野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 3月号 加藤千恵 選 佳作 10首

 投稿歌人、八号坂唯一です。この文章を書いているのが緊急事態宣言後の四月の中旬(※実際は五月の中旬まで書き上げることが出来ませんでした)で、ここまで深刻な状況になっているとは思っていませんでした。いや、本当はこの感染症が広がっていると聞いた時に、最悪な状況も考えていたのですが、それは私の想像だけでしか起こっていないことで、現実として目の当たりにすると受け止めきれていません。

 Youtubeで感染者数の推移の配信を見ては、致死率を計算しているという暗い習慣もついてしまいました。現在は明確な治療薬や治療法がないという状況なので、この文章を読んでいる方々におかれましては、感染被害に遭わないことを願っております。

 「小説野性時代2020年3月号」の289ページの右側を鑑賞します。こういう時、気を紛らわす。もやもやをはっきりするために、短歌を詠むのもいいのかもしれません。

テーマ詠「写真」

 北海道 住吉和歌子

 テーマ詠に使われたモチーフ『画像加工アプリ』

 画像編集(がぞうへんしゅう、英: Image editing)は、デジタル写真や銀塩写真やイラストレーションなどの画像を変化させる過程を指す。
 (中略)
 ドローツール(Adobe IllustratorやCorelDRAW、Inkscape など)は、ベクトル画像の生成・編集に使われる。ベクトル画像はピクセルではなく、直線やベジェ曲線、テキストなどの形で格納される。ベクトル画像をビットマップ化(ラスタライズ)するのは、逆(ビットマップ画像のベクトル化)よりも容易である。ビットマップ画像のベクトル化はコンピュータビジョンの研究テーマの1つとなっている。ベクトル画像は編集が容易で、任意の解像度のビットマップ画像に変換可能である。(以下略)
 画像編集-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 詠み手は自撮りをたまにする。頻繁にするわけではないから、自撮りした後のことなどあまり気にしていなかった。けれど、人から聞いたのか雑誌で読んだのか、より綺麗に見せるための画像の加工方法を知ってしまった。加工といっても複雑な操作をするものではなく、いくつかの中から自分の好きな項目を選択するだけでいい。
 詠み手はそのように加工した画像を見て、どうして今までこの機能を知らなかったのだろうと思ってしまった。そして、いままで撮ってしまった自撮りにも、そのような加工ができればもっとよく見えるだろうと思ってしまった。詠み手は加工アプリを使ってしまおうか、まだ迷っている。
 コンピュータ性能の向上によって画像加工が簡単になり、誰でも指先で思い通りの写真が作れるようになった現在、自分で制御できる現実が新しい現実として私たちの目の前に現れた。
 制御できる現実は二つの意識を生んだ。個人情報の漏洩を防ぐために顔を隠す人、またはより良く見せるために加工を施す人に分かれている。風景の写真でもそれは変わらず二種類の加工が施された写真を見る。そこには現実に対する不安と、期待が混ざり合っている。
 どちらの意識にも他人が見るという要素が含まれている。他人がどのような行動をとるのかを、どのように想像するかによって意識は変わってくる。他人が危害を加えてくると意識しているのであれば、より匿名性を帯びた加工になり、好意や羨望を貰うと意識しているのであれば、より自らの個性を特化させた加工を施す。
 現実が制御できるようになってから、時間を経るにつれて人々は期待する方に進んでいるような気がするのは私見ではある。しかし、他人にどう見られるかが、道徳や倫理のような常識的な判断基準以外にも増え、誰にでも意識させられてしまうような世の中になっているのは確かである。
 詠み手は自分の中でそのような期待感が膨れているのを、罪だと表現している。現実の自分を加工してしまうのを偽りの自分だと感じてしまうのだろう。この感覚を古いと思う人もいる。他人に見せるのだから、良くない部分は加工して、できるだけ綺麗で見やすくした方がいい。現に、目の前には加工されて見やすくなった自分がいる。
 このような読み手の感覚のゆれを、この短歌では、ようです、という丁寧な言葉遣いにして客観的な風を装っている。しかし、詠み手は知らなかった過去に戻れない。この加工できるアプリを受け入れて、少しずつ自分の写真に取り入れていくだろう。
 他人に見せるという意図がなくとも、自分が満足するという、これ以上ない理由の免罪符がある。罪の果実だと言いながらも、それを受け入れてしまうのは、アダムとイブを血を受け継ぐ人間だから仕方ないと考えてしまう。
 その詠み手の心理が、読者への共感に繋がっている。自分が使う使わないにかかわらず、加工された写真という新しい現実を見せられる度、その罪はすでに世界中に広がっていることを意識させられてしまう。あとは、自分がその罪の共犯になるかどうか。詠み手は共犯になることを選んだ。あとは残された読者がどうするかだけなのである。


 神奈川県 中森さおり

 テーマ詠に使われたモチーフ『スマートフォン』

 スマートフォン(英: smartphone、日本での略称「スマホ」)は、モバイル向けオペレーティングシステムを備えた携帯電話の総称である。現在では一般に、折り畳み式を含む従来型の携帯電話(フィーチャー・フォン)等と区別されて使用される。
 (中略)
 なお、「スマホ」の略称が定着するまでは「スマフォ」「スマフォン」と略す者も居たが、発音等の語呂の都合から次第に「スマホ」に統一された。 (以下略)
 スマートフォン-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 テレビやネットでよく聞かれる雑学がある。良く使っているのに掃除がきちんとされていないものの代表として、スマートフォンがある。掃除されていないスマートフォンは日々掃除されている便座よりも細菌が多いという雑学である。細菌が多いという言い換えをしているが、つまりはとても汚いということでそれを聞いて衝撃を受ける、までがこの雑学にまつわる一連の流れだろう。
 詠み手は既にその雑学についてはもう知っている。だからといって毎日掃除するには、スマートフォンは精密機械に過ぎる。細菌の多いスマートフォンであることを頭の片隅に置きながら、詠み手はカメラロールを眺めている。何気なく見つけた写真は今の詠み手の気分には合わないものだった。指先で、その画像を抑えて横に払う。写真は画面の外に飛んで、それきり見る事は無かった。
 スマートフォンには細菌が多いというのは、とてもありふれた細菌にまつわる雑学の一つである。以前であれば、パソコンのキーボードには細菌が多い、紙幣硬貨には細菌が多いという雑学が、よく聞かれる雑学だった。
 今でもそれらの事実は変わっていないし、それをどのようにメーカーが解決しているか、利用者が解決しているのかは、各自でバラバラである。バラバラであるのだから他の人が触れる環境であるのであれば、誰もが少なからず細菌に触れているということになる。
 そのような事実は、すでに詠み手は受け入れている。受け入れているのに、この短歌で改めて写真の削除するという文章の引き合いに出している。そこには詠み手がスマートフォンの外側だけでなく、内側にもそのような細菌、より具体的に言えば、汚れ、のようなものがあると考えているからである。
 それが詠み手が画像を一枚消すという行為に繋がっている。その画像は一枚であったとしても、今の詠み手にとって不必要なものであった。スマートフォンの容量には限りがある。不必要な過去よりも、不確かな未来を保存できるようにしたいと思うのは誰でも考える事だろう。
 スマートフォンの内側に眠っていた不必要な過去の一枚と、外側で繁殖している不必要な細菌を似ているものとして扱っているのが、この短歌の面白さだろう。細菌量の比較対象である便座よりも、今、自分が見ている写真の方が汚れていると思ってしまっているのかもしれない。この部分の意識については書かれていないので分からないが、現実として詠み手は細菌まみれのスマートフォンを指先で撫でながら削除している。
 この短歌を読み、優先順位、のようなものを考えてしまう。後々に人体に影響が及ぼしそうな衛生環境の改善よりも、ただの数メガバイトのデータでしかない写真の削除の方が優先されている。現在は、新型感染症の影響により、スマートフォンに除菌シートや消毒アルコールを浸み込ませた布で毎日拭いている人もいるだろう。
 この以前以後も、清潔ではないスマートフォンが人体へ細菌を感染させる可能性は変わらない。ただどちらが生命にどの程度の影響を及ぼすかによって、優先順位が変わってしまう。そのような目先の行動の変化を批判する意図はない。
 そのような状況の危機的変化によって人の習慣が変わり、よりより人間の生活環境を作っていくというのが、人が地球上に繁栄するために作り出した知恵であり、その積み重ねが歴史として後々の人々へと受け継がれていくのだろう。
 この詠み手は、今ではスマートフォンを除菌しているのだろうか。それともそのような事は今も気にせず、また積み重ねた過去を一枚消しているのだろうか。どちらであっても、それも人間らしいなと思ってしまう。おそらく読者もそう思ってしまうだろう。

 

 北海道 石河いおり

 テーマ詠に使われたモチーフ『履歴書』

 履歴書(りれきしょ)とは、学業や職業の経歴など人物の状況を記した書類のことで、就職や転職時に選考用の資料として用いられる。また、学歴や職歴によって給与や資格などを決定する手続き(査定)において、それを証明する各種の書類とともに提出する。
 (中略)
 また、「手書きの文字には人柄が表れる」という考えの下で、あえて「手書きの履歴書のみ」という条件をつけ、それ以外は採用しないという企業もある[9]。(以下略)
 履歴書-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 詠み手は就職活動をしている。同じ内容の履歴書を何枚も手書きする。それぞれの会社に合わせた志望理由を書いているが、どれも会社に入社するための建前でしかないような気が詠み手はしてしまう。先が見えない就職活動に疲れているのかもしれない。
 この紙きれで私の何が分かるのだろう。詠み手は改めて自分の履歴書を見る。経歴も志望理由もただの文章でしかない。視線の先に、先日撮った私の証明写真が貼りつけられている。この顔だけで何が分かるのだろう。本人を証明するなら全身を収めるべきだろう。履歴書から目を離すと、窓の外に月が見える。その月も正面しか見えない。誰も自分のことは分からないのだ。
 短歌で良く作られ良く読まれる分野として、思春期や青年期を詠んだ歌がある。恋や受験や部活などと言った、ほぼ誰にでも経験がある出来事の挫折や喜びが題材となる短歌である。その分野の中で子供から大人に成長するという大きな変化の出来事の一つに就職活動があげられるだろう。
 就職活動は多くの人々にとって、自分が何者であるのか明確な個性を作り出そうとさせながらも、会社に馴染めるような普遍性に自ら合わせようとする二重の客観視を強いられる出来事である。私はそのような就職活動の経験が少ないので、知った風に語るしかないのだけれど、多くの人がこの作業で苦労されていると思われる。
 詠み手もこの作業に疲れてしまっている。いくつもの会社に選ばれないという挫折は慣れそうで慣れない。それでも履歴書を書き、面接を受け、就職活動を続けなければならない。そこまでしなければならない自分とはなんなのだろう。
 この短歌に分からないものとして出てくるのは、履歴書の喉から下と月の裏である。証明写真の自分の姿と地球から見える月の裏を重ねている。どれだけ自分を個性を客観的に見つめたとしても、会社からは普通の人にしか見えていないのだろう。その裏側にどのような素晴らしい発見があろうとも、詠み手からはただの月だとしか見えないように。
 詠み手は自分を慰めるしかない。今日も月の裏側は見えないけれど、詠み手は月そのものではない。いつか自分を認めてくれる会社があると思って、明日も生きていくしかない。
 また、迷いや苦しみの環境としての、夜、をこの短歌で用いている。夜は皆が寝静まる時間なので孤独になりやすい。自分だけが社会から外れてしまったような感覚を受けてしまう。社会活動しない時間帯なので、普段では考えないことを自問自答してしまう。誰しもに存在する時間であり、その行為に共感する読者もいるだろう。
 短歌、に関わらず言葉には、そのような迷いや苦しみを、普遍的なものにする客観性がある。確かにそれぞれに存在する悩みは、それぞれにしか理解できない絶対的なものに見える。
 ただ言葉すると、それは貴方を含めた、誰かに読まれる。もしかしたら、自分の悩みが共感されるかもしれない。ここには自他の理解の矛盾がある。自分にしか理解できない悩みが、どうやら相手に伝わって理解されている。理解されないけれど共感されるというのは、このような創作に関わらず言葉を使っている人にはよくある経験だろう。
 もしかしたら共感というのは、この短歌で言えば月の裏側を見ようとする気持ちなのかもしれない。普段は気にしなかったものに気づかされるとき、それに興味が湧くのだろう。その裏側を人々がついに見た時に、どのような反応をされるのか、それは別の短歌で考える話になるだろう。


 千葉県 芍薬

 テーマ詠に使われたモチーフ『カメラロール』

 カメラロールとは、AppleのモバイルOS「iOS」において、iOS端末で撮影・保存され写真画像を保存しておく領域のことである。
 (中略)
 カメラの世界で「ロール」といえば、元々は銀塩カメラ(フィルムカメラ)におけるロールフィルムを指す。iOSにおけるカメラロールも、撮影した写真をそのまま撮り貯めるものという機能はロールフィルムの役割に近いといえる。
 カメラロール-IT用語辞典バイナリ Weblio 辞書

 スマートフォンには今までに撮った写真が収められている。好きなものを見つけた時に収めるようにしていたので、カメラロールの中には好きなものしかない。時間がある時にゆっくりとそれらを眺めているのが詠み手の楽しみだった。
 今日も、カメラロールに入っている写真を眺めている。ペットや野良ネコ、お店で見つけた食べ物、笑顔の友人、そして一緒に写っている読み手。眺めているうちに、それらはいつか死んで消えてしまうものだと気づく。どうして人が写真を撮るのか、その理由が詠み手にはなんとなくだけれど分かった。
 写真は一瞬を永遠にする。というのはあまりにも陳腐な言い回しではある。しかし陳腐であるというのは、誰しもが実感しているということでもある。先の台風で家が雨漏りした時にいくつか物置の荷物を避難させた。その時に昔のアルバムも一緒に避難させたのだが、その中に収められていた自身の幼少の頃の写真を見て、このころの自分には永遠がある、などと思ってしまった。
 ここで比較しているものが不変の印刷物と流動の現実である。写真の中の存在は時間が止まっている。そしてそれを見ている現実は死へと向かって時間が進んでいる。本来であれば比較対象にはならないもの同士が、詠み手という存在を通すことで強引に比較されている。
 それは詠み手が写真の向こう側に存在する別の現実を見ているからである。写真の向こう側にいる現実は、詠み手がいる現実とは違い、自分の想像によって制御できる時間である。詠み手は写真の固定された時間と、自分の想像する時間の両方を見ている。
 詠み手がカメラロールで見ている時間は、それらが居なくなった現実の時間である。ねこも、パンケーキも、ともだちも、わたしも、それらには命の終わりがある。終わる時はそれぞれ異なっているであるはずなのに、詠み手はそれらが同時に終わってしまった現実を感じている。ここに読み手の想像する時間の自由な可変がある。
 どのような感情でこのカメラロールを眺めているのかは分からないが、その以前の写真を撮るという行為には、それらを残したいという前向きな感情がある。他の人には大したものではなくとも、詠み手にはそれらが大切なものなのである。そしてそれを固定させて、そして詠み手の想像によって時間を可変させてしまう。
 このような矛盾するかのような行動は、大切なものを持つ人であれば誰でもしてしまうものなのかもしれない。大切であるがゆえに、その時間にとどめておきたい、そして、よりより過去や未来を勝手に想像してしまう。しかし、どのような行動であっても、それそのものに大きな影響を与えることはない。
 大切にしているものはどちらかが消えてしまい、この現実では会えなくなってしまうという残酷さ。いま生きている現実の時間の流れの力強さに、人はどうやって対抗するのか。写真は、その時間の流れに対抗するささやかな武器なのかもしれない。
 補足になるが、後の文章は詠み手がカメラロールに収めた被写体を並べている。先に大切なものという大枠で説明したけれど、実際にはそれらは同じような愛着ではなく、それぞれに独特な感情が込められている。
 愛玩、食、友愛、自己愛、それらの感情は詠み手には大切で必要なものであり、読者にも理解できる感情があるはずだろう。何か具体的なものを挙げる時に、同じようなものではなく少し違うものを挙げていくことで、多くの読者に読み手の感情が伝わるようにしているのも、この短歌の上手さだと思う。


 東京都 タカノリ・タカノ

 テーマ詠に使われたモチーフ『写真を撮る2進数女子高生』

 女子高生(じょしこうせい)とは、女子高校生(じょしこうこうせい)・女子高等学校生(じょしこうとうがっこうせい)の略である[1][2][3]。女子高生の略称として『JK』(Joshi-Kouseiの略、ジェーケー、ジェイケイ)がある[1][2][3]。別称として中学校、高等学校の女子生徒を指す「女学生」(じょがくせい)がある[4]。
 (中略)
 「女子高生」は以下の登録商標でもある。
 権利者・伊藤ハムで「登録番号4341989および4341990」。前者の指定商品は、弁当・餃子・焼売・ピザ・ミートパイ・菓子およびパン。後者の指定商品は肉製品・加工野菜・加工果実・カレー、シチューまたはスープのもとである。 (以下略)

 詠み手は人前ではかわいいと言えない。性別なのか世代なのか理由は分からないが、うかつにかわいいと言ってしまうと、今までの印象が崩れてしまう。けれど、やはりかわいいものはかわいいし、それをずっと見ていたいと思うのは誰しもが持っている感情である。
 詠み手はかわいいものを写真に撮る。そして、それをSNSにアップロードする。SNSを見ればそこは他人がアップロードしたかわいいものだらけである。なんにでもかわいいと言ってしまう女子高生みたいだ。けれど、デジタル、2進数の世界であれば性別も世代も国境も超えて、すべての人が女子高生になってしまうのだ。
 かわいいと女子高生を並べている短歌であるけれど、2進数という言葉によって単純な連想や類型化にはしていない。デジタルの世界でもう一つ新しい自分を演じられるようになったことで、かわいい、という本心を言えるようにも、偽りの女子高生として発信するのもできるようになった。自分という類型化からの解放である。
 類型化と、それを否定する意識、どちらも詠み手や読者には存在しており、状況に合わせて使い分けて生きている。詠み手は、かわいいと思う気持ちとそれを共有したいという行為は、女子高生以外にも存在していると思っている。しかし、その前提として女子高生の類型化から逃れられていない。
 その女子高生という類型化は読者にもあることをこの短歌で利用している。現実の世界にはどのような人間がいてもいいのである。かわいいなどと言いながら、かわいいものしか撮らないオッサンが居ても、至極当然な話である。しかし、この短歌ではかわいいを追い求めてデジタル化された世界を駆けるデジタルの女子高生が詠み手によって想像されてしまう。
 私はこの短歌鑑賞では想像力という言葉を便利に使用しているが、想像力の実際は、経験の中で類型化されたものと、類型化されたもの以外の全ての可能性でしかない。これは無限のように見えるが、想像力の中の可能性は見えない。想像力は可能性が見えてしまえば途端に類型化の中の収められてしまう二極化した力なのである。
 デジタルの世界は入力されているかされていないか、数字で言えば0と1の世界で出来ている。その世界の上に現実の世界が似せて作られているが、デジタルの世界は自分が気に入った世界か、それ以外の気に入らない世界の二極化を明確にした。この短歌は、かわいい、しか存在できない、女子高生だけの世界を生み出し、それ以外の存在を見えないものにした。
 デジタル化した女子高生しかいないデジタルの世界を、読者は受け入れるかどうか。それは類型化した女子高生という言葉に対して、どのようなイメージを持つかによって変わってくる。この短歌の発端は、かわいいが存在できない現実の自分の世界だった。それを女子高生という類型を借りることで、デジタルの世界に存在できるようになった。詠み手は類型化された女子高生の存在を受け入れている。
 ただし、作者はおそらく女子高生ではない。自らを女子高生と詠む女子高生の短歌もあるが、この短歌はは違うと考える。この短歌自体には詠み手の感情しか書かれておらず、デジタルを被った女子高生の感情は書かれていない。後の文章はデジタル世界の客観的な文章だけである。この短歌には現実の女子高生は居ない。詠み手の想像力だけの女子高生である。
 そう考えから改めてこの短歌を詠むと、実は後の文章はどのような存在であってもいいし、無くても作者の意図は通じてしまう。かわいい、という感覚が現実の世界の全ての人間にあり、それを人に伝えても人によって選別されない世界を認識させることが、この短歌の一番伝えたかった部分だと私は考える。
 2進数女子高生とは詠み手や読者に自分の存在場所を与える、想像の産物でしかない。自分の存在場所が現実でも広がったとき、それは自分の中の2進数女子高生が消える時である。それまでは、彼女は誰の胸の中でかわいい、を肯定するために生き続けている。


 群馬県 サツキニカ

 テーマ詠に使われたモチーフ『走馬灯』

 走馬灯、走馬燈(そうまとう)とは内外二重の枠を持ち、影絵が回転しながら写るように細工された灯籠(灯篭)の一種。回り灯籠とも。中国発祥で日本では江戸中期に夏の夜の娯楽として登場した。俳諧では夏の季語。
 (中略)
 死に際に見るという、自らの人生の様々な情景が脳裏に現れては過ぎ去っていくさまを、「走馬灯のように」と形容する。 (以下略)
 走馬灯-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 それらはどのような時の思い出なのだろうか。おそらく詠み手が経験したであろうものばかりだろうけれど、はっきりとは思い出せない。思い出せないと余計に気になるのが人の性であるけれど、その必要は今はない。なぜなら、それは死の間際に見る走馬灯として目の前に表れているのだから。
 もしかしたらこのまま死んでしまうのかもしれない。それにしては詠み手が今見ている走馬灯は、今見る必要がなさそうなものばかりだ。そもそもどうしてこれを思い出にしようと思ったのだろうか。死ぬ間際だというのに詠み手にも自分が分からない。でも、それらの思い出を眺めていると、なぜだか、たのしかった、という気持ちになってしまうのだった。
 ここで使われている走馬灯とは、死の間際に見る、あの走馬灯だろうと考える。灯籠としての走馬灯であれば、中に入っているのは影絵としての誇張されたなにがしかの輪郭ばかりで、この短歌のように写真、と対象物を表すようには形容しないだろう。慣用句としての走馬灯、つまり死の間際の短歌を書いていることになる。
 走馬灯は死の間際に見る、とされているが実際に見たという人は居ない。死の間際なのだから、走馬灯が終わればそのまま死んでしまう。仮に走馬灯を見て現世に戻って来たとしても、それは夢や妄想のように脳の処理による副産物であり、本当の走馬灯とは言えない。死後の世界は死んだ人に聞くしかない。
 そのように死の現実とは矛盾が生じている短歌である。死にそうな詠み手が、果たしてこんなことを思うのだろうか、という読者の想像力を借りて読ませる短歌である。慣用句としての走馬灯というものの、実際には誰も見たことが無い正確でない情景を表しており、こちらも読者の想像力を利用している。
 短歌では急に降りかかっている死という状況に即して、詠み手が見せられているのは話に聞いただけの走馬灯である。そして、そこに映されているのは、人生の節目の思い出ではなく、詠み手にとっての重要ではない些細な出来事なのだろう。撮った理由が思い出せない程に見慣れているせいか、その時の記憶が抜けてしまっている。
 詠み手は死ぬという時に、よくわからない情景を見せられている。これは読者からすれば、自分の人生のクライマックスでこのような仕打ちは理不尽な状況だと思うだろう。案外、そういうものだよなという読者もいるかもしれない。詠み手は、この状況をどう思っているのだろうか。
 それに答えるのが、後の文章である。でも、という接続詞が付いている。確かに詠み手はこれから死んでしまうし、見せられているものはエンディングにはふさわしくない情景が映されている走馬灯である。詠み手もあまりいい終わり方ではないと思っている。しかし、そう思っているのはあくまでも終わり方だけである。
 見せられていた走馬灯は、詠み手が忘れてしまった日常の些細な楽しい部分だったのかもしれない。日常の生の中では感じられなかったことが、死によって二度と味わえなくなると知ったことで改めてその楽しさを感じられるようになった。大切な節目を再生できなかった走馬灯に、たのしかったよ、と感謝している。
 もしくは、でも、とは人生全体を評しているとも読める。大切な節目があったはずなのにそれが死の間際の走馬灯にならなかったのだから、自分の人生は波風の立たないつまらない人生だったと無意識で思い込んでいるのかもしれない。だから、撮った理由が思い出せないような普通の日常の情景ばかりが、浮かんでしまうのだろう。
 しかし、改めて映し出された走馬灯を見て思うのは、そんな日常自体がたのしかった、という詠み手の実感である。波風が無くてもいい、平凡でもいい、それぞれがたのしい時間だったと、死ぬ間際になって実感できている。詠み手は、最後に自分の人生全体を、たのしかった、と肯定したのである。
 あくまでもこれは詠み手が考えることである。詠み手はどのように考えたとしても、この後必ず死んでしまう。しかし、これを読んだ読者はまだ生きている、これからも生き続けるだろう。読者はまだいままでの人生、そしてこれからの人生を、たのしい、と思って生きていける。
 この後の文章は、一体、誰に投げかけた言葉だったのだろう。詠み手の独り言だったのだろうか。詠み手は傍から見れば滑稽な最期の情景を見ながら死んでしまった。これをどう思うかは残された人にしかできないし、その後どうやって生きていくかも残された人にしかできない。


 東京都 品川佳織

 テーマ詠に使われたモチーフ『カメラロール』

 悲しみ(かなしみ、英: sadness)は負の感情表現のひとつ。脱力感、失望感や挫折感を伴い、胸が締め付けられるといった身体的感覚と共に、涙がでる、表情が強張る、意欲・行動力・運動力の低下などが観察される。さらに涙を流しながら言葉にならない声を発する「泣く」という行動が表れる。
 (中略)
 最初は怒りによるその事実の否定からはじまり、自身の脳でその現実を受け止めるとともにこみ上げてくる感情である。事実を否定するほどでもない悲しみの場合は、怒りによる拒絶は発生しない。 (以下略)
 悲しみ-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 夜は街や人が寝静まって、どこにも行けないし誰にも会えない。詠み手は一人の夜をじっと過ごしている。眠るまでの時間はとても長い。この時間に何かしようと思っていても、何もする気が起きない。不安で出来た現実に打ちのめされそうになっている。そんな時に詠み手はスマホのカメラロールを眺める。
 カメラロールにはいろいろな被写体が写っている。風景や人や物、その時詠み手が撮りたいと思ったものが入っている。詠み手はそれらを見ながら少しずつ心を落ち着けている。それらの写真はどれも悲しくなりたくて撮ったものではない。大切な愛おしい物ばかりなのだ。詠み手はそれらを眺めながら、一人の夜をじっと過ごしている。
  夜はどうしても内省的になってしまうものである。どの時に答えのない問いを設定してしまうと、その問いの循環から抜け出せなくなってしまう。そのどうしようもできない自分に対して、無力さを感じてしまう。おそらく多くの人が夜に感じてしまう無力さというのは、そのような一人の思考では答えの出せない問いに答えようとしてしまうからだと私は考える。
 そのような無為な循環に陥らないようにするには、思考を外側にもっていけばいい。例えば本を読むなり、映像を見るなり、ゲームをするなりして、考える部分を自分の答えられない問いにではなく、外側から提示されたものに対して使うようにすればいいのである。
 そのような思考の寄り道を、詠み手はカメラロールに入っている写真を見ることで行っている。実際にこの夜にカメラロールを見ているのかは、この短歌では読み取れないが、ない、と確信を持って言っている所を見れば、おそらくカメラロールを見ている可能性は高い。
 この夜に何もできないことを、かなしい、と考えてしまう。しかし、カメラロール、過去を振り返れば写真に収められている様々な情景、詠み手が何かをしているという事実がある。だから、かなしい、はないと言い切れるのである。
  カメラロールを見ることが過去に縋っていると、感じてしまう読者もいると思うが、むしろこれは前向きな意識とも言える。カメラロールという過去を振り返るとかなしいことは意識して切り捨てているのが詠み手には分かるのだから、もしこれからかなしいことがあったとしても詠み手はそれを切り捨てていける希望がある。
 今を意識してしまう。この今、というのは結果を出せていない状態である。その状態自体を考えてしまうということが、無力感を余計に強めてしまう。前の文章の、なにも、の三回連続の書き出しはその無力感の強さを表している。
 その無力感が強ければ強いほど、だけど、の接続詞により後の文章の力強さが増す。縮められたバネが元に戻る力のように、この希望が強く見えてくる。夜とカメラロールという言葉にも、暗い場所と、カメラを撮影するときの明るい場所という明暗の対比が含まれているように私は考える。
 不意にやって来る今という時間の檻からどうやって逃げ出すか、今を意識しない為に人々は様々な方法で今という時間を考えないようにしている。仕事をする人もいれば趣味を楽しむ人もいる。そうして次々にやって来る今を乗りこなしていく。
 それは決して現実逃避ではなく、人生を最後まで走りきるための方法なのだろう。今という時間の檻に捕まった時に、自分の過去を振り返ってみればそこには積み重ねてきたものを知ることが出来る。その積み重ねがこの先の走るべき道を示すのだろう。この夜に見るカメラロールは詠み手にとって一つの救いになっている。


 神奈川県 高橋草佑

 テーマ詠に使われたモチーフ『顔写真』

 本人確認(ほんにんかくにん)とは、行政庁等に対して公文書の申請や公的機関などで手続きをする際、及び犯罪収益移転防止法における特定事業者と取引をする際に、当該行政庁等、公的機関及び特定事業者が、相手方が本人であることに間違いがないことを確認することをいう。
 (以下略)
 本人確認-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 詠み手はある施設の受付にいる。それは役所なのか、コンサート会場なのかは分からない。公共機関や民間企業であっても、セキュリティ対策の為に本人を確認できる書類を求められる場合がある。詠み手もそのような本人確認を求められている。
 しかし、詠み手が渡したのは顔写真付きの物ではない書類だった。現在は、顔写真付きの書類を求められる場所が多く、この場所も顔写真付きの書類が必要だった。詠み手は、どうにかして本人だと受付の人に言っているが、規則であるためにそれは受け付けられないだろう。本人が本人と言っても通用しない場所がある。
 会話で作られている短歌である。前の文章はその施設もしくは会場の規則を理由に本人確認ができないという感情の無い言葉で、後の文章は詠み手の懇願のような感情のある言葉である。実際に詠み手本人なのだから、それが受付に伝わらない、適切なサービスが受けられないのはもどかしいものがあるだろう。
 読者からすれば、こういう状況はあるあるネタのようなものだと感じるだろう。登場人物のどちらに共感するかは、実際に体験した人でないと分からないだろう。前の文章に共感する人は、規則にも従えず説明も理解できずごねている人の対応に苦労したことがある人である。後の文章に共感する人は、そのようなすぐには用意できない書類もあるという事が理解してもらえない受付の無理解さに腹を立てたことがある人である。
 どちらの側に立っても共感を得られる短歌になっているが、私はそのような状況の共感ではなく、顔写真付きの証明書自体の本人確認というものの不思議さを考えてみる。後の文章で詠み手が受付に訴えていた、本人です、とは一体何だろうか。実際に詠み手が本人なのだから、これ以上の証明は無い。しかし、現実では本人だと偽って不正にサービスを得ようとする人が居るのも事実であり、第三者が本人を確認するためには、自身の体と公的機関が発行した本人にしか持てない書類とセットでなければならない。
 その公的機関が発行する書類も第三者が不正に取得できてしまう状況になり、さらに厳密に本人と書類を結び付けるために、顔写真入りの書類が本人確認に用いられるようになった。これにより第三者による本人確認はさらに容易になった。その顔写真入りの書類も書類である以上は偽造できるのだが、それはまた別の問題である。
 不思議だと思うのは顔写真入りの書類だとしても、その顔写真に使われているのは過去の写真であり、実際の本人とは時間のずれがあるということである。その時間のずれは多くの人にすれば些細なものかもしれないが、顔の輪郭や相貌が数日で変わってしまうことなど起こりうることで、その場合は本人を確認できているのかという問題がある。
 それは例外であるという処理をされるのであれば、例外が存在する確認方法は確実ではなくなってしまう。例外を選択できる確認者の判断が働いてしまう。本人確認というのは、厳密な基準ではなく確認者の判断によって可否が決まってしまうものなのである。顔写真による確認には正確性はない。
 この短歌でやりとりされていた本人確認とは、一体何の確認だったのであろうか。前の文章の確認者は顔写真入りの書類でなければ無効だと断じているが、詠み手は顔写真が入っていない本人を確認できる公的機関の書類を持ってきたのかもしれない。どちらも公的な機関から発行された本人しか持てない書類である。
 別の可能性としては、本人が作成した書類、例えば参加書類に顔写真を添付したものを参加時に用意せよその運営に言われたのかもしれない。その場合は、確かに当日顔写真を用意できなかった詠み手の落ち度もあるけれど、その参加書類は運営から用意されたものであるのだから、所持している時点で本人の可能性は高い。そして、参加のための顔写真を含む個人情報は既に運営に事前に渡しているのだから、運営からすれば手間ではあるがそこから照合すればよい。
 ここには本人確認という根本的行為ではなくて、形骸化されてしまった行為として書類確認がある。そこには持ってきた人が本人であることは関係が無い。ただ確認書類自体が本人として不備が無いかという、逆転現象が起きている。詠み手は本人であるのに、相手側の形骸化された都合により本人ではなくなってしまった。
 もちろん読者の多くはこのような屁理屈を言う私よりも、相手側が決めたものを持ってこなかったのだから詠み手が悪いと判断するだろうし、私も詠み手のその言い分は相手には通用しないと考えている。
 ただ本人確認は本人だけがその場にいても駄目であり、顔写真を含む公的な書類を本人として一度公的な機関に通したものと一緒でなければ、本人にはなれないというのは改めて不思議な行為だと感じてしまう。書類自体、人の登録自体が、本人になっているのである。
 国を含め何か大きな組織に登録されてなければ、その本人としては認められないというのは確かに安心できる本人確認方法ではあるが、そこから漏れてしまった本人にもなれない人たちも、また少数ではあるが確実に存在するということも同時に考えさせられる短歌である。


 北海道 岡本雄矢

 テーマ詠に使われたモチーフ『写ルンです』

 写ルンです(うつルンです)は、富士フイルムが1986年(昭和61年)7月1日[1]より販売開始したレンズ付きフィルムの登録商標(第2110978号ほか)で、同ジャンルのパイオニア的製品である。世界では QuickSnap(クイックスナップ)の商品名(登録商標第2236896号)で販売されている。『別冊宝島』には1986年のサブカル・流行の1つとして紹介されている[2]。
 (中略)
 初代の「写ルンです」から7月1日に新製品が発売されることが多く、社内では7月1日を「写ルンですの日」と呼んでいる。夏の8月が「写ルンです」の最需要期ということも踏まえているという[4]。 (以下略)
 写ルンです ― フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 スマホで写真がほぼ無限に撮れるようになった今でも写ルンですは販売されている。公式サイトや大手通販サイトの通販でも、そして有名コンビニ店でも手軽に買うことが出来る。おそらくスマホのように手軽に写真を撮るというよりも、インスタントカメラ実物の感触や一発撮りを楽しむ懐古主義的側面があるのだろう。写ルンですは写真を撮るという行為に価値を持たせている。
 詠み手は写ルンですを持っている。購入したのか、誰かから貰ったのか、もともと昔の写ルンですを持っているのかは分からない。しかし、詠み手は写ルンですを持て余している。なぜなら、詠み手には撮るものも撮る人もいないからである。写ルンですはあるのにその使い道がない。
 一見すると孤独を自嘲しているかのような短歌に読める。撮影するカメラがあるのに撮りたいものも撮る人もいない、という興味関心や交友関係の薄さを表している。そこには今の環境では思い出として形を残せない、もしくは残す必要性を感じない詠み手の消極的な姿勢が見える。
 これは逆説的にも読みとることもできる。インスタグラムなどのデジタル写真共有SNSなどで毎秒新しい写真があげられるようになった現代では、そのような残す必要性を感じないものばかりを毎日量産して、それぞれの思い出の情報量を相対的に下げているともいえる。一日分の写真の束から、場所と名詞だけが残り、そこで何があり何を感じたのかまでは具体的には記憶されない。
 詠み手は写真を撮る行為自体に対する疑問を読者に投げかけている。その毎日撮っている食べ物は本当に撮る価値があるのか、その人物と一緒に撮ることに何の意味があるのか。撮っている人は何の価値も感じていないだろうし、そういう写真をSNSにあげて注目されたいという欲望もあるだろうし、単純に何か自身の身に起きた時の参照用としての備忘録として利用しているのかもしれない。
 そのような雑多な人間の利用目的が、SNS上では等しく公開された写真として、詠み手や読者の前に広がっている。ここで立ち上がるのは、写真を撮って記録する、公開することが良いと錯覚してしまうような状況や環境である。
 人は無理に自分の情報を公開しなくてもいい。ネットの情報を見ながら内省的に楽しむという行為だけでも構わないのに、ネットでは自ら得た情報を公開して他人を楽しませることを強要している。詠み手はその世界からの強要から逃れようとしている。とって人に見せる価値があるものがこの世にはない、撮って人に自慢するような価値もある人もいない。
 先に詠み手が自嘲していると書いたが、どうして撮るものが無い、撮る人がいないという事が、周りの人の笑いになってしまうのだろうか。そこに写真を撮るという前向きな行動が良しとされる世の中の風潮がある。自分の見たものは自分の中だけで読み返して楽しめばいいのである。そこに他人の評価を入れる必要はない。
 この短歌には、自分だけが楽しむための行動と他人が楽しむための行動という二つの別の価値行動が存在していることを指摘している。写真を撮るという行為自体は自分だけの行動であるはずなのに、行為の先にある撮るものや撮る人という対象物を他人が決めてしまっている。詠み手は何を撮っても良いし、何も撮らなくてもいい。
 そのような価値への他人の干渉によって詠み手の行動は消極的になっている。読者にもそのように本来、価値があると思っていたものが他人によって価値を下げられてしまったという経験があるだろう。詠み手の場合は、写ルンですに何を撮ればいいのかという、写真を撮るという行為の価値が下げられてしまっている。
 とまあ、やや詠み手を消極的人物として鑑賞したけれど、この短歌はその内容というよりも、その文章の音の響きが楽しい歌である。
 写ルンです、という文章の様な商品名を使っているのは、後に続く、あるんです、ないんです、いないんです、という韻を踏むためだろう。ですます調の丁寧な言葉遣いでありながら畳みかけるように繰り出される、んです、により短歌に有無を言わさぬ強引さを生み出している。
 写る、あるという肯定的な文章が、けれど、という接続詞を経由して、ない、いないへと否定的に変化するのも面白い部分だと考える。自嘲の短歌は自分が世の中と比べてどのように劣っているかを読者にも共感できるように、肯定的な言葉と否定的な言葉を上手く使っていくのが大切である。
 大喜利の世界でも、○○だが○○、というシンプルなお題が投げかけられることがある。この前の文章をそっくり否定してしまう接続詞は、読者への面白さを生み出す原動力である。短歌を作り始めた人も、この接続詞を使って短歌を作ってみることで、新しい発見が見つかるかもしれない。

 

 神奈川県 久藤さえ

 テーマ詠に使われたモチーフ『証明写真ボックス』

 霊魂(れいこん、英:SoulもしくはSpirit、ラテン語: anima、ギリシア語: Ψυχή) は、肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの[1]。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられている、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在のこと[2]。人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在[2]、人格的・非物質的な存在[3]。個人の肉体や精神をつかさどる人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在[4]。 (以下略)
 霊魂-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 詠み手は真夜中の街を歩いている。真夜中の街は日中とは違い、人々の声も、機械の振動も少ない。詠み手は真夜中の街を歩くのが気晴らしの一つなのだろうか。殆ど闇の中にある街に、点々と街灯の光や、コンビニから伸びる室内の灯がとても心地よい。
 詠み手はある店の前に来た。その店は既に閉店時間を過ぎており店内と外は真っ暗だった。その店の前に証明写真ボックスがある。そのボックスだけは24時間営業しているらしく、煌々と灯が付いている。外側の光だけではなく、中の写真を撮る場所からも光が出て外側に漏れている。全体的に発光しているその様は、まるで魂の浄化装置だと思った。
 現代社会において真夜中の都市は完全に闇に包まれてはない。街灯や信号機の光や、自動販売機の光、24時間営業の商業施設、そして民家から洩れる家の灯りなど、真夜中でも光は小さいながら生み出されている。
 この短歌では証明写真ボックスが真夜中の街にポツンと光っている存在として表されているが、田舎でよく見かける同様の無人施設といえばコイン精米機だろう。省スペースでシンプルな外装に中が見えるガラス引き戸で出来ている簡素な建物だが、そのような無人施設が田舎ではキロ間隔で点在している。
 短歌として扱うには読者にもなじみ深い施設であるので、この短歌は証明写真ボックスでなくても作者の意図は伝わるのだけれど、今回の短歌のテーマが写真であるために、今回は証明写真ボックスを用いたのだと考える。
 ここで描かれているのは暗闇の中で静かに光る無人の建物の感触である。そこには人はおらず、そして誰にも必要とされず、ただそこに存在しているという状況がある。詠み手には世の中から仕組みから外れた存在が、神聖なものに見えている。
 魂を浄化する装置とは一体どういう装置なのだろうか。それについては魂というのもがどういうものかを考えなければならない。宗教では肉体とは別に存在する、もう一つの自分として、意識と同様に扱われていることが多い。自分が死んだとしてもそれは肉体が死んだのであり、意識はまた別の存在に入り込んで生きていくという考え方である。
 この短歌で使われている魂も、そのような肉体と切り離された意識のことを表している。日常の雑多な情報を暗闇で遮断し、視線や意識だけが街を浮遊している状態は、魂のような存在と言える。その状態で街を彷徨ううちに、自ら発行している小さい無人の建物に意識と視線が吸い寄せられてしまう。
 魂という曖昧な存在が、証明写真ボックスという近代的な機械によって浄化されてしまうかもしれないという詠み手の予感。現代社会においては、神秘的なものはほとんど科学的に駆逐、もしくは解明されていないと保留されてしまったが、科学的に解明されたからと言っても、私達には科学を体感として理解しているわけではない。
 証明写真ボックスがどのようにして写真を撮り、現像しているのかを外部から理解することはできない。内部の部品を子細に見て初めて原理と構造が理解できるのである。つまり、機械もまた詠み手や読者にとっては不確かな存在とも言える。この真夜中という空間によって魂と機械が結び付けられている。
 詠み手にとって浄化がどのような状態であるのかは、はっきりとは分からないけれど、おそらくその意識や視線がその建物だけにしか向かない状態、それだけしか情報を得られていない状態を浄化と呼んでいる。それは一方的な意識の強制ではあるのだけれど、詠み手はその状態を受け入れてしまっている。
 詠み手は日常から切り離されたい、もしくはすでに切り離されていると考えているのかもしれない。短歌には書かれていないのであくまでも想像するしかないのだが、真夜中に魂を浄化するということは、次の朝には新しい自分が生まれることを示唆している。日常で埋め尽くされた雑多な情報を、証明写真ボックスから放たれる光によって上書きしている。
 現実には人気が無くなった夜の無人の証明写真ボックスを見ているだけであるのだけれど、現実を切り離して輝いている光だけを見つめる先に、このような想像力が生まれている。読者も同じような状況にめぐり合わせたこともあるかもしれない。
 見慣れている風景をどのように変化させるか、沢山の歌人の短歌を読むことによって、読者の中にも変化は確かに生まれている。実際に短歌として発表して頂けたらとても嬉しい。

 次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 3月号 特選 4首』に続きます。

  
 

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