今よりマシな技術者になるために
以前勤めていた縫製工場は、朝8時から夜8時まで一心不乱に服を縫い続ける場所だった。繁忙期にはもっと遅くまで働き、回らない仕事を休憩時間返上で進めるのは当たり前、土曜出勤もしょっちゅう。残業代は出たけれど、有給なんてあり得ない。これでも労基が入ってマシになったのだとベテランの先輩方は言っていた。
元々体力が無かった上に、疲れが取れないと精神的にも病んでくる。おまけに要領も良くなかったので毎日のように怒られて、ゆとり世代ど真ん中の甘ったれ新卒であった私は毎日泣いていた。
出勤しながら泣き、仕事をしながら泣き、昼休憩に泣き、また仕事をしながら泣き、退勤しながら泣き、帰ってからも泣いた。二十歳も超えた大人がだ。昔から涙腺がゆるい自覚はあったが、それにしても泣きすぎた。疲弊して涙腺のネジがバカになっていたと思う。
キュプラの裏地に涙をこぼすと白く輪ジミになると知った。初めてやらかした時には肝が冷えたけれど、水を固く絞った布巾で拭うと綺麗に消えてくれたので上司にはバレなかった。
縫えるようになりたい。10年は続ける目標で入社した。でもついていけない。
結局3年程度で退職し、おかげで全てが中途半端な技術者もどきの出来上がり。
ちなみに有給は消化できなかった。私が仕事中に泣いて仕事が止まった分の損失は有給休暇分では賄いきれないとまで言われた。
傷付いたけれど、そりゃそうだと思った。
しばらくして、新しく入ったお直しの会社では様々な経歴の人がいた。パタンナーやデザイナーから転向した人、異業種から飛び込んできた人。
それから、何十年も縫製工場で働き続けてきた人。ここでは師匠と呼ぶことにする。
工場出身というところに親近感を覚え、色々と頼らせてもらったり話を聞かせてもらっている。
師匠の時代は労働環境も劣悪で、早朝から深夜までなんてザラで家に帰れない日もあったと聞くし、信じられないくらい酷い話もあった。
あぁ、私が地獄の釜と思っていたものはただのぬるま湯だったんだと気付いた。
そして、そんな環境で耐え抜いて腕を磨き続けたからこそ今の師匠があるのだとも。
今、私は大嫌いだった休日出勤を自らしている。師匠にアポを取って、まだ仕事では任せてもらえない加工を私物を使って教えてもらっている。もちろん師匠の都合や私の予定もあるので頻繁にはできないけれど。
労働基準法が叫ばれる中、それを良しとしてくれること師匠がいることは私にはありがたい。
もしかしたら私の行動は、この時代では褒められたものではないかもしれない。労働基準法を守りましょう、休みを取りましょう、残業はなるべくしないように……そんなことはわかっている。
けれどこうまでしても、私は『ブラック』と呼ばれる環境で鍛えられた技術者たちに永遠に敵わないのだ。そのことがたまらなく悔しい。
あの頃、もっと頑張れていれば良かった。
実際に再び身を投じてみたらまたすぐに根を上げることが目に見えるし、辞めたことを後悔しているわけではないので矛盾しているのだけど。
技術力の世界では『ホワイト』な環境はかえって毒だ。なんて、過激だろうか?
だけど正直なところ、これから先は『優れた技術者』は少なくなる一方だろうと思っている。私もそれにはなり得ない。
だからきっと、この世代が最後のチャンス。過酷な経験をしてきた技術者たちが生きているうちにその貴重な技術や知識に触れて受け継いでいかなければ、失われてしまったら二度と取り戻せない。もうあまり時間は残されていない。
先人たちが死ぬほどの思いをしながら身に付けた技術、そう易々と渡してもらえるはずはないし、簡単に身に付きもしないけれど。盗んでいくくらいの前のめりな姿勢で私は学び続けたい。
そして私も、私が持ちうる全ての知識と技術を下の世代へ繋ぎたい。若手をどんどん育てなければ、この業界に未来はないから。
残念ながら今の職場では数年経った今も私が最年少なので……だからまずはこのnoteから、どこかの技術者の卵に向けて記事を書いてみようと思う。
溜まってきたら本にすることもひとつの夢で目標。私は二つしか会社を知らないけれど、どちらも口伝がほとんどなことが気になっていた。先程の話と重なるが、知る人がいなくなってしまったら永久に失われてしまう。
だから残せるものは形にして残すということを実行していきたい。
先人たちには届かなくとも、今よりマシな技術者になるために私はもっとたくさんの経験を積んで努力を続ける。
まだまだ未熟者だけれど、私は私なりの方法でこの業界に貢献し、針と糸と筆を武器に自分の道を切り開いていきたい。
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