澄ませている|saki
今、夢中になっていること。
それはわたしのエッセイでも度々登場する、お茶だ。
お茶の製法や種類により最果てなく味わえるもの、何回か淹れるうちに味がパッと消えるものなど、季節によって美味しく感じるもの、個性や性質の違いがある。
仕事がある日、休みの日、家族も一緒に過ごす日、朝昼晩どの時間に頂くか等、自分の心身の状況・状態によって味わいが流転するのも何層にも愉しめるところだ。
睦月より師に習い始めたのもあり、師の視点・観点が入ることで、はじめから終わりの型や流れ、茶道具が今は全て揃っていなくても淹れられる方法、お茶を淹れる際のポイントなど教えて頂いている。
リアルなお稽古でなくオンラインで学ぶことで、それぞれの日々の暮らし、歩みや段階、熱量に沿って臨めるのも今ならではであり、魅力だ。
お茶を淹れる際、沸点に達していない湯を注いだ茶葉と、熱湯を注いだ茶葉とで、ある違いにきづいた。
ぬるい湯では乾燥した茶葉に熱が浸透しきらず、茶葉の香りも風味も薄っすらぼんやりして、あまり美味しいと感じられなかった。
熱湯を注すと、ぎゅっと縮んでいた茶葉に熱と水が同時に時間をかけて浸透し、茶葉の香りが立って奥深い旨味がぐっと引き立つ。
何より「おいしい」と四の五の言わず、声に漏れている。
師からは、「薬缶の湯が沸いているか、熱が茶葉に行き渡っているか蓋を取って目でみて、確認してください。」と習ってはいる。
わたしはそれでも、"なんとなく"の勘や感覚でお茶を煎れていた。
ふとした、なんとなくの感覚とは、暮らしのなかで、どこで何を使っているのだろうか。
ベランダや街の植物たちは、それぞれのタイミングで枝を伸ばし葉や実をつけ色を彩り、木枯らしで葉は踊るように舞う。
鳥たちはそれぞれ羽ばたき、呼応し掛け合うように鳴く。
何処で何をして居ても、それぞれの自然の在りようにわたしの心は触れ、音が鳴る感覚がする。
ふと耳を傾ける時、内にある心と、外に映し現れる、そのものの姿が向かい合って往来し、わたしの心の鐘は愛でるように鳴る。
心ふるえた振動は全身、全体へ響き渡る。
なんとなく注したぬるい湯はその瞬間、耳を澄ませ内と外とを掘り進めたが、交わることがなかったことを経験でき、必要なステップに過ぎなかった。
振り返ると師は「香りを聴いて、美味しそうなら淹れてみてください。」と仰った。
熱熱そのまま、最後の一滴まで自然に落ちる時を待ち、瞬間瞬間目一杯出し切り味わうことを愉しもうと思う。