絶品の麻婆豆腐に出会った
午後からの講義が始まる前、近くにある行列の出来ている中華料理店に入り麻婆豆腐を注文した。既に食べ始めている先客を横目に期待に昂ぶる感情を抑えながら料理を待つ。
目の前に麻婆豆腐が静かに置かれた。目に染みるような色と香ばしいかおり。素材である豆腐、ひき肉、ネギ、そして豆板醤などが混ぜ合わされた焦げた赤茶色のその姿は決して美しくはない。ドロドロとしていて、パレットの上で混色された油絵具のようにも見え、いかにも辛そうで挑戦的なビジュアルだ。
本能が覚えていて「見ただけ」で味がわかる。
麻婆豆腐は私にとってそんな料理だ。
それを確認するためレンゲですくって眺めてみる。表面にうっすらと浮かぶ油は黄金色で、中に沈むひき肉の旨味を溶かし込んでいて全てが肉汁のよう。それが辛みとともに豆腐を包み込んでいているようで食後への期待感を最大限に高めてくれる。辛みと旨味、そして油が白ご飯に合わないわけがない。
まずはそのままひとくち食べてみる。極度に加熱された豆腐と油は情け容赦なく舌を激しく攻め立て、そこに辛みが追撃してきて口の中が熱さと辛さの洗礼を受ける。ひと言でいえば痛い。
麻婆豆腐という名前だが豆腐の味なんてしやしない。たしかに旨いが辛みの主張が強すぎて舌が敗北感を覚える。これは救いの手が必要だ。
いつの間にかテーブルに置かれていた白ご飯にレンゲですくった麻婆豆腐をぶちまける。白いキャンバスのような白ご飯に色が入る。自分なりの適切な配分をレンゲの上で組み立ててご飯ごと口に運ぶ。先ほどと同様に熱さと辛みが舌を刺激するが、白ご飯が加わることでそれらは幾分かやわらぐ。
味わう余裕が出てくると今度は暴力的な肉の旨味が脳みそ全体を刺激する。味だけで言えば「辛い」だけなのだが、旨味たっぷりのひき肉に白ご飯が加わることで辛さはそのままであっても、ただの油絵具が画家の手で油絵の名画へと変貌するように「別次元の満足感」を食べる者に与える。そうだ、これが私の求めていた麻婆豆腐の味、いや、期待以上の味と言って良いだろう。
そんなことを考えていると、ふと呼吸をしたタイミングに合わせて強烈な花椒の風味が舌先から後頭部に向けて突風のように突き抜ける。熱くて辛いはずなのにすずしい。おもわず辛さを忘れる。夏の暑い日にこの心地良さはちょっと反則だと思う。
もう一度、確認するために改めて麻婆豆腐をレンゲですくってごはんに乗せて、という単調な作業を機械のように繰り返す。夢中になり、何かに操られているように一心不乱に食べ続ける。気づくと白いご飯、いや味を描くキャンバスが無くなっている。仕方がないので麻婆豆腐だけで食べてみるが、どうも辛さだけで何かがもの足りない。白いご飯あっての麻婆豆腐だと改めて気づかされる。
どんな画家でもキャンバスが無ければ絵が描けない。同じように麻婆豆腐という食の芸術作品は白ご飯というパートナー無しでは成立しないのだ。
完食して満足感を覚えながらテーブルを見る。木のテーブルのあちこちに麻婆豆腐のカケラが散らばり、子供が落書きした後のように汚れている。夢中に食べていた証拠ではあるが少し恥ずかしい。手元にあった紙のお手拭きで気持ち程度にふき取ったあと、しずかに立ち上り足早に会計へと向かう。
「名画を描く画家のアトリエもきっと汚れている」と自分に言い訳をしながら店を出た。
さあ、講義に向かおう。
【コメント】
これは課題で書いた文章ではなく、エッセイの初日の講義中に手書きで書いたものをパソコンで打ち直しました。提出する文章では無かったので誰にも読まれることは無いものだったのですが、少し手直しして公開してみました。
読み返してみると、あまり講義で習った内容が活かせてなくて、感情の動きとかもイマイチかな…と思います。芸術大学だから無理やり油絵を出してきたのもイタイ感じがします。でも、そう見えたのだから仕方ないですね。
ちなみにスクーリング初日のお昼に利用したのですが、まさかその数時間後に文章として書くことになるとは思っていませんでした…
あと、ひとつだけ伝えたいことは、ここの麻婆豆腐は絶品に旨かったです。
先生に読まれたらバキバキにココロを折られると思いますが、それでもこの麻婆豆腐は食べていただきたいと願わずにいられません。