属性を置換すれば「多様性」?
人種や職業、ジェンダーによる差別をなくそう、社会的弱者やマイノリティを差別や偏見から守ろう…それが大変素晴らしい考えというのは、理解出来る。それを目指して流布された「ポリティカルコレクトネス(以下ポリコレ)」という概念だが、おそらく大手を振って心から賛同している人は、残念ながら一部の「いかにもな人」を除いてそう多くはないだろう。考え自体は素晴らしいのだが…それを実現するために行われていることが、父権的で押し付けがましいのである。
2023年6月、映画「リトル・マーメイド」が公開された。この作品は1989年公開のアニメ映画「リトル・マーメイド」を実写化したもので、多少と拡張と改変を施しているものの、元となるアニメのシナリオからは大きく変更のない、「手堅い」作りの作品ではある。元々絶大な人気作品なのもあって評価は悪く無く、筆者も実際に劇場で見たが「うんうん、リトル・マーメイドってこんな作品だった。やっぱり良い作品だ」という感じで楽しく見ることが出来た。アリエルの歌唱力は破壊力凄まじく心が震える程に感動したし、悪役のアースラについては、その演技力と完成度の高さに驚かされた。2023年の実写映画の中でも随一の面白さに思う。
とはいえ、この作品におけるメディアでの評価は概ね「ポリコレ」「マイノリティ尊重」と言った政治的テーマを絡めての絶賛がやたら目立つ。理由は単純。アニメ版公開から現代に至るまでメディア露出も多く、人気の高い主人公「アリエル」のデザインが、赤毛白人系キャラクターから茶毛黒人系キャラクターへ大きく変更されたからである。
この変更は賛否両論ではあるが、この手のテーマが大好物なマスコミや社会学者、左派系論者、自称多様性大好きな意識高い系論者たちは「待ってました」とばかりに大喜び。「これこそ多様性だ」「ポリコレのお手本」「流石世界のディズニー様。ガラパゴスな日本作品とは大違い」と、作品内容はそっちのけに大絶賛しているのである。そして「やっぱりアリエルは赤毛白人系のほうが……」と思う人を、「後進的」「差別主義者」「視野が狭い」と蔑み嘲笑する様をSNSで反吐が出る程に見せつけられた。
個人的には、アリエルが黒人であろうともアジア人であろうとも少数民族だろうと、なんなら男性だろうと全く構わない。ただ完全オリジナルキャラではなく、既に作られたキャラクターをわざわざ改変するからには、その改変は蛇足ではなく必要性を持ってより魅力的に仕上げてほしい…というのが本音である。人気キャラクターなら尚更だ。
実写版「リトル・マーメイド」は確かに面白かったが、改変によって生じる細かいズレの適合調整が不十分に見える部分も僅かにあり、結果的に改変が浮いている感が少しあったのは否めない。一つ例を挙げるとすると、今回のアリエルは美しいドレッドヘアーなのだから、フォークを櫛代わりに髪をとかすシーンを原作律儀にしつこく入れることはなかっただろう。ドレッドヘアーに櫛通りが毎度引っ掛かっており何か違う感が拭えなかった。原作ファンへのサービスに一度入れれば十分だろう。
このように、既に作られたキャラクターを全く異なる人種や性的趣向に改変するケースは決して珍しくはない。ポリコレ大好きなアメリカでは、既にスーパーマンはケレン味たっぷりにバイセクシャルとなっているし、バイオハザードのウェスカーは雑に黒人に置き換えられているし、カウボーイビバップのフェイは同性と性的関係を持ってるという蛇足が加えられている。
こういう改変が作品の魅力や面白さに直結しているならまだ良いのだが、大半は改変前と大して変わらないか、魅力を損なってしまっているのだから始末が悪い。しかもこの手の改変を施すのは、どうでも良い脇役ではなくある程度イメージや魅力の固まっている主要キャラクターばかりなのだから、何とも思想的な恣意性があからさまなのである。
元々のキャラクター像をわざわざ改変するのだから、改変するに当たっての動機や必要性をしっかり作品に反映して魅力に昇華してほしいものだが……結局「これ蛇足じゃん」に終わる程度に中途半端なのである。幸い「リトル・マーメイド」は、細かい適合調整不足はあれど、これはこれでアリ!と思える程度には当て嵌まっていたのだが…何というか雑な置換な作品が多いのが昨今なのである。
言うなれば「正しい」属性に既存属性を置換して美味しいところだけ使い回す…それが「ポリコレ」として持て囃される時代。ポリコレ要素を入れない作品は「多様性が無い」と評価されるゆえ、忖度して入れ込まないといけない縛りプレイ。
何というか、結果的に不自由で不寛容になってないかと思ってしまうのは、私だけだろうか。