愛と呪い、あるいは生と死について
“初恋の人“とは一種の呪いではないかしら、と思うことがある。
「小学生のときに好きになったカレをずっと忘れられなくて、いまでも彼に似ているひとを好きになっちゃうの!」
という人はさすがになかなかいないと思うけれど。
初恋、とまではいかなくとも“忘れられないひと”という相手がいることは、一種の呪い、自分自身に対する呪いのように思える。
忘れられないひとがいる。
そういってしまえばまるで青春小説の書き出しのような爽やかさを連想させるけれど、
そこには自らの行動を決定する内的規範と化してしまうような恐ろしさもある。
“愛”と“呪い”とは、ぼくらが一般的に想定しているよりも、かなり近しい概念なのかもしれない。
ぼくたちが誰かを「愛している」と語るときには、愛する主体と愛される主体の二者が存在する。
たとえば、親子愛を例にとりたい。
親が子供を愛するというとき、愛する主体は親、愛される主体は子供、である。
「偏差値の高い良い学校に入って、大企業に就職し、素敵な奥さん/旦那さんを見つけなさい。」
世の中一般の親が子供に言い聞かせるような(言い聞かせずとも、言外に匂わせてきた)こうした言葉・価値観は、―その正しくなさ、の是非はさておきー 「子供が幸福に育ってほしい」という愛に立脚していることは想像に難くない。
しかし、こうして植え付けられた幸福の価値観は、そこからの逸脱に対して必要以上の恐怖を生じさせる。
これも、やはり、ある種の呪いだと思う。
もしかしたら、愛と呪いを区別するものは、結果論でしかないのかもしれない。
愛は簡単に呪いに反転する。
愛していたのに裏切られた!ときには勿論愛が呪いへ移行することもあるだろうし、冒頭に挙げたような“初恋のひと”も「誰かを愛することが反射して自分自身への呪いになっていたりする」ような例のひとつだと思う。
愛は、ひょっとして、呪いの一種なのかもしれない。
申し訳ないことに今回の記事はなにか“答え”を呈示できるような体裁にはなっていない。
眠れない夜に思いついた独り言を共有するために書いたような記事なので。
最後にひとつ引用をして終わりにしたい。
愛と呪いのひとつのアナロジーとして捉えることができるかもしれない。
村上春樹『ノルウェイの森』より。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
生はこちら側にあり、死は向こう側にある。僕はこちら側にいて、向こう側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)
捉えることはできなくなってしまった。
死は生の対極存在なんかではない。
死は僕という存在の中に本来的にすでに含まれているのだし、
その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることができるものではないのだ。
あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたのだからだ。
最後に村上春樹を引用するなんて、しゃらくさくて恥ずかしくなっちゃうね。
おしまい。