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神様かもしれない | Kii
先週末のこと。年明けから立て続けにあった息子の試験が土曜の午前にやっと終わったので、午後から早速、中断していた新年のご挨拶へ向かった。
ようやく一連先への訪問を終えられてひと安心した、翌日曜日。急きたてられるもののない凪いだひとり時間が、分厚い雲間からお日さまが現れたようにぽっかりと訪れた。
その日は真冬の晴れた日で、ぽかぽか陽気に身体が緩みつい微睡みそうになるけれど、そんな過ごし方はもったいないと家の中をうろうろしていたら、階段を2階に上がって真正面の書棚に並んでいる、とある漫画に目が留まった。
それは私の蔵書で、東村アキコ先生の「かくかくしかじか」という本だ。もう幾度読んだだろうか。5巻で完結する物語は作者の自伝で、読むたびに胸を打たれ、私自身を重ねて省みてしまう。そうして記憶が風化したころにまた手にとって反芻する。それをずっと繰り返している。
詳しい内容については言わずもがな、作者=主人公が、「今」の時間軸から「かつて」と「今」を小気味良く行き交いながら、時を経て成長し失ったからこそ気づいた刹那と学びと葛藤を、淡々と語っている。
主人公とぴたり重なるまでではなくとも、私も学校という集団の中で過ごしながら成長する中、一生懸命に取り組むことに気恥ずかしさを感じて、熱く強い気持ちで目指そうとすることなく大人になってしまったことを、思い知らされてしまう。
自分を鍛えることなど無縁だった。両親も決して熱い方ではなかったし、自ずと仲良くなる友だちも同様に、熱い人々を揶揄する風潮にも流されていたのだとも思う。甘
くぬるく育ったのだ。
そして恩師と呼べる人に出会うことのなかった私は、いつも主人公を羨ましく思う。
物語に出てくる先生は実在された方で、純度の高い熱を帯びながら直向きに「絵を描くこと」を主人公だけでなく、主宰される絵画教室へ導かれたすべての人へ強烈に体現してらっしゃった。
ただやはり、幼い私が出会えていたとしてもその圧に引いて、逃げようとしていたかもしれない。教えられることは素直に聞く方ではあったけれど、ピアノも習字もどちらも淡々とした先生だったからこそ私には良かったのだ。舞台となっているのは受験のための絵画で、人生を賭けてのものであって嗜む学びとはもちろん異なるのだけれど。
この物語を読むたび、人とは、学ぶとは、行為とは、喜びとはなど、さまざまな気持ちを掻き立てられ、自分がやりたいことをまっすぐな気持ちで向き合うことへ立ち返られる。
先生のように、その道に容赦なく没頭する歓喜に辿り着かれている方を師とできることはさいわいだと思う。神様とは言い過ぎだろうか。けれど放たれているであろう純粋で強い情熱は光のようだと感じる。
近頃はそんな神様のような方が実は、暮らしのなかに潜んでいらっしゃるように思えてならない。それに気づけるかは自分の波長次第のような気がしている。
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