今も書くときに思い出す、国語の先生の教え。
尊敬する人のひとりに、中学時代にお世話になった国語の先生がいる。先生はおそらく当時40〜50代の女性。わたしは昔から書くことが好きで、その先生に文章表現やスピーチの極意を教わった。
先生は、結構スパルタだった。たとえばスピーチ大会の予選を通過したときは、「今の原稿のままだとまだ弱いから書き直そうね」と赤字がぎっしり入った原稿を返され、シャーペンで手のひらの横を黒くしながら何度も書き直した。「スピーチは全部覚えて。次の大会以降は本番もカンペはなし」と言われ、原稿用紙5枚分を頭に叩き込んで、何百回と練習した。間の取り方がちょっとずれたり、視線の動かし方が違ったりするとそれだけでやり直しになる、まさに猛特訓。別に習い事でもない、普通の公立の中学校で、よくそこまで時間をかけて指導してくださったなあと大人になった今は思う。
先生の添削の赤字はいつも量が多くて、中学生といったって自分の書いたものにはわたしなりのこだわりがあって、だから返された瞬間は「うぅ…」と声が出るし悔しくも感じるのだけど、指示通りにちょっとずつ変えていくと確かに文章に生き生きとした躍動感が出てくるので、書き直したあとはいつも爽快だった。
今でも、自分の書いた文章を推敲しながら「先生ならなんて赤入れするだろうな」と思うことがある。教えはたくさんあって、たとえば書き出しでぐっと引きつけることだったり、読者や聞き手に驚きを与えることだったり。それからいちばん思い出すのは、文末表現にこだわり抜くこと。
文末に変化をつけようというのは文章指導でよく言われることだと思うけれど、先生は特にそれに厳しかった。わたしなりに文末は工夫して大事に書いていたつもりだったが、それでも直されることが多かった。
今も、リズムがいまいちだなあと思ったら、一文一文、まずは文末を見直している。「〜だ」「〜である」「〜だった」など似たような表現を続けないのは当たり前として、体言止めを効果的なところで使ったり、「かもしれない」「だろう」などそのほかの表現もまぜたり、途中で終わって(省略して)みたり、あえて同じような文末を使って畳みかけたり。それから、過去の話をするときもあえて現在形を混ぜて臨場感を出したり、いろいろ。
こう話すと、技術的な話のように聞こえるかもしれないが、これは単なるテクニックの話ではなくて、せっかく読んでくれる(聞いてくれる)人たちを飽きさせないよう、たのしませられるよう、どの一文も手を抜かずに、できる限り表現に工夫してこだわって書くんだよ、というとても基本的な、本質的な話でもあったとわたしは思っている。先生が教えてくれたのは、書き手として、作品を作る人としての姿勢だ。
社会人になってから偶然、先生のお子さんと仕事のつながりでお話したことがある。先生のお子さんは「母は、望月さんが中学生の頃から、『望月さんの文章のファンだ』と言ってたんですよ」と教えてくれた。直されてばかりだったのに。初めて、わたしを推してくれた人。今年、本が無事に出版できたら、一冊持って先生に会いに行こう。先生に胸を張って出せる作品を作りたい。
おわり
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