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ネガティブな感情の表現と『呪物』は違う

失恋したときに失恋ソングを聴くと癒やされる。

悲愴感漂う絵を見て、どこか救われたように感じる。


言葉ではない何かが、そっと寄り添ってくれる感じ。


そういうときがあるから、怒りや悲しみ、
いわゆる『ネガティブ』な感情がダメということではない。

そういったものを表現してくれる人がいるから救われる人もいる。


こういうバランスのようなものができるには、できる人と、できない、しない人がいるから成り立つ。

作り手側に使命があったとしても、そこに優劣なんて存在しない。


詩人にはなりたくない。
悲しみがいつもそばにありそうだから。

という人もいて、

いつも明るくいるべき!な人もいて。


表現する人が常に暗いか、と言えば、そういう人もいるし、そうじゃない人もいる。


いろんな人がいるから、何が正しいとか、
あれはダメで、これはいい、なんて、
ナンセンスなんだろうなと思う。


悲しみや怒りなどを表現してくれる人がいるから、救われる、癒やされる人がいる。

なのに、そういう人たちの声はなぜか弱くて。

『明るくいるべき!』の声が大きくて潰されそうになる。


そんなふうに思うときがある。



嬉しい、楽しいという表現が、時に誰かを傷つけたり、悲しい気持ちにさせたりもするのに、

そういうのは、
『それはあなたが、こうだから』
と、嬉しい、楽しいが肯定されて、傷ついた、悲しい気持ちになったは否定される。


って、わたしの考えすぎだろうか…と、思わなくもないけれど。


どうしても、ネガティブと言われる感情はネガティブに分類されてしまうんだよな。


いつからだろう。
ネガティブとポジティブに分けられるようになったのは。

分けてしまうからしんどくなるのに。



だけど、悲しいや怒りの表現なのか。。。
時々、
『これはちょっと…』
というものもある。

言ってしまえば、まるで呪物のような。

自分の感情が揺さぶられて感じるものではないもの。

ただ『禍々しい』と感じるだけではないもの。


ああいったものが何故作られてしまうのか。
そこに興味が全くないわけではないけれど、だけど近づいたら絶対ダメなやつ。


ああいったものを見ると、
いわゆるネガティブな感情なんて、かわいいものだなと思う。

作品として昇華されているうちは。


そして、思想を否定するわけではないけれど。

いわゆるスピリチュアル的な高次元だとか高波動だとか、そんな物の見方もかわいいものだと思う。

綺麗なもの可愛いものに擬態しているものだってあるのに。



それくらいヤバイと感じるもの。

そういったものを感じたときは、怖いもの見たさや興味は本当に捨てたほうがいい。


単なる『ネガティブ』とは全く違うから。


だけど、そういったものも作り出すのは、いつも人なんだよな。


わたしは『つくる人』だから、つくる人の目線で言うと。


そういった呪物的なものの作り方を知っていたら…

興味本位で作ってみたくなる
悪用する
という人もいるけれど。

作り方を知っていることで、『作らない選択』をすることができる。


知らなくても『作れない』ならいい。
だけどその可能性はゼロではない。


作り方、要は『知識』というものはそうやって、自分を守るための術にもできるんだと、わたしは思う。


知らなかった、悪気はなかったで済まないこともあるから。

昔描いた魔術感一切なしの薔薇十字


『深い絶望』は人を狂わせることがある。

正義と正義のぶつかり合い。
正義が作られると悪が作られる。

正しさのすべてが正しさではなく。

『絶望』はまるで甘い蜜のようで唆られるのかもしれない。


呪術廻戦の夏油傑の闇堕ちの話はとてもわかりやすいと思う。


こんな漫画でしかないような話も、現実を見渡してみると、よくある話だったりする。


そんなとき、「こっちの蜜のほうが美味しいよ」と手を差し伸べてくれる人がいるかどうか。

そして差し伸べられたその手を掴めるかどうか。
その準備ができているかどうかで、また人生が分かれていく。

呪術廻戦より


わたしはいつも、『手を差し伸べる人』でありたいと思う。

たとえそれが届かなかったとしても。

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HACHI
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