宝石の国と街と地層と祈りのこと|感想文
◯心理学を学ぶ社会人大学生のいろいろ。今日は読書感想文です。
new!)卒業予定届の受理通知が届きました。3月に予定通り大学を卒業します。
市川春子作『宝石の国』が先日完結した。全13巻である。
人類が滅亡したあと、「にんげん」は魂、肉、骨の3つに分かれ、そのうち「骨」たる宝石たちが、地球でかろやかに暮らしている世界。地球には時に「月人」が訪れ、宝石を壊して月へ連れていってしまう。「先生」と宝石たちが慕う金剛の監督によって、宝石たちは月人と戦い、冬に眠り、悠久の時を過ごしている。
繭玉のようなやわらかく閉じた楽土は、壊れやすい宝石・フォスフォフィライトの探求と愛によって変化を迎える。
市川春子氏の作品では、人間は必ずしも人体構造を持っておらず、人外は容易に人間の日常に紛れ込んでいる。『25時のバカンス』(2011)では姉は体表の殻を残して3体の宇宙生命体に体内を喰われており、『日下兄妹』(2009)では宇宙のくずと人間のくずが一つになる。
なので、宝石たちが草原を駆け回り、触れ合うことでひびが入り崩れ、破片になっても「やっちゃったぁ」と笑うのは自然なことである。フォスフォフィライトがかみさまになるまでに「永劫」の時を地球で孤独に過ごし、月では最後の宴が催されているのは、仏教の悟りの道に従えば自然な流れであったろう。永劫の時を経て、人は肉と魂を捨象して仏性に到達する。宝石は人性を含みながら神性になる。そして歌いながら空を駆け、いうのだ。「だれかのきぶんをあかるくしてるといいな」と。
「だれかのきぶんをあかるくしてるといいな」ということばは、読んだ私の胸にも隕石として落ちてきて、遅効性の毒だか間欠泉だかのように湧いてきて、今日まで何度も眼球を濡らした。
なんでこんなに遅効性の毒めいているんだ?と考えていて思ったのは、この言葉によって「善性への深い信服」を、「いいよ」と言ってもらったような気がしたのである。
ちょっと言語表現にキャッチしにくい概念について、言語化を今から試みる。
カシュガルで、古い市街地を見たことがある。
平野の真ん中に、黄色く小高い丘がある。その丘に小さな路地の脈が張り付いたようになって、家がたっている。路地の脈を子どもが駆け回り、荷物が上り下りする。
地形的に不自然な丘なので、その地区の人に尋ねてみた。「どうしてここは他の土地より高い土地になっているんですか?」と。マンダリンを話す住民が教えてくれたのは、「古い家は崩して、その上に新しい家を建てる。それを続けると、街はちょっとずつ丘を形成する。古い街ほど、その下に古い家を持っている」ということであった。
その街の入り口までの、急な勾配を思った。
坂道の黄色い土の下に、たくさんの家族たちの暮らしがあったことを思った。
それだけでなくて、昔住んでいた家のそばにあった遺跡や、静岡でみた柱状節理や、福江島の溶岩質の海岸線、ラサから林芝までの川沿いの絶壁、三浦海岸の湾曲した地層面、張家界の石柱群、図鑑でしかみたことのない洞窟や地層、教科書で見たマントルまでの構造図、全部がじわじわと同じ瞼に浮かんで重なった。そうして、私が、人が今ここでたって息をしている「いま」までに、たくさんの「こうあれかし」「幸せであれ」が重なったから、いま私が、人が、ここで生きているのだということを感じて、突き落とされるような幸せを感じた。もうこのまま死のうと思った。たっている足の裏のさらに地層の向こう側、奥の奥の奥の方に、たくさんの願いと祈りが積み重なっていると感じて、そういう一部になる自分の行く末が自然と身に落ちてきたようだった。
そのときに感じた、
「いま私が、人が生きているここまでに、たくさんの願いと祈りが積み重なっているんだね」
という感覚は、「善性」を根本的に信じ抜く自分の心性と相まり、そして世界の「悪いことが起こると疑って生きることが安全である」という規格と複雑に作用し合いながら、10年ほどの間、どこか意識下へと貯蔵されていた。
この感覚が、『宝石の国』のストーリーと、その終結によって湧き上がってきた感情とによって久しぶりに掘り起こされたから、私はいま延々と感動し続けているのかもしれない。
「いま生きているということは、生き続けてきたからだ」という当然は、
誰かが誰かへ(有機体から無機体へ、無機体から有機体へ、有機体から有機体へ、無機体から無機体へ)「こうあれかし」とつないできたあかしである。
それは、にんげんという有機体が、岩に絵を描いて旅の手慰みにしたり、石窟画に家族の繁栄を祈ったりしたのとも似ている。岩肌に彫った仏像へ、今日はあなたのお誕生日だからとあざやかな花弁を降らせた祭りとも似ている。つながっていって、それが、あかるくしてるといいな、という…光、明るさ、遠くへも届くものとして言い換えられた『宝石の国』最終巻のメッセージは、だれに宛てたでもない祈りの言語化であった。いのりが積もって、いまがある。
(大ファンです)