将来、役に立たないから | 莉琴
小学校へ入学すると同級生の女子の多くはピアノを習い始めた。
わたしも母から「ピアノ習う?」と尋ねられたが「将来、役に立たないからいい」と即答したそうだ。幼な子にしては現実主義すぎると語り草になり、母から度々聞いたからよく覚えている。
「将来、役に立たないから」
たしかに今のわたしが聞いてもぎょっとしてしまう。6歳の少女の目にはどんな未来の姿が映っていたのだろう。
恐らく「ピアニストにはならないから不要」という意味だろうが、役に立つか立たないか、そんなゼロヒャク思考ではなく、ただ楽しむ”趣味”というカテゴリもあるんだよと教えてあげたい。
わたしが通った中高一貫校では音楽部が盛んで、年間の半分は夏のコンクールや秋の発表会に向けての合唱、もう半分は春の文化祭に向けてのミュージカルが主な活動内容だった。
入学式後の部活紹介で初めてその歌声を聴いた時は衝撃ともいえる強さで心を打たれた。大きく分ければピアノと同じ音楽というジャンルだが、役に立つか立たないかなんて考える余地もなく、ただ自分もやってみたいという思いで入部した。
その後6年間続けた部活は大学受験に向けた緊張感ある日々の中で、仲間とともに楽しみながら一つのものに打ち込むかけがえのない時間となった。
6歳の頃の方が現実的だったのではと思うほど、社会人になってからは充実した趣味の時間を過ごした。韓国語やワインなどをありったけの熱量で学び、今は執筆活動に励んでいる。
こころに釣り糸を垂らし、奥底に沈んだ記憶や気づかなかった思い、未来へのヒントなど様々なものを手繰り寄せて文章にする。その感覚がおもしろくて、ひたすら書いている。ここにも将来自分の役に立つかという実利的な視点はない。ましてや、誰かの役に立とうなんて考えは毛頭ない。
けれど、書くことで自分が変化し、今いる場所からぐんぐんと進んでゆく手ごたえを感じる。
わたしの韓国語学習エッセイを読んで「習い事への気分が乗り切らない時に読んで背中を押してもらった」と言ってくれたり、アフリカ旅行記を読んで「自分の目で見ずに死ねないと思って今旅行会社調べてます」と伝えてくださった方々もいた。
ただ好きで書いた自分の文章が巡り巡って誰かの役に立てたなんて、副産物を超えて思いもよらぬギフトだった。
意図的に助けよう、役立とうと肩に力を入れて腕まくりをしなくても、自分から心地よく発せられたものは自然と誰かに寄り添える前向きな力を持っているのかもしれない。