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インスタントラーメン

昼食は、インスタントラーメンで済ませようと思い、電気ケトルでお湯を沸かす。
沸かしている間、パッケージ裏面の調理方法を確認する。
「めんを煮込んだお湯とは別のお湯を使用してください」と書かれていた。
わざわざそんなふうに書かれているのを初めて見た。
パッケージ上のラーメンの写真と商品名のロゴは、古めかしい、というか古くさい感じがし、ロゴの左上には「復刻版」と書かれている。
昔のインスタントラーメンは、そういう作り方をするものだっただろうか?
しかし結局、めんを煮込んだお湯に粉末スープを溶かして食べた。

味は、全く予想通りというか、驚きが一切ない味だった。
スープは、塩気と胡椒の辛さが剥き出しのまま投げ出されたような味だった。
粉末をそのまま飲んでいるような感じがした。
そして、めんに付着していた油に由来するのであろうフライ臭が、スープの風味を邪魔していた。
このフライ臭を除くために、めんを煮込むお湯と、スープのお湯を別にするのだろう。
しかし、調和を感じさせないしょっぱいスープも、ひもじさを思い出させるようなフライ臭も、どこか懐かしい感じがして、それはそれで悪くなかった。
ただ、二日連続で食べたらもう飽きて胸焼けするだろうな、と思う。

スープを飲みながら、めんに付着していた油がお湯に溶け出していくのを想像する。
熱で溶け出し、スープの表面に浮かぶ油。
水と油。
混ざり合わず、分離するさま。
「水と油」という言葉には、「混ざることが期待される」という前提があるだろう。
だからこそ「混ざり合わず、分離するさま」が強調される。
いずれも液体であり、外見上は似ている。
似ているから、液体だから、混ざることが期待される。
しかし、期待に反して、両者は混ざらない。
この「似ているから、液体だから、混ざることが期待される」というのが、一番つまらないなと思う。

どんぶりの底にたまっていたスープの濃い部分を飲み干し、舌に残った胡椒を、水と一緒に呑み込んだ。

テーブルの向こうのカーテンに目をやる。
油はカーテンだ、と考えてみる。
カーテンは日光を遮っている。
油は、皮膚の油は、外気との接触を遮り、皮膚の乾燥、つまり水分の蒸発を防いでいる。
カーテンも油も、「保護する」という一面を持つ。
ただ、日光や、乾燥した外気を排除することはできない。
これを排除しようとするのは、行き過ぎた保護、文字通り過保護になる。
保護するための、外側と内側の隙間にかませるものに必要な機能は、外界を遮断し排除することではなく、外界との接触を調節することであろう。
つまり、「膜」としての機能である。
油膜。カーテンは「幕」か。
時に、堅い「殻」が必要な時もある。弱った身体を守る時。
あるいは、戦おうとするなら「鎧」がいるのだろう。
いずれも、外界を遮断、排除する。
そういった歴史を経て、「共に在ろう」とするとき、適切な距離を調節するための「膜」が必要なのではないか。

膜、幕。
幕は期待だ。
ベールに包まれているもの。
顕現していないもの。
隠されているものが、好ましいものであることを願うこと。
あるいは明らかになることが好ましいと思うこと。
未知だから期待する。隠されているからこそ、見たい。
果たして隠されていないものなんてあるだろうか?
幕が開く。何かが現れる。それを既知だと言えるだろうか?
それがそれとして、そこにあるということ自体が謎に包まれている。

期待は血だ。
血は豆だ。
豆はカラスだ。
カラスは鍋だ。
鍋はクワガタだ。

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