
これさえあれば、わたしはもう何もいらない
わたしは毎日いろんなことを考える。
脳内多動だ。
だけどそれを重たく捉えてほしくないと思う。
深く、人があまり考えないようなことを考えるのは、ネガティブ、暗いとよく言われるけれど、そう言う人とは見ているものが違うんだと思う。
だから、あまり話はしないのだけど。
わたしは考えたことを知りたい、できるようになりたい。
なにかの形で表現したい。
だから考えてるんだ。
それはわたしにとって、必要な素材なんだ。
深刻になったり、心配したりする必要はなくて、
「もっと明るく」「考えすぎ」「ポジティブになりなよ」というアドバイスが欲しいのでもなくて、
わたしの心をそんなふうに簡単に扱わないでほしいと思う。
ただ、わたしはわたしでいたいだけなのに、周りの声がうるさくて、
わたしはわたしを出したいのに、周りの否定が少し重たい。
最近少しだけ、そういう世界から逃れられてきた感覚がある。
『仲間』ではないのだけれど、わたしと似たような感覚だったり、考え方だったりしている人と出逢える。
それがすべてで、それが正しいのではないのだけど、安心する。
わたしもわたしを『わたしとして』出して大丈夫だと思える。
そう思えるようになって、形として表現することができたら…
もしかしたら周りの声も変わるのかもしれない。
人って本当に勝手に『人』を創り上げる。
だからこそ、『わたしはこういう人』というのを持つ必要があるんだとも思う。
もしかしたら、勝手に創り上げられないために、形で表現するのかもしれない。
それがまた難しくて、みんながみんなというわけにはいかないし、まだまだわたしもブレてしまうけれど。
ただ、否定されることに耐性はつけたい。
最近ずっと、お腹のセルフケアをしている。
タイで『チネイザン』を習ってきたけれど、『チネイザン』と言っていいのは本来、きちんとしたタイの規定をクリアしてかららしい。
なかなか複雑だなと思うけれど、それほど大切なんだろう、とも思う。
『チネイザン』とは、『気内臓療法』で、いろいろな感情が内臓に溜まるので、それを浄化するというようなもので。
たとえば、焦ると心臓が早くなる。
不安や心配は胃に溜まって痛くなる。
そういったものを内臓をマッサージすることで、滞りをほぐして流してあげる。
そういった手技と、気功をかけ合わせてわたしはセルフケアをしていて、
何かいいネーミングがないかと考えるけど、
これは閃くしかないか。。。(笑)
内臓に触ることは、その人のいのちに触ること。
もちろんセルフケアで自分の内臓を触るのも、自分のいのちに触れることと同じだ。
わたしの意識とは関係なく、内臓は、細胞は、常在菌は、ホルモンは…
まとめて、わたしの『からだ』は生きている。
からだのことを知れば知るほど、触れば触るほど、愛おしくなってくる。
大切にしたくなる。
それはもう、とめどなく。
わたしは時々、腎臓、正確には副腎や肝臓が痛くなる。
これは食べ物によってもなるから、気をつけているところ。
自分のお腹とゆっくり静かに向き合う時間。
暖かさ
優しさ
静けさ
とても静かで落ち着いていて、瞑想しているような無に近い感じ。
これは昔から浮かぶ、とても単純なイメージだけど、絵に描きたいと思っている。
チネイザンで大好きな先生の施術では、触れられる嬉しさで涙が出る。
物理的な施術と気功という目には見えないもののかけ合わせは、やっぱり大好きだ。
どっちも好きだけど、どっちも好きだから?
どちらかだけより、どっちもやりたいという欲張り。
自分の好きは大事。
だから自分のことも好き。
わたしはちゃんと、心を許せる人には心を許してるんだという実感。
信頼しているから、からだを委ねられる。
絵を描く、歌を歌う、文章を書く、何かを感じる、考える。
すべて、情報空間から拾ってきたものを物理空間で形にする。
そのためにからだは必要不可欠なもの。
だから、わたしにとってはすべてがつながっていて、どれも大切にしたいもの。
何屋さんなのかわからなくなるけど(笑)
からだも言ってしまえばアートで。
人生の経験がからだに刻まれるのなら、美しい人生だったと刻みたい。
からだはまるで彫刻のよう。
そんな『からだ』という彫刻を作り出す施術だってアートだ。
姿勢や歩き方、所作からも人生は垣間見えてくる。
だから、やっぱり心とからだは相思相愛がいいんだ。
忘れずに大切にしたいのは、わたしの手の温かさ。
これさえあれば、もう何もいらないと思えるくらいに。
もちろん手が温かい人はたくさんいて、わたしだけが特別ではない。
だけど、手そのものだったり、手の温かさというのも、『人』というのが伝わってくるもの。
『怖い』から生まれる大切なこと。価値観。
わたしは初めて人の死を見たときに、冷たくなる手、硬くなっていく手が怖かった。
寒くて冷たくなるのとは明らかに違う。
人が人ではなくなるとき。
肉體が肉體でなくなるとき。
温かい手は『生きている』という実感がある。
ちゃんと温かいし柔らかい。
そんなわたしの手で創り出す、様々なアート。
心とからだは、簡単に人に任せていいものではないと、わたしは思ってる。
心もからだも、簡単に壊れてしまうし、壊されてしまう。
そして、なんでも『治せばいい』というものではない。
ネガティブなものはすべて消してしまえばいいというものではない。
それがまだ必要なときもある。
その状態だから良いということもある。
正しいだけが正しいではない。
知識や技術はもちろん大事。
だけど、施術者がどういう考えを持っていて、どういう意識でいるのかも大事。
それを知る術は情報を得ること。
考えること。知ること。
自分を守る術でもある。
こんなことばかり言っているから、なかなか仕事にできないのかもしれないけれど。
だけどそうやってアートをしながら、いろんなところへ旅したい。
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