場合、検索メニューにある「最近」を選択する必要がある。
Google フォト-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は日々の写真をスマホだけではなく、グーグルフォトにもアップロードしている。スマホやデジカメの突然のデータ消去にも対応できるように身につけた習慣なのだろう。詠み手は、時折、そのグーグルフォトにアップロードされた写真を見返している。そのグーグルフォトには使い始めた当初から飼っている犬の写真があった。
日付順に並べられて管理されているそれらの犬の写真を、詠み手は日を遡って眺めてみた。歳を取り弱っていた写真の犬が徐々に成犬の頃の活気を取り戻し、さらには体形が小さくなり子犬に若返っていく。詠み手の隣ではすっかり老犬になってしまった写真の犬がこちらを見ている。詠み手はその老犬を優しく抱きしめる。
犬と共に過ごしてきた時間をグーグルフォトというクラウドストレージで管理する。昔によく使われていたアルバムという物質による管理では、保存できる写真の枚数や管理場所により枚数の制限が出てしまうが、デジタル管理、かつ別の場所に管理することで昔では考えられない量の写真の保存が可能になった。
その写真による記録の進歩により人生の大事な節目だけではなく、一日単位での記録が可能になった。その間隔の短さが時間の連続性を意識させると思われるのだけれど、その連続性自体は人間の実感としてはあまり感じられるものではない。
それは昔というのが、数値でしか確認できないものであるからだろう。ある二枚の写真の内どちらがより過去に撮られた写真であるかというのは、日付でしか確認できない。日付が無い場合は、二枚の写真の関連性とその差異の大きさにより、人間はそこに存在する時間の流れを確認する。
この短歌の場合では、グーグルフォトと犬の成長が時間の差異を作り出している。グーグルフォトにはアップロードした時のほぼ絶対な時間があり、犬の成長は人間の成長と同じではあるが人間よりもその一生が短い、一日の成長の度合いが人間よりも速いという相対的な時間がある。
詠み手は絶対的なグーグルフォトで管理された時間を遡り、老犬の若返りという時間の差を見ている。しかし一枚遡っただけでは、どちらが若い時の犬であるかというのは、詠み手には分からないだろう。ある程度の枚数を経て、はっきりと目立つ成長の差を感じ取ったときに若返りを認識する。
人間には認識できない日々の変化の差を、日時という数値の差で順番に管理することで、大きな変化を実感した写真までの間にあるそれらの写真にも時間の流れがあると認知できるようになる。これは膨大な記録がデジタル管理ができるようになってからの、人間の時間の認識方法の一つだろう。
詠み手も現在から見た過去の曖昧さや不確かさは理解しているのかもしれない。この短歌では、ちゃんと若返っていく、という書き方でグーグルフォトで日付順に管理された老犬の写真を遡っている。この、ちゃんと、には比較している対象がある。
おそらくではあるがこれは昔の写真のような、撮られた瞬間に時間とは独立してしまう記録の曖昧さや不正確さと比較しているのだろう。どちらも同じ写真であっても、その写真が撮られた日付が無ければどれぐらいの昔かはわからないのである。
そのような曖昧な時間の記録があることを理解したうえで、グーグルフォトの厳密な時間の記録に詠み手は感心している。グーグルフォトはまだ新しい記録管理ではあるが、それ故に、詠み手自身の記録の管理方法の変遷と比較して、詠み手自身に内包されている時間の差を、ちゃんと、という部分に表しているのだろう。
なぜ読み手はそこまで時間を意識しているのか、そこにはそのそばに居る老犬への愛着が、そのように意識させているのである。老犬という書き方にもあるように、詠み手と一緒に居られる時間の長さを、グーグルフォトにある過去の正確な時間と比較することで実感してしまったのかもしれない。
詠み手はその実感を受け止めて老犬を抱いている。この抱くという行為は写真という時間の記録には残らないが、いま、この時だけの詠み手の犬に対する確かな感情が込められているのである。
北海道 石河いおり
テーマ詠に使われたモチーフ『ポラロイド写真』
ポラロイドは、1937年にエドウィン・ハーバード・ランドが創立したポラロイド社(Polaroid Corporation )の略称、または同社が開発したインスタントカメラの通称。
(中略)
2000年代に入ってからの急激な消費者のデジタルカメラへの移行の追随に失敗し、2001年10月に約9億4800万ドルの負債を抱えて経営破綻する。(以下略)
ポラロイド-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポラロイドカメラで写真を撮ると、カメラ本体から何も映っていない写真が出てくる。しばらく待つと、次第に撮影されたものがゆっくりと浮かび上がっていく。昔の写真フィルム式カメラとは違い、現像するための場所や薬剤が必要ではない。知識が無くても自ら撮って、その場ですぐに確認することが容易になった。
詠み手も撮ったばかりのポラロイド写真を眺めている。そこには薄い靄のようなモノしか見えない。それを詠み手は宇宙のようだと思った。その宇宙は次第に鮮明になっていくけれど、しかし、ポラロイド写真の中で鮮明になるのは宇宙ではなく被写体である。詠み手は、宇宙の出来上がりから被写体の出来上がりに心を引き戻される。
ポラロイド写真の登場により、写真は撮影したその場で見られるものになった。後のデジタルカメラの登場により、写真がその場で見られるだけではなく、瞬時に遠方まで写真を送信できるようになる。
しかし、携帯電話にまでデジタルカメラが搭載された現在でも、ポラロイド写真、インスタントカメラの写真は残っている。そこには写真という媒体が写真自体の価値だけではなく、写真を撮るという行為にまで価値を付加するようになったからだろう。
この短歌はポラロイドカメラのフィルムが出てきてから、被写体が映し出されるまでの詠み手の心理を表したものである。まだ被写体がぼんやりとした状態を、宇宙、と表現しているのは、ポラロイドカメラの未使用のフィルムが真っ黒であり、そこから白色とカラーの色彩が徐々に浮かび上がってくる様を天上に浮かぶ星々のように見立てたのだろう。
しかし、この宇宙はポラロイド写真が撮られ、完全に被写体を浮かび上がらせるまでの短い時間にしか現れないものである。ポラロイド写真が出来上がるまでの、宇宙が出来上がる時間というように、この短歌では、出来上がる、をリフレインのように使用することで、その間にある短くも確かに存在する時間を読者に意識させている。
その宇宙は、撮った本人も完全に見られないもので、想像の中にしか存在できない宇宙である。被写体という現実によって、想像の宇宙は次第に消されてしまう。その段階的変化が、この短歌の言葉遣いに用いられている。
この短歌は初句から第四句である前の文章と、最後の結句である後の文章で言葉遣いが違う。前の文章は状況を示すかのような説明的な口調であるのに対して、後の文章は詠み手の感情そのものがでてしまったような会話の口調である。
ここに見えるのはポラロイド写真という知識や仕組みの想像よりも、実際にポラロイド写真になっていく現実の方が感情としては強いという詠み手の意識だろう。詠み手にとっても写真というのは記録や美術の価値ではなく、写真を撮るという行為自体に価値を見出しているのだ。
このように考えてみたけれど、この後の文章が実際には、前の文章のポラロイド写真に対して使われているのか、それとも写真が出来上がるまでの宇宙に対して使われているのかは、はっきりとは分からない。さらに言えば、この、宇宙、というのが本当はシャッターを切ってからポラロイド写真機の中で行われている瞬間に対して形容しているものかもしれない。
しかし、どのように考えてみても、想像の宇宙が出来てしまうとポラロイド写真が出来なくなるという矛盾が生まれてしまう。本来の被写体が映っている現実のポラロイド写真に対して、後の文章が言われていると読むのが自然だろう。
ポラロイド写真という撮影から現像までの短い時間の中に、詠み手の客観的な想像から主観的な現実の意識の更新がある。その瞬間的な変化を最後の言葉に置くことで、詠み手だけではなく読者まで揺さぶってしまうのが、この短歌の面白さである。
千葉県 八号坂唯一
テーマ詠に使われたモチーフ『モノクロ/カラー』
山田航 選 佳作に選ばれました。ありがとうございます。
北海道 細川街灯
テーマ詠に使われたモチーフ『レントゲン写真』
X線撮影(エックスせんさつえい)は、エックス線を目的の物質に照射し、透過したエックス線を写真乾板・写真フィルム・イメージングプレート・フラットパネルディテクターなどの検出器で可視化することで、内部の様子を知る画像検査法の一種である。
(中略)
最も一般的に知られているX線撮影では、X線照射装置とフィルムの間に体を置き、焼き付けて画像化する。X線は感光板を黒く変色させるため、体がX線を通過させた部分では黒く写り、体がX線を阻止した場合には、その部分が白く写る。(以下略)
X線撮影-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手はあなたに何かしらのダメージを受けた。それは直接的間接的、肉体的精神的、いつ頃受けたダメージなのかは分からない。しかし、それは確実に詠み手にとって現在も残り続けているようなダメージである。そのダメージは詠み手の日常の中であって、何かの拍子にその記憶を思い出させてしまう。
それは自らの表面的な肉体では見られない影である。詠み手はレントゲン写真の肉体の細い輪郭と、黒く透明な体液、そして骨や内臓の白い影を想像する。その白い影の中に、自分のものではないくっきりとした影がある。それは確かにあなたから受けたダメージである。この影がいつ消えるのかは、詠み手にも分からない。
レントゲン写真の発明により対象物を破壊せずに内部を撮影できるようになった。医療現場では、骨折箇所の状態や炎症などの患部の症状を把握するために撮影される。この短歌で用いられたレントゲン写真は、詠み手の内部に起きている悪い部分を、医療行為として映し出している。
この影は加害によりできた炎症や変形ではない。そのような後遺症ではなく、加害自体を影として映している。くっきり白い、というその影から見るに、この加害は詠み手にとって強く残るものだったのだろう。医療行為としての治療のイメージと、詠み手自らに負ったそのダメージの関連がレントゲン写真というモチーフで繋がっている。
ここに出てくる加害というのは、この短歌でも影と表しているように負の側面であり、日常では意識されない部分である。しかし、モチーフのレントゲン写真ではその悪い部分を影として映し出すために使われている。ここに詠み手の世界の反転が起きている。詠み手にとっては、その加害が現在の世界の何よりも意識されるものになっている。
その原因を作ったのは、あなた、である。もちろん、読者ではない、ことは分かっているつもりだけれど、そこから読者が目を逸らせないような凄みがあるのはなぜだろう。誰しもが詠み手という架空の存在に、何かしらの加害を与えているのではないかと思わせる。
この短歌の結句はでは、加害、と、あなたの、の間に読点が打たれている。本来であれば、ここには読点ではなく空白を入れて、加害、まで続く前の文章と、あなたの、だけの後の文章による状況の違いを引き出すような読み方をさせるのが自然である。そのようにせず読点で繋いだのは、この短歌における因果を切らせないという作者の意図がある。
この作者の意図が、この短歌全体の影響を与えている。あなたの、という言葉は詠み手の世界における加害者だけではなく、おそらくそのような加害したであろう現実の読者まで及んでいる。殆どの読者は詠み手や作者とは何の関係性もないのは確かである。しかし、短歌のように言葉だけになると、その関連性は無意味になる。
この短歌をどのように考えればいいのだろうか。短歌が読者一人一人の加害を意識させようとしている。その加害は思い当たる人もいれば、思い当たらない人もいる。無意識の加害は誰にでもあり、そこを常に詰められてしまうと贖罪の意識だけが重くのしかかってしまう。誰にでもある、と割り切ってしまうしかないのが現実なのかもしれない。
またこのような加害を受けた読者もいる。その痛みは、このようにくっきりとした影だと認識できるのだろうか。この短歌でもレントゲン写真を用いたように、客観的な視線が入らない限り自分の内側の被害は曖昧としたままなのだろう。その客観的な行為は痛みを伴うものであり、レントゲン写真のように少なからず別のダメージを読者に与えてしまう。
誰にでも加害があり被害がある。そしてそれを生み出すのは、わたしであり、あなた、という関係性に他ならないのである。
埼玉県 松本尚樹
テーマ詠に使われたモチーフ『類似画像』
Google 画像検索(英語: Google Images)とはWebにある画像を検索するためにGoogleが提供している検索サービスである[1]。
(中略)
Google画像検索には逆画像検索を行う画像で検索機能がある。従来の画像検索とは異なり、この機能はGoogle検索ボックスにキーワードや語句を入力する必要はなく代わりに画像そのものを送信してクエリとして検索する[8]。結果には同じような画像、ウェブの検索結果、画像のページ、異なる解像度の同じ画像が表示される。(以下略)
Google 画像検索-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手はiPhoneで写真を撮るのだろう。いろいろな写真を撮っている。カメラロールを見れば、そこには沢山の写真があった。しかし今は詠み手はそのカメラロールを前に思案している。おそらく沢山の写真を撮り、そのままにしていたのだろう。iPhoneの記憶容量がいっぱいになってしまった。
このままでは新しい写真を撮ることができない。そこで詠み手はアプリの機能を使い、同じような構図や人物の写真を消すことにした。順調に写真の選別が進んでいくが、次に類似画像として表示されたのは、きみが写った写真だった。何度も撮り直しをしたこともあり、検索結果にはきみの顔ばかり写っている。さて、どのきみを消したらいいのだろうか。
類似画像を消去しているだけなので、実際にiPhoneの容量上限にまでデータが溜まってしまったのかは分からない。連写した時に残す写真の選別や、何度も撮りなおした際に出た写真の消去など、撮影してすぐに常に残したい写真を選んでいる人であってもこの短歌の意味は通じる。
しかし、あえて類似画像としてひと手間加えてひとまとめになっているのだから、それらの画像は時間を空けて撮られたきみが写った写真の束である可能性が高い。ここでは、きみと一緒に居た時間がひとまとまりになっている。
詠み手は選択を迫られている。消去するためにきみが写った類似画像を一覧としてiPhoneから表示されているのだから、詠み手は写真を消去することは逃られない。ここで選択されているのは、どのきみの画像を消すかである。もしくは、きみの全ての画像を消すか、かもしれない。
きみ、と対象を限定しているのだから、詠み手ときみの関係に何かしらの変化があった。詠み手がきみを写真に撮れる距離にいるということは、きみと一緒に居る頻度が高いということである。類似画像により一覧で表示されるぐらいには、一緒にいた時間があったのだろう。
しかし、詠み手は今、その時間を消去しようとしている。一緒に居られた時間の一部を切り取った写真をさらに切り取ろうと、もしくは無くそうとしている。詠み手の感情は短歌には書かれていないが、きみが一覧で表示している状態のままの描写により、そこには迷いがあると読者に想像させる。
さらに言えば、詠み手のiPhoneに写ったきみはおそらくカメラに向かっているのが殆どであろう。そのような写真がいくつも表示されている。それを詠み手は、幾人のきみ、と書いている。それは沢山のきみが、こちらを、詠み手を見つめているという状況であり、詠み手はその沢山の視線に何らかの感慨を持ってしまっている。
単純に画像整理をしている時に、ふと、懐かしい顔に出会った。という読み方もできる。そこにも、懐かしい顔であるきみとの関係性がある。常に会っている人であるなら、また写真を撮ればいいという感覚を持つだろう。疎遠になりつつある人に対して、この短歌のような一瞬の躊躇が生まれる。
どのような関係性であれ、きみと詠み手には変化が起きている。そして、その変化にたいして選択を迫られている。詠み手がiPhoneの指示通りに、類似画像を消すのか、それともそれを無視して別の画像を消すのかはわからないが、そこにあった時間が消されるような感覚になるのは、写真が無尽蔵に撮れるようになった現在でも変わらない。
東京都 おいしいピーマン
テーマ詠に使われたモチーフ『サイゼリヤ』
株式会社サイゼリヤ(英語: Saizeriya Co., Ltd.)は、イタリアンファミリーレストランチェーン「サイゼリヤ」を運営する企業。「サイゼリア」と間違えられることもある[1]が、正しくは「サイゼリヤ」である。
(中略)
「日本を真に豊かな国にするお手伝いをする」を企業理念とし「スパゲッティをラーメンと同じ価格で提供」することを念頭に、ポピュラープライスと呼ばれる価格相応かつ期待外れに終わらない価格帯とメニュー構成で「安くて美味しいもの」を提供することをポリシーとしている。(以下略)
サイゼリヤ-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
夜、国道沿いを移動していると、いろいろな大型看板が煌々と立っているの目にする。有名飲食店の看板や、ネットカフェの看板、コンビニの看板、コインランドリーの看板、低価格衣料品店の看板。有名フランチャイズの看板もあれば、個人経営らしき見知らぬ看板を立てている店もある。
詠み手はその道で大型コインランドリーの看板を見つけた。いや、初めはコインランドリーだとは思わなかった。その横に広がる緑色の楕円の枠と中に赤い文字で書かれている様を見て、あのサイゼリヤだと思った。そこで何か食べようかと思いその看板が立っている建物に近づいて、ようやくここがコインランドリー店だと気づいた。詠み手は思わず、その看板を写真に収めた。
詠み手がいる道はおそらく国道であり、多くの大型看板が眺められる見通しの良い場所だろう。大型、とわざわざ書いているところからも、そこはかなりの集客数を見込み、それを収容できるほどの広い駐車場を持つ建物であると推察できる。
近郊、ロードサイドという概念が短歌の世界に持ち込まれてから、都心と田舎、この田舎とあの田舎が均一化されてしまうような短歌が多く詠まれた。他の歌人による、それらの歌だけをまとめて研究した歌評もある。経済の発展により所有が容易になった自動車や原付による移動力の向上と、その交通量に見合う台数を確保するための土地を賄える場所というのは、各国道沿いの市街近郊の開けた農業用地しかなかった。
この短歌もそのような均一化の影響を受けている短歌である。サイゼリヤという格安イタリア料理チェーン店の名前は、その店舗展開と現在はSNSでの影響もあり全国で認知されている。国道沿いやショッピングモールのテナントにはほぼサイゼリヤがあるという読者もいるだろう。
サイゼリヤとコインランドリーの共通点は、どちらも安価に利用できるという点である。詠み手自身の経済状況や家庭環境にも左右されてしまうけれど、少なくとも詠み手にとってはサイゼリヤはすぐに看板を思い出せる程度の認識、利用頻度がある。読者にもあのサイゼリヤの看板を思い出せるだろうか。
このサイゼリヤはあくまでもこの短歌に使われているモチーフであるので、サイゼリヤを知らない人はあなたの思い浮かべる国道沿いの有名フランチャイズ店を当てはめて欲しい。ロードサイド、都市近郊における、人々の生活が国道、そして国道沿いの有名ショッピングモール、有名フランチャイズ施設なしには立ち行かない、という均一化された田舎特有の構図の上にこの短歌は出来ている。
この短歌はそのようなロードサイド中心の都市構造に対して、批判的な視線を持っているものではない。詠み手は、偶然見つけたサイゼリヤによく似たコインランドリーの看板を見せるために写真を撮っているだけである。おそらく、その写真を誰かに見せるのだろう。
そこには作者の意図ははっきりとは見えない。短歌にするだけの意識は見えるけれど、それはどのような感情から生まれたものだろうか。ただ詠み手はこのロードサイド的都市に慣れており、その日常を楽しもうという姿勢がある。その見慣れた道沿いを進み、見慣れたサイゼリヤに似た看板を撮影して、誰かに見せようとする。
そこにある世界でささやかな楽しみを見つける。世界に対して向こうを張って成功するという大きな夢や希望を持つ人生の価値観とは違う、しかし誰にでも持てる小規模な価値観である。これを良いとするか悪いとするかは、おそらく世代間でも地域間でも違うだろう。
ロードサイドにより、この田舎とあの田舎が同じような見た目になってしまった現在であっても、このような価値観の差が生まれてしまうのはなぜだろうか。全ての田舎が均一化されているのであれば、誰しも同じような楽しみを持てるはずであるのに、なぜこの状況をもどかしく思ってしまうのか。
今はこのような状況を格差、というよりも、多様性として言い換えられているが、多様性は本人の多種にわたる選択肢から選んでこそ成り立つ概念である。何も選択できず、ただそこにとどまらざるを得ないことを多様性とは言わない。
詠み手は大型コインランドリーの看板を撮る。ただサイゼリヤに似ているというだけでサイゼリヤでもないその看板には、均一化され同じになったはずなのに、何かが悪い方向に違ってしまっているという都市と、そこに住む人たちの印象を映し出しているのかもしれない。
神奈川県 久藤さえ
テーマ詠に使われたモチーフ『夕焼け』
夕焼け(ゆうやけ)は、日没の頃、西の地平線に近い空が赤く見える現象。
(中略)
1883年、世界中で鮮やかな夕焼けが確認された。これはクラカタウ火山の噴火により大気中に障害物が撒き散らされたためである。
夕焼け-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手たちは夕暮れの中を歩いている。何かの試合の帰りであり、それぞれ思い思いに仲間と話したり、一人俯いたりしている。試合は良いところなく負けてしまった。誰のせいでもないよ、という声がどこからか聞こえる。詠み手は何も言えなかった。詠み手はふと遠くの夕暮れを眺めた。その綺麗な夕焼けを見て、今日の思い出として写真に撮ろうと思った。スマホをその夕焼けの世界に向けて、写真を撮る。
しかし、そのスマホの中の夕焼けは詠み手が思っているほどの夕焼けでは無かった。詠み手は慣れた手つきでカメラの機能を使い、その夕焼けの写真にコントラスト調整を加えていく。太陽や空がさらに赤さを増し、詠み手の満足いく夕焼けになった。この夕焼けらしい夕焼けも、この悔しい気持ちもきっと懐かしく思う日が来るのだろう。
結句に、負け試合、と書いてあるので、おそらくは何かの試合なのだろうとは思うけれど、試合と比喩するものはいろいろあるので判断に迷ってしまう。甘酸っぱい青春として、告白してフラれるという状況も、負け試合として言えるかもしれない。そうなると、誰のせいでもない、という部分と合わなくなってしまうので、やはり普通に何かの試合なのだと考える。
夕焼けにまつわる前の文章と、負け試合に纏わる後の文章では、詠み手の視点が違っている。前の文章は夕焼けの写真を加工している詠み手であり、後の文章は負け試合について納得しようとしている詠み手がいる。
ここには時間だけが流れていて前後の文章には関連が無いように見えるけれど、詠み手の中では繋がっているように見える。詠み手は今日一日をまとめようとしているのである。そのためには、全てが終わったと思える何かが無ければならなかった。
そこで詠み手は夕焼けを撮ろうと思ったのである。夕焼けは一日の終わりであり、次の新しい一日の始まりを予感させる。何もしなくても一日はやって来るのだけれど、試合に負けてしまったことに対してのけりをつけたかった。詠み手は、そうしないと今日一日を納得できなかったのだろう。
しかし、スマホに収められた夕焼けでさえ、詠み手が納得できる夕焼けではなかった。詠み手が想像していた夕焼けと違っている。試合も、詠み手が想像していた展開とは違っていただろう。今日一日で詠み手の理想とは違う現実が二つも起きている。
詠み手はその理想とは違う現実への抵抗として、このスマホの中の夕焼けを夕焼けらしくしようと思った。そうすることで、少しでも現実を詠み手が納得できるところまで近づけようしている。試合に負けたのは誰のせいでもない、分かっているけれど、じゃあどうして負けてしまったのだろう、そのような煩悶を打ち消すためには必要な行為だった。
詠み手がささやかな現実への抵抗を、スマホの中の夕焼け写真の加工によって実現したことで、ようやく負けたことを納得できたのかもしれない。後の文章は客観的であろうとする冷静な感情として書かれているために、本当に受け止められているのかは分からない。
そのように受け止めきれない現実にささやかな抵抗をしながらも、徐々に現実を受け入れるようになることが、人として成長するということなのかもしれない。詠み手がこの現実を受け入れて迎える次の朝は、一体どのようなものなのだろうか。
大阪府 藤田哲生
加藤千恵 選の特選に選ばれている為、『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 3月号 特選 4首』にて鑑賞します。
次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 3月号 加藤千恵 選 佳作 10首』に続きます。