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記憶に残る看取り

駆け出しの新人の頃、最期の瞬間に立ち会うことは良くも悪くも当たりくじを引いた気分だった。私の時が最期だったか。と思えば、もうダメだろうなと思いながら勤務が終わって引き継いで帰ることもあった。
後日亡くなったと知ってその人の最期までの看護記録を読むことは日常だった。最期は決まってモニターのゼロを確認し、医師がペンライトで瞳孔を見て、聴診器で胸の音を聴いて、何時何分ご臨終です。と告げる。そういうものだ。と思っていた。
そんな日常が当たり前じゃなくとても尊いと気づかされた日があった。
ある日、入退院を繰り返していたAさんが救急車で運ばれてきた。肺がんの末期だった。来た時からもうダメだろうなと思って看ていた。家族もみんな部屋にいて最期の時が流れていた。
主治医がやってきて、過去のカルテを全て取り寄せるように言ってきた。モニターのリズムがゆっくりでアラーム音が時々鳴る中、主治医はずっとカルテを読んでいた。徐ろにAさんのことをいつから知ってるか尋ねられ、前回の入院の時はどうだったかなど思い出すエピソードを主治医と話しながら時間が流れていった。
モニターのリズムが更に落ちてきて、私は最期だと思い部屋に向かった。見守る家族の前に立ちAさんに話しかけ血圧を測る。既に血圧は測れず、呼吸もどうにかできているが次に止まってもおかしくない状況だった。「耳は最後まで聞こえるので話しかけてあげてくださいね」「Aさんみんなそばにいますよ」と声をかけて退室した。
モニターの数値が30まで落ちてきて、主治医を呼んで2人で部屋に向かった。
最期の時だった。息を吸ったのに次に息を吸うことはなかった。モニターも0になり、お母さんという叫びの呼びかけとアラーム音だけの時間が流れた。娘さんが「先生」と振り絞る声で主治医を呼んだところから時間が流れはじめた。いつも通りの死亡確認後「何時何分ご臨終です」と主治医が告げ深々と頭を下げた。私が頭を上げようとしたら、主治医はまだ下げていた。やっと頭を上げた主治医は、淡々と話し始めた。Aさんが初めて病院に来て病気が見つかってからの日々。手術をして、抗がん剤治療して、再発して、再手術して、家が良いと言って帰っていった話。Aさんの人柄。病気になってからのAさんについて知る限りを話していた。聞き入ってしまう歴史がそこにはあった。主治医は話し終えると、次に私に話すよう促した。私はAさんの病院での面白かったエピソードとAさんが普段どれだけ家族のことを案じていたか、Aさんから聞いていた家族の話をした。話終わるとみんな泣いていて、その涙にもらい泣きして思わず娘さんと抱き合った。「Aさんはがんばったよね。しあわせだったよね。よかったよね」と。
しばらくして家族だけでのお別れの時間を過ごしてもらうため主治医と私は退室した。
主治医は「出棺の時呼んでね」と言って去っていった。
しあわせな最期に立ち会えたことが嬉しかった。一期一会の中で人を看取る瞬間にどう向き合うかをその日学んだ。生きたように人は亡くなっていく。ことばに思いをのせて語ることが尊ぶことになる。

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