記憶に耳を傾ける|ひかり
私は記憶力があまり良い方ではなくて、友達と昔話をしていてもそんなことあったっけ?と言うばかりで、申し訳なくなったりする。
思い出話をする時には共感がなければ、盛り上がりにかけてしまう。
しかも、写真を撮るということをあまりしないから、カメラロールをスクロールして思い出を振り返るということも少ない。
あえて撮っていないのではなくて、写真を撮ろうという意識が頭に浮かんでこなくて撮りそびれてしまうのだ。
後から撮っておけばよかったと思うことが度々ある。
だけれど、カメラロールに写真はないが、ボイスメモには録音された音がたくさん残っている。
亡くなった愛犬が林檎を食べる音や寝息をたてる音なんかも録音していて、聴くと一瞬で愛犬の香ばしいようなぬくもりのある匂いが鼻先をかすめるように思い出される。
春先の少し寒さが残っている季節に散歩した道で録った音を聴くと、体に触れた風のやわらかさを感じて、大きく息を吸い込んだ日だったことを思い出す。
日常の中でも、父が階段を登る音、母が扉を閉める音、祖母のコーヒーを混ぜるスプーンがカップに当たる音などのクセの響きを聴くと、目で見ているよりも、その人らしさが私の感覚と結びついて、ふわっと懐かしい気持ちになる。
今回のエッセイで記憶について書こうと考えていたらわかったのだが、どうやら私の記憶は音と連動していることが多いらしい。
暮らしの中でふと思い浮かんだことや、とどめておきたいエッセンスのような体験はボイスメモで残す方が正確に記録することができる。
メモアプリに文で残そうとすると、文字を打ち込むごとにするすると体感から逃げていってしまう。
エッセンス体験はぷるぷるで指でつつくとすぐに破けてしまいそうな膜で覆われているから、声の抑揚とか言葉の間合いでとどめておくと鮮度を保てるような気がしている。
思い返すと、いっぱいいっぱいな時は、音が一切聞こえなくなっていることも多い。
それは単純に、その場に響いている鳥の声とか木がそよぐ音などでもあるし、家族がくれる助言の声でもある。
そうした渦中で、ちょっとした隙に意識が外に向くと、いつから鳴いていたのか私の周りに響いている鳥の声の美しさに気がついて、軌道修正していくことができる。
きっと私に必要な音はずっと響いていたのだろう、それに気づけるかどうかなのだ。
音は私の記憶のスイッチでもあるし、導きでもあるんだな。
これからは、もっと意識とからだを開いて過ごしていきたい。
音の響きを受け取れたら、世界の広さもぐんと変わる気がする。