「医療観察法」で護られる心神耗弱者と護られない「被害者の人権」
「医療観察法」という制度をご存じだろうか?これは、池田小事件を起こした宅間守・元死刑囚=事件当時(37)による児童殺傷事件の事件後に制定された法律で、殺人などの重大事件を起こした精神障害者が、精神鑑定の結果、心神喪失・心神耗弱となった場合、不起訴や無罪となり、裁判官と精神科医が合議して、刑事罰に問われなかった犯人(患者)の入院期間や治療終了を判断する制度である。保護観察所が医療機関や自治体などと連携し、居住先の確保など社会復帰までをサポートするというものだ。
医療観察法が制定されてから、統合失調症などの急性期の精神障害者に無差別的に殺された被害者が何人かすでにいること、そして犯人は精神鑑定の結果、心身喪失・心神耗弱であれば無罪であり、被害者遺族は泣き寝入りしているというネット記事を読んで、この法律・制度はもっと被害者側の意見を取り入れたものに改定すべきだと私個人は思います。
精神保健福祉士は、精神障害のある方の擁護側の職種です。しかし、あくまで私個人の思想としては、「医療観察法」というものに反対の意見をもっています。心身喪失・心神耗弱で犯人に判断力がなかったとしても殺人は殺人です。殺された被害者や、その遺族にとって、犯人に判断力があろうと、心神耗弱で判断能力がなかろうと、一切、関係ない事実です。
「人権」というものには、「被害者の人権」と「加害者の人権」と両方が存在すると思います。しかし、「被害者の人権」が十分に保障された上での「加害者の人権」であって、日本はその順番が逆ではないかと個人的には思うのです。被害者泣き寝入りの法律というのは、いらないのではないか?というのが、私個人の思想です。
これは、少年法でも同様で、少年であろうと、殺人や傷害などの重大犯罪の場合は、万引きなどの軽犯罪と同様に少年法で一括りにすべきではないと思っています。もちろん、少年の更生という少年法の理念には賛同します。しかし、殺人を犯しても14歳以下は刑事責任を問えず、泣き寝入りして苦しんでいる被害者遺族はたくさんおり、子どもであっても殺人に対し罪を問えないのはおかしいと私個人は思います。
「医療観察法」は、その支援がすべて税金であり、犯人の「社会復帰」まで支援するという内容には驚愕しています。心神耗弱とはいえ、殺人を犯して罪にならず、「社会復帰」まで支援しようというのは、やりすぎだと個人的には思います。おそらく、国は、犯人に使う税金と同等の額の税金を被害者遺族の支援には、一切、支払ってはいないでしょう。
また、同じように無差別殺人をしても、精神鑑定の結果、心神耗弱とされず、犯行時に判断能力があったとされれば、死刑判決になります。池田小の犯人も、秋葉原の無差別殺人の犯人も、光市母子殺害事件の元・少年も、死刑となった永山則夫も、成育歴はあまりに悲惨です。池田小の犯人も、秋葉原の無差別殺人の犯人も、子ども時代の家庭環境の劣悪さもあれば、SSRI(パキシルなど)の抗精神薬による副作用(攻撃性・衝動性が増す)も指摘されています(因果関係は証明されていませんが)。
精神鑑定の結果、心神耗弱という結果が出なかっただけで、死刑となった彼らは、殺人に至るまでのそれなりの理由が存在します。殺人鬼になっても致し方がないような劣悪な成育歴の中、誰からも支援がなく、殺人に至ってしまった。どんな理由があろうと、殺人が赦されるものではありませんが、情状酌量もなく、死刑判決です。
心神耗弱なら無罪で「医療観察法」が適用され社会復帰まで支援され、殺人に至るまでの凄惨な生い立ちを背負った結果、殺人に至った人間は、死刑判決にする。ここにも、大きな不公平さを感じずにはいられません。
また、やまゆり園の植松・死刑囚は、世間から「優生思想」と決めつけられていると私は思います。植松は、生活保護だった時期もあるくらい、非常に貧困者でした。貧困者が知的障害者などの社会的弱者を支えるという日本の仕組みでは、植松の事件は起きて当然だったと私は思っています。私も、介護職で働いたことがありますが、生活保護費と変わらない賃金で、休みも少ない中、働いていました。今はもう消えていますが、その当時は、なぜ、もう寿命が残りわずかで認知症で判断力もなく、自分で食事も排泄もできない高齢者を、食費にすら困っている貧困の私が支援しなければならないのか?という苦悩に悩まされました。
頭では、目の前の高齢者が悪いのではないとわかります。しかし、自分の貧困の怒りが、目の前の高齢者に向かうのです。植松のような思考にどんどん陥っていくのです。なので、怖くて介護の仕事を辞めました。
植松のような思想に陥る貧困者は、珍しくないと私は思っています。支える側の対人援助職が貧困で劣悪な職場環境では、「優生思想に似たような思想」に陥っていくことは、人間は誰しも起こり得ると思います。だからといって、殺人は異常であり赦される行為ではありません。
私は、植松を優生思想だと決めつけず、「もともと優生思想だったのか?」あるいは「貧困者が社会的弱者を支える社会システムの中で、優性思想に近い思想に陥ってしまったのか?」、この前者と後者は、区別して考えなければならない課題だと思っています。
何か大きな事件が起きても、情報を発信する側のマスコミも、受け取る側の視聴者も、思考が単純化しているから、事件が起きた本質的な深い問題まで議論が発展しないように感じています。これでは、何も進歩がなく、次の事件による不幸は防げません。こうした議論を国民でもっとしっかりできるように、マスコミには事件が起きた背景をしっかりと調べて報道してもらいたいし、国民も一時、騒ぐだけで終わるのではなく、自分事として多面的な議論をしていかなければならないと思います。