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年甲斐もなく狂い咲く ──女子学生、自転車、ラジコンにときめく老年

 この文章、年寄りの強がりと自慢話のようなものです。
 私は老年期を教師として多くの若者たちと接することができ、大変幸運でした。
 その学生たちとのズッコケ交流をおもにえがいています。
 またその間、自転車、ラジコン、パソコン、そしてiPodと読書など、たっぷり楽しみました。
 その後大病を患い、残余の人生、人目気にせず、好きに生きています。
 ご笑覧いただけましたら幸いです。





1 ときめき大作戦


 
 私は2000年から2013年までの13年間、東京都下にある某デザイン専門学校の非常勤講師をつとめていた。
 私の58歳から70歳の期間である。
 この話はその教師時代のエピソードである。
 今回投稿のため再読してみて、教師の風上にも置けない不良講師だったと改めて自覚した。
 しかし過ぎ去ったものは変えられない。老後の楽しい思い出になった。

 
● 生きがいは狂い咲き!
  六七歳になったこのごろ、今のわたしの生きがいはなんだろうかと考えることがある。
 専門学校の教師をしているので、これはひとつ大きな生きがいである。
 二十歳前後の大勢の若い学生たち (多くは女性である) と、日々接していられるのは単純にうれしい。この歳で幸せな毎日をおくっていると思う。
 教師でなかったら典型的な老人生活になっていただろう。
 仕事以外では私は一人遊びの趣味が多くて、自転車、音楽、ラジコン、読書、パソコン、軽登山、そして酒など、色々ある。
 仕事と趣味の中間ぐらいの気持で時々デザインコンペに応募する。専門のプロダクトデザインやマーク、ロゴなどのデザインである。
 若い頃はけっこう入選、入賞したこともあったが、最近はめったに入選しなくなった。
 しかし応募するときは本気モードで、徹底的にアイデアを考えベストをつくす。短い期間に全力投球するので頭も体もけっこうくたくたになる。
 結果発表までの期間はかなりドキドキときめきの日々である。もしや万一、という思いである。
 そのため落選の通知を受け取ったときのショックは大きい。がっくり落ち込み自己嫌悪におちいる。
 しかし、落ち込みの日々がすぎて気がつくとまた、新しいコンペを見つけてアイデアをこねくりまわしている。
 コンペは私にとって唯一のギャンブルなのである。
 酒と弁当を買って、近所の公園の池でラジコンヨットを走らせると、半日楽しむことができる。
 また天気のいい日、早朝家を飛び出して、三崎漁港などへ遠路サイクリングすることもある。そこでマグロの漬け丼など食べて夕方戻ってくるのもそれなりに楽しい。
 読書も子供のころからの楽しみで、ファンタジーなど読んでいると、一晩で一気に読んでしまうこともある。
 
 しかしこれだけでは人生何かが足りない。
 ときめきがないのだ。わくわくしないのだ。
 男がときめくもの、いくつになってもそれはやっぱり女である。しかも若い娘である。
 中年の狂い咲きというが、私の場合は老年の狂い咲きになるのだろうか? 
 普通の老人は狂い咲かないものなのだろうか? 
 たまたまチャンスがないだけなのだろうか? 
 みっともないからなにもしないのだろうか? 
 あるいはもう興味がないだけなのだろうか?
 どうなのだろう・・・・?
 どちらにしても老後の最後のあがきなのである。
 いい歳をして接近するチャンスを、若者のように常日頃考えている。作戦計画である。これがまた楽しい。
 頭脳と心身の活性化にも有効だと思う。血行がよくなり体温も暖かくなるような気がする。
 たとえば朝、教室に行ったときでもチャンスはつくれる。
 たいてい一人二人早く来ている子がいるものである。
 その子と最初は挨拶をかわすだけでいい。そのうちちょっとした会話ができるようになる。通学途中の出来事でも、天気のことでもよい。
 だんだん親しくなって、家のこと趣味のことなどお互いに話しだすようになったら、第一段階はクリヤーしたことになる。
 ここまできたらあとは楽である。
 おいしいものが大好きな子だったらどこか食事に誘えばいいし、本が好きな子だったら好きそうな本を貸してあげたり、逆に貸してもらってもいい。
女の子と親しくなるのは頭脳的知的作業である。無から有を生み出す創造作業なのだ。
 いつも同じ手口ではすぐに飽きられてしまう。たえず新鮮な驚きを提供していかなければならない。
 行動に移すときはわくわくする。誘いのメールを送る時、生きている実感を感じる。
 正直なところ、本音のところ、これが現在のわたしの一番の生きがいかもしれない。
 ひところ、〈不良中年オヤジ〉、〈ちょい悪オヤジ〉、という言葉がはやった。
 ちょっと悪ぶって、服装などもすこしくずして着る、まあ見た目そういうファッションのオヤジということらしいが、さしずめわたしは、〈不良老年オヤジ〉を志向しているのかもしれない。
 あの「失楽園」で一世風靡の、渡辺淳一の小説「あじさい日記」の文中の一節に、
 
 「男の幸せは、秘密の多さで決まる」
 咄嗟に、わかりかねていると、村瀬がきっぱりという。
 「秘密のないような一生では、面白くないだろう」
 
というのがあった。いたく同感である。心がけたい。
 渡辺先生はまた、「年甲斐もない老人になりなさい」ともけしかけてこられる。
 これも同じく同感である。がんばりまーす。
 もうこの歳になると、「マイウェイ」の歌の文句ではないが、おのれの心の命ずるままに生きていこうという気持ちが強くなってくる。
 したいことだけし、したくないことはなるべくしない。「品格」など気にしない。ってゆーか、もともとなかったか。
 世間や他人の評価、期待される高齢者像などどうでもいいのだ。
 まだ準サラリーマン的立場なのでおのずと限界があるが、気分としては「マイウェイ」路線である。
 城山三郎の随筆集「この日、この空、この私」に、
 
 六十代に入ったころ、「これはいい、これで行こう」と思ったのは、
 「残躯楽しまざるべけんや」
 という伊達政宗の言葉であった。
 もっと日常的な言い方では、
 「今朝酒あらば 今朝酒を楽しみ
 明日憂来らば 明日憂えん」
 といった生き方である。
 そこで先に述べた「この日、この空、この私」と、つぶやくようになった。
 
とあった。これなども同じような気持ちである。

 
● USB大作戦
  つい二、三日前、近くの中山駅で女子学生のKさんと会った。        彼女がパソコンのデータを欲しがっていたので、USBに入れて渡したのである。メールで日時、場所を約束して渡しにいったのである。
 最初わたしはCDに入れて渡そうかとおもっていた。
 しかし考えてみるとCDでは渡したらそれっきりである。そこでUSBに変更した。
 USBなら返さなくてはならない。もう一回出会いのチャンスが増えるのである。
 出会いにも周到な計画をめぐらす〈ちょい悪不良老年オヤジ〉なのであった。
 中山あたりは、わたしの手近な自転車散歩コースである。
 行った先で女の子に会うとなると気分が全然違う。いつもはふうふういう長い坂道を、軽々と走ってしまった。
 ときめきがあるのだ。なにかわくわくしてくるのだ。
 Kさんとは、教室で普通に話はするが特別親しい間柄ではない。
 きちんとした言葉づかいの清楚な感じの女の子で、黒目がちの目が白い顔に印象的である。
 メールの文章もていねいな敬語が美しく、服装もいつも落ち着いたものだった。
 駅の改札口で彼女にUSBを渡した。
 データの使い方について簡単に説明した。
 もし時間があったら、お茶か食事でも誘おうかと思っていたのだが、時間がなさそうだったので、そこで別れた。
 出会いの時間はものの五分ぐらいだった。
 しかし女の子に会った興奮の余韻で、帰り道はうきうきしていた。
 女の子のパワーは絶大なのだ。大の男の一日を真っ赤なバラ色に染めあげてしまうのだ。
 ときめき感は、老年オヤジのくたびれた全細胞を刺激し、活性化し、血行を良くし、若返らせ、健康の向上に寄与する。
 考えてみると、彼女はわたしに対してなにもしていないのであった。わたしが一方的に彼女に愛情をそそぎ、勝手に一人で満足しているだけなのだった。
 しかし、これでいいのである。わたしはこれで幸せになったのである。
相手に愛情をかけたからといって、相手から愛情を期待するのは、愛情の押し売りである。身勝手というものである。
 好きなものを愛するだけで人間は幸福になれるのである。
 わたしは椿の小さい鉢植えを育てている。一本の小枝を挿し木にして、花が咲くまで育ててきたのだった。
 もう何年になるだろう。毎年、大輪の美しい花を咲かせてくれるようになった。
 今年は、こんな小さな木からと驚くくらいたくさんの花を次々に咲かせてくれている。
 真夏、真っ白に乾ききった鉢を見てあわてて水をかける。強風にとばされて鉢が割れ、椿がごろんと横たわっていたこともあった。
 長い年月をかさねて、わたしと椿の彼女は共に生きてきたのである。わたしは大輪の美しい彼女を愛し、彼女はそれに応えて毎年美しい花を咲かせてくれたのである。
 わたしは幸せな時間を彼女と共に生きたのであった。
 ときめきのない生活、それは灰色の人生である。ただ生きているだけである。
 生きがいのない細胞は生気をなくし、血行はとどこおり、あっという間に老化してしまう。
 このUSB、卒業式で会ったとき返してもらうことにした。あと数日で卒業式だったのである。
 ところが卒業式当日、にぎやかな謝恩会などがあって、二人ともUSBのことなどすっかり忘れてしまった。
 式典から帰った深夜、彼女からメールが入り、おわびとまた会える日をきいてきた。
 都合のいいとき、また中山駅で会おうと返信すると、三日後の火曜日なら何時でもいいとのことだった。もう一度彼女に会えることになったのである。
 翌日わたしは中山駅に行った。
 こんどはお茶か食事を誘おうとおもった。そのための事前調査である。
 用意周到なのである。天気予報だと火曜日は雨のち曇りの予想だった。
昼に会うので、もし雨だったら駅構内のレストランでお茶か食事。雨があがっていたら近くの四季の森公園でお弁当、という計画をたてた。
 さいわい適当なレストラン、お弁当屋がみつかった。
 帰りは駅から四季の森公園までの遊歩道を走って、事前調査は万全のものとなった。
 火曜日当日、朝、もう雨はやんでいて日差しがでてきた。
 雨上がりのさわやかな天気で暖かい。途中セーターを脱ぎ、汗をふく。
 定刻、Kさんがあらわれた。春らしく清楚な白っぽい服装でまとめた彼女が目の前にたたずんだ。
 USBを受けとる。
 「今日はあったかいね、お昼ごはん食べない?」
 わたしは食事に誘った。
 しかし彼女はおそく食べてきたので、おなかがへっていないという。この瞬間、四季の森計画は頓挫した。しかしすばやく気持をいれかえて、
 「それじゃ近くの店でお茶でも飲もう」
ということで、駅前のコーヒーショップに入った。
 わたしはカフェオレとサンドイッチ、彼女はアイスコーヒーを注文した。
 窓際のテーブルにすわると、とりあえずわたしは汗をふいた。何を隠そう、わたしはだれにも負けない大汗かきなのだ。
 「自転車で飛ばしてきたらひと汗かいちゃったよ」
 照れ笑いしながら言い訳した。
 家からここまでどうやってきたのか、高校がこの近くだったこと、内定している会社の話など聞いた。
 本社が関西の会社なので、研修で来週からしばらく神戸に行くこと、新幹線のキップを送ってきたこと、入社したらまた二ヶ月間関西で研修を受けることなど、彼女は話した。
 「いいねえ、ただで関西行けるんだね、帰りにちょっと観光旅行してこれるね」
 わたしがうらやましがると、
 「わたし、関西方面はまだ行ったことないから、とても楽しみなんです」
といって新幹線のキップを見せてくれた。
 「いいデザインをするには、いいデザインをいっぱい見てそれを頭の中の引き出しにしまっておくんだ。そうすれば何か新しくデザインするときにそれらを参考にできるからね。引き出しの中がからっぽでは新しいものは生み出せないんだ」
 なんてもっともらしく、先生くさく話してしまった。
 彼女と別れると、わたしは一人で四季の森公園に行き、黄色い菜の花畑のまえで酒を飲んだ。
 女の子と別れたあとの虚脱感と満足感でしばらくぼーっとしていた。

● 良寛 一休 老いらくの恋
  良寛さん、一休さん。日本人ならだれでも知っている。
 村の子供たちと手まりをついて遊んだ良寛さん、とんち話の一休さん、みんなに親しまれたキャラクターである。
 その良寛、一休は、高齢になってから恋をして人生を全うした。
 良寛は七十歳の時、三十歳の貞心尼とめぐり会い、その後七十五歳で死ぬまで相思相愛だった。
 一休は七十四歳で三十歳の森女と生活を共にし、盲目の彼女との愛を綴った「狂雲集」を残して八十八歳で亡くなった。
 ひるがえって現代では、かねてから燃えるような恋をしたいと宣言していたあの角川春樹さんが、最近若い女性と再婚 (再々婚?) したそうである。いくつになっても自由奔放でやんちゃな角川春樹さんらしく、うらやましい。
 自分が相手と同じくらい若い時は、若い女の美しさはわかっていない。
 自分もつるつるの、しわもない肌をしているときは、当然だと思っている。しかし自分が老年になると、世の中の美しいものがくっきりと見えてくる。
 美しいものの世界から自分が遠ざかってしまったから、客観的にながめることができるのだ。美しいものの何物にも代えられない価値がわかるのだ。
 美しいもの、神がつくったこんなに素晴らしい造形物、それが毎朝、セーラー服を着て家の前の道をぞろぞろ歩いてくる・・・・
 私立女子中高が近くに移転してきてからの風景である。
 若い娘は、ありのままで美しい。茶髪は好きではない。
 茶髪にすると、黒い髪より柔らかいアクセントになってどうのこうの、という話を聞いたことがあるが、日本人の顔色には合わない。
 真っ白な白人だから美しいのであって、黄色人種の我々には、やはり艶々した漆黒の黒髪が最高にセクシーなのだ。
 これは花と葉の色の関係と同じである。
 わたしは園芸が好きで、種をまいて色々と花を咲かせていた時代があった。
 「インパチェンス」という東南アジア原産の、日陰でもよく咲く鮮やかな花がある。
 この花は、白、オレンジ、赤などの色があるのだが、オレンジと赤では葉っぱの色が違うのである。
 オレンジは明るいきれいな緑色であるが、赤い花のほうは紫がかり、それが花の赤い色にマッチして盛りたてているのだ。
 その気になって他の花々を見回してみると、どの花もその花を最高にひきたてる葉の色をしている。自然は偉大なるカラーコーディネーターである。
 ふだん、学生を見慣れているせいか、普段着の若い女性のファッションが一番好きである。
 Gパン姿がたまらなくすてきな娘や、前髪を左右にたらし、うしろ髪をまとめてくるくるたんこぶにして似合う娘がすきである。白い首筋におくれ毛がたまらない。
 よくファッションショーなどで、とんでもない奇抜なデザインの服装を身につけたモデルが登場するが、あんなものは男としてまったく興味がわかない。
 それよりも、清潔にきちんと制服を着た女子高生のほうが、はるかにしびれる。
 自分の趣味でやっているならしょうがないが、爪に着色し絵など描くネイルアートも、男からみたら全く興味がない、なにもそそられない。ピアスも同じである。
 文豪谷崎潤一郎の「痴人の愛」は、素行のよくない若い娘とそれを追いかけまわす中年男の話である。ちょっとあのナボコフの「ロリータ」と似ている。
 惚れた若い娘を家にかくまい、なめるようにべたべた熱心にめんどうをみるのだが、娘はそんなことにおかまいなしに家を飛び出し、不良とつきあったり、遊びまわる。しかし彼女の魔力にとらえられた男は娘をさがしだし、家に連れ戻す・・・・
 といったような内容なのだが、わたしは人間の、男と女の真実を物語っている、と思う。
 ずべ公でも性格がよくなくても、そんなこと関係ないのである。首すじの美しい曲線、ほっそりとした白い手足、長い黒髪、が男の心を狂わせ人生を狂わせる。
 男と女の凸凹は、神様がつくられたのである。神様がデザインされたのである。自然なのである。
 悪いものでもなければ、恥ずべきものでもない。これを有効に使わないというのは神の制作意図に反する。
 良寛、一休は、人生の晩年この生物としての真実にめざめたのだろうとおもう。

 
● 人目をさけてみかん畑の奥へ
  日時、場所を約束しあって異性と会うことをデートというなら、六年ほど前から私は若い娘とけっこうひんぱんにデートするようになった。習慣になった。
 それ以前の若い頃、こんなことは一度もなかったから、人生わからないものである。六十歳を過ぎてからこんな幸福が訪れようとは思ってもいなかった。相手はみんな私の教え子たちである。
 
 そもそもの始まりは六年前、M子だった。
 卒業式も終わり、明後日は入社式という三月三十日、秦野の駅で会った。近くの弘法山へお花見に行こうとハイキングに誘ったのである。
 誘ったのには、それなりの必然的状況があった。
 M子が一年生の時、午後の授業が終わった帰りがけ、彼女が教室のドアの所で振り返り、
 「先生、それじゃいつもの所で待ってるからねー、バイバイ」と大きな声で叫んで、大げさに手を振り、おどけて笑いながら帰っていったのである。
まだ教室には大勢学生達がいたから、みんな私と彼女を見比べ、驚きで声も出なかった。
 もちろん私もあっけにとられ、ぽかんと彼女を見送った。
 そんなことが二、三回あって、クラスの他の女子学生達に、私と彼女は特別の関係のように見られるようになってしまったのだった。
 もちろんこれは、彼女の創作した一人芝居で、外で彼女と会ったことなど今まで一度もなかった。
 その時は、これが彼女が発信したサインだということが分からなかった。こんなに分かり易いサインはないのに、初めての体験なので状況が把握できなかったのだ。
 彼女は小柄で色白の、日本人形のような目鼻立ちの娘だった。普段はごく普通の女の子で、特別おしゃべりでもなく、変わった行動などすることもなかったのであった。
 二年生後期になって、私は彼女の卒業制作の担当になった。
 ディスプレイの作品を作るため彼女を手伝った。スチロール板に大きな円を画いて丸く切り抜く。いくつも切り抜く。そしてそれらを接着する。彼女と一緒に汗を流したひとときだった。
 卒業式の謝恩会の時、女子学生の代表から寄せ書きを貰った。
 家に帰って見てみると、みんなに色々書いてもらった中でM子は、
 「先生の授業はほんとに楽しくて、先生と話すのもとても楽しかったです。いつも変なことばっかり言ってすいませんでした。先生のこと、大本命です」
と書いてあり、ハートマークが回りにぽつぽつ付けられていた。
 なにか自慢するようで(実際自慢しているか)、見せびらかしているようで気がひけるが、
 ここを省くと話が前に進まないのである。
 こんなオヤジに好感をもってくれる若い娘がいたのだった。長い教員生活で初めての体験だった。
 これを見て私は、このまま卒業して、それっきりにしてはいけない、と強く思った。この時私は初めて、サインを認識したのだった。
 いままでこんなにはっきりとたくさん、私にサインを送ってもらってありがとう。了解です、解読しました、と心のなかでさけんだ。
 私は彼女に携帯で電話した。
 「ハイキングに行こう」
 万一断られても構わないと思った。いや、絶対そんなことはないと思った。
 「一人で?」彼女は聞いた。
 「そう、二人で行かない?」
彼女はOKした。
 これが、彼女を弘法山に誘った理由である。
 駅構内の店でおにぎり、お茶、お菓子など買い、山に向かった。
 山のふもとに着くといきなり登山道が始まり、急な階段が折れ曲がりながら続いていた。
 登山道を登りきり平坦な山道を歩いて見晴らしのいい休憩所に着いた。
 期待していた桜はたいしたことなかった。全山、桜に覆われるといった感動的な風景はなく、所々に桜のかたまりが咲いていた。
 中高年のグループが休んでいて、わたしたちもその近くのベンチにすわった。おじさん、おばさんのにぎやかな集団のなかにまぎれこんだ、若い娘と白髪のオヤジのカップル?は少々気恥かしかったが、とりあえずお茶など取り出して休憩した。
 林の中のゆるいアップダウンを越えると登山道をはずれて、みかん畑の中に彼女を連れて入っていった。
 じつはここは、数日前、下調べに来たとき決めていた場所だった。まわりをみかんの低木に囲まれ、外界から隔離されている。下心がなかったといったらうそになる。
 「大丈夫? 疲れた?」
彼女はうなずいた。
 私はみかん畑の中にブルーシートを敷いた。
 「おじゃましまーす」といって、彼女はすわった。
 買ってきたおにぎりを食べお茶を飲む。お菓子を食べてしばしくつろぐ。
静かである。なんの物音も聞こえない。ときおり遠くで鳥の鳴き声が聞こえるだけだった。
 「指圧してあげるよ、疲れがとれるよ」といって彼女の手をとった。
 昔、カラー写真で解説つきの指圧の本を買ったことがあった。それを見ながら女房に指圧してあげたことがあった。今でもつぼを憶えているのである。
 彼女の手の平をにぎり、指を一本ずつ強く握ったり付け根を押したりして、まず手の平を指圧した。小さくかわいい手の平だった。
 次にひじのつぼを押していく。腕の三里といって、そこを押すと電気にふれたようにずきんと痛いところがある。
 「いたいっ!」
彼女が飛びあがった。
 手が終わって、頭と顔になった。頭蓋骨の上真ん中にそって押していく。  後頭部首の付け根のあたりをもみほぐす。目、口のまわりはそっと押す。
 次に足を押そうとすると、「いい」と断られた。
 帰り道、何枚か彼女の写真を撮った。
 あとで見てみると、どれもとてもいい表情をしている。柔らかい表情で笑っている。笑ってVサインなどしている。
 二人だけのデートの緊張感などまったく感じられない。彼女も楽しんだひと時だったのだなと思った。結局私の下心は未遂のまま消滅した。
 
 その後もおりにふれ、彼女とはたびたび会っている。
 彼女は温泉の会社に勤めた。自分ではお風呂屋さんといっている。
 温泉といっても、温泉地にある従来の温泉ではなく、都会の真ん中に大きなビルを作り、そこに温泉地から元湯をタンクローリーで運んでくる人工温泉である。
 彼女はそこでポスターやメニュー、サインなど、グラフィック関係の仕事をしている。
 そこの無料特別招待券というのを時々送ってきてくれて、私は何回か行かせてもらった。帰りがけ彼女に会えるのが大きな楽しみだった。
 あのみかん畑の真ん中で二人きりでおにぎりを食べた彼女が、制服を着て、広い館内の受付フロアーの奥から現れてくるのは、何か不思議な感じだった。
 若い女性と会うのは、心ときめきうれしいものだが、会う時と別れる時がたまらない。
 約束の時間が迫ってきて、電車が到着し、どやどやと人が改札口に溢れてくる。改札の向こうからこちらを見つけた彼女が、手を振りながら小走りで走りよってくる! この時ほどたまらなくうれしい瞬間はない。
 待ち合わせの時、私はかなり早めに行って待っている。一時間近くも早く行って、あたりをぶらぶらしてすごすこともある。
 約束の時間までの刻々の時間は、たまらなく甘美なひとときである。時間ぎりぎりに行ったのではもったいない。
 サン・テグジュペリの「星の王子さま」で、キツネがいう、
 
 「あんたが午後四時にやってくるとすると、おれ、三時には、もう、うれしくなりだすというものだ。そして、時刻がたつにつれて、おれはうれしくなるだろう。四時には、もう、おちおちしていられなくなって、おれは、幸福のありがたさを身にしみて思う。」
                            ( 内藤濯 訳 )
 
 また別れの時、改札口の向こうの彼女が振り向いてちょっと手を振る。こちらもつられて手を振る。この時の甘酸っぱい思いは心に沁み、いつまでも忘れられない。

● 不運 きびしかった現実
  ところで人の運命は様々である。どうしてこの子が、ということもある。
 あれはいつだったろうか? たまたまその日、耳の治療で病院に行っていた私は、待合室で携帯に留守電が入っているのに気がついた。
 廊下の隅に行って聞いてみる。
 「助けて、どうしよう!」こんな悲鳴のような声が入っていた。
 電波の状態が悪いのか声がよくわからない。話はそれだけで、プツリと切れてしまう。
 何だろう? 誰だ? 誘拐でもされたのか?
 どういうわけか、発信人が確認できなかった。
 見当がつかない、少々薄気味わるかった。
 しばらくすると今度はメールが届いた。
 「先生、どうしょう? 会社くびになっちゃった」
K子からだった。
 さっきの留守電はK子からだったのである。
 K子は先ほどのM子の二年後輩である。去年就職して今年で一年ちょっとになる。
 大変なことになった。おろおろとうろたえているだろう。どうしていいかわからないのにちがいない。
 K子も私にたくさんサインを送ってくれた子の一人である。
 最初のサインは一年生の時だった。
 「先生、手だして」
 彼女はそういうと、私の開いた右手に彼女の握った手のひらを重ねた。
 「はい、あげる」
 見るとビー玉ぐらいの大きさの髑髏だった。モスグリーン色で造形がしっかりしている。陶芸の授業で作ったようだ。
 私はそれを携帯のストラップにつけた。
 同僚の先生や学生たちはそれを見つけて驚いた。K子は、ふん、といった顔でそれを見ていた。
 二年生の初夏の頃、校外学習ということでクラス全員、表参道、青山のデザインショップ見学に行った。
 地下鉄を降りて地上に出て来ると、みんなぞろぞろ歩きだした。
 女の子、男の子は、たいてい仲良しグループでかたまって歩いている。私は彼らの間でのんびり歩いていた。するとK子がグループを離れて私のそばにやってきて、並んで歩きだしたのである。
 「どう、 就職活動は」
 彼女に話しかけた。面接のこと、遅刻してしまったこと、会社が遠いこと、など聞きながら歩いた。
 しかしこれが、一緒に行った同僚の先生や他の学生達からは、我々が二人だけの世界に入りこんでしまったように見えたらしかった。
 秋になり、卒制(卒業制作)がはじまった。
 中間発表の日、ひとりひとり黒板の前に行って、自分の計画を発表することになった。
 私は広い教室の真ん中あたりにすわって、彼らの説明を聞いていた。
 するとドアが開いて、K子が入ってきた。遅刻である。
 教室をぐるりと見回して私を見つけると、すいすいと歩いて来て、私の前の空いている机にすわった。
 彼女は卒制のスケッチをバッグから取り出すと、振り向いて私の机の上にそのスケッチを置き、
 「先生、このスケッチで作れますか?」と聞いた。
 それは鏡台だった。大きく曲線をえがいた木材に鏡と棚がついている。
 私は、工作がむずかしそうな所や、強度的に弱そうな部分を彼女に指摘した。
 彼女は振り向いたまま、スケッチを描き直しだした。
 この間、他の学生たちの発表は進行していて、またもや私と彼女の二人だけの世界に入ってしまった。
 そんなことがたび重なって、ある日男子学生のYに、
 「先生、一番好きな学生はだれですか?」
と質問された。
 「みんな同じように好きだよ」と答えると、
 「でもそのなかで特に好きな人はだれですか? 」
とさらにつっこんでくる。
 「みんなおんなじだよ、あはは・・・・ 」
 私は笑いにごまかして、その場をのがれた。
 十二月の後半、卒制は制作の段階に入り、材料購入、加工が始まった。
 そんなある日、もう帰宅していた私に、K子からメールが入り、今自宅近くのホームセンターにいて、材料を探しているが、どれがいいかわからない、といってきた。
 私はすぐメールを返し、今からすぐそっち行くから待っててごらん、といって、自転車に飛び乗った。二俣川から彼女のいる星川まで、電車で五駅ある。自転車を飛ばして四十分ほどでそこに着くと、彼女がいた。私は材料を選び、切断してもらい、彼女に渡した。
 彼女はそれを持ってこれから学校へ行くという。せっかく会ったので、駅の近くで一緒に食事をした。二人だけの食事の最初だった。
 これ以降、横浜へ食事にいったり、たびたび会っているのであるが、彼女を誘うのは簡単だった。「何かおいしいもの食べに行こう!」、といえばいいのである。食べにいこうといえば必ずOKだった。
 別の日、私の地元の二俣川駅でばったり彼女と出会ったことがあった。駅前の本屋にいった帰りだという。すれ違って二、三言葉を交わし、別れ、私は駅の階段を降り道路に出た。彼女は改札を通りプラットフォームへ降りていった。
 しかし考えてみると今この瞬間、私と彼女は数十メートルも離れていないおなじ空間にいるのであった。偶然最接近したチャンスが遠ざかりつつある!
 あわてて私は彼女に電話し、昼食に誘った。
 「やったぁ! ラッキー」
 彼女のおどけた声がもどってきた。
 またある時、新横浜にあるラーメン博物館に行った時のこと、それぞれ自分の食べたいメニューを選んで注文した。半分くらいまで食べたとき、
 「先生、私のすごくおいしいから食べてみてごらん」
といって自分のどんぶりを私の方に差し出した。
 そうなると私もつられて自分のどんぶりを彼女に差し出した。
 結局、残り半分を交換して食べたのである。
 「どう? おいしかった?」
 「うん、こっちもうまかった」
 「でしょ」
 彼女のこだわりのない親しさがうれしく、かわいかった。
 
 そのK子が、会社をくびになった。私に助けを求めている。
 とりあえず会おう、とメールすると、今、会社にいて午後九時ごろ帰れるのでその時会いたい、といってきた。
 いったん帰宅した私は、夜、家をでて、横浜駅の構内で彼女を待った。ところが残業がまだ終わらないということで遅れに遅れ、結局十一時過ぎに彼女はあらわれた。
 もう人ごみもなくなり、ぽつりぽつり人の通る静かな駅構内の幅広い階段を、彼女はゆっくり上がってきた。
 笑顔もなく、疲れ切ったような表情の彼女に、さきほど買ったオレンジジュースのパックを飲ませ、一息つかせた。
 「ありがとう先生、やさしいねー」
 時間がもう遅いので、たいていの店は閉まってしまった。彼女にきくと、駅の近くに深夜営業のマックが開いているという。
 マックの二階のカウンター席に並んですわった。
 彼女はうつむいてうなだれたまま、黙っている。私は言葉をかけようもなく、黙ったまま彼女を見つめていた。
 ぽつりぽつり、彼女は話しだした。上役のあいだで人事の異動があり、彼女をひきたててくれていた上役が失脚してそのあおりをくらって、首になったようだった。彼女が、仕事が遅かったのも原因のひとつかもしれない、ともいった。
 私は彼女をよく知っており、特別なにか能力が劣るということはないよ、といってあげた。
 へたに慰めることもできず、黙ったまま時間が経過し、終電の時間になった。
 私は彼女をうながし、駅まで歩いて行った。
 電車に乗ると、ふたり並んでドアの脇の座席にすわった。やがて発車したが彼女はうつむいたままだった。彼女の降りる駅は星川駅で、私より先に降りる。
 電車が駅に到着し、ドアが開いて彼女は降りていった。
 すると、私のすわっている座席の後ろの窓ガラスをどんどんどんと、激しくたたく音がする。振り返ると窓の向こうで彼女が、ちぎれるように大きく手を振っていた。つられて私も手を振った。
 電車が動き出し、彼女も歩きだした。
 私は胸がじんとなった。どんなにつらい思いだったろう。彼女になにもしてやれない自分がいらだたしかった。
 K子はそれから翌年、新しい会社を見つけ、再就職した。
 自分で見つけたといっていた。靴のメーカーだった。私はほっとした。
 ところが一年ほどして、またくびになってしまったのである。今回はリストラのようだった。この時もわたしに連絡があった。午後の授業中に電話があり、放課後会うことにした。
 同僚の先生たちとお茶を飲んで別れた八時ごろ、雑踏の交差点で彼女に会った。私は駅の近くのイタリアンレストランに連れていった。
 やはり今回も、二人とも黙ったままテーブルから外を眺めていた。すっかり暗くなった駅で帰宅の乗客を満載した電車が次々に到着し発車していった。
 二回もくびになって、彼女はすっかり自信をなくしてしまった。
 「私はもう、どこの会社にも使ってもらえない・・・・ 」
彼女はつぶやいた。
 「でもその原因がわからないんです。わかったら直せるんだけど・・・・」
彼女のつぶやきは悲痛だった。
 その後、こんどはアクセサリーの会社を見つけ再々就職した。その時は夏の盛りのときだった。話しを聞いて励ましの意味で、私は彼女を家の近くの公園に誘った。
 あいにく雨が降ってきた。屋根のある休憩所の中に入って、買ってきた寿司をひらいて食べた。
 話を聞くと、会社の社長は韓国人でかなりワンマンなようだった。いきなり難しい仕事をあたえられて大変そうだった。
 そしてこの会社も二カ月ほどで辞めてしまったのである。
 現在彼女はホテルの炊事関係のバイトをしている。
 彼女はお父さんがいない。三歳の時に離婚したそうである。お母さん、お婆さんとの女三人暮らしであった。
 ちなみに彼女の専門学生時代のあだ名は「魔女」だった。私より背が高い。某女優に似た髪の長いすらっとした娘だった。

● 江の島で手をつないだ
  S子はおちゃめな娘だった。
 放課後のパソコン室で私が一人で課題を作っているとき、すーっとドアが開いてS子が入ってきた。
 私の前のいすにすわると、
 「先生、人間相関図見て」
といって机の上に紙を広げた。
 紙にはクラス全員の名前が書いてあった。
 丸で囲んだ中に名前を入れて、グループ分けされていた。さらに矢印で人と人とをつなぎ、丸とか×で両者の関係を表していた。名前のわきには血液型まで記入してあった。
 「PさんとB男は最近仲良くなったんだよ。私この前偶然、二人が手をつないで歩いているの見ちゃったんだ」
 「C男はJ子が好きで話しかけようとするんだけど、J子はいやがっているんだよ」
などという話を熱心にしゃべりだした。
 私の知らない情報もあり、おもしろいので「ふうん」といって話を聞く。
 まだ血液型不明の何人かがいて、
 「先生もよかったらさりげなく血液型聞いてみて」
なんてたのまれてしまった。
 その後も時々、ふらりと放課後やってくるようになった。
 そんなある日のこと、二人っきりで誰もいない教室にいるのもまずいと思い、外で会うことにした。放課後、メールで、近くのコンビニの前で待っているようにいって、会った。
 彼女は友達のK子と二人で待っていた。
 私はコンビニでアイスクリーム三個買って、二人を連れて歩きだした。通勤で通る河の土手を歩いていって、土手の階段状になった広場に行き、いっしょにすわった。
 またひとしきり人間関係図の話題になる。友達のK子もいるので、ほっといても二人でもりあがっている。
 あれは十月ごろだった。暗くなってきた夕方の河原でアイスクリームなんて食べながらよく寒くなかったものだ。
 その後三人で、放課後、お茶を飲みにいったりイタリア料理を食べにいったりした。
 おかしかったのは三人で駅の近くのイタリアレストランに行ったときのことだった。クラスの他の女の子たちに後をつけられてしまったのである。
 二階の窓際のテーブルに三人ですわっていると、四、五人のクラスの女の子たちが階段を上がってきて向こうのテーブルにすわった。ちらちらこちらを眺めている。
 私はおかしくなって笑いだした。皆もつられて笑いだす。一人元気のいい子が立ちあがってこっちにやってきた。
 「先生、私たちにもなにかおごって」
しかたなく彼女達にもごちそうすることになってしまった。とんだ散財だった。
 「先生、先生の誕生日にプレゼントするからね」
S子が笑っていった。
 「いらないよ別に」
 私はほんとに何かもらうものと思っていた。
 誕生日当日、S子から二枚の紙をもらった。
 一枚目の紙には、
 「先生、○○歳おめでとうございます!! いつも仲良くしてくださりありがとうございます。お茶や河原でアイス食べたりと、先生と一緒に過ごす放課後はとても楽しいです! また三人 ( 二人でも可・笑い ) でどこか行きましょう」
と書いてあり、二枚目には紙一面にHAPPY BIRTHDAYという文字と、大きなバースデーケーキの絵が描かれていた。
 私は苦笑しながら、しかしまんざらでもなくその二枚の紙を貰った。
 
 そのS子と二人で江ノ島にいったことがある。十二月ごろの風の強い寒い日だった。
 江ノ島へ渡る長い橋の上に来ると、海からの強い風がもろに吹きつけてきた。
 「コンタクトがとれちゃう!」
 S子は目を押さえてかがみこんだ。
 私はS子の右手をつかむと引いて歩いた。つめたい手だった。
 島に着くと風は島にさえぎられS子は一人で歩いた。島のレストランで食事をし、島を一回りして帰り道、橋の上にくるともう風はおさまっていて静かだった。
 私がまたS子の手をにぎろうとすると、コートのポケットに手をつっこんだまま出さない。
 「どうしたの?」と聞くと、
 「恥ずかしい」
と答えてがんとして手を出さなかった。
 たしかに橋の向こうからぞろぞろ人が歩いてくるし、風も吹いていないから、冷静に考えると私も恥ずかしかった。
 その後彼女はいい仕事に恵まれ、同期や先輩たちと楽しく仕事をしているそうである。うわさではオヤジキラーとして職場でその名をとどろかせているという。
 
 デートではないがLさんと二人で放課後、彼女の卒業した高校へ行ったことがあった。高校訪問といって新入学生勧誘のための営業活動である。
 その日彼女は黒いリクルートスーツ姿だった。履きなれない靴なので駅の階段でよろける。電車を乗り継いで横浜郊外にある高校に向かう。
 途中まで仲良しグループのOさんも一緒だった。
 「先生、私の学校は遠すぎるよね」とOさんがいった。彼女の高校は三浦半島のかなり先の方にある。放課後ちょっと行くには遠い。交通費もかかりそうである。
 「放課後じゃ無理そうだね」というと、Oさんは残念そうにうなずいて降りて行った。
 地下鉄に乗り換え、電車の中で高校時代のことなど聞いてみる。部活はなにかやっていたの、と聞くと、
 「帰宅部でした」と答えた。終わるとすぐ家に帰ってしまったらしい。
 「ほんとに何にもしない子だったんです、私」といった。家でのんびりしているのが好きな子なのだった。小柄でぽっちゃりとかわいらしい子である。
 高校は坂を登った所にあった。
 進路担当の先生にお目にかかった。まだ若い長身の、ちょっとシュワルツネッガーに似たイケメン先生だった。
 その日初夏の暑い日で、私は汗を拭きふき挨拶した。
 椅子にすわって学校の説明にはいったがなかなか汗が止まらない。私はひどい汗っかきなのである。
 シュワルツネッガー先生は話の内容より私の汗が気になるようだった。ひっきりなしに顔を拭う私を気のどくそうにながめた。
 Lさんが笑いながらフォローしてくれた。授業のこと、もう就職が決まったことなどシュワルツネッガー先生に報告する。
 「ずいぶん変わったねー、しっかりして大人になったよ」
リクルートスーツ姿の彼女に先生は激励してくれた。
 学校を出ると、地下鉄の入口でLさんと別れた。
 帰りも外は暑かった。
 学校まで案内してくれた彼女と、どこかで冷たいものでも飲めばよかった。どうして気がつかなかったのだろう? こればっかりがいつまでも心に引っかかっている。


2 アンチ年甲斐


 
● ガンダムのパイロット
  今年の誕生日で六十八歳になる。
 六十五歳以上は法的には高齢者というそうである。
 まあ世間的には老人の部類に入るのだろう。同世代の友人がいないので、私が平均的な老人なのかどうか自分ではわからない。
 しかし不思議なことに、私には老人という意識があまりない。
 鏡を見れば頭は真っ白で、腕を見れば皺が目立つ。目はとっくに老眼で、トイレが近い。
 しかし耳はよく聞こえるし、足腰はバッチリでちょっとしたへなへな若者なんかへでもない。
 まあ肉体的なハンディはそのくらいであまり気にしていない。
 健康には恵まれている。ほとんど病院に行ったことがない。
 一度自転車のよっぱらい運転で転倒し、救急車で深夜、病院にかつぎこまれたことがあったが、これは怪我であって病気ではない。
 タバコは若いころは吸っていたが、三十代のころぷっつりやめた。ある日胸のあたりが痛くなったのである。恐怖を感じてその時以来吸っていない。
逆に頭の中は若い時そのままである。
 これは私だけおかしいのか、多くの人も皆そうなのかわからないが、たとえてみるとこんな感じである。
 
 赤さびのめだつ、塗装のはげた老ガンダムでも、しょぼい高齢鉄人二十八号でもいいが、中で若者のパイロットがそのロボットを操縦している感覚である。
 見た目くたびれているが中のコントロール系統は若い時のまんまなのである。
 ただしインストールされているソフトが古いままで最新のものに更新されていないから、時々動作不安定になる。茶髪などという新現象に即対応できないのだ。
 それでも元模型工作少年にとって、パソコンは楽しくてたまらない。なんでもできてしまう大人のおもちゃである。
 CAD、イラストレーターなど楽しんでいる。ホームページはとっくの昔つくった。老ガンダムはまだ戦っているのである。

 
● 年甲斐もなく
  ここ何年か、女の子と横浜へ食事に行ったりする習慣ができた。近くの公園へ行ったりもする。
 生活に張りが出てくる。ときめく。年甲斐もなくうれしい。
 だから年寄りくさいかっこうなんかできない。年寄りくさい姿勢もできない。そんなかっこうをしたら一緒に歩けないし食事もできない。
 どこへ行くにも自転車である。車、電車、バスは使わない。慣れればなんともなくなる。自分の体力に自信がでてくる。
 電車なんかなくてもどこへでもいけちゃうのだ。
 一種の全能感のようなものが湧いてくる。この効果は大きい。
 大げさにいえば人間を変えてしまう。やる気になれば何でもできてしまうような気がしてくるのである。
 常識にしばられず、自分なりのライフスタイルを作れるような気がしてくるのである。
 
 この歳で、専門学校の非常勤講師をさせていただいている。パソコンやデザインの授業を担当している。
 若い先生ならともかく、しらがのおじいさんが、若い学生達にコンピューターの授業をするというのも珍しいらしい。
 学校では高齢者のひとりである。日頃、自分の歳は考えないようにしている。ある時、校長に私の歳を聞かれて「考えないことにしています」と答えて笑われた。
 専門学校なので、当然大多数の学生は十九、二十歳である。彼ら彼女らと毎日接していて少しも違和感を感じない。楽しい。
 同世代の老人と比較して違いがあるとしたらこの教員生活である。学校の先生でなかったら、ずいぶん異なる老年人生になったと思う。二校の専門学校の教師をやってきたので、通算二十年ほど教員生活をしてきたことになる。
 こんな私をずっと雇用していただいた両校に感謝のことばもないほどである。
 
 若い学生たちと接しているので、老人ぽく見られたくないという意識は当然あり、いくつか無意識、あるいは意識的に自己規制している。
 まず姿勢と歩行である。
 前屈みで首を前に落とすと、典型的な老人スタイルになってしまう。そのため私は、顎を引き胸を張った直立不動の軍人スタイルを、いつも心がけている。
 若い時はそうではなかった。よく母親に注意された。
 「もっと姿勢よくして歩きなさい」
 「顎を引いて胸を張ってごらん」
などと言われていたのである。
 「鉄道員」という映画があった。北海道のはずれの小さな駅の駅長を俳優の高倉健が演じていた。
 高倉健は私より年上である。もう七十歳を超えていると思う。雪のプラットフォームで、発車したディーゼル車を見送る駅長高倉健の姿勢がものすごく良かった。
 ぴんと張った軍人スタイルなのである。いくつになっても意思強く自己規制していればかたちは保てるのである。
 歩くときは、某女性モデルが語っていた、あやつり人形が頭を糸で上に引かれているように歩くときれいに歩ける、という言葉をいつも思い出して歩く。ただこの時、どうしても肩に力が入りやすいので、力を抜くようチェックするのが習い性になってしまった。
 歩くときは大股でさっさと歩くように心がけている。
 
 歩き方は、少し速歩きがいいようです。足を交互に前に出すという意識を捨てて、腰をスッスッと前に出す感じにすると、意外なほどスピードが出て、これがまた楽しいのです。
                  「クルマを捨てて歩く!」杉田聡
 
 以前、学生たちと、校外見学で原宿方面に行った時、私がどんどん先に行ってしまうので女の子に、「先生、歩くの早すぎます。みんなあんな後ろになっちゃいましたよ」と言われたことがあった。
 現代の若者は、歩くのが遅いのである。集団になると、とろとろのろのろになる。
 しかし、老人がゆっくり歩くと、完璧に老人になってしまうのである。
 老人が老人らしくてなにが悪い、という人がいるかもしれない。無理して若ぶるなよ、という人もいると思う。年寄りの冷や水という言葉もある。
 当然である。誰でも自分らしく自分の好きなように歩けばいいのである。ゆっくり歩くのが好きな人はゆっくり歩けばいいのである。
 
 駅やスーパーなどでエスカレーター、エレベーターには乗らないことにしている。これももう随分以前からの習慣になっている。
 近くのスーパーの五階に電気店と本屋がありよく行く。この時、ぐるぐる階段を上がって行く。もちろん五階に着くと多少ハァハァし、足も疲れるがこれが「負荷」なのである。   
 「負荷」がかかると疲れくたびれる。しかしこの「負荷」が刺激になって筋肉が鍛えられるのである。
 筋肉を増強するだけでなく血行を良くする。血行が良くなると新陳代謝が活発になり体全体が活性化する。いいことづくめなのである。
 駅まで歩いたってほんのちょっとの所で、バスを待っている人がいる。
 「歩いたってすぐですよ」
といいたくなる。
 「歩いたほうが健康にもいいですよ」
ともいいたくなる。
でもいったことはない。
 バスはいつ来るかわからない。ちょっと歩けば、バスより早く駅についていると思う。
 もしかしたら無料乗車券のようなものをもっているのかもしれない。
 それを使わなくては損だとおもっているのだろうか。
 本当にもう歩けなくなってしまった人でなければ歩いたほうがいい。
 現代文明はこの「負荷」を減らすことに情熱をかたむけている。限りなく筋肉を衰えさせようとしているのである。
 意識して「便利さ」と戦わないと、長生きできない。
 神様のデザインしたこの人間の形をながめてみる。
 ひとつの胴体に二本の手足がついていて、胴体の上にひとつの頭がのっている。二足歩行するために二本の足があり、ものをつかむために両手がある。それらの動きを頭がコントロールしている。
 これが人間という生物のかたちなのである。足があるのに使わなかったら生物でなくなる。
 犬も生物である。だから散歩を要求する。飛ぶのをいやがる鳥なんていないだろうし、回遊魚は止まったら呼吸困難になってしまう。
 
 髪の毛は短髪を心がけている。以前見た映画で、短髪できびきびとしたドイツ軍将校が非常にかっこよかった印象があった。そのイメージが影響しているかもしれない。
 しらがになり髪が薄くなったら短髪がいい。
 薄く長いしらがが額に乱れているのほどみじめで老人くさいものはない。
もう若くはないのだ。あのふさふさした黒髪はもうないのだ。あのころのヘアースタイルはもうできないのだ。
 きっぱりと別れよう。
 乏しくなった髪の毛をはげのうえにかぶせてごまかそうとする某元首相もみじめたらしかった。
 髪を黒く染めるのも好きではない。ありのままの自分に負い目を感じているからだ。
 ありのままでいいのだ。ありのままを受け入れると心が軽くなる。心も軽く身も軽くなる。
 また清潔で身ぎれいなこともこころがけている。すべてのファッションのベースは清潔さだとおもう。
 デザイン学校ということもあって、服装はラフなかっこうにしているが、高価なものは全くない。
 多少流行も意識する。
 夏になると、シャツスタイルになるが、若い人は、シャツをズボン(ファッション誌等ではパンツというが、下着もパンツというではないか)の外にだして歩いている。
 昔だったら考えられないスタイルである。だらしない、みっともないといわれた。
 最初は抵抗があったが、やってみると自由でしばられない感覚になる。
 中高年のオヤジがシャツをズボンの中にいれ、律儀にベルトで縛っているのが、いかにも生まじめな体制内ドレイのように見えてくる。
 こういう人と話しても常識的でつまらないだろうなと思えてくる。
 
 若者ことばを使うのは楽しい。覚えたらじゃんじゃん使ってしまう。
 「ちょーかわいい!」
 「いえてるー」
 「まじ、ありえねー!」
 「ちょーむかつく」
 「ってゆーか、きもいよ」
なんて平気で言っている。
 すると学生たちは、たいてい笑いだす。白髪の老教師がこんなしゃべり方をするのだからずいぶんおかしいに違いない。ご父兄の皆さま、品の悪いへんな教師ですいませんでした。
 女の子と話すと新しい若者ことばを発見することがある。
 あるとき、
 「地味にかわいい」
と言った女の子がいた。その意味を聞くと、ちょっとかわいい、ということなのであった。
 ことばではないが、女の子からメールをもらうと絵文字が入っていて楽しい。
 最近は絵文字がぱちぱち動くのもある。
 すごかったのは記号を並べてイラストを描いてきた子がいた。
 クリスマスツリーのイラストを、携帯の画面いっぱいに記号だけ使って描いたのである。このときは驚いた。
 ちなみに女の子のいう「かわいい」は奥が深い。
 たんに見た目かわいいものを指すだけでなく、興味があるもの、珍しいものを指す場合など、色々な使われかたがある。
 午後の授業の時だった。
 突然頭上をジェット機の轟音が通り過ぎた。厚木基地のジェット戦闘機が低空で通過したのである。
 おもわず窓辺に駆け寄り窓を開け空を見上げた。薄い黒煙を吐いて戦闘機が遠ざかっていく。
 するとそんな私に、「かわいいーっ」と女の子たちが叫んだのである。
 なにがかわいいのか、かわいくないオヤジには理解できないが、こんな場合にもこの言葉は適用されるのであった。
 
 授業の始め、出席を取る時は大きな声を心がけている。
 迫力を出して、スピード感をもって学生の氏名を呼ぶようにしている。
 私の学生時代、小柄なドイツ語の老教師が、弱々しい声で出席をとった。
 学生たちのざわめきの中、老齢のみじめさをまざまざと感じたものだった。
 今、日本の多くの学校に多いと思うが、声が極端に小さい学生がいる。それも男の学生に多い。
 体は小さいわけではなく背は高いのに声が小さい。聞き取れない。
 生まれてから一度も大声を出したことがないのでは、と思ってしまうくらい、か細い声で抑揚なく話す。
 これが「草食系男子」なのかと思う。
 みているとこういう子は休み時間、たいてい一人でゲームをやっている。例の両手に持ってピコピコやるゲーム機である。
 これじゃ絶対に女の子にはもてない。女の子が近づいて来ない。もっとも本人も近づいていかないが・・・・
 「てめえ、それでも男か、○○たま付いているのか?」と、背中をどやしつけるか、足をけったぐって胸ぐらをつかみ、大声の発声練習でもさせたいくらいである。
 それがあるので逆に私は、教室の隅々まで響くように、大声で、明確にしゃべるよう心がけている。
 
 しかしそんなことを言っている私は若い頃ドモリだった。
 就職した時なにが怖いって、電話が一番怖かった。
 駅で切符が買えなかった。
 当時まだ切符の自動販売機がなく、駅員に行き先を告げて切符を買ったのである。
 私は、「か」「き」「こ」「た」「て」「と」ではじまる言葉が発声できなかった。
 そこで行き先を告げる時、それ以外のいいやすい手前の駅名の切符を買って降りる時清算した。
 また電車に乗って座ったとき、回りが見れない、こわい。周りの皆が私を注視しているように感じる。
 変な奴がここにいるぞ、というように意識してしまうのである。
 目をつぶったまま降りる駅までじっとしている。脂汗がにじんでくる。
 これは対人恐怖症というものだった。
 またレストランで料理の注文ができなかった。
 「カレー」がいえない。
 メニューを指差して指定するが、ウェイトレスが、わけがわからずこっちを見つめて来ると、私は顔が真っ赤になり、メニューを放り出して店を飛び出したものだった。
 あの当時、早口で、どもって、すぐ赤面し、声が小さかった。若い時は自分もそうだったのだ。

● 卒業制作
  デザイン専門学校では二年間の集大成として、二年の後半に卒業制作という作品を制作することになる。
 大学でいう卒論に相当するものである。
 これは椅子でも、ドールハウスでも、照明でも、何でもいいのだが、何か自分のテーマを決めて、実物の作品を制作する。
 もちろん、学生一人ですべてできるわけではないので、各学生に担当の先生がつく。
 今回担当することになった女の子の一人が大きな柱時計を作ることになった。色々カラクリのある時計を作りたいという。
 彼女は明るく、けらけらとよく笑い、美しくすらっとした聡明な娘だった。
 その女の子は私の所に来てスケッチを見せ、「先生、こんなのを作りたいんですけど、できるでしょうか?」と聞いた。
 元模型工作少年の腕が鳴った。
 今まで、動く雪ダルマのディスプレーや、巨大オルゴール、手動メリーゴーランドなど動く作品制作に関わってきた。メカものは大好きである。楽しい。
 「大丈夫、バッチリできるよ」と答えた。
 彼女はそれで、そのからくり時計を作ることに決定し、CADで三面図を作成した。
 図面を見ると随分大きな時計で、人の身長ほどの高さである。
 材料取りの図面どおり切断したシナべニアを持ってきて、制作が始まった。
 直角を維持するよう冶具を考え、木工ボンドで接着していく。まもなく外形が出来上がった。
 そのあと彼女は、からくりの人形や絵に、時間をかけていく。
 締め切りが迫ってきたある日、私はメカをまとめることにした。
 彼女に次々と指示を下す。
 ここに三ミリの穴を開けてきて、この寸法でこの木を切ってきて、この真鍮の棒をこの長さで切断、この位置でここに接着・・・・、彼女はふらふらになって作業した。
 大減速ギアの付いた小さなモーターを取り付け、スイッチを入れる。とたんに大時計はあちらこちら、ゆらゆらとんとん一斉にからくりが動き出した。
 「動いたー!」彼女が叫ぶ。
 回りの皆がよってきて「すごい、動いてるねー」と感動する。
 このメカは三日間の会期中一度もトラブルがなかったようだった。私としても会心の作品であった。
 
 もう一人、リスの木琴を作ったKさん。
 一緒に江ノ島へ行ったあのKさんである。Kさんは木琴を作りたいといった。
 物静かな彼女らしく優しいテーマである。
 スケッチを見せてもらう。いくつかアイデアが描いてある。
 斜面に一本ずつ木琴を並べ、一本一本にかわいい動物のキャラクターがついているもの、ドーナツのように丸く並べた木琴の輪のなかに子供が入って演奏するものなど、細いシャーペンで描いた小さい絵である。
 実際に作る時の構造なんかも考えて、もうちょっとアイデア増やしてごらん。アイデアはいくらでもでてくるからね、といってスケッチを返す。
 その後も色々アイデアの検討があって、最終的にリスの木琴になった。
 リスの丸まったしっぽの部分が木琴になる。鍵盤から作るとなると音程の調整などむずかしいので、既製品を買ってきてばらして使うことにした。
 実物大の型紙を作り、それに合わせて制作に入る。
 型紙に合わせて切り抜いたシナベニヤにクッション材を挟み込みながら茶色の布地を張っていく。リスの形にふくらんだ大きなレリーフのようなものである。
 制作途中ほかの先生から、もっと膨らましたらという意見が出て、糸をほどいて縫い直したりしたが、まあなんとか出来あがった。
 お客さんが弾けるように、かんたんな楽譜なども作って、ディスプレイもまとまった。
 このようにして学生たちの卒業制作はできあがっていくのであった。

 
● 若い女性友達
  たまたま教師をしているので、若い女性がまわりにたくさんいる。当然話す機会も多い。若い女性と付き合うことは、日々の喜びであり生きがいでもある。
 卒業後も永くつきあうようになる女の子は、最初の出会いのころから、なにかしらサイン、シグナルを発信している。
 そんな子は三、四年に一人いるかいないかぐらいの割合だろうか。一方その他大多数の女の子は、ある程度親しくなってもそこから先、壁がある。
 ある距離を保ったまま卒業を迎え、以後は多分一生会うこともない。
 日頃、若い女性などまるで縁がない人もいると思う。大部分の多くのおじさんはそうかもしれない。
 それでいいという人はそれでいいのだが、やはり若い女友達がいたら人生楽しいだろうな、と思っている人もいると思う。
 そういう人はどうしたら女友達を作ることができるだろうか? 
 色々考えられるが、たとえばサークル活動などに参加するという手などある。
 もし絵が上手だったら美術グループなどにはいるのである。
 絵が好きな、あるいは絵を習いたい女性でもいれば、自然なかたちで女性と親しくなれる。
 あるいは料理教室などに入るのもおもしろい。
 大勢の女性たちの中の希少価値の男になってしまうのだ。
 別に料理がうまくなくてもかまわない。教えてもらえばいい。
 人にものを教えるのが嫌いなひとなんてあまりいないから、喜んで教えてもらえる。
 そうしていれば大勢いる女性たちの中から必ず誰か親しくなる人があらわれてくる。
 何もしないで家の中で待っていても、若い娘は空から落ちてはこない。それなりに戦略と行動が必要なのである。
 
 若い娘のかわいいしぐさは格別である。無形の宝物である。そしてはかないものである。
 若い娘のかわいい時期は短い。
 あっという間に、厚顔のオバさんに変質してしまう。
 おっと、すべての女性がそうなってしまうというわけではなく、いくつになっても可憐な女性も大勢います(女性に嫌われたくなくてこんな言い訳をするなんとも卑屈な八方美人・・・・)。
 Sさんは私を呼ぶ時、両手を上に上げ、風にそよぐ柳のように体を揺らしてわたしを呼んだことがあった。
「せーんせい」
とてもかわいかった。このくらいの歳の若い娘でしかできないしぐさである。
 このように呼ばれてわたしはその日一日を幸福にすごした。
 K子と横浜で食事をしたときのことだった。
 ちょうど春先の暖かい日だったのだが、白いブラウス姿であらわれた。
レースのような変わった生地で作られている。レースを着ているようにみえる。
 「その服おもしろいね、変わっているよ」というと、
彼女は両手を腰に体を揺らして踊っているようなかっこうをした。ちょっと上を向いて鼻歌を歌っている。満足そうな得意そうな顔をしていた。
 このときもかわいかった。
 時間にしたら一分もなかったろう。ほんの一瞬の偶然のしぐさだった。
 しかしその映像は私の頭の中のメモリーにバッチリ記録されたのだった。たぶん一生保存されるだろう。
 M子と二俣川の駅で待ち合わせしたときのことだった。
 ぞろぞろ改札を抜けて来る集団に目をやっていた私の顔の前で、人差し指がくるくる回ったのである。
 トンボを捕まえるとき、目をまわすようにやったあのぐるぐるである。M子だった。お茶目なM子らしい。
 「こっちこっち」といっているように首をかしげてこちらの目を見上げている。
 いたずらっ子がのぞきこむような目つきだった。おもわず笑いだしてしまった。
 またあるときレストランで食事したときのことである。
 ひとしきり話題が盛り上がった後、しばし沈黙のひとときが流れた。このとき両手で頬づえついていたM子が顔を挟んだ両手を上げたり下げたりした。
 おかめになったり、狐になったりする。私の顔をじっと見つめながらするのでおかしくなって笑ってしまった。
 
 家で育てている椿が咲きだした。
 鉢入りの小さな椿であるが今年はたくさん蕾をつけた。つぎつぎに開いてくる。木は小さいが花は大きく、赤と白のまだら模様になっている。
 花の命は短い。
 二、三日したかとおもうと、ぽとりと落ちて終わりである。大きくあでやかな花だけに無残であり、いさぎよくもある。
 女の子の可憐な時期はあっという間に過ぎ去っていく。
 娘たちのかわいいしぐさに出会えたわたしは、ほんの一時の花のように、はかなく貴重な思い出をもらったのだった。
 サン・テグジュペリの「星の王子さま」に、
 
 「だけど、はかないってなんのこと?」
 一度なにかききだすと、しまいまできかずにはいられない王子さまが、くりかえしました。
 「そりゃ、〈そのうち消えてなくなる〉という意味だよ」
 「ぼくの花、そのうち消えてなくなるの?」
 「うん、そうだとも」
 ぼくの花は、はかない花なのか。身をまもるものといったら、四つのトゲしか持っていない。それなのに、あの花をぼくの星に、ひとりぽっちにしてきたんだ! と王子さまは考えました。
 王子さまは、はじめて、あの花がなつかしくなりました。
 
というくだりがあった。ハワイアンの歌の文句ではないが、小さな竹の橋の下、恋も夢も流れ去っていくのだ。

 
● 忘れられない映画
  すきな映画は心の財産である。
 デビッド・リーン監督のものが好きでいまでもDVDを借りて見ている。
 高校生の頃見た「戦場にかける橋」、大学生になって見た「アラビアのロレンス」「旅情」、サラリーマンの頃の「ドクトルジバゴ」「ライアンの娘」
 どれもリーン監督のものである。もちろんこれ以外にも和洋いろいろ映画を見ているが、リーン監督のものは別格である。
 この監督の映画と同時代に生きて幸せだったと思う。「アラビアのロレンス」「ドクトルジバゴ」は何回見たかわからない。
 アラビアの広大な砂漠の美しさを、これほど見事にえがききった作品はほかにはないと思う。
 孤独の砂漠に魅了されていくロレンス。
 炎暑の砂漠の苦難の行軍。
 大画面が上下に二分割される。天と地、青空と水平に広がる茶色の砂漠、ほかには何もない。
 しばらくすると画面中央になにかぽつんと点のようなものがあらわれる。
しだいに点は大きくなってくる。ロレンスだ。ロレンスが助けに来てくれたのだ。
 進路にはぐれ立ちすくんでいたアラブの少年は、大声で叫びながら走っていった。
 時代の大波にほんろうされるジバゴ、流れ流れたロシア奥地でのラーラとの恋。ラーラのテーマのやるせない映画音楽がもりあがる・・・・
 「ライアンの娘」も、また見たくて近くのレンタルショップを捜しているが、どういうわけかDVDが見つからない。
 「旅情」も置いてない。なんでも置いてあるというものでもないのである。「戦場にかける橋」はこの間見つけた。
 リーン監督は「アラビアのロレンス」のように女性が一人も登場しない男性的な戦争物も手掛ければ、一方「ドクトルジバゴ」や「ライアンの娘」「旅情」のような恋愛物の大作、佳作もつくった。
 どれもすばらしいものばかりである。
 「ライアンの娘」は北アイルランド地方の寒村を舞台にした作品である。
アイルランドというのはイギリスの北にある島でイギリスに支配されていた。敵対関係になっているのだった。
 その寒村にイギリス軍の小隊が駐留してくる。指揮官の若い士官は戦争で足を負傷していて歩くのが不自由だった。
 この士官と新婚のライアンの娘との悲恋物語である。
 結婚している女の恋だから不倫ということになる。しかも相手は敵国の人間である。
 冒頭、高い断崖の上の娘の麦わら帽子 ( 白い日傘だったか?) が風に飛ばされる場面がある。
 風に流され、帽子ははるか下の海面にたよりなげに落ちていく。
 それはこれから始まる悲恋のドラマの行く末を暗示しているようで秀逸な情景だった。
 リーン監督は物語冒頭のこのような印象的な情景作りがすばらしい。
 「ドクトルジバゴ」でも冒頭、葉裏をかえしておおきくざわめく白樺の林がひとしきり写される。
 少年ジバゴの波乱に富んだ人生を思わせ、物語への期待感をそそった。
 傑作大河ドラマの時代であった。
 
 リーン監督以外にも沢山映画を見ている。もちろんDVDを借りてきてパソコンで見ているのである。
 「眼下の敵」は戦争物の傑作だった。
 最近、店で発見したのである。
 名作の多い潜水艦ものの傑作である。古い映画である。米海軍の駆逐艦とドイツ軍潜水艦との戦いである。
 新任の艦長を乗せた駆逐艦で、艦長が自室にひきこもったまま部下の前に姿を現さない。
 様々な憶測を呼ぶ。
 船酔いしていて起きられないのだ、無能な艦長なのだ、元民間人だから自信がないのだ・・・・
 ある日レーダーが敵潜水艦を発見する。
 戦いの始まりである。艦内に緊張がはしる。
 このとき初めて艦長が皆の前に姿をあらわす。
 的確な指示、すばやい反応。駆逐艦はタッチの差で敵潜水艦の魚雷攻撃をかわす。
 この瞬間から艦長は部下たちの堅い信頼と尊敬をかち得た。
 以後、駆逐艦と潜水艦の艦長同志の知恵比べ、頭脳と勇気と決断の物語となっていく。
 ストーリー作りがうまい、すばらしい、少しもだれるところがない。
 
 最近、「日本海大海戦」というDVDをレンタルショップで見つけた。感動した。
 むかし司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んだことがある。若い頃サラリーマン時代である。
 厚い本六、七冊はあったように思うが、明治の日本勃興期を記した長編小説である。
 おもしろいのでいっきに読んでしまった記憶がある。
 その後半、日本海海戦が出てくる。
 いきなり海戦の場面になるのではなく、長くじれったい導入部がある。
 ロシアの北海にいるバルチック艦隊が、ぐるっとヨーロッパとアフリカの西側をまわり、延々地球を半周して日本海に攻めてくるのである。
 日本側は東郷平八郎提督(アドミラルトーゴー)率いる連合艦隊がこれを迎えうつべく手ぐすね引いて待っているのだが、敵の進路がさっぱりつかめない。
 当時まだ通信その他情報網が発達していなかったので、探りようがなかったのである。
 しかしとうとうある日、見張りの船が敵の艦隊を発見する。
 同じころ、漁師の小船も敵を発見し役場に急報する。
 敵艦隊のおびただしい黒煙を発見したのであった。
 いよいよ戦闘開始である。
 映画ではこの時、三船敏郎扮する東郷司令長官が、「全艦出動」と命ずる。そして同時に軍艦マーチが高々と鳴り響く。
 ここはこの映画のクライマックスである。
 このDVDを見ていてこの場面になると胸が熱くなる。わくわく踊りだす。さけびだしたいような興奮のひとときである。
 まだ3Dなどの特撮デジタル技術のなかったころの映画であるが、海戦場面などしっかりしていて、迫力がある。かつて、日本にこのような戦いの時代があったのであった。
 
 こうしてみると戦争物が多い。
 「ドクトルジバゴ」も戦争の時代を背景にしたラブロマンスである。
 戦争というのはドラマチックな状況なのである。生と死が身近にあり、出会いと別れがつきまとう。
 運命がはげしく変転し、いやでも「生きる」ことに真摯にならざるをえない。だらけた生き方のできない時代なのである。
 ひるがえって現代日本には戦争がない。
 戦後八十年ちかく経過した。
 多くの人たちにとって戦争は自分たちの知らない遠い過去の歴史になってしまった。
 平和な毎日である。明日もあさっても終わりなき退屈な日常なのである。
生きがいを見いだせない。生きる意味が見つけ出せない。生きてる実感を味わえない。
 皮肉なものである。最も安逸な場所、時代にいながらそのありがたさ、幸せを見失っているのである。
 私が戦争物を好んで見るのは、現代に生きる幸せを確認するためかもしれない。生きることの意味を実感するためかもしれない。

● 女子学生たち
  つい最近、M子を食事に誘った。
 若い娘とデートするようになった最初の女性である。あの弘法山へハイキングした思い出の女性でもある。
 二か月ほど前、卒業制作展でちらっと会って以来である。彼女から、
「久しぶりに飲みますか? いつでも行けます」
というメールが返ってきた。
 卒業して六年以上たつ。こうなるとお互い「飲もう」という話ができるようになったのだった。
 聞いてみると職場はおじさんが多く、けっこう飲みに行ったり鍛えられているらしい。酒も色々飲めるようになっておいしいといっていた。
 その日家の近くのファミレスに誘ったのだが、遅くまで飲んで食べた。
 彼女とこの店にきたのは二回目である。明け方一時までやっているので時間を気にしないで安心して過ごせるのであった。
 この店はとにかく安いのである。気兼ねなしにどんどん注文できる。サラダ、ピザにはじまり、貝の焼いたの、ピラフのなんとかと、色々食べた。
 彼女がこんなに色々食べたのは初めてだった。
 以前弘法山でハイキングしたときは、おにぎり二、三個でもうなにも食べなかったのだから・・・・。
 こんど神戸のほうに新店舗開店するので、その準備で毎週二日間神戸に行っているそうだった。
 もう中堅どころになったのである。
 新店舗の店内デザインやサイン計画で忙しいという。理解のない上司がいて困っているという話も聞いた。
 メーカーの製品デザイナーならいざしらず、一般の会社ではデザイナーの仕事はちょっと特殊な仕事になるので、まわりに理解されにくい。
 パソコンをにらみながらキーをバシバシたたいていればバッチシ仕事している風景になるが、紙切れにゴチョゴチョなにか絵を描いていると、まるでさぼって遊んでいるようにしか見えない。
 ほんとうはこの時が一番クリエイティブなときなのだが・・・・
 いっぱしのOLとして、喜び悩みをかかえて働いているのであった。
 ビールを飲み、ワインを飲み(ここのデキャンターはすごく安かった)、最後にケーキを食べて私たちは立ち上がった。
 駅まで送って別れた。ほろよい気分に春の風が心地よかった。
 
 四月になり新学期が始まった。
 二年生の授業初日、課題を説明する。用紙をくばる。
 今日はアイデアスケッチを描いてもらう。できるだけ沢山アイデアを出すよう促す。
 ひとしきり静かになり、みんなそれぞれ下を向いてスケッチを描きだした。
 広い教室はかなり席が空いているので、学生たちはおもいおもいにあちこちにちらばってすわっている。
 たいていは仲良しグループでかたまっている。
 私は前列はじっこの窓際の席に後ろ向きにすわって、学生達をながめる。
質問したい人、相談したい人は私の前にすわって話しあう。
 何人か自分のスケッチを見せにやってきた。順番に相談を聞き助言したりする。
 しばらくしてH子がやってきた。
 彼女は一年生のときは髪を金髪にしたり、服装も派手目な感じで、けっこうケバイ子の印象があったが、最近はかなり落ちついてきたようだ。
 H子の話題はパソコンのソフトのことだった。
 「先生、フォトショップ、ばんばん使っているよ、いろんなことやっているんだよ」といった。
 フォトショップは写真の加工編集ソフトである。昨年の終わりごろこのソフトの使い方をちょっと教えたのだった。
 彼女は写真が好きで色々撮影しているのである。一年生のとき彼女とカメラの話をしたことがあった。
 そのときも突然私の前にやってきて、
 「先生、カメラ好き?」と聞いた。
 「ああ好きだよ」と答えると、カメラの話になった。ニコンの一眼レフを買ったのだそうである。
 ニコンにするかキャノンにするか迷ったが、ニコンの方が軽くて手になじむのでニコンにしたといっていた。
 ずいぶん高そうな機種を買ったようだ。裏側の液晶画面が可動になっていて、手前に引き起こしてくるりと反転させられるものを買ったらしい。
 低位置からの撮影のとき、この機構がついていると撮影しやすいのだという。この機構が余分についているだけで二万円高いそうである。
 「こんどそのカメラ見せて」と約束した。
 今年に入り二月中旬に学園祭があった。
 豚汁とフランクフルトの模擬店の中で、H子のカメラを見せてもらった。
持ってみるとたしかに軽い。私も今は使っていない昔のフイルム式の一眼レフを持っているが、あれは重たかった。
 そのかわりこのデジタル一眼レフはすごい多機能になっている。
 ボタンやツマミがいっぱいあって、見ただけではとても何が何だかわからない。
 「これだけ沢山機能があると、使いこなすのがたいへんだね」というと、
まだ使っていない機能がけっこうあるという。
 「でも軽いからいいね」というと、
 「それでも一日首に懸けていると首がつかれる」そうだった。
 そのときフォトショップの話題になったのである。
 高級一眼レフなので、撮った画像のメモリーがすごく大きいのである。
そのままどんどんパソコンに保存していったらあっという間にパソコンはメモリー不足になってしまう。動かなくなってしまうのだ。
 そこで撮った画像データはパソコンにしまわないで、CDや別のハードディスクに保存するようすすめた。
 またフォトショップを使ってメモリーを落とす方法も教えた。
 フォトショップにはこのほか色々機能があるが、いらない周囲を切り抜くトリミングや、色味の変化、修正、コピー、貼り付けなどの基本を教えてあげたのだった。
 彼女は今、それらの機能をばんばん使っているのであった。
 一回に大量の枚数を撮るという。このニコンのカメラではできてしまうという。
 昔の三十六枚撮りフイルムの時代では考えられない枚数だ。
 「なにを撮るの?」ときくと、人でも風景でもなんでも撮るそうだ。どんな写真を撮っているのか見たいものである。
 撮った写真をパソコンで送るとき、メール添付などという一般的なやりかたではなく、アルバムというものにまとめて入れて送るのだそうである。
 そのやり方はこんどは私が彼女に教わろうと思っている。
 
 授業時間が半ばを過ぎた。
 立ち上がって学生たちの間を歩いて進行状況を見て回る。
 だいぶ色々アイデアスケッチが出来た子がいるかと思えば、二、三個でストップしてしまっている子もいる。
 たくさんアイデアが出た子には、そこからひとつ選んで大きく描くよう指示する。
 ほとんどの子はA3の大きな紙に小さくちよこちょこっと描いている。小さすぎてディテールがわからない。
 だから大きく実物大で描いてもらう。これ以後は正確な形を描くために、その正面図と側面図を画く。
 単なるイラスト画から、図面に移行するのである。
 このあたりからビジュアル系授業とプロダクト系授業の違いがあらわれてくるのである。
 大体自分の作品の形が見えてきたところで終了のチャイムが鳴った。
 
 考えてみると先生というのは不思議な職種である。
 親子よりも歳のはなれた見ず知らずの人間どうし、教室という同じ空間で、一定期間を過ごす。
 同じ空気を吸い、同じ話題を話し、同じ方向に進んでいく。
 まるきり赤の他人なのに鼻がくっつきそうな近くにきて、教えたり、話したり、笑ったりする。
 それを二年間、毎日くり返すわけだから、いやでも、相手がわかってしまう。
 他人を意識しない親密なやりとりから、相手の性格、長所短所、といったものまで見えてしまう。
 こちらもまた見られている。推量されている。
 教室の中は高度なコミュニケーションの場であって、ここはつねに世代を越えた人間同士のふれあいの場なのだ。
 
 私は同僚の先生や学生達から「癒し系」といわれることがある。
 きついことはあまり言わず、よく笑い、細かいことがきらいなのでそう言われるようである。
 自分ではよくわからない。ただしのんびりしているのはなんとなく感じている。
 まわりの空気をすばやく読み、いつもぴりぴり敏感に反応する、なんてことはばかばかしくてとてもやっていられない。
 その点、有能なサラリーマンには絶対なれない。
 だいたい日々の細々したことなどはどうでもいいという考えである。
 そんなことはしてもしなくても百年後にはなんのかけらも残っていないのだから・・・・。
 些細な約束事にしばられるのもだいきらいである。
 非常勤講師という身分というか肩書なので、定時に授業が終わったら、本来さっさと帰っていいのである。
 それがなかなかそうはいかない。
 「○○の件について放課後打ち合わせしましょう」、とかいうことになると相手の先生がやってくるまでまっていなくてはならない。
 そういう先生は有能で多忙な人なのでほかにも色々打ち合わせや雑用があり、なかなかやってこないのである。
 やっと現れて打ち合わせにはいると、やれスケジュールがどうの、そのためにはあらかじめ申請書を書かなくてはとか、「じゃそれ○○日までにお願いします」、なんてことになり、もうすっかりくたくたになってしまうのであった。
 
 普段は全然ないが、長い教師生活で学生にほんとうに怒ったことが二、三回ある。
 一人は卒制を担当した女の子の時だった。
 彼女は照明を作ろうとしていた。アイデアスケッチを描いていた。自分の部屋に置けるものにしたいといっていた。
 しかし自分の部屋を基準にしてしまうと、おのずとデザインが限定されてしまう。
 サイズ、スタイルがちゃちなものになってしまうのだ。
 デザインというものは他人のためにするものだ、どうしたら相手が喜ぶか考えるのがデザインなのだ、自分のために作るのなら単なる趣味になってしまう、というようなことを彼女にしゃべった。
 しかし彼女はがんとして受け入れなかった。
 彼女は頭のいい聡明な女の子だった。
 頭のいい子で頑固な子はけっこういる。彼女もその一人だった。
 「私はデザイナーじゃないんです。私の就職先は販売系なんです。自分の作りたいものを作ってどうしていけないんですか?」と反論した。
 しばらくやりとりしたが平行線をたどった。
 「勝手にしろ、やりたいようにやれ!」
 思わずどなって立ち上がった。そのあと一切面倒みないつもりだった。
 結局彼女は自分ひとりで作品を仕上げ提出した。
 その後卒業制作展も終わった卒業式の少し前、彼女と横浜駅で会って食事をした。
 どなったまま別れ別れになるのも気持ちいいものではないので食事に誘ったのである。
 断られるかと思ったがOKの返事だった。
 待ち合わせの横浜駅西口の高島屋入口に白いマスクをして彼女はあらわれた。風邪をひいているという。喉が弱いのだそうだ。
 地下街のレストランで食事した。彼女はあまり食事がすすまなかったのを憶えている。
 その後二度ほどメールで食事に誘った。
 前回あまり食べなかったから、こんどは腹いっぱい食べよう、といった内容である。
 しかし二回ともドタキャンされた。
 当日メールすると、急に体調が悪くなったとか、急に熱が出てきたそうだった。
 さすがに私も腹が立った。即、彼女の携帯番号、アドレスを削除してしまった。
 もう二度と会うことはないだろう。しょせん彼女とは縁がなかったのだった。
 
 食事といえば料理を作ることもある。
 料理というとなんでも作ってしまうように誤解されるので、ぺペロンチーノを作ったと言い変える。ペペロンチーノ以外にはカレーライスも作る。
 いつだったか学校でカレーライス、ライスカレーのどちらかを言ったら学生たちに笑われたことがあった。どっちが正しいのかこればっかりは憶えられない。
 かつて、人参やジャガイモを細かく切っていたら、女房に、そんなに細かくしたらおいしくない。もっと大きく切ったら、と言われたことがあった。
以来、逆にできるだけ大きめにしている。たしかにこの方が噛みごたえがあっておいしい。
 ぺペロンチーノを作ったときは女の子たちみんなに自慢した。携帯に写して見せてまわった。
 「男の料理だね」と、ある子にいわれた。
皿の上にがさっと乗せているのが男っぽいらしい。
 あるとき女の子からレシピを貰った。かんたんカルボナーラと書いてある。ぺペロンチーノの次はカルボナーラに挑戦だと、みんなにふれて回っていたからである。
 「先生、カルボナーラ作った?」
とみんなに聞かれる。
 しかしレシピを見ると、乳脂ホイップ、ベーコン、卵黄、チーズなど色々必要で、たまたま店に行った時それらを思い出せないのである。そんなこんなでいつまでたってもカルボナーラが作れない。
 結局いまだにカルボナーラは幻のカルボナーラなのであった。


3 自転車東西南北


 
● 自転車通勤の始まり
  私にとって、自転車はJRであり、私鉄であり、バスである。
 自転車で走るのが楽しい。
 だから通勤はもちろん自転車である。
 自宅から職場の入口まで自転車一本で行ってしまう。
 13km離れた東京都下の学校である。
 この習慣が身に着いて、もうどこへ行くにも自転車で行くようになった。電車、車、バスなどは利用しない。
 どうして自転車生活にシフトしたのかが思い出せないが、新車を買っておもしろ半分乗りまわしているうち、たまたま職場まで行ってしまい、それがきっかけで通勤するようになったのかもしれない。
 その自転車を買った日のことはよく覚えている。
 私の家から五駅先の星川の大きなホームセンターまで、てくてく国道を歩いて行った。五年前、初夏のよく晴れた日だった。
 考えてみると、長距離歩くのが好きで、結構遠くまであちこち遠征していたから徒歩の限界を感じ、さらに行動半径を広げるために、自然に自転車に移行したのかもしれなかった。
 それは、タイヤの小さな折りたたみ自転車だった。
 すこし前に下見に来た時、「これにしよう!」と決めていた自転車で、銀色のフレーム構成がシャープで美しく、すらりとした小鹿のようだった。
 無駄のない機能的なデザインに魅了され、即購入した。
 帰りは早速この自転車に乗って家に帰った。
 くる時、たっぷり時間をかけて歩いてきた道を、すいすい走って帰る。ひさしぶりの自転車に楽しさがこみあげてきた。
 翌日、わたしは境川土手のサイクリングロードを走っていた。この道は昔、走った記憶があったからである。まだ小さい息子をママチャリのうしろの荷台に乗せ、いちょう団地の前を通ったことがあったのである。
 藤沢まであと数キロという見晴らしの良い開けたところまで走って休憩し、そこでUターンした。
 帰路、性能のよさそうな細身のロードバイクに乗った初老の男性が話しかけてきた。江ノ島まで行ってシラス丼を食べ、これから町田まで戻るところ、ということだった。
 私はそのとき、この境川をどんどん下っていけば江ノ島に行けることを初めて知った。また、この境川を上っていけば、東京の町田にいけることもわかった。
 
 私は横浜市のほぼ中央部、旭区の二俣川という所に住んでおり、職場の学校は東京の町田で、週三日通勤していた。
 職場まで最初は色々なルートを走ってみたが、しばらくすると最短コースが決まってくる。
 地図で確認するとほぼ十三~十四キロメートルで、普通に走って約一時間十五分で行ける。
 雨の日は電車で、相鉄、小田急に乗り四十五分ほどで着く。
 自宅をでて住宅街をぬけ、畑の中の小さな丘を越えて細い裏道をこちょこちょいくと国道十六号にぶつかる。
 ここから国道の広い安全な歩道を走って、グランベリーモールの前にくる。
 グランベリーモールというのは大規模なきれいなショッピングモールで、帰りの早い日、一服していくことがあり、ここを通過して公園の林道を降りると境川にぶつかる。
 境川は神奈川県と東京都の県境を流れる河で、ほぼ河の全域にわたってサイクリングロードができている。
 学校まで、あとはこの道一本である。
 ここからは気持ちがいい。
 いつもそうだがここまでくると、ほっとする。
 あと二十分ちょっとで着く。
 おだやかな水の音、車も排気ガスもなく、あるのは犬を連れて散歩している人や、ジョギングしている人、きらきらときらめく水、ゆったりと流れていく河の水、「すべて世は、こともなし」の世界である。
 土手のまわりの住宅の木々や花々をながめながらの走行は快適で、四季おりおりの変化がある。
 春三月の終わりの今頃、白い大きな花が咲いている。こぶし、白木蓮などだ。
 黄色い花はなんだろう、れんぎょうか、足元では水仙がかわいらしい。
 日当たりのいい対岸では気の早い桜がもう花ざかりだ。
 一眼レフにでっかいレンズを付けたオヤジ達が河原のカワセミを狙っている。大きな鯉がゆったりと群れている。
 通勤中はほとんど音楽を聴いている。
 古い2GBのiPodにクラシック、ロシア民謡、ハワイアンなどをぎっしり詰め込み、気の向くままに好きな曲を聴いている。
 日差しの暖かいこの土手を走る今日は、交響曲第六番「田園」がぴったりだ。どこまでもこの堤を走っていたいと思う。
 
 横浜から自転車で通っているというと、驚く人が多いが、実際走ってみると全然つらくないのだ。つらいどころか楽しくてたまらない。この喜びを取り上げないでと神様に祈ってしまう。
 自転車を乗り回していると、電車やバスに乗るのがばからしくなってくる。一駅や二駅なんてあっという間に行けちゃうのだから・・・・
 もうルートは決まっているからなにも考えない。ここの角を曲がって、あそこの信号で一たん停止・・・・
 帰路、さきほどのグランベリーモールで休憩する。
 南町田駅前にある大きなきれいなショッピングモールである。
 駅前が広い広場になっていて、敷石が敷きつめられ、幾何学的な美しい模様をつくっている。
 広場のはじに枝ぶりのいい桂の樹が植えられ、そのまわりを丸く木のベンチが囲んでいる。私がいつもすわるベンチである。
 クルマのこない空間なので、人々は思い思いの速度で歩き、立ち止り、おしゃべりしている。
 犬を連れた人、買い物バッグを抱えた人、若い娘、子連れの家族、鳩を追いかけてかけずりまわる子供たち・・・・
 クルマのいない空間は、なにか気を安らげる空気があって、自然に人々があつまってくる。
 このベンチに座って、軽く一杯やりながら、通り過ぎる人々をぼんやり眺めて過ごすのが、私のひとときのすごしかたである。

 
● 最先端の架橋工事
  通勤途中の国道十六号で今、立体化工事というのが進行中で、これがとても面白い。
 従来の道路の上に、並行して高架の道路を作っているのである。
 最先端の架橋技術なのだろうが、あらかじめ点々と橋脚を作っておく。
 次に、その各橋脚ごとに短い道路構造物を橋脚のてっぺんの付け根に取り付け、少しずつ継ぎ足しながら延長していくのだ。
 左右の橋脚から伸びてきた両端が結合されるまでは、下から足場で支えて高さを維持している。
 左右結合されたら、下の足場をとりはずして、橋がひとつできあがりとなる。
 これを各橋脚ごとにやっていくわけで、大変な工事である。
 毎日通るたんびに少しずつ伸びている。
 くねった形を遠くから見ると、巨大な未完のメカ恐竜のようである。
 橋脚も橋脚の間の道路構造物もすべて鋼板でできている。コンクリートは使っていない。次々にリベットでつないでいく。
 両端が伸びてきて結合寸前の時、おかしなことに気がついた。
 結合部に隙間がある。長さがちょっと足りない。
 両端を結合する補強の鋼板が困ったように片側の端部に仮止めされてたれさがっていた。
 設計ミス? 施工誤差?
 そんなことはありえない。
 両端を強引に引っ張って結合する? 
 それもありえない。
 ではどうするんだろう?
 それは今後のお楽しみである。
 しかし考えてみると、これはすごく大変な技術であることがわかる。
 100m以上離れた、地上から10数mある高さから、パーツをつないでいき、最後ぴったりねじ止め(リベット止め)するというのは、大変な精度である。測量の精度、パーツの精度はどのくらいあるのだろう?
 現代の土木工学の実際をただで見学できる架橋ショーはまだしばらく続く。

 
● 自転車通勤で困ること
  自転車通勤は楽しいのだが、困ることもある。
 それは雨である。
 朝から雨が降っているときは電車で行くので別に問題ない。問題は朝、雨が降っていなかったのに帰りに降り出してきた場合である。
 帰路、少し走ったあたりで、ぽつぽつ降り出してきたことがあった。なにがいやといって、自転車で雨に降られることほどいやなものはない。
 たちまち本降りになってきた。前傾姿勢で漕いでいるので雨水が下腹部に集中して流れてくる。そのうち腹が冷えてきて下痢の徴候がきざしてきた。
 「まずい」
 こうなると必死である。青くなってぐっと我慢しながら用を足せる場所を探す。ちょうど広々と畑が続く場所にさしかかっていた。畑の外れに雑木林が見える。
 「あそこだ」
 夢中で雑木林に突進し、自転車をほっぽりだして、林の中に駆け込んだ。
 
 また、汗も困ったもののひとつである。
 真夏、七、八月ごろ、職場に到着すると全身汗みどろとなる。
 シャツはびっしょり、パンツもびっしょり、おまけにぷんぷん汗臭い。
 走行中の汗はすべてサドルをめざして流れ落ちてくるので、股間部がびっしょりになってしまう。まずいのはズボンの尻にあたる部分に縦の染みができてしまうのである。 
 まるでおもらししてしまったように見える。こんな格好でとても授業なんてできない。
 色々対策を試行錯誤した結果、現行の方式にたどりついた。
 百均で汗取りパッドというのを売っている。女性が脇の下などの汗を吸い取るために下着の内側にこれを貼っておくのである。ビニール袋に八枚入り百十円で売られている。
 この汗取りパッドをパンツの内側股間部に貼っておく。
 そして職場についたらトイレの中で、パンツ、シャツを着替えるのである。こうすると、おもらしマークも付かず、さっぱりしてその日の授業に専念できるのであった。


● 楽しい自転車生活
  通勤以外にも自転車でどこへでも行く。
 現在までの私の踏破版図は、東は青山、表参道あたり、西は秦野、渋沢、平塚、茅ケ崎、大磯。南は江ノ島、横須賀、三崎漁港など。北がまだあまり未踏破で新百合ヶ丘あたりまでである。
 おもしろいもので、一度でも行った所は被征服地となり既知の場所となる。次回からは気楽にいくことができるようになってしまう。
 
 昔、電車にのって、ずいぶん遠くへ来たと思っていたような所へ、自転車で行ってみると、不思議な感覚におそわれる。
 先日鎌倉へいったときがそうだった。
 私は二俣川の自宅から、鎌倉にある学校に通っていた。中学、高校の六年間通った。
 相鉄二俣川から横浜駅にいき、国鉄(現在はJR)横須賀線で北鎌倉まで乗る。そこから徒歩で建長寺前の学校まで歩くのであった。
 北鎌倉から横浜までは途中、大船、戸塚、東戸塚、保土ヶ谷といった駅があり、さらに横浜からの相鉄は、平沼橋、西横浜、天王町、星川、和田町、上星川、西谷、鶴が峰、といった各駅を経て二俣川に到着するのである。
 北鎌倉から自宅までははるか遠い距離にあり、自転車で行けるなどということは、当時考えもしなかったことなのであった。
 その日、自転車で鎌倉へ行く途中立ち寄った北鎌倉の駅は、当時とあまり変わっていなかった。
 小さい駅舎、左手のトイレ、ホームへ上がって行く石段。
 なつかしい。しばし五十年以上前の学生時代に思いをはせた。
 あの、はるか遠いと思っていた自宅から、自転車でかんたんに来てしまった。
 「ほんとにここがあの時の北鎌倉駅なのだろうか?」と、あらためてあたりをながめまわした。
 便利な交通機関に惑わされ、それなしでは生きられないように思いこんでいるが、そんなことはないのだ。
 
 私は以前、小田原での会合の帰り、すっかり酔っぱらって電車に乗って、気がついたら小田急江ノ島線鵠沼海岸の駅で降りていた。もう終電で、駅のライトが消え、私は駅前に取り残された。
 私はてくてく歩きだした。
 酔っているから現実感があまりない。ガンダムを操っている操縦士のように内部から手足に命令をだし、歩かせているような感覚だった。
 深夜の国道を歩いて行く。
 メインの国道を歩いていればおおまかには帰る方向に向かう、原宿からいずみ野を目指しはてしなく歩きつづけた。
 二俣川モータースという看板を見つけたときは、うれしかった。地元の名前がでてきたのである。家にたどりついたのは明け方だった。
 私は江ノ島から二俣川まで歩いてしまったのだ。歩けばどこへでも行けるのだ。
 
 こんなにも乗りまわしている自転車は、タイヤ径二十インチという小型の自転車で、軽くとり扱いやすい。この車のハンドルを目いっぱい下げ、逆にサドルは足を延ばしきるくらい高く上げて使っている。
 ちなみに今乗っている自転車は二代目である。
 初代は飲酒運転で転んだとき壊してしまった。変速ギャー関係のパーツをこわしてしまったのである。
 二代目は初代と全く同じ機種、同じデザインで色違いである。この自転車ひとすじなのである。
 低価格にもかかわらず、小鹿のようにスリムな肢体で尽くしてくれるとてもいい子なのである。惚れているから目移りしないのである。
 
 ポタリングという言葉がある。英語のPOTTERからきた言葉のようで、ぶらぶら散歩するようなサイクリングのことである。
 私のサイクリングはちょうどこのことばがぴったりである。
 そんなにがんがん飛ばさない。自転車もがんがん用ではないから、まあ車などの通らない平坦なサイクリングロードなどを、のんびりとろとろ走るのがすきである。
 ポタリングは地図なしでさまようのも面白い。
 道路標識や地番標識から自分の位置、方向を確認するのは当然だが、それ以外に遠くの山、目立つ建物、鉄道、川など、あらゆる情報から頭の中に地図を描き推測するのである。
 この場合は、大まかに目的地に向かっていればよい。とんでもない逆方向に向かってさえいなければ、なんとかなるものなのだ。五感、第六感が冴えてくる感じが楽しい。
 以前、目的もなくぶらぶら走っていて、気がつくときれいな小川にそった田園風景のなかを走っていたことがあった。
 小花咲く道の小さな橋を渡り、緑の林を抜けて行った。
 このときの印象が忘れられず、ずっとあとになって、その場所をたずねて探しまわったことがあった。
 しかし二度とその場所は見つからなかった。不思議なものである。地図をみながらそのあたり色々探し回ったのだが結局見つからずじまいとなった。
 そこは私にとってあこがれのまぼろしの桃源郷となった。 
 このような場所はまだいくつもある。昔行ったけどもうどこかわからない場所。もう一度いってみたいなつかしい場所。
 風景も人と人とのめぐり合いのように、一期一会なのであった。

 
● 故郷めぐり
  私には、だれか女の子を好きになるとその子のふるさとを見てみたくなる癖がある。
 一歩間違うと今ではストーカーに近くなってしまうあぶない癖なのだが、その子の生まれ育った故郷、育った家、学校を見てみたい、そこの空気を吸ってみたい・・・・
 これは二十代の若いころから始まった私の性癖だった。
 彼女の故郷を知り、そこに行くと、そこは地図上の見知らぬ一地方ではなくなり、甘く切なくなつかしい土地になってしまうのだ。むこうからやってくる知らない娘に彼女の面影をさぐってしまう。
 会津若松、浦佐、左沢などは今でも胸の痛くなる甘酸っぱい、青春の思い出の土地となっている。
 新潟の浦佐に晩秋に行ったことがある。十一月の終わりの頃だった。私の二十代、サラリーマン時代の話である。
 同期で入社した女の子たちの一人が浦佐という所から来たのだった。こちらは大卒、彼女は高卒で入ってきた。髪の長い、色白の、小柄な娘だった。
 新卒が大勢入社してきて、社内誌のような薄い本が発行された。
 そのなかに新入社員の作文コーナーのようなものがあり、彼女は「私の故郷」というような作文を載せたのだった。
 冬場の雪のこと、最近出来た国道十七号線で便利になったこと、スキー場の話題などを書いていた。そのスキー場の近くに彼女の実家があるといっていた。
 そもそも浦佐などという地名は全く知らなかった。
 もちろんまだ新幹線など走っていなかったころの話である。
 そこが雪国で、豪雪地帯であるなどということも知らなかった。
 しかしどうしても彼女の故郷を見てみたかった。雪国へ行くことも、しかも冬の季節に行くことも初めての体験だった。女の子に魅かれて、それが動機で旅をするというのも初めてのことだった。
 会社が終わった土曜の午后、上野駅から上越線「急行佐渡」に乗り、越後湯沢で各駅停車に乗りかえて浦佐に行き、その日は駅前の旅館に泊まった。
 スキーシーズン直前の小雪がぱらつく誰もいないスキー場に登っていった。
 眼下に大きく魚野川が流れている。ずっと向こうに紫色にけぶった八海山が立ちはだかっている。スキーリフトが寒そうにぶら下がっていた。
 スキー場の麓のあたりに小さな村落が見えた。あのあたりに彼女の家があるのだろうか。
 ふりしきる雪の中をとぼとぼ浦佐から隣の五日町まで歩いた。
 十一月終わりの雪国浦佐はどんよりと灰色の空に覆われ、みぞれが降り続き、人通りもなく、かぎりなくさびしかった。
 浦佐行きがきっかけとなって、新潟県でも豪雪地帯として知られるこの近辺が好きになってしまった。以後この付近の町や村にちょくちょく遊びにくるようになった。
 冬場は電車で、夏場はバイクでやって来た。
 五日町、六日町、越後湯沢をはじめとして、十日町、飯山、七ヶ巻などである。
 真冬の飯山線は忘れられない。
 二月頃だったと思う。長野駅から越後川口駅まで全域乗ったことがあった。前日長野駅にやってきて駅前旅館に一泊し、早朝おにぎりを作ってもらって宿を出たのである。
 たしか車内にストーブがあったような気がする。
 地元のおばあさんたちがそのストーブで弁当を温めていた。電車( ジーゼルカーだったかもしれない )は千曲川沿いに走っていて、その川岸の雪景色がみごとだった。
 翌年の年末から正月にかけて、この沿線の途中の小さい駅に来て、近くの民宿に何日か泊まったこともあった。このときは油絵の道具をもってきて雪景色を描いた思い出がある。
 夏場は国道十七号線をバイクをとばしてやってきた。
 そのころホンダのCB500という大型バイクに乗っていて、あちこちツーリングして回っていたのだった。
 国境の長いトンネル、清水トンネルを抜けると越後湯沢に着く。
 上越線に沿って走り、浦佐で魚野川のほとりに行き昼飯を食べる。ここから六日町に戻り、山を越えて十日町に行った。夏の飯山線沿いをぐるっと回って帰って来た。
 山形の山奥、左沢 ( あてらざわ ) というところにも行ったことがある。髪の長い、すらりと細い、内気な女の子の故郷だった。彼女も同期入社の一人である。
 彼女の卒業した学校に行き住所を聞いた。このときはずうずうしくも彼女の家でおかあさんにラーメンをごちそうになって帰ってきた。
 左沢に行ったのはただこのとき一度だけである。しかし左沢というと髪の長い内気な彼女の顔を思い出すのであった。
 
 私が特別変わった趣味の持ち主なのかどうか自分ではわからない。
 しかし松尾芭蕉の足跡をたずねて伊賀上野を散策するなどという文学散歩趣味や、興味のある文学者の生家を訪れるというツアーなどがあるから、人の生まれ育った風土環境に興味関心を抱くのはごく自然ななりゆきだと思う。
 
 S子は三浦半島の中ほどの子である。
 S子の家は駅前からすこし離れた住宅地の一角にあった。
 S子は家を出ているから今ここにはいない。しかし、手前の角からひょっこり彼女があらわれるような気がしてどきどきする。
 私は彼女の家の前をゆっくり走りぬける。玄関の表札が目に入る。木の表札のかすれた文字・・・・
 なにか不思議な感動につつまれる。ここが彼女が暮らし、遊んだ場所なのだった。
 S子の卒業した高校にも行ってみた。
 ちょっと古びた校舎が並んでいる。グランドのはずれで生徒たちがテニスの練習をしていた。何年か前、彼女もここでテニスをしていたかもしれない。
 自転車で半日かけてはるばるやって来た見知らぬ土地の見知らぬ風景が、なにか甘くなつかしい故郷に生まれかわる。
 
 横浜郊外、長い坂を上りきった所に大きな公園がある。保土ヶ谷公園である。
 K子の家はこの公園の外れの高台から見ることができる。
 谷をはさんだ向こうの家並みの中のひとつだ。白い二階家の屋根とこちらに向いた窓が見える。
 彼女の家には一度行ったことがある。長い間学校が借りていた彼女の卒制の作品を返しに車で運んで行ったのだ。おばあさんが出てきた。大柄なおばあさんだった。
 あの窓のなかにいま彼女がいるかもしれない。窓を開けて外をながめるかもしれない。
 思わず、携帯で呼び出したい誘惑にかられてしまう。
 このとき、向こうの家並みはただの風景ではなくなる。忘れがたい甘美な一枚の写真として私の心の中の思い出のアルバムに張りつけられるのである。


 ● 彼岸花の里
  丹沢のふもと、伊勢原の北方、日向薬師という古刹のまわりは彼岸花の名所である。
 最近、秋になると自転車でここに行くようになった。
 家を出て厚木街道を走る。大和を過ぎ厚木飛行場を左手に見ながらさがみ野駅手前で左折し四十号線に入る。ここは広くて走りやすい。
 海老名市内を抜け広い相模川を渡ると本厚木に着く。きれいな市内を走り二四六号線を船子橋で右折し六○三号線に入ると、広々とした緑の田園風景になり気分もくつろぐ。
 ここまでくると自動車がぱったりと少なくなり、巾広い直線道路が快適である。
 玉川という小さな河の土手を走って行く。まわりに山が迫ってきて田舎にきたのを実感する。空気までがおいしい。
 奥の山すそに、廃校のようにみえるのは玉川公民館だ。
 左折し坂を上って行くとまもなく「日向薬師入口」という小さな案内板が見つかる。
 このあたりからは狭い農道でどんどん坂をのぼっていく。左手に谷川があらわれこの河ぞいにくねくね道は続く。
 この河は日向川で、ここから先、折れ曲がった農道の左右から山里の家々がつぎつぎにあらわれ、庭先の花々が私を迎えてくれる。これがたいへん美しい。
 ひょっとカーブを曲がると、満開の花をつけた木がとびだし、足元に咲き乱れる小花がきれいである。このような風景がつぎつぎあらわれて、まるで桃源郷に誘いこまれていくような気分になる。
 小さいコンクリートの斜めの橋を渡ると、あちこち川のまわりに彼岸花が見えて来る。ここからは彼岸花の里なのだ。進むにしたがって彼岸花はどんどん増えてくる。
 さらに進むと、あたり一面たんぼのまわりはぐるりと彼岸花にかこまれ、真っ赤っかになっている。みごとである。
 大勢見物客がきている。おじさん、おばさんが多い。おじさんたちは一眼レフに大きなレンズをつけ、三脚をかかえ、彼岸花の撮影に忙しい。
 自転車を道路わきにとめ、あぜ道に入っていく。やわらかい土の感触が心地よい。田んぼの起伏が楽しい。日向川にそってぐるりと一周した。
 道端にすわって昼食にする。こういうときはおにぎりがおいしい。しばらくここで休憩することにした。
 あぜ道にはずっとロープが張られ、見物客はそのロープに沿って歩いている。まわりはぐるりと山に囲まれ、山裾のあたりにもあちこち彼岸花が点在している。
 一時間ほど彼岸花の里で休憩した。
 時計をみると午後まだたっぷり時間がある。伊勢原に出て少し大回りになるが南下し、大磯まで行ってみることにした。あとは海岸ぞいに走って江ノ島までいけばいつもの道になる。
 帰りはゆるい下り坂が延々と続き、自転車には快適なひとときである。
 伊勢原に出た。左手遠方に伊勢原駅がみえる。ここから国道六十三号線に入る。しばらく走るともう平塚市に入ったようだった。
 広々とした風景である。丹沢の山並みを背景にして一面に畑が広がっている。
 坦々と続く平らな道を走り続け、新幹線をくぐり、しばらく行くと大磯ロングビーチの前に出た。大磯に来たのだ。
 ここからは海岸ぞいに海を見ながら走る。アップダウンがないから走りやすい。平塚、茅ケ崎、辻堂と走って行く。遠くに小さく見えていた江ノ島が随分大きくなってきた。もうあの長い橋もわかるようになった。
 江ノ島でジュースを飲んで一息つくと、いつもの道で帰途についた。

 
● 自転車がない!
  たまには悪夢のように驚いた出来事もある。
 秦野の弘法山に行ったときのことだった。
 国道二四六をひた走って鶴巻温泉まで行き、駅前の電話ボックスの脇に自転車を停めて、そこから歩いて弘法山に行った。ここは手軽に歩けるハイキングコースで最初ちょっと坂道がきついがあとは林の中のアップダウンで気楽に歩ける。以前M子と二人できた思い出の道でもある。
 山を一回りして鶴巻温泉の駅前に戻って驚いた。
 私の自転車がない! さっき停めた場所にはなにもない!
 盗まれたのか?
 目をこらして思い出してみる。たしか鍵はしたように思う。でも小さくて軽い自転車だからそのまま抱えてもっていってしまったら、それっきりだ。
 くそー、やられたか、めらめらと怒りがこみ上げてくる。
 山歩きに疲れてあとはのんびり自転車で帰るつもりがとんでもないことになった。しばし呆然として状況を考える。
 ひょっとしてどこか近くに誰かが移動したかもしれないと、はかない希望をいだいてうろうろ周りを探してみた。
 駅の反対側の外れに駐輪場があった。そこのおじさんに事情を話してみた。すると少し前、市の自転車回収車がやってきて不法駐輪車を集めていったという。それに持って行かれたのかもしれない。
 事情がつかめないというのは非常に不愉快なものだ。しかししかたがない。帰る足を無くした私はそこから電車に乗って帰った。
 二、三日あと、電車に乗って秦野市役所に行った。
 担当の課にいって話してみると、回収自転車は渋沢の回収施設に集められているという。係のひとがそこに電話してくれた。
 日時、場所に該当する自転車があるということがわかった。しかし今日は施設は開いていないので今週末金曜日に行くようにいわれた。
 金曜日、小雨降る冷たい日、また電車に乗って渋沢の施設に行った。
 そこに私の自転車があった。
 「まだ新しい自転車だねえ、見つかってよかったね」
 なんていわれて自転車を引き取った。そのとき、うん千円取られてしまった。
 自転車は返ってきたがあいにく小雨が降っている。しかたなく駅前の駐輪場に預けて電車で帰った。
 晴天の翌日、渋沢までまた電車で行き、そこから自転車で帰った。
 そんなわけで今のところ西方最遠踏破場所が渋沢なのである。
 渋沢までいけば新松田、小田原も近い。くそいまいましい渋沢記録を早く更新したい。

4 老模型工作少年


 
● 模型工作少年
  二俣川駅の踏切で、若いおかあさんが幼い坊やを抱っこして電車を見せている風景をよく見かける。
 たいてい男の子である。
 男の子は乗り物が大好きなのだ。目の前を音を立てて通過するこの巨大な物体を、吸い寄せられるようにながめている。
 私がこどものとき、家が線路際にあり、電車は毎日見ていた。
 小学生のころ、木の角材でレールを作り、貨車を走らせて遊んだ思い出がある。
 たくさん切った角材の枕木の上に同じく角材のレールをセメダインで接着し、そのレールで貨車を走らせるのである。
 家の前の線路は国鉄東海道線で、電車、列車、貨物列車が走っていて、入れ替え用の蒸気機関車も活躍していた。
 国鉄というのは現在のJRである。
 貨車は家の前によく止めてあったので形は知っていた。
 木造の黒い貨車の側面の下の方に小さな白い字で、ト、トム、トキ、トラ などと書いてあったのを今でも思い出す。
 これは貨車の種類をあらわし、トは一番小さい無蓋(屋根のない)車だった。私はこれをまねてつくったのである。
 
 模型屋で車輪二個と軸受け四個を買ってきて、木の板で作ったふたのない小さな長方形の箱の裏にその車輪を取り付けただけのものである。
 直線のレールの上をただ左右に行ったり来たりさせるだけでは、あまりおもしろくない。私はポイントに興味があった。ポイントのことを子供のころは「分かれ線」といっていたような記憶がある。
 レールの一部をちょっと動かすと、貨車が隣のレールに移動する。このメカがたまらなくおもしろかったのである。この「分かれ線」を作ってみたのである。
 自作のポイントを操作し、腹ばいになって顔を畳にすりつけて、ポイントをながめる。手で貨車を動かし、ポイントの上を通過させる。貨車はカーブしながら隣の線に移動していく。
 私は飽きずに貨車を移動させ、少年の日の至福の時間をすごした。

 
● 自作ミニヨットを楽しむ
  ひるがえって現在、もう80代の高齢老人となった今、私はラジコンヨットを楽しんでいる。
 ちなみにこの部分の文章は、学校を70歳で定年退職し、10年たった時点での話となる。
 ディズニーランドとどっちが好きといわれたら、近くの公園の池で、ヨットで遊ぶ方が楽しい。
 このヨット、ハル ( 船体 ) 全長23cmという超ミニサイズで自作である。
 私は数年前から大きな手術を3回したが、その退院の合間に作った。
 病気はステージ4の大腸がんで、大腸1回、肝臓2回切除した。
 人は命の危機にさらされると、人生を考える。
 自分が一番好きなこと、一番楽しいと思うことはなんだろうと考えた。
 それをやらなくちゃ生きてる意味がない。
 それがラジコンヨットだった。
 ラジコンは30代のころからはじめ、エンジンの飛行機、グライダーから入ったが、近くに飛ばせるような広場がなく、あまり飛ばす機会がなかった。
しかし近所の公園には手ごろな池がある。
 ここなら小さなヨットでいつでも遊べる。
 以後の人生、残余の余生はここで楽しむことにしたのだった。
 
 自宅から公園まで徒歩30分、自転車で15分ほどである。
 ヨットは、できたら自転車で運びたい。
 市販のヨットに手ごろなサイズがないので自作することにした。
 見回すとシャンプーの容器、ペットボトルなど船体候補がいろいろある。
 縦半分に切断すれば、魅力的なヨット形状になりそうだった。
 しかしいずれも、小さすぎたり、加工不可の材質だったりで、利用できなかった。
 結局、タミヤ模型が市販している、紙のように薄いプラ板から、切って作ることにした。
 
 いよいよ設計、製作である。
 私はデザイン専門学校でCADも教えていたので、設計製図は大好きだった。
 まず三面図を画く。
 横から、上から、そして前からの各図である。
 これはデザイン作業であり、素朴でかわいいイメージにした。かっこよく、スタイリッシュでシャープなイメージとは正反対である。
 加工素材が木や発泡材料のように中身がつまったソリッド品なら、あとは要所要所の断面図があれば設計完了となるが、平面の板材加工の場合は、各パーツごとの平らにのばした展開図が必要になる。
 この作業は多少頭を使うので楽しく、昔ならった図学が役に立った。
 また内蔵部品の配置や、バッテリー交換のしやすさ、帆や舵を動かすシンプルな構造等、あれやこれや楽しいひとときだった。
 次は製作で、いろいろと工法を考えた。
 マストの取り付け部など、手順が間違うと手が入らない箇所など、それなりに考える。
 帆は、駅ビル内のパン屋のビニール袋から作った。
 このヨットは、背中のバックに入る大きさの段ボール箱に、帆を外して収納できる。
 あとは池で楽しむだけ。
 
 ふつうラジコンというと、ラジコンカー、モーターボートが一般的である。子供などはラジコンカーが大好きである。この大池公園でも時々子供が遊んでいる。
 これらは右でも左でも自分の思い通りにコントロールできる。好きなスピードで走らせられる。
 ところがヨットの動力は風である。強い風もあれば弱い風もあり、どちらから吹いてくるかわからない、自然相手なのである。
 春は色々な風が吹く。
春一番の日は土埃の強風でまともに目も開けていられない。
 ぽかぽかとおだやかに、水面が鏡のように平らでまったく風のない日もある。
 私の好きな日は、たんたんと東風が吹く日である。
 毎春かならず何回かこういう日がある。風というより大気全体がゆっくり移動しているという感覚である。一定の速度で流れていく定常流という感じで、こういう日のヨットは楽しい。
 風上に向かってセールをいっぱいに引き絞り、失速寸前のぎりぎりの角度でジグザグに切り上がって行く。
 はるか向こうまでいったら反転し、こんどはセールを真横にして背中に風を受け、真っすぐこちらに戻ってくる。
 または自分の足元にヨットをもってきて、子犬がくるくる回って遊ぶように、小回りで円をえがいて回らせる。ヨットがペットになったようでおもしろい。
 こんなことをして半日過ごすことができるのである。
 ヨットを浮かべて遊んでいると、ギャラリーができることがある。
 たいてい、操縦している私のうしろに立っていっしょにヨットをながめている。そのうちはなしかけてくる。
 「これはモーターで動いているんですか?」
 「いや、風の力で動いているんですよ」
 「ほう、よく動きますね」
 「あんなに斜めになってよく倒れないですね?」
 「下におもりがついているから大丈夫なんです」
 「池のまんなかで風がなくなったらどうするんですか?」
 「まるっきり風が無くなることはないから、なんとかなるんですよ」
とまあ、こんなような会話が交わされる。
 定番の問答である。
 くちぼそ釣り常連のおやじと仲良くなり、ワンカップを飲みながら午后のひとときを過ごす、充足の毎日であった。

● 模型もいいけど実物も感動
  船や飛行機、鉄道の模型が好きということは、もちろん本物も好きだからである。
 私はかって「クイーン・エリザベス号」に乗ったことがある。
 カリブ海の島々をめぐる優雅な一カ月の豪華クルーズ。紺碧の海、グルメなディナーを満喫した・・・
 
 豪華クルーズはうそである。真っ赤なウソである。グルメなディナーなど食べたこともない。そんなひまも金もあるわけがない。
 ただし乗船したのは事実である。QE2 ( クイーンエリザベス2世号 ) が横浜港を訪れるというニュースを聞くたび、遠いあの日を思い出す。
 下の息子が小さかったころ、横浜港に「クイーン・エリザベス号」がやってきたというニュースを知って、子供を連れて見に行った。
 横浜港の大桟橋に「クイーン・エリザベス号」は停泊していた。降りてくる船客、見物の人たちで桟橋はごったがえしていた。
 桟橋に接岸している「クイーン・エリザベス号」は絶壁を見上げるように巨大で圧倒された。絶壁は、はるか向こう桟橋の外れまで続いていた。
 その絶壁の途中にいくつかドアが開いていて、飛行機のタラップのようなものがくっつき、大勢の船客が出入りしていた。私と息子は桟橋の二階に上って、そこからこの巨大なビルのような客船をながめていた。
 するとタラップの向こうから誰かがこちらに手をふっている、金髪の若い女性だ。
 私が気がついたのをみると、おいでおいでというような合図をした。
 私は階段を降りてタラップの方へ歩いていった。外人の女性の隣に同じく外人の男性がいて、二人はにこにこ笑いながら片言の日本語で話しかけてきた。
 二人は夫婦で、この「クイーン・エリザベス号」の船内新聞の記者だった。二人が招待すれば船内見物できるからいらっしゃい、と誘われた。
 なにがなんだかわからないまま私と息子は、二人に連れられて船内に入って行った。息子はこのときポテトチップを食べていて、片手に袋をかかえながら歩いていた。
 豪華な大広間、クラシックな家具調度の大食堂、調理場では息子はリンゴをもらった。二人は船の隅々まで案内してくれた。後部甲板のプール、デッキチェアーの並ぶ長い甲板、店内の店、床屋、操縦室ごしに見える前甲板。
階段を上り下りしてぐるぐる歩いた。外人の女性は楽しそうに笑いながら説明してくれた。
 いまになって思うのであるが、「クイーン・エリザベス号」には功なり名遂げた老人は大勢いたが、幼い子供はいなかったのだろうと思う。たまたま幼い子供を連れた親子を見つけ、私たちを招いてくれたのだと思う。
 ぐるっと案内してもらい心から感謝して船を降りた。
 その後、「クイーン・エリザベス号」がまた横浜に来た時、あのときのお礼をいおうと思っているが、いまだにその機会はない。
 
 先日、自転車で横須賀にいき、三笠公園にある「戦艦三笠」を見てきた。
 最近DVDで、「日本海大海戦」という映画を見て、本物の「三笠」が見たくなったのである。
 以前司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいたので、日本海海戦のことは知っていたが、映画で見て改めて感動したのだった。
 北海からはるばる大遠征して日本海にやってきたロジェストベンスキー率いるバルチック艦隊を、東郷元帥指揮の連合艦隊がT字戦法で迎え撃つ。
 その時の、東郷提督座乗の旗艦が「戦艦三笠」であった。連合艦隊が大勝利に終わった歴史的大海戦だった。
 その本物の「三笠」を見にいったのである。
 「三笠」は公園の横に固定されていた。排水量一万数千トンというわりには、以外と小さく見える。
 「戦艦大和」のような後の近代的巨艦とちがって、作りがシンプルで小ぶりだった。
 前部指揮所はちっぽけな四角いマッチ箱のようなもので、艦橋といったほどのものでもない。しかしこのちっぽけな指揮所から東郷元帥が指揮して、バルチック艦隊を撃破したのだった。
 映画では東郷司令長官は、防御壁に囲まれた見晴らしの悪い指揮所に入らず、その前のふきさらしの艦橋で指揮をとったようである。もし一発でも大砲の弾が飛んできたら、もうそれですべて終わりだった。
 見ていると、なにか胸があつくなってくる。
 帰りに横須賀港で潜水艦を見た。潜水艦を見るのは初めてだった。数隻停泊していて真っ黒で鯨のようだった。
 近くにはイージス艦も停泊していた。前部にちょこんと小さい砲塔がついている。現代はミサイル戦の時代、もう大きな大砲は必要ないのであった。
 
 自宅から自転車で三十分ほどで「厚木基地」がある。
 米軍航空隊の飛行場がある基地である。
 相鉄線大和駅からすこし先の、厚木街道沿いが基地のはずれで、ずっと金網が続いている。手前のちょっと小高くなった所から基地の中がよく見渡せる。
 家にいて、ジェット機の音がしきりにうるさい日、自転車を飛ばしてそこに行くことがある。横須賀港に米軍の空母が入港し、その艦載機が厚木に飛んできたのである。
 音がうるさいのは艦載機が陸上でタッチアンドゴーの離着陸訓練をしているからである。
 小高い芝生の上で待っていると、背後からこちらに向かって戦闘機が低速で降下してくる。
 「きたっ!」
 単純な元模型工作少年の心は子供のようにはずむ。
 飛んでいる飛行機を見るのは、そしてそれをまじかで見るのは、いくつになってもわくわくする。
 機体から脚をおろし、両翼に点灯しているライトがギラリと光る。
 左右の翼が微妙に揺れている。パイロットが機体の姿勢を細かくコントロールしているのだ。
 声をかけたらとどきそうな頭上を、ゆっくりどっしりと、轟音とともに通過していく。あたり一帯がびりびりと震動する。このとき耳をふさいでいないとたいへんなことになる。
 現役バリバリの戦闘攻撃機F/A18スーパーホーネットだ。
 私はこのときめずらしい発見をした。
 滑走路に向かってゆっくりと降下していくホーネットの水平尾翼が、ぴらぴら、ぴらぴら、ひっきりなしに上下に動いているのだ。距離が近いのでこんな動きが肉眼でよく見えるのだ。
 戦闘機の水平尾翼は翼全体が可動となっている。
 おもしろかったのは、機体はそのぴらぴらの動きなど知らないようにどっしりと構えて、安定して降下しているのであった。
 私は気がついた。
 ラジコンヨットも同じなのである。
 優雅に斜めに傾いたまま、すーっと水面を真っすぐ進んでいくとき、見ている人は、操縦者はなにもしていないように思う。
 しかしそうではないのである。その時セールもラダーも細かくたえず動かしている。動かしていないとヨットはカーブしたり、姿勢がふらふら崩れてしまうのである。
 たえず細かく動かしているから、ヨットはぴたりと一定の姿勢を保っているのであった。
 ヘリコプターのパイロットも同じようなことをいっていた。
  空中の一点に静止してホバリングしているとき、パイロットは熟練の技術の細かいコントロールにより、一定の姿勢を保持しているのである。
 ホーネットのパイロットも今、着艦定位置にぴたりと停止する訓練のため、全神経を張りつめて機体の姿勢を保っているのだ。
 しばらくして地面にタッチした先ほどのホーネットが、黒煙と轟音を轟かせてふたたび離陸していった。
 
 以前、この厚木基地で見た、戦闘機F15イーグルの超低速飛行も忘れられない。
 厚木基地では春に航空ショーがあり、その日は基地が解放され、一般人が基地の中に入ることができた。
 当日は早朝から沢山の見物客がおしよせ、大変な人ごみとなる。
 基地の米国の兵隊やその家族たちが模擬店をだし、コーラ、ビールなどの飲み物や焼きそば、ホットドック、チョコレートなどを売っていて、片言の言葉でコミニュケーシヨンするのが楽しい。
 広い滑走路には、さまざまな戦闘機、輸送機、などが展示してあり、本物をまじかに見られるので、私などにはたまらない一日となる。
 戦闘機などは近くで見ると、機体に色々細かい文字が描いてあるのが興味を引く。
 空気取り入れ口のあたりにはDAINGER (危険) 、「近寄るな」、翼の上には「この上を歩くな」など文字や記号があちこち描かれているのである。
 C5Aギャラクシーだったか、巨大輸送機の巨大さも圧巻であった。
 からっぽの広大なトンネルのような内部、ムカデの足のように胴体下から出ているたくさんのタイヤ、大きな翼の下はかっこうの日陰となっていた。
 このときのメインの出しものがF15イーグルの超低速、超低空飛行だった。
 満員の見物客が見守るなか、まずヘリが数機飛び立って要所につく。これは万一の事故などのさいに備えての配置のようだった。
 しばらくして滑走路左手からイーグルがあらわれた。一機である。
 高度二、三十メートルぐらいか、低空をおどろくほどゆっくりとやってくる。
 まるでスローモーション映画のように、のろのろと、空中をただよってくる。
 会場にアナウンスがはいる、
 「○○中佐操縦のイーグルです。これは非常に難易度の高い演技です。失速ぎりぎりの姿勢で、一瞬の油断もできない危険な飛行なのです」
 イーグルは私たちの正面を通過した。
 機体がぐっと四十五度上を向いた姿が異様である。上を向いたままそろそろ前に進んでいく。
 子供の頃庭掃除のあと、ほうきを逆さまにして手のひらの上に乗せ、倒れないようバランスをとってどれだけ長く続くかして遊んだことがあった。
 今、目の前にしているのは、まさにあれである。ぐらっと倒れたらもうそれっきりである。
 これは戦闘機イーグルを使ったサーカスの曲芸である。至芸である。
 こんな姿勢ではパイロットは前を見ても空しか見えない。左右下方を見て自分の位置を確認するしかない。
 息のつまるようなひとときを残して滑走路のはじまで行ったイーグルは、突然轟音を発し、エンジン全開にすると、垂直にぐんぐん上昇して、あっという間に雲の中に消えていった。
 飛行機は低速で飛ぶときほど、翼を大きく傾けて風をぶっつけないと、浮いていることができない。あの超音速旅客機コンコルドも離着陸のとき大きく機首を持ち上げたので、パイロットのいる機首先端部が折れ曲がって、前が見えるような構造になっていた。
 また昔、F8Uクルーセーダーという戦闘機は、翼をダンプカーの荷台のように持ち上げるなんていうメカで有名だった。
 イーグルの飛行は、飛行機大好き単純老年オヤジにとって、忘れられない思い出である。
 
 さきのホーネットもイーグルもそうであるが、本来地上にあるべき大きな物体が、空中に浮かんでいるというのは驚きであり驚異である。しかもそれをまじかに見るというのは誰でも感動する。
 マグリットという画家がいる。
 この人はシュールレアリスムの画家で、鳥の形に切り取られた青空の絵や、山高帽の紳士たちが、熱気球のように町の空に浮かんでいる絵など、不思議な、神秘的な絵を沢山残している。
 この人の作品に、空中に岩石が浮かんでいる絵がある。名前がちょっと思い出せないが「空」か「岩」という名前だったかもしれない。
 見上げる青空の真ん中に巨大な卵型の岩石が浮かんでいる。
 絵はリアルに存在感をもって描かれているので実在の出来事のように思われる。
 静寂な空間である。宇宙の神秘を象徴しているようにも思える。
 「星の王子さま」にも小さいかわいい星の上に王子さまが立っている絵があるが、素朴なイラストなので物理的な不思議さは別に感じないが、このマグリットの絵になるとそうはいかない。
 不思議である。神秘である。この世ならぬ別世界の出来事のようでもある。
 「どうして浮かんでいるんだろう?」「なぜ落ちてこないんだろう?」
と素直で、日常的で、常識的な老年オヤジの硬直した頭を悩ますのである。
 
 天気のいい日、川崎の浮島という所に自転車でいくことがある。
 ここは川崎の東北端で、すぐ対岸は羽田空港である。空港に着陸するジャンボジェット機がここの手前の低空をかすめて降下していくのである。
 あの巨体をすぐまじかでながめられるのは素晴らしい感動である。ここではまさに巨大な物体が空中に浮かんでいる、巨大な物体が空中を移動している・・・
 車輪を出し、三段フラップをいっぱいに下し、悠然とカーブしながら滑走路に進入していく。また別の滑走路からは同じくジャンボが巨体をぐいと持ち上げて離陸していく。
 飛行機狂オヤジにとってはたまらない愉悦のひとときで、ひまさえあれば一日中でも馬鹿のように放心状態でながめていたいと思うのである。
 よく、あんな重い鉄の塊が空を飛ぶなんて考えられない、という人がいる。
 これは間違いである。大体機体のほとんどは鉄ではない。軽量なアルミや複合材でできている。安全限度内で極力薄く、すかすかに作られているのである。
 エンジン関係だけは鉄(鋼)やチタンで出来ている。高温高荷重なのでプラスチックなどは使えないのである。
 
 家の近くの公園のベンチで本を読んだり音楽を聞いているとき、ふと空を見上げると、はるか上空青空の中を銀色のジェット機が飛んでいく。
 しばらく見ていると、次の飛行機がまったく同じコースにあらわれる。
 時間帯によっては一定間隔で同一コースに次々あらわれては消えていく。まるで見えないレールの上を走って行く空の鉄道のようである。
 もう水平飛行に入っているから、高度一万メートルほどの高さである。
 一万メートルなんていうと感覚的にわからないが、十キロメートルというとわかりやすい。地上の距離にするともっとわかりやすい。
 私の家から横浜港までほぼ十キロくらい離れている。近所の高台に登ると港の近くのランドマークタワーが見える。ランドマークタワーぐらい離れた所をあのジェット機は飛んでいるのだった。


5 江の島漫遊 トンビとリスと猫の島


 
● 境川を下って江の島へ
  女の子二人と江の島へ行った。
 二人は私の教え子で、デザイン専門学校二年生。
 卒業制作展も終わって、もう授業もない二月下旬の暖かい日。三月中旬の卒業式までの、空白の猶予期間。
 先週土曜日の午後、Kさんにメールで誘った。江ノ島に行ってシラス丼を食べよう、といった内容である。
 一時間ほどで返事がきて、来週月、水以外なら空いてるとのこと。Kさんを校外に誘うのは初めてだったので、友達と二人で来たら、といった。
 日曜日の昼前メールが来て、友達のNさんはいつでもOKとのこと、そこで私は、火曜日の十一時に、小田急片瀬江の島駅の改札で待ち合わせることにしてメールを返した。
 KさんとNさんは、仲良し二人組である。
 いつも一緒にいて、小さな声で話している。二人共とても寡黙でひっそりと静かである。
 こちらから話しかけなければ、向こうから話しかけてくることはなかったし、他の男女学生と話しているのも、ほとんど見たことがない。
 おとなしくて万事控え目な性格が好ましかった。
 二人が絵本好きなのを知って、自分の絵本を含めて、集めていた絵本から二、三冊ずつ学校に持ってきて、彼女達に見せたことがある。まあ、気になる子に接近するための餌付けのようなものである(失礼!)。
 その上、今回の卒業制作ではKさんの担当になり、指導や手助けの機会がたびたびあったので、かなり親しくなっていた。
 
 当日火曜日、朝八時ごろ家を出た。もちろん自転車で行くのである。
 江ノ島はこれまで自転車でしょっちゅう行っている。ルートはもう決まっていて、目をつぶったままでも行けるほどだ (これは冗談) 。 ほぼ二時間で行けるので、三時間みておけば余裕で着けると思ってこの時間にした。
 二俣川駅前を通り、相鉄線の下をくぐって善部、阿久和を通過し日向山中央を過ぎると、前方丘の上に県立大和南高校が見えてくる。
 その手前を右手から左に境川が流れている。
 ここからは、この境川土手のサイクリングコース右岸を走って行く。
 境川は東京町田市あたりから始まって江ノ島が河口となる川で、私の最も好きな川である。サイクリングコースは、途中ちょっと途切れることはあっても、ほぼ全域つながっている楽しい道路である。
 以前、この境川の土手を別の女の子と歩いたことがある。
 一人はもう五、六年前になるが、湘南台でいっしょにラーメンを食べたMさん。そのあと近くの公園で写真撮影し、大通りのゆるい坂を下ってこの土手にきた。 
 広々とひらけた景色のなかを歩いた。 
 彼女のふるさとにもこのような景色の所があるそうだった。土手を下りて川面の近くに行ってみた。
 やはり今回と同様卒業制作展のあとの二月十七日、春一番が吹きまくる土煙の激しい日だった。近くの地下鉄上飯田駅まで送って別れた。
 しかし、それきりコミニュケーション不能になってしまった。
 電話しても、二度と反応が無くなったのである。
 卒業式の日も目をそらし、謝恩会でも私を無視し続けた。
 きらわれてしまったのだった。
 これは、私の悲しい思い出である。
 二人で並んですわった土手の石段の前を通過するたび、彼女を思い出す。
思うに彼女とは、それまであまり親しくなっていなかったのが一因だと、いまにして思う。多少卒業制作で手伝っただけで、あまり口も聞いていなかったのだ。
 それがいきなり二人だけで、湘南台でラーメンを食べようと誘ったのだから、彼女としては、清水の舞台から飛び降りるような決心をして現れたのかもしれない。
 待ち合わせの湘南台の改札口から、肩ゆするようにして小走りで走り寄ってくる、彼女の美しい姿が今でも心に残っている。
 サン・テグジュペリの「星の王子さま」に、
 
 「あんたが友だちがほしいなら、おれと仲よくするんだな」
 「でも、どうしたらいいの?」と、王子さまがいいました。
 キツネが答えました。
 「しんぼうが大事だよ。最初は、おれからすこしはなれて、こんなふうに、草の中にすわるんだ。おれは、あんたをちょいちょい横目で見る。あんたは、なんにもいわない。それも、ことばっていうやつが、勘ちがいのもとだからだよ。一日一日とたってゆくうちにゃ、あんたは、だんだんと近いところへきて、すわれるようになるんだ・・・・」
 
というのがある。
 これは人と親しくなる際の基本である。
 何事もそうだが、あせって急いではいけない。特に女性は保守的で慎重で警戒心が強いから、ゆっくりと少しずつ接近しないと蓋をとざしてしまうのだ。
 もう一人は、三、四年前の卒業生S子。
 彼女とは一緒に食事、お茶、横浜見物等、たっぷりデートした。
 長後の駅で待ちあわせ、歩いて境川に行き、湘南台までとろとろ土手を歩いた。土手に咲くコスモスを見に行ったのである。
 私は缶ビールなど飲み、彼女はジュースやお菓子を食べながら、のんびり歩いた。
 湘南台でラーメンを食べ、近くの公園で酒を飲んだ。女性建築家が設計した銀色の巨大な地球儀のような建築のあるすてきな公園で、帰りはもう暗くなっていた。
 これは楽しかった思い出である。
 境川サイクリングコースをずっと下っていくと、次々、高校が現れる。
 このあたりの高校からは、たいてい誰か学生が来ているので、建物を見るといささかの感慨がある。
 私は、町田にある学校まで、自宅の二俣川から境川を経由して、自転車で通勤しているので、そのあたりから、川沿いに見える高校を並べてみると、まず上鶴間高校。
 これは町田に近い川沿いのすぐ手前に見える学校で、体育系の練習の掛け声がよく聞ける。
 次に現れるのは大和東高校。
 この学校から来た二年生の女の子が三人いる。まわりは開けた畑で、手前がのんびりした境川、静かないい環境に囲まれた学校である。
 大和を過ぎて現れるのは大和南高校。
 これは先ほどの説明のように、境川対岸の丘の上に見える。
 このあたりから先、川のまわりは広々と開け見晴らしがよく、いろいろな畑が広がり気持ちがいい。
 しばらく行くと右手高台にレンガ色の校舎が見えてくる。高倉中学である。
 この建物の前をちようど通過するとき、境川の河原に降りるコンクリートの階段があらわれる。この階段を降りた一番下であのMさんと並んですわった。
 買ってきたケーキを食べた。なにかちょっとしたアクセサリーをプレゼントした。そしてそのあと嫌われた。
 ここを通過するとき、二人並んですわった場所をちらっとながめる。雑草がゆらゆらゆれている。「悲しみのポイント」と名付けている。
 湘南台を過ぎて、右手の高い位置に現れるのは藤沢工科高校。
 さらに下流に進むと、前方まじかに藤沢市民病院が見えてくる。ここで左手の大清水高校を通過する。
 もうここまで来ると、藤沢は近い。
 間もなくサイクリングロードは藤沢市内に入り、私はここ藤沢橋から一般道に入る。
 一般道四六七号を走って行くと、再び境川をまたぐ橋にいたる。ここからまた境川土手左岸を走って、江の島に向かう。もう江ノ島が遠く見え隠れする。
 川岸にはたくさんの白いレジャーボートが数珠つなぎで停泊していて、海近しの景色にわくわく感も一気に高まる。
 十時前に、私は江ノ島に着いてしまった。
 女の子に会うというので、飛ばして来てしまったのだろうか。
 とりあえず海岸に行って休憩することにした。平日なのでヨットは全く出ていない。風もなく、さざ波がピチャピチャおとなしく揺れている。
 自転車を近くの駐輪場に入れて、予定時間の二十分前頃駅前に行った。

● 防波堤でひと休み
  私は一人で賭けをしてみた。
 二人一緒で現れるか、別々にやってくるか、十一時前に現れるか、十一時過ぎに来るか、という賭けである。
 私は二人一緒で少し遅れて来るとしてみた。
 平日の昼前なので電車の本数が少ない。閑散としたホームを時々のぞきながら、電車の到着を待つ。
 やがて電車がやってきた。
 ドアが開き人々が出て来る。間もなく彼女達が現れた。到着した電車からぞろぞろ客が降りて来る中に混じって、改札から現れたのである。
 女の子との出会いの瞬間は、何度待ち合わせしてもうれしい瞬間で、心がときめく。
 六十七歳のじいさんになっても、恥ずかしながらうれしいのだった。この一瞬の喜びのために、毎回、女の子を誘っているのかもしれない。
 にこにこ笑いながら、二人はこちらにやってくる。
 私の賭けは五十%だった。
 二人ともジーパンで、その上にひらひらした短いスカートのようなものを着け、セーターの上にコートを羽織っていた。足元は二人ともスニーカーをはいていた。
 「どうもどうも・・・・」おどけて私は挨拶し、耳につけていたイヤホーンを外した。
 「ハワイアンもなかなかいいよ、聴かない?」
 二人はまた笑いだし、これでみんなリラックスモードになった。
 以前Kさんに、
 「ロシア民謡って知っている? なかなかいいよ」といってちょっと聴かせたことがあったのである。好みの押しつけをしたのだった。
 駅前のコンビニでお菓子とカップの焼酎を買うと、三人で歩き出した。
 二人ともここから家は近い。
 Kさんは辻堂、Nさんは茅ケ崎である。ここまで三十分もかからないだろう。
 「江ノ島は久しぶり?」と聞いて驚いた。Kさんは初めてだというのだ。あまり近くにいると、かえって来ないものなのだ。
 Nさんは結構時々来ているようだった。茅ケ崎から自転車で来ればよかったと言っていた。そう、海岸沿いに走ってくれば、坂はないし簡単に来ることができる。
 江ノ島への長い橋を歩きながら、さっき買った一口チョコをその都度渡す。
 その都度渡すと、その都度手に触れられる。
 これは以前S子とここに来た時試みた手法である。老年おやじは研究熱心なのである。
 「こうすると毎回手にさわれるんだ」というと、二人共笑った。
 笑いながら二人は、その都度チョコを受け取った。
 橋を渡り終え、江ノ島に着いた。
 両側をお土産店などに囲まれた参道を、まっすぐ登って行くと島の中に入って行く。一方、左手のヨットハーバーの方へ行くと、突き当たりの高い防波堤に達する。途中にシラス丼の店が何件か並んでいる。
 時間も昼近いので、私は左に曲がった。
 いつも順番待ちで、外に並んだ人が必ずいる有名シラス丼の店の前にさしかかったが、誰も待っていない。
 私は二人に店に入るか尋ねた。でも二人ともまだあまりおなかが減っていないようだった。
 じゃあ、あの向こうの防波堤まで散歩して、それから食事にしよう、ということで歩き出した。
 今日は気温が上がり暖かい。とてもよい天気である。
 石の階段を上った防波堤は、高く幅広く見晴らしがよかった。気持ちがいい。
 遥か前方防波堤のはずれに白い灯台が見える。所々に木製のベンチ、散歩している恋人たち、釣りをしている人、巨大なテトラポットに打ち寄せる波音、遠く水平線がかすんでいる。
 私たちは大きく深呼吸した。ここはのどかな別天地だった。
 暖かな日差しの中、三人でのんびり歩いて行く。
数人のおばさんたちのグループとすれ違う。若い娘と白髪のじいさんの組み合わせに、不思議そうな顔でこちらを見ていく。
 行き止まりの、白い灯台の所で釣りをしている人達を眺める。
 シュッと音を立てて投げ釣りをしている。そこから戻りながらベンチで休憩した。
 さっき買ったカッパ海老煎の袋を二人に渡し、私は焼酎のカップを開ける。
 女の子二人は、食べだすとやめられないね、なんていいながらカッパ海老煎をぽりぽり食べている。
 「お酒なんて飲む?」
と、焼酎を飲みながら聞くと、
 「いいえ」と二人共首を振った。
 「じゃ、ビールは?」
と聞くと、二人共また首を横に振った。
 ビールは苦いから飲まないとKさんがいった。
 私はいつごろから酒を飲むようになったのだろう? 就職してからだったろうか?
 中学生の頃、父親のサントリー角をこっそり飲んでびっくりしたことがあったのを思い出した。のどが焼けるかと思った。大人はよくこんなものを飲むものだと思った。
 上空高く飛んでいたトンビがこちらを発見して、近寄ってきた、危ない! 
トンビは近ずくととても大きい。低空をかすめて飛んでくると恐ろしい。
 頭をクニクニ動かして、こちらをにらみながら素早く飛び去る。すきあらばごちそうをかすめ取ろうという感じだ。
 私は以前、海岸で弁当を食べていて、背後からトンビに弁当を突っつかれ、ひっくり返されたことがある。バシッと激しい衝撃だった。
 三人は、お菓子の袋を隠しながら食べた。

 
● シラス丼の店
  防波堤から戻り、さきほどのシラス丼の店の前に来ると、こんどは大勢待ち人がいた。
 「さっきは誰もいなかったのに・・・・」
 もうお昼なのだ。みな外の椅子にすわって、順番を待っている。私たちも名前を記入して順番待ちすることにした。
 待っている間、好きな食べ物、嫌いな食べ物を二人に聞いてみた。
 Kさんはチーズ系が好き、ナスが嫌い、白菜が嫌い、ウニとカキとレバーが嫌い、人参が嫌い、ピーマンは大丈夫、うなぎは好き・・・・だった。
 「じゃ、チーズをかじるの?」とバカな質問をすると、もちろんそんなことはなくて、「ピザなどチーズ料理が好き」なのだった。
 Nさんは天丼のような油っこいものがだめ、豆腐がだめ、という。二人とも寿司は好きだといった。
 私はKさんに、人生で最もおいしいものを食べてないよ、と言ったが、そのうち食べられるようになるかな。
 予算の関係上千円前後の料理で、釜あげシラス丼三人分を注文した。この店の最もスタンダードな定番料理のように思ったからである。
 やがて順番が来て、二階のお座敷に案内された。
 靴を脱いで階段をあがり畳の上に三人で座る。
 十二畳ほどの部屋に座卓が何個か置かれ、おじさんおばさん達が賑やかに食べている。
 まさか江ノ島にきて、こんな座敷に座るとは思っていなかったので、しばしぼんやりとあたりを見回した。
 やがて、釜あげシラス丼が運ばれてきた。
 扁平でかなり大きいどんぶりと、わかめ汁が付いてきた。あと卵が来るのだけど、色々ある中から温泉卵にした。
 どんぶりの蓋を取って食べ始める。
 女の子二人はどんぶりの蓋を取ると、デジタルカメラを取り出した。カラフルで小型のかわいいカメラである。わかめ汁のお椀を寄せ、料理の写真を撮り始めたのだ。パチパチ、いろんな角度から写している。
 ひととおり撮り終えると、二人は食べ始めた。
 大きなどんぶりの中は、縦に左右に分けられ、右側はご飯で、上一面シラスが乗っている。
 左側にはレタスなどの青野菜、細かく切った人参など、生野菜がたっぷり盛ってある。
 卵と醤油をかけて食べたが、ご飯もシラスもあまり暖かくない。おまけに調理もしてない生野菜が、どさっとあるので食べにくい。
 暖かいご飯と熱々のシラスに、鰹節と大根おろしでもかかっていれば、もうそれだけでよだれがでそうになるのだが、そうではなかった。
 とりあえず勢いで、私は食べてしまったが、はっきりいってまずかった。
 Kさんはあまり減っていない。
 心優しいNさんは、私に気まずい思いをさせまいとしてか、無理して食べたようだった。
 結局、Kさんはほとんど残してしまった。
 どうしてこんなまずい店に、あんなに大勢客がくるのだろう? 理解できなかった。
 私は、自分で勝手に料理を決めていたことを後悔した。
 もしまた機会があれば、今度はイタリアンにしようね、心のなかで謝った。

 
● 江の島は猫の島
  店を出ると、まだ時間はたっぷりあるので、参道を登ることにした。
 まずい料理で、落ち込んでしまった三人だったが、よい天気とまわりのにぎわいで、気分が晴れてきた。
 石段を昇って行くと、猫が一匹あらわれた。のんびり日向ぼっこしていた。
 「かわいいーっ!」
 KさんとNさんは猫に近づき、座り込んで猫をなでたりさすったりした。  猫はごろんと横になると、気持ち良さそうに目をつぶったまま手足を伸ばした。二人はカメラを取り出して、猫を写している。
 猫と遊んでいる二人を見ていると、私の気持ちものびのび優しく緩んでいくようだった。
 「見返り猫」という言葉をその時知った。猫が後ろを振り向いた時の写真なのである。
 このあとも何度か色々な猫に出会った。彼女達はその都度猫をなで、写真を撮った。江ノ島には猫が沢山いるのであった。
 「ふーん、猫が好きなんだねー、家でも飼っているの?」
と聞くと、Kさんはうなずいた。
 「こーちゃん、っていうんです」
 猫の名前だった。
 「それじゃ私の息子と同じだ」
 私の長男は小さい頃、こーちゃん、と呼ばれていた。女の子二人は笑いだした。
 石段を登りきり、平らな境内で猫と遊んでいたとき、不思議な鳴き声が聞こえた。鳥の声とも違うようだ。
 「リス!二匹いる!」Kさんが近くの梢を指さした。
 木の枝の先の方に、リスがいた。
 ネズミよりは大きく、ウサギよりは小さい。茶色の毛に包まれ、こちらを向いている。真剣そうな黒い目が可愛いい。
 盛んになにか鳴いている。しばらくすると、バサッと隣の木に飛び移り、一瞬で消えてしまった。
 みやげもの屋の間を通り抜けると、参道は長い急な下り石段になり、海が目の前に迫ってきた。ぷーんと潮の香がしてきた。
 石段が終わり岩場に来た。前方は広々と海が広がっている。明るくのどかな空間である。
 広い岩場のあちこちで家族連れや二人連れなどが休んでいた。
 私たちもそこで休憩することにした。
 岩場の先の方では釣りをしている。ここも相変わらずトンビが沢山舞っている。頭の上を低空飛行でトンビが飛びすぎてゆく。
 三人で甘いお菓子を隠しながら食べた。
 「あ、ジョナサン!」Kさんが指さす。
 みるとむこうの岩場に白いかもめが一羽休んでいる。
 釣りをしていたおじさんが戻ってきて、持っていた網をひっくり返した。
 三十センチほどのタコが数匹ぐにぐにと岩の上を歩きだした。
 そばで見ていたおばさんが、
 「わぁ、これ食べられるんですか?」というと、
 おじさんは黙ってうなずき、クーラーボックスに放り込んだ。
 帰路はみんな、さすがにすこしくたびれた。無口になって、もくもくと階段を上る。
 帰りもまた猫達をなでなでした。彼ら猫達は来た時と同じ場所にいた。それぞれ自分の定位置が決まっているようだった。
 参道を出、橋を渡って駅に着く。
 改札の向こうで二人が振り返り手を振った。私も手を振って本日の江ノ島散策は無事終了した。
 今日は色々新鮮な体験をした。
 女の子は料理を食べる前にその写真を撮ること、
 女の子たちは猫が大好きなのを知ったこと、
 江ノ島はじつは猫の島だったこと、
 そして江ノ島にリスもいたこと、
などである。
 ときめきと彩りを与えてもらった一日だった。
 焼酎で真っ赤な顔をした白髪のじいさんと一緒に歩いて半日付き合ってくれた、心優しき娘たち・・・・
 彼女たちに、心から感謝する私であった。

6 パソコン 万能道具箱



● パソコン事始め
  パソコンは大好きである。楽しい。
 授業で学生たちに教えるのも楽しい。
 最初のパソコンを買ったのはもう十五年以上前だったように思う。
 実はその以前から欲しかったのだが、なにせ当時は高価なしろものだった。
 知り合いのデザイナー仲間が話しあっている、パソコンを使ったデザインの話を、よだれがたれそうな思いで羨ましく聞いていたものだ。
 パソコンを購入したのは、仕事で急に必要になったからである。
 私はフリーの工業デザイナーで、デザインが決まると製図作業があり、当時、図面をドラフターで作図していた。
 ドラフターというのは、大きな製図板の上に取り付けられた、可動式の大定規のようなもので、好きな位置に好きな角度の直線を画くことができる手動式の機器である。
 製図板の上に用紙を固定し、鉛筆で作図するのである。
 
 突然きた仕事は、バーコードリーダーのデザインと設計であったが、これをCAD (キャド)で製図してほしいという注文だった。
 バーコードリーダーというのは、コンビニで会計の時、店員が商品のバーコードをピッと読み込むあの機械で、CADというのは製図作業を、ドラフターと鉛筆の代わりにパソコンだけでやってしまうものだ。
 私は、ついに来た、と思った。
 うすうすいつか、こういう時が来るに違いないと思っていたが、突然その日が来た。
 その日のうちに私はパソコン店に飛んでいき、ローンでパソコンを購入した。
 このとき購入したパソコンは、マッキントッシュのパフォーマという機種で、マッキントッシュは当時のデザイナーにとってはあこがれのブランドであった。
 この頃はまだウィンドゥズはあまり知られていなかったように思う。
 このようにしてある日突然パソコン生活がスタートしたのであった。
 
 2000年に東京都下の某デザイン専門学校の非常勤講師に採用され、CADコースの学生達の授業と、その年の秋の社会人向けCAD講習会の講師を務めた。
 学生達の授業も社会人の講習会も、オートキャドという本格的なCADを担当したのだが、考えてみれば私は、ほんの一~二年前に始めたばかりであり、しかも自己流で身に付けたものなのだ。
 一度もこれに類する教育を受けたことがない。
 そんな人間が講師として人に教えるのだから、不思議なものである。
 そこで私は思ったのだが、これは仕事のために覚えたから一気にある水準まで達したのだと思う。
 学校の先生がいうのもおかしなものだが、学校の授業などではたいして力が付かない。
 学校の授業は基礎の基礎なのである。間違っても責任はないし、わからなければ、先生が親切に教えてくれる。
 しかし仕事となると、そうはいかない。
 もし間違った図面を画いてしまい金型でも作ってしまったら、たちまち数百万円という損害になる。
 大変なことである。会社なら首である。間違いは許されないのだ。
 パソコン操作の分からない場合、誰も助けてくれない。
 自分で本屋で解説本を探し回って、解決しなければならない。真剣味が違うのだ。
 教え子の学生時代、そうたいしてできるとは思えなかった学生に、久しぶりに会って話を聞くと、私も知らないような高度な専門的CADや3Dソフトを使って、最先端の仕事をしていることがある。
 これはやはり、仕事でやっているから、高度な知識、技術が身に付いたのだ。
 現在私はCADとともに「イラストレーター」も教えている。
 このソフトは絵、イラスト、マーク、ロゴなど、グラフィックデザイン関係の仕事には欠かせないもので、汎用性のある大変便利なソフトである。
 「イラストレーター」は、ベジエ曲線という作画法が、最初の関門としてあり、慣れるまでみんなてこずる。
 しかしここをクリヤーすると俄然楽しくなり、学生達の目付きが変わってくる。
 どんなイラストでも自由に描けるようになり、手書きでは絶対描けないような面白い効果がさまざま試せるので、パソコンから離れられなくなる。
 こうなると教える私も楽しくなり、場合によっては、学生と一緒に新しい表現にチャレンジすることもある。
 教師をやっていて幸せを感じるひとときである。

 
● パソコンの授業
  四月になり新学期が始まった。
 二年生の「イラストレーター」の授業が開始だ。
 パソコン室に行って教室の鍵を開ける。明りをつけエアコンをいれる。やがてどやどやと学生たちが入って来た。
 二年生なので全員の顔、名前はわかっている。
 出席をとる。初日なので欠席者はいない。新しい授業の始まりなので、みんな期待と好奇心の顔つきでこちらを見つめている。
 まず「イラストレーター」の説明から始めた。
 パソコンで設計製図するCADは、モノづくり関係、メーカーに就職するひとには必須の勉強だが、それ以外の会社で働く場合には宝の持ち腐れになってしまう。
 一方「イラストレーター」は、需要範囲が広い。
 たとえば販売員希望の人でも、店のチラシやポスターぐらい作成出来る人が求められている。
 また絵が好きな人にとってはたまらなくおもしろい勉強になる。絵がうまくない人でもパソコンを使って立派な絵が描けるようになる。
というようなことをざっとしゃべった。
 ひととおり説明が終わり、作品紹介にうつる。
 部屋の明かりを消してプロジェクターのスイッチを入れる。教壇の大きな白い画面が明るくなる。
 「イラストレーター」で制作した私の過去の作品、学生たちの作品などを見せていく。
 チョコレートのパッケージを作る課題、図面風のもの、ロゴ、マークなど色々ある。
 しばらくしてチャイムが鳴り、休憩時間になった。
 ひとりの女の子が話しかけてきた。
 「先生、私高校でパソコンけっこうやったんだよ」という。
 聞いてみると彼女は商業科出身で、ワード、エクセルの授業があったという。簿記の資格も取ったそうだ。
 でもこういう絵を描く授業は初めてだという。
 「たのしいからがんばるんだよ」とはげました。
 休憩時間が終わり授業再開だ。
 「みんな、もう早くパソコンをいじってみたくて腕が鳴っているね」と冷やかすと、「そうでもないよー」といった顔で苦笑いされた。
 早速「イラストレーター」を開く。
 まず直線の描き方から始めた。
 「クリック、クリック、ちょんちょんちょん」と変なリズムをつけながら、手本を描いていく。学生達はそれを見ながら同じように真似していく。
 「最初の点と最後の点をつなぐときはスナップマークを確認してからつなぐこと」
 なんていっても、みんななんてことなくついてくる。
 次は曲線である。最も簡単な半円形の山を作る。
 「クリックしてボタンを押したままずーっと斜め上に引きずって、ボタンを離して離れた所でクリックして、今度は斜め下にまたボタンを押したまま引きずって」
 「あれ、変な山になっちゃった」
 「山が描けない」
ちょっと声が出てきた。
 次は直線と山の組み合わせである。
 「畑(水平線)を描いて山を描く」
 「途中で一回クリックして髭を一本にしてから山を描くんだよ」
 何人かは描けない。先生来てと手を上げる。学生のパソコンでやってみせる。
 「畑山大五郎はできたかな?」といって笑わせると、
 「なにそれ先生?」と、優秀な女の子に笑われる。
 「次は山畑小次郎」と笑わせながら進んでいく。
 ほとんどの子はパソコンが好きである。機械を操作しながら何か作業していくのが楽しいのである。私と同じである。
 なかに一人二人モニター画面がまぶしいという子がいる。ハンカチを出して目を拭いている。
 その子のモニターを少し暗くしてあげる。
 この調子で「山山山山山」「雲」「へび」など描いて線の練習をした。
 若者は憶えるのが早い。どんどん新しいことを教えていったほうがいい。  これを何回か繰り返し復習するのが一番効率がいいのである。
 「じゃあ、次は図形にいこう」
 丸、四角を描く。色を変えてみる。輪郭線の太さを変える。回転させる、拡大縮小させる、移動させる、コピーさせる、整列させる。
 「丸からハートを作ってみよう」
 このあたりから色々声が出てくる。
 「リンゴみたいになっちゃった」
 「私のハートかわいくないよ」
 「右と左がそろわない」
 「私イラレに向いてないかも」
 向いてないなんて初日から縁起の悪いこと言わないで、大丈夫だよ。
みな手を上げ私を呼ぶ。順繰りにまわっていく。ゆっくりやってみせる。
 「こんどは最初は正方形、これを星に変えよう」
 みんな楽しんでいる。
 こういう授業は楽しいのである。面白いのである。教えている私も楽しい。教わっている学生も楽しい。
 やりかたのわかった子が隣の子に教えている。変な星ができて大笑いしている子もいる。時計を見るとあと十五分ほどである。
 「じゃあ、このあとは今日やった課題をもう一回繰り返して練習する」
 そんなこんなで「イラストレーター」初日は終わっていったのであった。

● ホームページ制作いろいろ
  私は自分のホームページを作っている。ペーパークラフト「紙彫刻村」という名前である。
 どういうわけかあまり人気がない。マイナーな趣味を公開しているせいかもしれない。訪問者が増えないのである。
 ヤフーに登録しようと再三手続きしているが受け入れてもらえない。キット販売という商売を掲載しているせいかもしれない。販売記事を削除すればいいのかもしれない。
 現在二千名ちょっとの方々に来ていただいている。
 千人目のとき、ちよっとしたハプニングがあった。
 もうだいぶ前のことになるが、クラスの女子学生たちに、ちょうど千人目の人にごちそうする、と言っていたのである。
 ところが千人目だという子が何人もあらわれた。誰が本当の千番目なのかわからない。
 そこでその女の子たち全員六、七名を引き連れてイタリアンレストランへ行った思い出がある。あのときはちょっとした散財だった。
 ホームページを最初に作ったのはもう随分昔のことになる。十年以上たっていると思う。
 その頃は「青い水晶の村」という名前だった。
 「イラストレーター」で描いた絵を発表していた。メルヘンチックな、ファンタジックな絵だった。
 その後、ペーパークラフト作品を作るようになり、これらも発表するようになった。
 次第にそのバランスが逆転し、現在ではペーパークラフトだけになっている。
 普通「ペーパークラフト」というキーワードでインターネットを捜すと、子供向けの簡単なペーパークラフトのページがいっぱい見つかる。
 切り抜いて動物や電車を作ろう、といったものである。
 あるいは逆に超細かいペーパークラフトが見つかる場合もある。
 リアルで本物そっくりのバイクのモデルなどの制作作品である。これらは子供には作れない。
 大人でも普通の人では無理で、手先が器用で根気強くしかも暇のある人でなくてはだめなのである。
 私の作品は大人向けである。
 子供の興味を引くものではなく、大人でも手先が器用な人でないと作れない。
 モチーフは風景で、漁港、ヨットハーバーといったどちらかというと地味目なものである。
 緻密にリアルなものではなくその反対に単純化をめざしている。詩の世界でいうと俳句をめざすようなものである。
 俳句はたった三語だけでつくられる、最小でもっとも単純化された詩である。しかし奥が深くすばらしい芸術であることは説明するまでもない。
 俳句のようにシンプルでなおかつ詩的な造形を目標としている。
 このような作品がならんでいるホームページであるが、訪れる人が増えない。
 もっとも訪問者を増やすためのあれこれも全くしていない。
 ホームページ維持のための営業活動をなにもしていないのである。商売人には向かないのである。
 がらりと内容一新してみようかなという誘惑も時々頭をかすめる今日この頃なのだった。
 
 ひとのホームページも二、三作った。
 女房のものと某司法書士事務所のものである。
 作ったのではないが、ホームページの更新方法を教えてあげに行ったこともある。
 女房は着付教室をやっていて、そのホームページを作ったのである。作ったというか作らされたのである。
 このときはずいぶん沢山絵を描いた。イラストレーターで作画した。
 振袖姿の娘、花嫁、留袖の女性、七五三の親子の絵、浴衣姿の娘、その他もろもろ・・・・
 注文がきつく、七五三の子供の着物の柄が古くさいから直せとか、娘の髪形が変だから修正しろとか、さんざんだった。
 色やレイアウトにもうるさく、派手すぎるからもっと落ちついた感じにとか、並べかたがおもしろくないから変化をつけてとか、言いたい放題だった。
 しかし他人のホームページを作るのは、自分と違う分野、感性との巡りあいであり、発見があって楽しいものである。
 女房のホームページは私と違って盛況である。
 当初女房は毎日のように自分のホームページとにらめっこで、あちこち修正、変更の指示をだした。着付料金なども上げたり下げたり色々試していた。
 熱心に、気を使って、まめに手入れしていれば、ホームページは生き生きと活性化してくるのである。人をよびこむようになるのである。恋と同じである。ほったらかしではいつのまにか立ち消えしてしまう。
 その後このホームページはプロのホームページ制作者に引き継がれ、さらに注目されるように手を加えられている。
 活発なホームページというのはあちこちからすぐに顔を出す。
 いつでもすぐにお客様のところに飛んでいけるように仕組まれるのである。
 おかげで女房のところにメールや電話がばんばんやってくる。商売繁盛なのであった。
 
 某司法書士事務所のものは、ひょんなことがきっかけで依頼された。
 自分のものや女房のものなど、ホームページ作りには慣れていたが、知らない他人から制作料をいただいて制作したのでちょっと緊張した。
 まず制作料がどのくらいかわからない。色々調べてみるとかなりまちまちである。
 会社単位の仕事を引き受けて、法外な料金をとるホームページ制作会社もあれば、そこそこの料金ですむところもある。
 初めての仕事なので謙虚に、そこそこの料金で仕事をさせてもらうことにした。
 法律関係というのは、デザイナーにとって最も遠い世界である。法律関係の人というのも身近にだれもいない。
 依頼者の事務所の所長さんは若い男性だった。
 私の学校の先生の息子さんで、同僚の先生からの紹介だった。
 ビルの一角に事務所を新設し、これからオープンして事業を開始するのである。もちろん事務所はこの所長さん一人である。
 まだ机と椅子ぐらいしか置いてないがらんとした事務所に行って、制作の打ち合わせをした。
 事務所のホームページということで、まず最初、平和で明るくあたたかい感じのバックにタイトルなどをのせ、そこからとんで事業概要や料金のページ、営業日時や地図が出て来る、といった数ページのホームページを作ればいいのかな、と予想していた。
 軽く考えていたのである。
 ところが違った。どっしりとかなりの枚数のコピーを渡されたのである。
 細かい文字がびっしり並んでいる。法律家は緻密なのであった。論理的でもあった。
 借金の返済に困っている人がいて、金額、契約条件などで色々な場合があるとする。
 その各場合ごとにA、B、C、D・・・・、とボタンをつけ、ボタンを押すとさらにその先の細かい条件に行く。
 そこでまたA、B、C、D・・・・、と分かれていく。また更に先に行きまた分かれていく・・・・
 そのようなホームページを作って欲しいということだった。
 シンプルで、すっきりと、美しいもの大好き人間の頭脳はガーンと割られた。きびしい現実の反撃をくらったのである。
 翌日から、しこしこホームページ作りの作業が開始された。
 なにしろ文字ばっかりである。絵など最初の画面だけである。
 ほとんどワープロ打ち込み作業である。
 ただ同じような内容の文章が多く助かった。コピーアンドペーストでなんとか楽できるのである。
 一、二カ月後ホームページは完成した。
 最初のページは白雲浮かぶ青空をバックに若い所長さんの顔写真を配置した。明るくさわやかなイメージである。
 各ボタンを押していって動作確認をする。
 間違いはないようである。
 日記ではないが所長さんの日々のちょっとしたコメントをのせるページも設けた。
 折々になにか気のきいた短文を書いてもらう。こうしておくとその都度更新され、ホームページの活性化がはかられるのである。
 無事作り終えて久しぶりにデザイナーの幸せを感じた。
 何かを作り出すということ、その楽しさ、それが他人に喜ばれるということ、デザイナー冥利につきる。

 

7  iPod 携帯コンサートホール


 
 ウォークマンのちょっと後、スマホのちょっと前、iPod全盛の一時期があった。
 テープから始まった音楽プレーヤーは、CDそしてメモリーチップ内蔵のiPodになり、現在、スマホの中に入ってしまった。
 この話はそのiPod時代の思い出である。

 
● 通勤音楽生活
  自転車通勤ではたいていなにか音楽を聞いている。
 通勤にかぎらず自転車に乗っているときはとにかくなにか音楽を聞いている。
 まだ乗車中に音楽を聞くのが、おまわりさんに禁止されていなかったころの話である。
 持っている音楽プレーヤーは、アップルのiPodである。アップル以外にも各社から似たようなものがでているが、学生や通勤のサラリーマンなどが胸から白いコード(白ばかりとはかぎらないが)を出して両耳に入れて聴いているあれである。
 私の持っているのはちょっと古い2GBのものである。2GBといっても一日中聞いてもとても全曲は聴ききれない。
 随分便利になったものである。軽く薄く小型なので胸ポケットに楽に入る。
 なにかの拍子に持ってくるのを忘れると落ち着かない。また充電を忘れて残留電池が残り少なくなっていてもそわそわと禁断症状があらわれてくる。
 町の中を自転車でのんびり走りながら、あるいは近くの公園でベンチにすわって暖かな日差しを浴び、ビールでも飲みながら、耳の中はコンサートホールの壮大な音響の中にいるのである。至福のひとときである。
 音楽大好き人間にとって音楽プレーヤーは、絶対の必需品である。
 しかし、最初に音楽プレーヤーを聞いている現場に遭遇したときは、むかっ、とした。
 随分昔のことである。小さなヘッドホンを頭にかけ、ソニーのウォークマンで聞いていた。若い男だった。電車の中だった。
 たまたま乗り合わせた狭い同一空間の中で、一人だけ別世界を楽しんでいるというのは、異質なものだった。非常に不愉快だった。
 ところが今、自分もそうしている。時の流れというのは不思議なものである。
 最近の音楽プレーヤーの音質はすばらしい。耳の穴にすっぽり入ってしまう小指の先ほどの小さなものから、ふかぶかとした弦の低音が流れ、鮮烈な金管の咆哮がひびきわたる。
 もう生の演奏と変わらないように思う。
 昔若い頃、日本フィルの無料演奏会というのが時々あって、よく聞きにいった。たまたま「未完成」を聞く機会があった。たしか渡辺暁男指揮だったと思う。
 タクトが振り下ろされ、演奏が始まる。冒頭、最弱音でメロディーがかなでられる。右側の弦楽器、左側の弦楽器。
 ふわっと、霧がただようように音が流れる。音が左右に移動する。
 このときのただようような音の印象がすばらしかった。
 小指の先くらいの小さなイヤホンから、このただようような音の雰囲気が再現されているか、私にはなんともいえないが、すごい技術の進歩だと思う。
 家ではノートパソコンで聞いている。ほかにオーディオ装置は置いてない。
 むかし、大きなアンプ、チューナー、レコードプレーヤーと、これまた大きなスピーカーボックスをずらりと部屋の壁に並べて、音楽を聞いていたのがうそのようである。
 ノートパソコンのスピーカーは超小さい。100円硬貨ぐらいの大きさである。こんな小さいのがキーボードの左右に二個ついている。
 しかしこれがけっこう楽しめるいい音なのだ。むろん音量は小さく、HI FI (ハィファイ)とはいえない。ハィファイとは当時はやったことばで高忠実度高音質ということである。わかりやすく言えば「いい音」ということである。最近ではお目にかかれなくなった言葉である。
 しかしとなり近所に迷惑をかけず、一人静かに聞くぶんにはこれで十分である。
 昔は棚にずっしりとレコードが並んでいた。それ以後もテープやCDがレコードの代わりに並べられていたものだった。
 それらの風景もなくなってしまった。みんなパソコンの中に入ってしまったのである。時代の変遷である。
 
 ところでiPodには詰め込めるだけびっしり詰め込んである。
 クラシック、ロシア民謡、ハワイアンなどが入れてある。よく聞く曲、好きな曲を厳選し、入れ替え差し替えしてきた結果なので、もうどの曲もゆるぎなくそれぞれの立場を主張している。それぞれの立場は尊重しなくてはならない。
 重厚なシンフォニーのあとハワイアンなど聞くと、そのギャップが楽しい。またときおり思い出したようにロシア民謡など聞くと、オーケストラとはまた違う合唱の楽しさ、人の声のすばらしさを実感するのである。
 好きな作曲家は多いが、ブラームス、ブルックナー、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ショパン、ベートーベン、シューベルトなどは特に好きである。
 考えてみると、十代後半にクラシックに目覚めて以来、好みはずっと変わらず今にいたっているのであった。
 若い頃、ジャズのレコードは二枚買ったことがある。その二枚だけだったので今でもよく覚えている。ソニー・ロリンズとキャノンボール・アダレイのものである。
 ソニー・ロリンズは豪放磊落な演奏だった。サックスの野太くクールで男性的な音にしびれた。キャノンボール・アダレイは楽天的な明るい演奏だったような印象がある。
 しかしそのあとジャズの世界に入って行かなかった。ハードボイルドなクールな世界より、クラシックのセンチメントな抒情の世界が体質に合っていたのかもしれない。

 
● 好きな作曲家たち
  ブラームスの音楽はたまらない。深々と心に響いてくる。
 交響曲、協奏曲、室内楽、有限の人生を静かに受け入れるかのような諦念がしぶく、にがく、一篇の文学作品を読むような感銘を受ける。
 時代、東洋西洋に関係なく、生まれ生き死んでいく人間のささやかな喜び、悲しみ、あきらめなど人生の味わいが織り込まれている。聞き終わると深いためいきをついてしまう。
 ブラームスは一生結婚しなかったそうである。シューマンの妻クララを慕いつづけて生涯を終えたといわれている。
 シューマンの妻クララとはどんな女性だったのだろうか? わたしは興味をいだく。
 調べたことはないが、クララのほうがブラームスより年上だったのだろうか?
 慕い続けるとはどういうことだったのだろう? ブラームスにそんなに慕われていたのならクララはなぜブラームスと再婚しなかったのだろう? 下世話な話だがずっとプラトニックな関係だったのだろうか? 
 人生は自分の思い通りにいくとはかぎらない。
 なんらかの事情であきらめなくてはならないこともある。見果てぬ夢をいだきながら生きた人がブラームスだったのではないかと思う。
 弦楽六重奏曲第一番、第二番は若い頃の作品である。どちらも若き日の恋の思い出を語っている。とりわけ第一番の第二楽章は甘く切なくやるせない。
 歳をとってからのブラームスは長い髭を生やし、いかめしい感じであるが、若き日の姿は長身のなかなかの美丈夫である。
 この二曲の弦楽六重奏曲を作曲していたころ、アガーテという女性と交際していたという。この女性との思い出を綴ったものかもしれない。
 今となってはすべてはるかな時のかなたに埋もれてしまった。
 
 ブルックナーの音楽も大好きである。
 わたしは交響曲第四番「ロマンチック」からブルックナーにはまっていった。
 一九八九年の秋、名古屋まで新幹線で往復したことがあったのだが、このとき行きも帰りもこの第四番を繰り返し聞いていた。まだテープの時代で、指揮は朝比奈隆だったと記憶している。
 未知の作曲家の世界に入っていくには、その作曲家のなにか一曲親しくなればいい。その曲を手掛かりにして、新しい世界に入っていける。
 ブルックナーは、グリン、グリン、グリン、グリンと同一リズムをひたすら繰り返していく。
 快感である。
 いままで聞いたことのない単純で力強いリズムである。
 このスタイルがブルックナーの独創性であり、個性であり、すっかり魅了された。
 時折はさまる感動的なメロディーとともに、ブルックナーの長大で広大な至福の境地を永遠にさまよう。
 ではブルックナーの音楽はどういう音楽なのかと聞かれると、答えるのがむずかしい。
 CDのジャケットなどには「神秘を湛えた大森林やアルプスの巨峰などを連想する・・・・」とか、「大聖堂、大伽藍のような・・・・」といった解説がしてあることがあるが、これは曲のかたちである。
 ブルックナーの音楽は、文字、言葉、絵では説明できない。
 音楽という表現形式でしか表現できないいわば絶対音楽なのである。
 これは絵画でたとえるとわかりやすい。
 写実絵画は、文字、言葉で説明できる。
 テーマ、モチーフ、時代背景、あるいは比喩、暗喩などという隠された意味など。
 しかし抽象絵画となると事情は異なる。
 アメリカ現代美術家でマーク・ロスコーという画家がいる。
 この人の作品は人の背丈よりも高い巨大な四角いキャンバスのなかに、輪郭がぼやけた四角形らしき色面が塗ってあるだけである。四角形とそのまわりの背景色だけなのである。具体的なものや形は他になにもない。
 すごく単純な絵である。これ以上説明のしようがない。
 ではつまらない絵かといえばとんでもない。
 ふかぶかと神秘的で、なにか禅の回答のような、宇宙の真理のような、広大な空間のような、まさにことばや文字で表現できないなにかを発信しているのであった。これは絶対絵画なのである。
 ブルックナー最後の交響曲、第九番終楽章後半は、満天の星空の中、ざわめく星々をこえてはるかかなた銀河の向こうへ遠ざかって行くような感覚をおぼえる。
 夜空の大きな満月の向こうへ船が去っていくディズニーの「ピーターパン」のラスト、またスピルバークの傑作「ET」のおなじくラストで、ETの乗ったUFOが空のかなたに消え、さっと虹が広がるラストを思わず思い出す。
 これがブルックナーの作曲家としての総括的メッセージであり、「人生とは?」という問いに対する答えなのだ。
 なにか宇宙的広がりの中に溶け込んでいくような、宇宙のちっぽけなかけらである我々が、母なる宇宙に回帰していくような感じである。
 仏教にも通じる、達観した禅僧の境地のような哲学的感慨をおぼえるのだ。
 
 ブルックナーは十六才の少女に求婚し振られたという。
 私にはなにかわかるような気がする。
 これはまったく私見だが、この超ロマンチスト、超生まじめな作曲家は、十六才の少女の前で、おそらくふざけた冗談なんかまったくいわなかったのではないか。
 十六才は日本では高校一年生の年頃である。箸がころんでもおかしい時期である。そんな年頃の若い娘に、まじめな顔をして真剣に告白したのに違いない。
 私なら、「チョーかわいいね」とか「マジありえねえよ」なんてばかばかしい若者軽薄言葉をまきちらして彼女を大笑いさせたと思う。大笑いさせなくてはいけないのだ。
 おもしろいおじさん、変わったおじさんと思ってもらわなければはじまらない。若い女の子は楽しいこと、面白いこと、笑うことが大好きなのだ。
 十六歳の相手にはこちらも十六歳にならなければいけない。「かわいいーっ」といわれなければ失敗である。
 もしブルックナーがお茶目で、バカをやって、大作曲家らしからぬふるまいをしていたなら、そのギャップの意外さがうけて、少女の関心を引いたかもしれない。
 ブルックナーは究極のロリコンだった。
 成熟した落ち着いた女性には興味がもてなかった。メルヘンの中の可憐な美少女しか彼は愛することはできなかった。
 しかし現実の可憐な美少女は、楽しいこと、面白いこと、笑うこと、プラス多分おいしいものが大好きだったのだ。
 これがブルックナーの悲恋の本質だと思うがどうだろうか。
 
 チャイコフスキーも大好きな作曲家で、交響曲を六曲も制作しているが、第六番の「悲愴」がたまに演奏されるぐらいで他の曲はあまり日の目を見ない。たいへん残念である。
 他の曲も、どれも俗にチャイコ節といわれるようにロマンチックで、リリカルで、甘く、平易で親しみやすい。
 最初の、チャイコフスキーとの運命的な出会いは、多分たいていの人と同じ定番の出会いのように思えるが、例の「ピアノ協奏曲第一番」であった。 我がにきびづら、高校生の頃である。
 あの冒頭の出だしにしびれ、チャイコフスキーにはまりこんでしびれたまま、あっという間に五十年経過してしまった。
 天才ということばは確かに存在する。それはピアノ協奏曲の冒頭部分だけみても明快である。これだけ美しく独創的に個性をきわだたせた創造物は他にない。
 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番の冒頭、ラフマニノフの同じくピアノ協奏曲第二番の冒頭、グリーグのピアノ協奏曲の冒頭、ベートーベンのピアノ協奏曲第五番の冒頭・・・・
 どれも一度聞いたら二度と忘れられない。まさに天才の創造物なのである。
 
 ラフマニノフは郷愁の詩人であり憂愁の詩人であった。
 ドボルザークが望郷の詩人であるようにラフマニノフは人生の郷愁の詩人であった。
 「ピアノ協奏曲第二番」「交響曲第二番」は人生の郷愁の歌である。
 なにが悲しくてそんなに憂いているのかといいたくなるぐらい、彼はいつも憂いている。中国唐代詩人「杜甫」ではないが、まさに百年の憂いである。
 この物質文明の日本。ブランド品、グルメ、タワーマンションと狂奔しているとき、「郷愁」などという言葉は、死語にひとしい。
 ふるさとはマンションと名付けられた、画一的なコンクリートの四角い箱となり、まわりは深夜も休まずやたら明るいコンビニと化し、幼児化したファストフードと化した。
 日常は、けたたましいバカ笑いのテレビとスマホ、メールの情報確認に追われ、一人静かに人生を考えるなんて余裕はどこにもない。
 もうなつかしい故郷などどこにもなくなってしまった。
 どうでもいい情報を毎日追っかけまわして、ある日メタボの体がパッタリと倒れる。それで人生終わり、それが現代の日本である。
 
 ショパンの一生は短かった。
 いつも死を見つめた日々だったのではないだろうか。人の一生のはかなさを日々かみしめて生きた作曲家だったのではないだろうか。
 そのあふれる思いの結晶が曲のあちこちできらりときらめく。
 私たちはそのきらめきに「はっ」として、人生の無常を感じるのである。人生の無常を感じない人は、ほんとうの人生を生きていない。
 人生の無常を感じると、毎日の日常の日々がいとおしくなる。その日一日を大切に生きるようになる。
 もし明日はもうこの世にいないとしたら、今日の一日は人生最後の一日である。
 今日会う人は人生最後に会った人であり、今日見た風景はもう二度と見ることのできない思い出の風景となるのである。最後の人、最後の風景を大切にしないわけにはいかない。
 
 最後にやはりなんといってもベートーベンさんにひとことご挨拶しなくてはまずい。
 ベートーベンはいまさら私ごときがどうのこうのということはない。交響曲、協奏曲、その他素晴らしい曲、好きな曲はいっぱいある。
 数ある名曲はおいて、ピアノソナタ「テンペスト」第三楽章が好きである。通勤の帰り道、この第三楽章だけをリピートモードにして繰り返し聞いたことがあった。
 この第三楽章は絶品で、切々たる恋の歌である。綿々とした恋の想いを繰り返し、胸を打つ。
 私はマリア・ジョア・ピリスの演奏を聴いているが、聴くたび心に沁み入ってくる。この一曲だけでもベートーベンは素晴らしい。

● 音楽のたのしみ
  シューベルトの「未完成」。
 「運命」「新世界」「未完成」はクラシック入門の三大交響曲であった、私の若いころは。今どうなのか知らないが、もっともポピュラーな曲のひとつであると思う。
 今、私のiPodにはこの「未完成」がふたつ入っている。
 ひとつはクリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーブランドオーケストラの「未完成」で、もう一つはカルロス・クライバー指揮ウィーンフィルの「未完成」である。
 どちらもすばらしい名演である。しかし演奏スタイルはまったく異なる。
 「未完成」の第二楽章、ドホナーニは第二メロディーを丁寧に紹介する。第二メロディーというのは、本来の第一メロディーのバックで、曲の流れを支えるバックコーラスのようなものである。
 シューベルトのこの曲では、このバックコーラスがとても美しい。むかし、若いころはあまり気がつかなかった。このドホナーニの「未完成」を聞いてから、そこに注意をむけるようになったのである。
 美しい旋律が溢れている。美しいバックコーラスである。
 いっぽうカルロス・クライバーの演奏は強靭である。
 筋肉質な演奏、しゃきっと引き締まりダイナミックである。ずんずん曲は進行していく。ためらいがない。第二楽章もパワフルである。しかしさすが大指揮者、大味の演奏ではない。歌うべき所で歌い構成美を保つ。ドホナーニの演奏を古き良き時代の典雅な演奏とすると、クライバーは現代的なシャープな演奏といえるだろう。
 
 ドボルザークの「新世界」。
 作曲家ドボルザークがアメリカに招待されて、アメリカで作曲した望郷の交響曲が「新世界」である。
 私のiPodには小澤征而指揮ウィーンフイルのものが入っている。小澤征而らしい緻密で安定感のある、リズムのすばらしい名演である。しかし「新世界」では強烈な印象の演奏が過去にあっていまだに記憶に残っている。
 それはアルトゥール・トスカニーニ指揮NBC交響楽団の演奏だった。もうずっと昔、学生時代に買ったLPレコードである。
 ジャケットのイメージは今でもよく覚えている。しかしこのレコードはとっくの昔無くなってしまった。CDで復刻版があればぜひまた聞いてみたいものである。
 とにかくダイナミックな演奏だった。天から転げ落ちてくるような迫力の第三楽章、かちっと一糸乱れぬ統一美、強音から弱音へきゅっとすぼまるあざやかさ、引き締まった筋肉美はクライバー以上に見事だった。音楽を聞くスリルと快感を堪能した。
 こんなに個性的な演奏にはこのとき以外出会ったことがない。
 
 ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」
 この曲は、現在はスビャトスラフ・リヒテル演奏のものを聞いている。この曲とチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」の二曲が一緒に入っていたCDだったので、いつもこの二曲を連続して聞いている。
 最初にこの曲と出会ったのは高校生のころだった。
 当時はLPレコードの時代で、レコードはジャケットというきれいな紙袋に入れられて売られていた。縦横三十センチほどの四角い厚紙の袋で、裏側に曲の解説などが印刷されていた。
 たまたまこの曲のジャケットがものすごく美しかった。
 全体がうすいグリーンの中央に長身のオペラ歌手のような美女がなにか歌っているように立っていた。多分私はこのジャケットに魅了されて、ついふらふらとこのレコードを買ってしまったような気がする。
 ところがこのレコード、演奏もすばらしかった。
 アルトゥール・ルービンシュタインという名ピアニストをそれまで知らなかったのだが、この演奏で大フアンになってしまった。
 ラフマニノフの哀愁美、甘美な憂愁をこれほどみごとに引きだした演奏はほかにないと思う。
 このレコードはすりきれるほど何回も聞いたものであった。
 それ以後、他の演奏を聞いても必ず頭のなかでルービンシュタインと比較してしまい、やっぱりルービンシュタインのほうがいいや、というくせがついてしまった。
 鳥の赤ちゃんは最初に出会ったものをお母さんと認識してしまうらしいが、音楽も最初に出会った演奏が頭のなかに刷り込まれてしまうような気がする。違う演奏を聞くとなにか違和感を感じてしまうのである。
 
 ベートーベンの「田園」も最初に聞いた演奏が刷り込まれてしまった。
 このLPもレコードジャケットの美しさにひかれて買った。きれいな小川を緑したたる両岸が囲んだ美しい田園風景の写真だったのである。
 オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルだったと思う。
 この「田園」、何回繰り返して聞いたかわからない。「田園」の定番演奏になってしまった。私のスタンダードになってしまったのだった。
 以後、他の演奏を聞いても親しめない。差異が気になってしまうのである。どの演奏でもそれなりに楽しめるようになったのはだいぶあとになってからだった。
 
 これは私の私論だが、名演というのは平易でわかりやすいのである。感動できるのである。
 曲を聞いて、さっぱり何か感じない、引き込まれない、というときは多分演奏がよくないのである。
 昔、ブラームスの「交響曲第二番」のレコードを買ったことがあった。
 ところがこのレコード、ちっとも感動しないのである。
 繰り返しが単調で機械的で面白みがなく、なにかいらいらしてくるのであった。結局数回聞いただけであとはお蔵入りになってしまった。
 さらにまずいのはブラームスの「交響曲第二番」が長い間きらいになってしまったことだった。
 ずっとあとになって名演に巡り会え、愛好曲のひとつに仲間入りした経緯がある。
 演奏家は作品の通訳のようなものである。通訳がまずいと作品の意図がうまく伝わらない。難解な言葉でなく、適切なわかりやすい言葉で情熱をもって伝えてこそ、作品を理解することができるのである。
 
 四月下旬、土曜日の午後。今年は寒暖の差がはげしかった。
 ようやく落ちついてきたのか、今日は暖かなおだやかな日である。
 近くの公園の藤棚の下のベンチにすわっている。手前には梅の新芽が揃いだしている。まわりは新緑が芽吹きだしてういういしい。
 さっきからシューベルトの「未完成」を聞いている。カルロス・クライバー指揮ウイーンフィルの演奏のものである。ちょっと大きめの音量にして聞く。しゃきっと歯切れがいい。
 音量を上げると弱音部も聞き取れるようになる。とてもよい。たたみかけるような演奏に説得力がある。第二楽章にはいり、メインのテーマとバックのテーマが交互にあらわれる。なんてシューベルトの音楽は美しいのだろう。これは愛か、あこがれか、希望か、あるいは絶望か・・・・
 そのあと、同じ「未完成」をこんどはクリストフォン・ドホナーニ指揮クリーブランド響の演奏で聞いてみる。
 スピードがのろい。ゆったりしている。まったりしている。でも普通の「未完成」は大体この速さなのである。
 丹念にメロディーを刻んでいく。背景の旋律もよく聞き取れる。シューベルトの絶望、無念、悲しみが伝わってくる。第二楽章ではさらにわかりやすく悲しみを説明してくれる。
 そうなのだ、女というのは何もわかっていないのだ。ばかな男に夢中になる。ばかものめ。もう人生いやになった。なんて勝手に解釈して手前の新緑にあたった。
 シューベルトは室内楽でも素晴らしい作品がたくさんある。「鱒」「アルペジオーネソナタ」なども大好きな曲である。
 「鱒」はあのさわやかなリズムが忘れられない。誰でも一度聞いたらもう忘れられないと思う。「アルペジオーネソナタ」も美しい曲である。ときどき思い出したように聞いている。
 ビゼーといえば「アルルの女」「カルメン」である。
 ほかに交響曲第一番というのも捨てがたい。若々しく溌剌とした音楽で、あまりレンタルショップなどには見かけないのが残念で、いつかは私のコレクションに加えなければと思っている。
 「アルルの女」「カルメン」はよく聞いている。シャルル・デュトア指揮モントリオール響のもので録音も演奏もすばらしい。朝、これから出かけるときに聞くと、パワーが漲ってくる。やるぞ、という気分になってくる。私のはげまし行進曲なのである。
 はげまし行進曲といえばもうひとつある。リヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー序曲」である。「さまよえるオランダ人」を加えてもよい。
 じつにスケールが大きい、こんな曲を映画音楽としたら最高にすばらしいと思う。
 ちょっと異質なとこが魅力なのはストラビンスキーである。
 学生時代この作曲者の「春の祭典」というレコードを買った。ピエール・モントゥー指揮のものだった。
 荒々しいバーバリズム、原始社会。ヒューマニズムなど関係ない。太陽、神、大地、いけにえ、祭祀、生と死、そんな世界が非情なリズムにのって展開されてくる。近代人道主義的思想などぶっとばす勢いの、はげしい無法ものの音楽であった。
 天才を感じた。才能というものを感じた。こういうものが本当の才能なのである。従来の流れ、きまり、約束などけっとばしてしまう。新しい自分の世界を見せつける。これこそが革新でなくしてなにが革新か、と問うている。
 カリンニコフという作曲家がロシアにいた。
 若くして死んでしまったそうである。たいへん美しい交響曲を二曲残している。たまたまCDを捜しているとき、レコードショップで知ったのだった。
 チャイコフスキーの流れをくむ、ロシアロマンチシズム、ロシアセンチメンタリズムの音楽で、哀愁と郷愁にあふれた真珠のような作品である。
 ロシアの人はどうしてこう悲しんだり、憂いたりするのだろう、と思ってしまうくらい哀愁郷愁に感じやすい。ロシア民謡なども同じでたいへん美しく悲しい。
 はてしない広大な大地に住んでいると、かえって人間存在のちっぽけさが意識され、人生の哀愁を感じるのかもしれない。戦いで遠い見知らぬ戦地に赴く悲しみがロシア人の性格形成に関わったのかもしれない。
 二十四時間営業の、昼も夜もない経済効率最優先の、毎日ひたすら意味もなく忙しい現代日本をさすらう一老年おじさんは、ちょっと前のロシア音楽を聞いて一息つくのであった。

 
● SP、LP、オーディオ、Hi-Fiとか
  しかし技術は進歩したものである。
 中学生の頃、母親にレコードを買ってくるように頼まれたことがあった。
 クリスマスの何か音楽を買ってくるように頼まれたのである。「ジングルベル」か「清しこの夜」である。
 しかしレコード屋になかったので、「ペルシャの市場」なんていう関係ないレコードを買ってきてしまった。母親にすごくしかられた。母にかわいそうな思いをさせてしまった。
 この当時レコードはSP盤といわれた。シェラック盤ともいい、黒く堅い盤だった。ぐるぐるとても速く回った。
 今の人たちに話してもわからない。知らない。そんなものはどこにもないのだから。
 片面の演奏時間は数分だったように思う。あっという間に終わってしまうのだった。レコードは蓄音機という機械の上にセットする。大抵は手動でその装置の脇にハンドルがあり、これを手でぐりぐりまわしてぜんまいを巻いて置く。
 演奏しながらぜんまいがほどけていき、終わりになると音楽が急にのろくなる。あわててハンドルを回すとまた元の速さに戻るのだった。
 高校生の頃にはLP盤というレコードになっていた。
 LPになって、この一枚のレコードに交響曲や協奏曲といった長い曲もはいるようになった。また、今ではあたりまえだが、当時ステレオといって音楽が立体的に聞けるようになったのだった。
 最初に買ったLPはさすがに憶えていて、グローフェの「大峡谷」というレコードだった。第二楽章だったか「山道にて」という曲名で、グランドキャニオンを馬で行くような雄大でひなびた曲想が魅力的だった。
 このころから「オーディオ」という言葉が一般化してきた。レコードを再生する演奏機器のことである。
 レコードから音を電気信号として取りだすプレーヤーという機器、電気信号を増幅するアンプ、電気信号を音に変えるスピーカー。
 そのほかに音質をコントロールするプリアンプというものや、FMなどを聞くためのチューナーなどといったものもあった。思い出してみるとなつかしい。
 音楽と工作のどちらも好きだったので、アンプやスピーカーは色々作った。当時オーディオ誌が色々出ていて、アンプの制作記事が載っているのである。
 実体配線図というのが描いてあって、それを見ながら作ればいいのだった。
 秋葉原に部品を買いに行く。これがまた楽しい。狭いアーケードの下の迷路のような路地ばたに小さな店がぎっしり並んでいる。ここでメモを見ながらパーツを買っていくのである。
 スピーカー屋にはピカピカの新品のスピーカーがずらりと並んでいる。
 大きいのから小さいのまで様々である。高くてとても買えないような高級スピーカーをためいきをついてながめる。
 ずしりと重いトランスを買う。とたんにバッグが重くなる。スイッチや真空管のソケットといった小物も忘れないように買う。アルミのシャーシーは買ってから穴加工しなくてはならない。
 スピーカーもずいぶん作った。高級なスピーカーの中古を友達にゆずってもらったこともあった。どんな音が出るか、試聴するときが楽しみだった。
 低音がどのくらい出ているか。重低音はどうか。スピーカーに耳をくっつけてチェックである。
 スピーカー作りはボックス作りでもあった。ベニヤ板を買ってきて切断して箱をつくるのである。薄い板厚だと震動してしまいいい音が出ない。厚めの板をボンドと木ネジでしっかり止める。
 オーディオの世界はその後、トランジスター、ICの時代になり、レコードは、テープ、CDと移り変わっていった。
 いまでもオーディオを手作りしている人はいるのだろうか。デジタル化の時代になって振り返ってみると楽しい時代だった。

 

8 乱読雑読愛読


  
● 随筆名人椎名誠
  以前、横浜市の図書館は一回に六冊までだった。
 今、借りている本は、
 「ワニのあくびだなめんなよ」椎名誠
 「閑のある生き方」中野孝次
 「イギリス、湖水地方を歩く」谷村志穂
 「うずまき猫のみつけかた」村上春樹
 「クルマを捨てて歩く!」杉田聡
 「みんなの秘密」林真理子
の六冊である。
 小説は林真理子のものだけで、あとは随筆かそれに類するものである。
 最近、随筆にめざめてしまった。
 面白い。自分でも書きたくなってきた。
 椎名誠の随筆が入門のきっかけになったように思うが、一見簡単に書けそうに見えるのである。日々の生活の様々なエピソードをユーモアを交えて語れば簡単に書けそうに思える。
 たとえばこんな話がある。
 「ワニのあくびだなめんなよ」椎名誠、のなかの「勿来(なこそ)の宿の怪」という作品で、年末、草野球をするためにおやじたちが集まって福島県の勿来の海岸で合宿する。
 海岸の前の廃墟のような旅館に泊まるのだが、無愛想な宿で気もきかないし、料理も冷え冷えでうまくない。結局まずい料理を食べて帰宅した。
 おおまかなストーリーとしてはそれだけの話なのである。
 ふつうに考えるとこんな話題はつまらなくて地味でお話にならない。
 ところが椎名誠はつまらなくてお話にならないものを、一篇の面白いお話に仕立て上げてしまうのである。
 よくよく考えてみると恐ろしい話術である。才能である。技術である。読者をたのしませ退屈させない随筆芸人なのである。
 もう一篇、同書のなかの「機械の中の女」の抜粋、ちょっと長いけど、随筆名人椎名誠の面目躍如がよくわかる。
 
 家の近くにファミリーマートがあって時々新聞や週刊誌なんかを買いにい    くのだが、レジの若い娘がひとりひとりの客に丁寧に頭をさげて「いらっし  ゃいませ、こんにちはあ」とか「いらっしゃいませ、こんばんはあ」などと言うのだがあれもあまりに丁寧すぎてこっちとしてはやや対応にこまる。だって「東京スポーツ百二十円」でいちいち「いらっしゃいませ、こんばんはあ」と言ってくださるのである。両手なんかもきちんと前に組んだりしてレジの娘さんも大変である。あまりにも何度も言うので「いらさませえ」になっている人もいるけれど、でもすごいもんだ。さらに店から出るときは「またおいでくださいませえ」なんて言われちゃう。オラ一人だけに言ってくださっているんだったらまたすぐきちゃうけれど次のカップラーメンのあんちゃんにも同じように言っているから感動はすぐに薄れるので助かるんだ。
まあこれはファミリーマートのマニュアルなんだろうけれどあれではレジの人があまりにも大変だからもう少し簡潔にしてあげたい。二百円以下の人は少し略して「いらませ・にちは」とか「いらませ・ばんは」ぐらいでもオラは文句言わないね。
 
 面白いエピソード、すばらしい体験がなければ、随筆を書けないのではなく、極端にいえばモチーフはなんだっていいのである。
 その素材を生かすも殺すもその人の才能いかんなのである。話術、語り方、創作力の問題なのである。
 随筆は奥深い。絶望感におそわれ、果てしなく落ち込んでいくばかりである。
 随筆作家を目指す老新人として随筆をテキストとして分析的に読むくせがついてしまった。
 なんでもいいから随筆制作技法のようなものを盗みとろうという魂胆である。職人の世界では昔から親方の技を盗めということがいわれている。そうだ、盗むのだ。
 随筆が日記と違うのは話題が次々ジャンプしていくことである。
 ある話題をきっかけに過去の別の話題に飛ぶ。またそれを契機にして更に別の話題にジャンプする。
 ここが随筆の面白いところである。ときどき作者の失敗談や本音がちらつく。それがまた面白い。
 「うーん、そうだよね」、とか「そうそう、そんなことやったことがある」といった共感が笑える。
 随筆では絶対に自分を飾ってはならないということがわかる。自分を笑いとばさなくてはならない。自分を飾ったとたん、鼻持ちならない、居心地のわるい文章になってしまうからだ。
 椎名誠の小説や随筆集は、夜寝る時、枕元に欠かせない。
 もうずいぶんたくさん読んだ。ちょっと数えきれないくらいである。そんなにたくさん随筆を書いているのである。
 深夜、目が覚めてしまった時など本を開くが、今度は面白くてやめられなくなってしまう。
 この人は超行動力のある人である。体格も大柄の人だそうで、柔道、ボクシングをやっていた体育会系の人なのである。
 今日、南米チリのパタゴニアという強風吹きすさぶ地の果ての辺境にいたかと思えば、明日は極寒のアラスカに向かう。
 日本にいても今日東北地方の旅から帰って来たかと思うと、翌日はボーンと南の無人島に行ってしまったり、と思うとどこかの海岸へ飛んで、仲間たちと焚火キャンプしたり、また翌日からどこか外国の旅に出る、というすさまじく変化に富んだ生活を送っている。
 そしてそれらの膨大な体験が、随筆や小説のネタになっているのだ。原稿は、移動中の新幹線や飛行機の中などでも書くそうである。
 たいへんな酒好きで、ビール、酒の話題が随所にあらわれ、読んでいて楽しい、共感する。
 私のような変化のない定位置定住生活者から見ると、驚異のライフスタイルである。こういう生活、こういう人生も有りなんだ、と思う。
 この人は自分の好きなこと、やりたいことをやって収入を得、生活している。いや、好きなことやりたいことしかしていない。いやなことはしていない。ただしそれを超徹底的にやっているのだ。
 人間は、好きなこと、やりたいことだけやって、生きていけるのである。好きなことだけやって生きていくべきなのである。
 
 中野孝次の随筆も最近ちょっと読む。
 私よりも年配の作家である。かつて「清貧の思想」という本がベストセラーになった。
 老年期の生き方、に関する著作がある。
 もう老年になったら社会的規範、世間のしがらみなどから離れて自由に生きよ、といっている。職場から解放され、義理で付きあう人間関係もなく、人生で最も自由な時期を楽しめといっているのである。
 まったくそうだと思う。残り少ない人生、自由に楽しんで生きなければもったいない。

 
● 乱読人生
  本は子供のころから好きだった。ずっと乱読人生を送ってきた。
 小学生の頃、毎月購読していた「少年クラブ」という雑誌に、横溝正史という怖い物語が得意な作家の「金色(こんじき)の魔術師」という連載物が載っていた。
 たまたまある号の時、捕えられた少年が、サターンのいけにえとして深夜の無人の舘のなかで、人を溶かしてしまう液体の中に、魔術師によって沈められる、という恐ろしい場面だった。
 お話も怖いがさし絵も怖く、真正面から見た構図で、魔術師が気を失った少年を両手にささげ、その下に西洋の浴槽のようなものが画かれていた。
 私は夜、その雑誌を寝床で読んだが、怖くてそのページは見ないようにして読んだ記憶がある。当然トイレに行くのも怖かった。
 たぶん、こわいもの見たさの、このような強烈な体験に魅かれて、読書の魔界に入り込んでいったのだと思う。
 またある時は、買った本人としては、面白そうな武侠物の本を見つけてきたつもりだったのに、父親に叱られたことがあった。
 当時叱られる理由が分からなかったのだが、ずっと後になって、父親からみると、ちょっと好色な講談本だったからだと分かった。
 「家なき子」「ああ無情(レ・ミゼラブル)」「十五少年漂流記」「少年太閤記」など夢中で読んだ。とてもかわいそうだった、とてもおもしろかった、ようするに楽しかった。
 当時、世界名作児童文学といったような全集物が盛んで、それらは箱に入った立派なつくりの厚い本だった。
 中高生の頃になると細かい活字の文庫本を読むようになった。岩波文庫や角川文庫、そして新潮文庫などである。
 現在、若者がスマホを持って歩くように、文庫本を片手に持って歩くのが当時の文学好き学生の通学スタイルだった。
 「大地」「ジャン・クリストフ」「嵐が丘」「ヘルマン・ヘッセ」「夜明け前」「パスカービル家の犬」「次郎物語」・・・・などなど乱読した。
 パール・バックの「大地」は、たぶん私が読んだ最初の海外長編小説だったと思う。
 中国のある農民が時代の流れと共に生きていき、匪賊の将軍や様々な子孫を経て時代とともに歩んでいく大河小説であった。
 悠久のスケールの、まさに大河の流れのような小説だった。未知の文学の世界を知って、目から鱗のおぼえだった。
 島崎藤村の「夜明け前」もそうだった。
 この本は買ったときのことを憶えている。
 横浜の伊勢崎町に有隣堂という大きな書店があり、ここに行って半日好きな本を探すのが楽しみだった。その本は上下二段に細かい活字が並び、大判で分厚い本だった。
 有名な「木曽路はすべて山の中である。」から始まって、明治という大きな時代の変革期を生きる人々を活写した壮大なスケールの叙事詩であった。
 父が読書好きで、書斎の本箱にぎっしり本が詰まっていた。
 本箱には大小の様々な本に混じって、山本有三、泉鏡花、夏目漱石、谷崎潤一郎などの、箱に入り統一された大きさの全集本がずらりと並んでいた。  好奇心にかられ、わからないなりに興味本位でこれらの本も読んだ。
 泉鏡花などは古風な読みにくい文体だったが、なんとなく幻想的な物語だと思った記憶がある。
 
 私の乱読癖は、いまも変わらない。
 人生の大きな関心事に恋愛がある。
 いくつになっても若い異性には胸がときめく。運よく待ち合わせの機会があったりしたら前日から落ち着かない。爪が伸びてないか、鼻毛がとびだしていないか、二十代のころと変わらず気になる。
 もうそんなこと卒業したよ、興味がなくなったよ、といったら、その人の生命力は衰えてきたのである。
 様々な恋愛を描いてきた作家に小池真理子がいる。
 この女性作家の作品は、図書館の本、ほとんど読みつくしてしまった。恋愛物、ちょっと怖いファンタジー物などを書く作家だが、けっこう厚い単行本でも、読み出すとやめられなくなって、一気に読んでしまう。
 川上弘美の「センセイの鞄」は元高校教師の老人と教え子の三十代のOLとの恋物語である。自分と立場が似ているので興味があった。
 ドラマチックな展開はなく、たんたんとした日常生活のエピソードが綴られていく。
 女性作家のものは、女性側から見た恋の形や心理、プロセスがえがかれ、そこが男として興味をいだく部分でもある。
 今借りてきている林真理子の「みんなの秘密」、ちょっとつまみ食いして最初の二話読んでみた。短編集である。
 おもしろい。超おもしろい。おもしろいというかすごい。手練の技である。文章に一切無駄がない。
 書き出しの明確さ、ぴしゃりとした結末のあざやかさ。小説技法のテキストとして最高である。
 適度にエロい。人間はエロい存在であるからエロいものが読みたいのである。エロさが人を引きつけるのである。
 この人の本もずいぶん沢山読んでいる。恋愛もの、不倫ものなど書いたら最高である。やはり時々こっそり読まずにはいられない。
 
 小説ばかりでなく、科学などの図解本も面白い。
 たまたま今も「船のしくみ」「船の科学」「潜水艦のすべて」などという本が枕元に置いてある。
 この手の本は、イラスト、図解、写真などが豊富に乗せてあって、パラパラ見ているだけで飽きない。日頃疑問に思っていること、どうなっているのだろう、というようなことが見ただけで理解できる。
 Uボートの魚雷担当の兵員は、狭い艦内で魚雷の上に簡易ベッドを広げて寝た、とか、兵員三人にベッドが二つしかなく、交代で寝た、などという話が、図解と共に解説されていた。
 新幹線の前面がどんどん長く尖ってきたが、その理由がわかった。
 ただ単純に空気抵抗を少なくするためだけではなかった。ちょっと気がつかなかったがトンネルが関係していたのであった。また新幹線の前面の形は、航空機と同じではいけないのだということもよくわかった。
 ロケットの打ち上げの映像を時々見るが、地上に垂直に立てられたロケットが、どうしてバッタリ横に倒れてしまわないのか? というのが私の永年の疑問だった。
 たとえば鉛筆を人差し指の上に真っすぐ立てて、下から上にそっと押し上げるとする。左右からは何も支えがないので、鉛筆はパッタリ横に倒れてしまう。当然である。
 この疑問が先日読んだ(見た)図解本で氷解した。ロケットは単純に下に噴射しているだけではなかったのである。
 これら雑学は、知ったからといって何かの役に立つわけではないが、見て読んで楽しい。

● 児童文学も楽しい
  私は児童文学も大好きである。
 安房直子さんという童話作家がいた。
 私と同世代の人である。惜しいことに癌で少し前に亡くなられてしまった。
 私はこの作家はずっと生きていてほしかった。もっともっとたくさん、美しい作品を紡いでいってほしかった。
 この人の作品も、図書館にあるものすべて、読んでしまった。読みつくしてしまった。一回読んだだけではない。気に入った作品は何回も読み返している。
 心に沁みる、ちょっと哀切なファンタジーが多く、ひっそりと清澄な、美しい作品たちである。
 私の好きな作品に「火影の夢」という短編がある。
 港町の骨董屋に、一人の若い水夫が訪れ、数日の約束で小さなストーブを置いていく。
 その不思議なストーブに火をつけると、小さな娘があらわれ、スープをつくりはじめる。骨董屋の老いた店主はすっかりそのストーブに魅了され、手放したくなくなる。
 若い頃離婚した店主の奥さんと、ストーブの幻の娘が織りなす幻想的なお話で、過ぎ去った遠い時間に戻って行く結末が甘くせつない。
 
 私はファンタジーが大好きだが、そのなかでもタイムトラベルものはたまらない。
 タイムトラベルというのは、たとえば夏休み、田舎のおばあさんの古いお屋敷に遊びに来た子供たちが、屋敷の奥の不思議なドアを開けたら、向こうには見知らぬ世界が広がっていた、そこは別世界で・・・・、というような設定である。
 別の場所、別の時代に行って様々な体験をしたり、あるいはハラハラドキドキの冒険にまきこまれたりする。
 再び元の世界に戻ってきたとき、単調で退屈な日々を送っているまわりの人たちの中で、主人公は心の中にすばらしい思い出をかかえているのであった。
 タイムトラベルの傑作は、児童文学にたくさんあり、たとえば、
 イギリスの女性児童文学作家アリスン・アトリーの「時の旅人」
 同じくイギリスのフィリパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」
 長編シリーズものの「ナルニア国物語」
 日本のものでは、梨木香歩の「裏庭」
などは楽しかった。
 「時の旅人」は現代と十六世紀のスコットランドを行き来する少女の物語で、かなり分厚い本であるが、何度か読み返している。面白いのである。はらはらどきどきしてやめられない。
 長編小説なので、正月休み、夏休みなど長期休暇の時などに読書三昧読み浸る。
 ロンドンに住む平凡な家庭の少女が、ひょんなことで十六世紀のとあるお屋敷に行ってしまう。そこは遥か昔少女の先祖が暮らしている屋敷だった。 女中、使用人など大勢の人々が生活しており、少女もそこで暮らし始める。
時代はイングランドの女王とスコットランドの女王との確執が高まる時で、次第に緊迫してくるストーリーにはまると、一気に読んでしまう。読み終わった時の不思議な非現実感と陶酔感がなんともたまらない。
 「トムは真夜中の庭で」も何回か読んだ。
 弟が伝染病にかかり、一時的に隔離のためトムはおばあさんが家主の家に預けられる。
 そのおばあさんの家のホールに大きな時計があり、深夜、時計が十三時を告げるのに気がついた。
 不審に思ったトムがその時間庭の外に出てみると、そこは別世界だった。
 トムはそこでひとりの少女と出会う。深夜の出会いを繰り返しトムと少女は親しくなっていく。
 物語のラスト、別世界の少女と現実が重なっていることにトムは気づいた。ここが感動的な場面で、これ以上しゃべらないことにするが、時の経過というものの不思議さ重さを教えてくれる。
 子供や若者のころ、長い時の流れというものをなかなか実感できないものだが、この本を読むと、図解で見せられているように理解できてしまうのである。ファンタジーならではの醍醐味である。

 小野不由美「十二国記」はK子に教えてもらった。
 表紙に劇画風の絵がついた、若い女性向けの文庫シリーズで、今までこの方面の本は読んだことがなかった。
 卒業式の少し前、もう授業もなく仕事はまだ始まらない、エアーポケットのように自由で暇な春の日のことだった。
 二俣川の大池公園の奥の広い芝生のベンチで、木製テーブルの上に指で十二国の地図を描いて説明してもらった。
 物語は、現代の女子高生が異世界に行ってしまうという点ではタイムトラベルである。しかし行ったきりで戻ってこないから、異世界ファンタジーものといったほうがいいかもしれない。
 平凡な女子高生陽子の学校に、ある日突然不思議な男があらわれる。
 男は彼女の前にひざまずき是非一緒に同行してほしいと頼む。男は異世界から陽子を迎えにきた麒麟という使者だった。
 異世界に向かって旅立った彼女たちに異様な怪物たちが襲いかかってくる。大長編ファンタジーの第一巻は魔界の怪物たちとの死闘の連続となる。
 さまざまな厳しい試練を経て陽子は十二国のひとつ慶国の女王となり、国を治めていく。
 と、ざっとこんなあらすじなのだが、作者の小野不由美は大学で中国古典の文学を学んだ人で、伝奇文学、仏教に造詣が深い。
 その該博な知識を下敷きにして物語をつくっているので、構成、ストーリーが底深く厚みがあり、長編全巻あっというまに読んでしまった。
 K子に、
 「先生、読むの速いね」と言われてしまった。
 作者の造語と思われる難しい漢字の言葉が随所にでてくる。
 たとえば「登極」(女王に認定されること)などという言葉や「蝕」などという言葉などがでてくる。
 これらが中国古典伝奇物語風な雰囲気をかもしだしていて、独特の世界を作りあげているのである。
 
 どうしてこんなにファンタジーが好きなんだろうと考えることがある。
 私の弟は元銀行員で、こういう空想の世界にはまるで興味がないようである。人は大別して、フィクション派、アンチフィクション派に分けられる。
 しかし私は思う。この世界は不思議に満ちている、満ち満ちている驚異の世界である。
 すべての物質は分子、原子から成り立ち、さらに分子、原子は最終的には、素粒子という究極のかけらから構成されているという。
 さらにその素粒子はトップクォークというような微小な粒粒から出来ているらしい。ではその粒粒は何から構成されているのだろう。ここまでくると、果てしがない。
 よくいわれることだが、宇宙の外側はどうなっているのか、と思う。図書館で色々宇宙の本や物理学の解説書など見てみたがよくわからない。
 生命というのも不思議である。遺伝子レベルでは人も植物もほとんど同じようなものだという。人体を構成する無数の細胞の一個一個にすべて同じ遺伝子が入っているという。いったい誰がこんなすごい設計をしたのだろう。不思議すぎる。
 人間は不思議に囲まれ、不思議に思ったまま死んでいく。まさにファンタジーの世界に生きているのである。

 
● 絵本を出版した
  読書は楽しいが本を作るのも楽しい。楽しいが大変である。
 今までに絵本一冊、デザイン書一冊書いている。
 絵本は子供が小さい頃作った。ものになったのは一冊だけだが、十冊ほど作っている。
 最初の一冊目はイラストレーションボードにアクリル絵具で描いた。イラストレーションボードは上質のボール紙のような画材である。厚さがあるのでこれが何枚かまとまるとけっこうかさばり重い。
 青い小さな船が川を下っていくストーリーで、途中本のトンネルをくぐったり、大きな魚に追いかけられたり色々な体験や冒険をするお話である。
 この作品をもって出版社へ行った。
 制作した絵本と似たような傾向の絵本を見つけてその出版社の編集部にいくのである。
 その出版社は、私が訪れた最初の出版社だった。それだけに印象深く今でも記憶に残っている。
 渋谷だったか青山か、雑踏の道路からすこし脇道に入った静かな住宅街の一角にその建物はあった。チロルかどこかヨーロッパの山小屋のような角度のついた大屋根のしゃれた建物だった。
 静かな中年の婦人といった感じの人が応対してくれた。
 お茶をだしてくれ、持っていった作品をていねいに見てくれた。ゆっくりうなずきながら「いい絵ですねー」「夢がありますねー」なんていいながらながめていた。
 しかしそれ以上話しは進まず、「こういう作品を出版できるといいんですがねー」ということで終わってしまった。
 作品をかかえた帰り道は、ちょっとつらいものがある。
 どこがだめだったんだろう?、どこをどう直したらいいんだろう?、とりあえず今は何も思いうかばない。
 制作の疲れがどっとおしよせてくる。今後の前途多難が予想され、とぼとぼと帰った。
 そのあとは思いつくまま色々作品を作り、あちこちの出版社に持ち込んでいった。
 吉祥寺だったか国分寺だったかの出版社は、駅からかなり歩いた古びたビルの二階に編集室があった。
 狭い階段を上って行くと通路の脇にコミック誌がびっしりと紐でくくられて積んであった。これから出荷する新刊本のようだった。
 ドアを開けて入ると、三十代後半くらいのきれいな女性編集者が出迎えてくれた。大柄ではきはきと明るい感じの人だった。
 自分でお茶をいれて出してくれた。この人一人しかいないようだった。親切な人で、行くたんびに私の原稿をしっかり読んで、助言を与えてくれた。
 そのときは、雲のむこうから巨大な魚が飛んでくるというお話の絵本を描いていたのだが、ストーリー、登場人物、クライマックスの設定方法など、色々絵本作りのノウハウを教えていただいた。
 「この登場人物がここで消えてしまってそのままお話が終わるのはよくありません。読んだ子供が不安になります。どうしたんだろうと思います。ひとことでいいから説明があったほうがいいのです」
 といった感じでわかりやすく具体的に助言してくれるので、ただで絵本制作講座を受講しているようなものだった。
 この編集部には何回かかよった記憶がある。
 駅を出ると、大きな街路樹の並んだ一直線のきれいな道路を歩き、途中某私大の脇を通り、雑木林の下をきれいな用水路が流れている道をたどって行ったのを思い出す。
 また青山の近くの小さな出版社に行ったときはおもしろかった。
 ビルの一室の狭い部屋のなかに社長兼編集長の中年の男性がいた。
 酒をがぶがふ飲みながら私の持っていった作品を見るのである。
 「おたくも飲まない?」といって酒をすすめる。こちらもきらいなほうではないので「すいません」とかいいつつグラスを飲んだ。
 二人共ほろよいになりながら、持っていった作品そっちのけで、絵本談議に花さかせたのだった。
 その後もあちこち絵本の原稿を出版社に持ち込んだ。誰でも知っている大手出版社も行ったし、児童書として名門の出版社にも行った。
 そうしてわかってきたのは、持ち込んだ原稿を「しばらくお預かりしてよろしいですか?」と言われたら、かなりあるいはちょっと有望なのである。  少なくともその日、作品を持って帰らなくていいのである。
 気分がいい。手ぶらになった私は駅の売店で酒を買い、電車の中でぐびぐび飲みながら帰宅したのであった。
 
 私の絵本が出版される出版社ととうとう巡りあった。
 当時、九段の近くにあった大手出版社だった。大きなビルがその出版社だった。
 入口を入ると幾つかのブースに分けられて、広いフロアーが区切られている。静粛な空間である。所々のブースでなにかひそひそ打ち合わせのようなことをしているようである。受付嬢の案内で指定のコーナーにすわり編集者の到来を待つ。
 しばらくして編集者があらわれた。若い男性である。
 じっくりと時間をかけて作品を見ている。そのあと驚いたことに声を出して読みだした。読みながら文章と絵の対応をチェックしているようだった。
 「この動物は鹿ですよね? 鹿だったら角を描いていただけませんか?」
と編集者にいわれた。この作品では絵をシンプルに単純化し、様式化して描いていた。ディテールをはぶいていたので角らしきものが描いてなかったのだった。
 「はい、わかりました、つけます」角一本で没になってはたまらない。
その後何回かここに来て打ち合わせした。
 ストーリー、クライマックス、絵の構成等、色々手直しがあった。私の自宅にも何回か来てもらったことがある。そうこうしてとうとう出版されることになったのであった。
 編集者と一緒に印刷所に行った。裁断する前の大きな紙に私の絵本が印刷されていた。印刷状態のチェックに来たのである。色味の検討、へんな染み、点などついていないか?、目を皿のようにして捜す。問題なければ製本にはいるという。
 このような経過をたどり、私の最初の絵本「ググとともだち」は出版された。
 自宅に段ボール箱が届く。
 中にできたての絵本が数冊入っていた。絵本を開くと小さいパンフレットがはさんである。開くと作者紹介があり私の顔写真と短文がのっていた。とうとう絵本を出版した、という感動がこみあげてきた。
 生まれて初めて印税というものを頂いた。不思議な気持がした。こういう働き方、こういう収入の得方があるのだった。
 翌日横浜駅にある大きな書店に行ってみた。
 自分の絵本が並んでいる。感動である。信じられない。いつまでもそこに突っ立っていた。
 
 その後、デザイン書を同僚の女性教師との共著で出版した。二、三年前のことである。
 元々その先生の発案で、なにかデザイン雑貨の本を作ろうという話があった。一人でやるのは大変だけれど二人なら助けあってなんとかなるんじゃないかということだった。出版社も知り合いがいるという。今回は出版社めぐりはしなくていいのだった。
 近くのホテルのラウンジで編集者との初顔合わせがあった。
 どっしりと絨毯の敷かれた豪華な室内の丸いテーブルを囲んで三人ですわった。
 編集者はまだ若いきれいな女性だった。
 技術専門書の出版社の編集者らしく知的な雰囲気である。絵本の編集者とまるで感じが違う(絵本の編集者が知的でないというわけではない)。
 あいさつを交わしてから、本の内容についての話になった。デザイン入門書という位置づけで、雑貨のデザイン、設計製図などをメインとする、ということになった。次にスケジュールを決める。おおまかな予定を決めて第一回の会合は終わった。
 女性二人がいるとこのままでは終わらない。なにかおいしいものでも食べましょう、ということになり、先生の案内で近くの店に連れていってもらった。私は遠慮しながら酒を少々注文した。
 このデザイン書作りは、これはこれで大変だった。
 なにが大変なのかといえば、原稿を作るのが大変なのである。二人で話し合っておおまかに二分する。それでもけっこうな分量である。これを全部ひとりでやれといわれたらたいへんである。
 絵本と違ってページ数が多い。文章がいっぱいである。更に図面やレンダリングというパソコン画をたくさん画かなければならない。
 女の先生は自宅の近くの高台の上に別邸を持っていて、そこで時々打ち合わせをした。
 この別邸は延々と急坂を登りきったところにあり、背後は雑木林に囲まれ、まるで軽井沢の別荘のようだった。私は毎回一時間半ほどかけて自転車でいった。
 打ち合わせの帰り、夜になり、道路の両側の満開の桜が美しかったことがあった。四月ごろだったのだろう。
 また別邸に着いたとき汗だくでしばらく汗が止まらなかったときがあった。このときは夏の盛りのころだったのだろう。先生に出してもらったどんぶりいっぱいの冷えたトマトがとてもおいしかった。
 この本づくりはすべてパソコンでおこなった。文章、図面、レンダリングなどである。
 絵本のときと違って、編集者からあまり注文をつけられない、この点は楽だった。
 制作にトータルどのくらい日数がかかったのだろう。おかしなものでまだ二、三年前のことなのによく覚えていない。
 またなにか本を出したいと思っている・・・





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