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なぜ、男女平等は、女性優遇を意味するのか?


フェミニストは、なぜ女性優遇を推進するのか?


結論だけ先に書くと、フェミニストは、女性の能力を過大評価し、男性の能力を過少評価しているからだ。


男女平等は女性優遇


「男女平等」思想が広まっていると言っても、現状のそれは結局のところ「女性優遇」思想に過ぎない。

https://note.com/wakari_te/n/n08ca6fd98cec

主要マスメディアにおいては、まだまだ男女平等を追求する動きは活発である。国連が掲げるSDGsにおいても、ジェンダー平等が掲げられている。(ジェンダー平等と持続可能な発展の間に何の関係があるのだろうか?)

一方で、小山(狂)氏や、白饅頭氏などのネット論客コミュニティの間では、男女平等は、結局のところ女性優遇でしかない、ということが常識となっている。

筆者も、「男女平等」「ジェンダー平等」の名目で推進される施策は、事実上の「女性優遇」であると考えている。

だが、なぜ「男女平等」は「女性優遇」を意味するのだろうか?

女性優遇の理由として、女性には性的な魅力があるからだ、と結論づけられがちだ。

だが、例えば第二次世界大戦前の日本などでも、女性には性的な魅力があったはずだ。それにもかかわらず、女性優遇政策が実施されることはなかった。だから、最近の「女性優遇」施策の原因を女性の性的魅力に求めるのは、間違っている。

最近の「男女平等」≒「女性優遇」が強力に推進されるようになった原因は、ひとつのミーム(信念・思想)の普及である。

それが、「女性の能力は男性と同等である」というミームである。



フェミニズムの中核

フェミニズム理念の中核には、「女性の能力は男性と同等である」とする考えがある。

女性であっても男性と同じように教育を与えられ、自由な選択権を与えられれば、男性と同じパフォーマンスを発揮できるはずだ、とフェミニストは考える。

「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」は、フランスの女性作家 ボーボワールの言葉であり、フェミニスト運動の合言葉となった。

この言葉は、小学校の教科書にも掲載され、義務教育レベルで深く浸透している。

日本国で義務教育を受けた人間、ほとんどすべての日本国民は、「女性の能力は男性と同等である」と強制的に学校で教え込まされる。義務教育で教えられることは、すべて「正解」である。それゆえ、「女性の能力は男性と同等である」は常識レベルで当然のことだと、ほとんどすべての日本国民がそう思い込んでいる。

そして、効率的な義務教育の結果、「女性の能力は男性と同等である」との前提に基づいて社会は動き続けた。

まず、男女雇用機会均等法がつくられ、女性の就業に関する差別が撤廃された。

男女雇用機会均等法をつくっても女性が男性より活躍できないと、アファーマティブアクションの名のもとに、女性にゲタをはかせる行為が公然と実施されるようになった。科挙の伝統を受け継ぐ ”公平な” 大学受験においても、東大や東工大において、女性枠が設けられるありさまだ。

様々な企業において、女性管理職や女性役員の比率目標が設定され、実際にダイバーシティ推進室など、会社で専属の部署が設置され、女性社員を特別にバックアップする取り組みがされている。
ほとんどの大企業において、女性管理職比率の目標値が公然と掲げられており、それがIR資料に掲載されている。

2024年現在、ほとんどなりふり構わぬ、女性優遇政策が推し進められている。


女性優遇政策が公然と推し進められる根拠は、以下の通りだ。

A. 女性の能力は男性と同等である。
B.   それにもかかわらず、管理職や役員になっているのは、男性が多い
C. これは女性差別が、社会に残っている証拠である
D. 差別を撤廃するため、積極的なアクションを起こさなければならない。

「アファーマティブアクション」の正当性の根本には、「女性の能力は男性と同じ」という前提が存在している。


「女性の能力は男性と同じ」

この前提を、ほとんどの人たちが認めていると思う。
(義務教育でこれが正しいと教えられる)

だが、その意味するところを本当に理解して、
「女性の能力は男性と同じ」であると、認めているのだろうか?

「女性の能力は男性と同じ」と認めることは、男性の命は女性の命より何倍も軽い、ということを意味するのに。



女性だけが持つ特別な能力

女性は、男性にはない特別な能力を持っている。

子供をつくる能力だ。
”人間を製造する”という”特別な力”である。
異世界転生小説風にいえば、特殊スキル  ”ヒューマン・クリエイト” である。

女性が子供を産まなければ社会は存続しないし、そもそも人間が存在できない。

とても重要な能力だ。

一方の男性は、子供を作ることができない。

もし仮に、「女性の能力は男性と同じ」だとしたら、女性の価値は、男性より圧倒的に高くなる。

女性の価値と、男性の価値の差は、「人間を製造できる」という価値だ。

「人間」の価値はいくらだろうか?
算定は困難だが、ざっくりと計算してみよう。

日本のGDPは年間 500兆円だ。このGDPを日本の人口約1億で割れば500万円となる。つまり、日本国民は、1人当たり年間 500万円の ”富” を生み出している。

人の寿命をざっくり、80年とすれば、500万円×80年=4億円 となる。つまり、人ひとりが生み出す価値は4億円となる。
(先ほど計算に使った日本の人口 1億は、お年寄りから赤ん坊まで含んでいるから、概略計算としてこれで問題ない)

さら、女性が本気をだせば、子供を10人くらい産めるのである。

つまり、1人の女性が潜在的に持つ「人間を製造する能力」の価値は、40億円に相当する。

現在の女性が実際に、10人産むことは稀である。また、”富”を生産するために必要な教育投資や、雇用環境なども重要になる。日本全体でみて、実際はもっといろいろな要素がからみあう。

だが、女性1人がもつ、「人間をつくる能力」の価値は、億単位であることは間違いない。

「男性と女性の能力が同じ」だと認めるならば、女性1人の価値は、男性1人の価値より、(少なく見積もって)数億円程度高いことも認めなければならない。


フェミニストの目に映る世界は、無価値な男どもが不当に優遇されている世界である。

フェミニストが女性優遇を求めるのは、当然だ。女性は男性と比べて、少なくとも数億円分の価値があるのだから。


女性の潜在能力を計算してみよう。

例えば、100人の女性が、10人ずつ子供を産むと、1000人の日本人が生まれる。この1000人の日本人は、年間 500万の価値を生み出す。(もちろん、全年齢を平均してである)
それゆえ、この1000人の日本人が生涯にわたって生み出す富は
500万×1000×80=4000億円
となる。

4000億円というと、カルビー、ライオン、フジ・メディア・ホールディングス(フジTVのことだ)、高島屋、中国電力などの、一般に名が知られる大企業の時価総額と同じになる。

これは、もちろん最大値であり、現実的ではないかもしれない。だが、女性が生み出すことのできる価値は、べらぼうに高い。なにせ、女性が子供を産まなければ、人間社会は存続できないのだ。

それゆえに、
男性の価値は、女性と比べて著しく低い。

それゆえに、
フェミニストは女性が優遇されて当然だと考える。

なぜなら、女性は男性と比較して、実際に価値が億単位で高いのだから。



トロッコ問題


女性1人の命は、男性何人分?

トロッコ問題は、命の価値や倫理を問うために使われる思考実験だ。

1人を犠牲にして5人を助けることは、”正義” なのかどうかが問題にされる。

もちろん、同じ人間であれば、5人を助けた方がよいだろう。

では、トロッコ問題で1人の女性と1人の男性、どちらを助けるべきだろうか?

義務教育で「男女平等」を学習した日本人であれば、答えは簡単だ。女性の方が子供を産む能力分だけ価値が高い。だから、女性を助けることが正義となる。

では、男性2人と女性1人ではどうだろうか?
そして、男性3人と女性1人ではどうだろうか?

女性1人の命は、男性何人分の命と釣り合うのだろうか?

女性は子供を産める若い女性だとしよう。彼女が産む子供の数は、簡単に計算するため2人だと仮定する。

男性1人の価値と女性1人の ”子供を産む能力を除いた” 価値は、同等だ。

女性が産む子供は、”男の子1人”と ”女の子1人” とする。
当然、女の子の価値は男の子より、子供を産む能力に相当する分だけ高くなる。女の子はまた子供を産んで、その子供の女の子も子供を産む・・・・となるため、割引率の計算が必要になる。
(未来の価値を割り引いて計算しないと、女性の価値は無限大となってしまう。女性1人の価値が、男性1万人の価値を上回るなどということは、さすがにありえない。)

Case A  シンプルに考える

直感的に考えるならば、女の子が生まれてきて、その子がまた子供を産む可能性があるだけ、女性が子供を産む能力は、(男の子 1人 + 女の子 1人 + 女の子が子供を産む能力の価値)となり、2よりも大きくなりそうだ。

つまり、女性がもつ、子供を産む能力の価値は、少なくとも男性2人以上と評価できる。

この場合、女性が持つ価値は、本人の価値(1人分)+子供(2人分)+女の子の子供がもつ子供を産める価値(x人分)となり、男3人より価値があることになる。

トロッコ問題で、男性3人と女性1人の命の価値を比較した場合、女性1人の価値の方が大きい。

つまり、女性1人を助けるため、男性3人を見殺しにする(か、レバーを操作して死んでもらう)のが合理的である。

男性が4人になると、少し評価が難しくなる。

このように、女性の価値はすこぶる高い。

女性が優遇されるのは当然である。


Case B  割引率を使う

未来をどれだけ割り引いて考えればいいのだろうか?
これは、その人がおかれた状況や、環境にひどく依存して、一概に決めることはできない。

ここでは、割引率として”2%”を使用する。
2%を使用する理由は、それが通貨発行機関(日本銀行)が考える理想の金利だからである。(日本銀行は、2013年より、物価上昇率を2%にすることを目標に金融政策を実行している。)

一般的に、人は、20歳くらいまでは一方的に”富”を消費する。そして20歳から60歳まで40年間働いてたくさんの”富”を生み出す。その後、60歳から80歳で死ぬまで一方的に”富”を消費する。

日本人1人当たりのGDPは、年間 500万円だ。この日本人には、赤ん坊からお年寄りまで含まれる。

日本人の人口が均等だと仮定し、20歳まで年間500万円の”富”を消費する、20~60歳までは年間 1500万円の”富”を生み出し、60~80歳までは年間500万円の”富”を消費すると仮定する。

0~20歳 ー500万円
20~60歳 +1500万円
60~80歳 ー500万円

すると、この人の生涯を通じた”富”の合計は、4億円となり、
500万円×80=4億円 と、ぴったり一致する。

20~60歳の生産量 1500万円は多すぎると思われるかもしれないが、これはGDP に相当する ”富” の数値であり、給料の話ではない。
会社員は、給料の3倍を売り上げないと赤字と言われることを考えれば、給料500万円の3倍の富を生みだすとした計算は、大きく外れていないだろう。

では、ここで年 2%の割引率を適応してみる。

子供を産み・育てることを考えよう。
先ほどの仮定において、子供は年間 500万円の費用がかかる。20歳になれば、子供は”富”を生み出すが、20歳までにかかる500万円は、20歳以降に生み出す500万円より、重い。未来のカネのほうが2%分、割り引いて考えなければならないからだ。

割引率のない世界では、人間1人あたり4億円の富を生み出すと計算できた。割引率 2%の世界では、人間1人あたり1.7億円の富を生み出すことになる。これは、20~60歳までの働く期間に稼ぐ富が、割引率により目減りしていくからだ。

割引率が存在する世界では、未来の”富”、未来の”カネ”は、過少評価される


以上が割引率の概念である。

人間が成人するのは18歳であるが、18歳ですぐ子供を産むことは稀である。女性の平均出産年齢は30歳だ。

ちょうど都合のよいことに、割引率2%の世界では、30年後にカネの価値は、約半分になる。( 1÷ 1.02 ^ 30 =0.55 )

つまり、トロッコ問題において、女性が産む女の子の価値は、女性自身の半分と評価すればよいことになる。

つまり、女性1人がもつ子供を産む能力の価値は、

男の子 1×0.5 + 女の子1×0.5 + 孫(男) 1× 0.25 +  孫(女) 1× 0.25 + ひ孫(男) 1× 0.125 +  ひ孫(女) 1× 0.125^2 + ・・・と続き

合計すると、2.0 人 となる。

女性1人がもつ、”子供を産む能力の価値”は、2人ということになる。

女性自身がもつ、男性と同等の価値1人を足せば、女性の価値は男性3人に相当することがわかる。

男性と女性の価値の比率は、1対3 だ。

女性の命は、男性の3倍 重い

トロッコ問題では、女性1人を助けるため、男性2人を見殺しにする(か、レバーを操作して死んでもらう)のは正しい。

女性1人を助けるため、男性3人を見殺しにするのは、よくも悪くもない。レバーを操作せず、トロッコのなすがままにするべきだ。


フェミニストの怒り


大半の男は不要な生き物だ。

「女性の能力は男性と同等」なのだから、子供を産めない男性は、生物としては女性の劣化版である。

もちろん、子供をつくるのに必要ではあるが、実際問題として上位1%だけ存在すればよい。もっとずっと余裕率を多くとって、安全率を10倍にしても、上位10%だけが存在すればよい。

つまり、9割の男は不要である。

本来、9割の劣った男たちは、ベルトコンベヤーで選別されるオスひよこのように、選別されシュレッダーにかけられる運命にある。それを女性の慈悲で生かしてやっているなのに、男の扱いがひどい、男女平等じゃないなどと、文句をいう。

https://courrier.jp/news/archives/63841/  より


頭おかしいんじゃないのか?
お前たちは、本来ベルトコンベヤー上のひよこである。

男と女には、公平に見積もって1:3の価値格差が存在する。

女性が優遇されるのは当たり前だ。

大谷正平と草野球チーム選手の給料が同じだとしたら、それは平等だろうか?
孫正義とハローワークをうろつくおっさんの給料が同じだとしたら、それは平等だろうか?

ちがうだろ!

大谷翔平のような名プレーヤーには高額な報酬が与えられて当然だ。素人に近い草野球チームの選手は、少ない報酬で我慢すべきだ。

孫正義のような能力がきわめて高い人間には、高額な報酬が与えられて当然だ。ハローワークでうろつくおっさんの給料は、普通~やや少なめの給料が妥当だろう。

それを男どもときたら、まるで女性と同じ権利を与えられることが、男女平等だと勘違いしている。

草野球チームの野球選手が大谷翔平と同じ給料を要求する、ハローワークでおっさんが孫正義の給料を基準に、高額所得を希望する。

そんなのは、平等でもなんでもない。
不公正である。

女性専用車両がある? そんなの当たり前だ。たった1つの車両だけでなく女性専用の電車を走らせるべきだ。駅にも、女性専用の空間を設けるべきだ。

女性が男と食事に行ったら、男がおごるのは当たり前だ。外食費などたかが知れているはずだ。男たちがギャンブル(競馬・パチンコ)で散財するのと比較すれば、ごくごくわずかである。そのくらい、価値の高い女性に奉仕すべきだ。

男性ばかりがキツイ仕事をやる?そんなの当たり前だ。男性は、子供を産めない分、生物として劣った存在なのだから、せめて労働力くらいは供出すべきだ。

そもそも、9割の男たちは、競争に負けた時点で、ベルトコンベヤー上のひよこと同じ運命をたどるべきなのだ。それを、お情けで生かさせていただいているのだ。劣った生物なのにも関わらず、生きていられることを感謝すべきなのだ。

優遇される女性を天竜人などと、揶揄するなど、どれだけ調子に乗っているのだ!?

オスひよこのシュレッダーハウスにぶち込むぞゴルァ!

このビデオを見ろ!
これが、オスに対する妥当な扱いだ。


採卵養鶏において、卵を産まないオスの雛は産まれてすぐに殺処分されます。殺処分されるオスの雛は一年間に1億くらいということになります。
オスの雛の殺処分は次のような方法がとられています。

 袋に入れて窒息させる
 圧死
 生きたまま機械で粉砕(シュレッダー)
 ガス殺

https://www.hopeforanimals.org/eggs/427/



フェミニストへの反論


男性の能力は女性よりも高い


筆者は、「男性の能力は女性よりも高い」と考えている。

身も蓋もないが、これが事実だろう。

サピエンス全史でユヴァル・ノア・ハラリは、ほとんどの社会で男性は女性よりも優遇されたと述べている。女性への教育投資は少なく、女性が経済的に成功する機会は少なかった。

日本の平安時代を考えても、紫式部や清少納言といったスーパー上級国民クラスの女性たちの名前ですら不明なままだ。戦国時代においても、お市の方やねね、淀君など歴史的に重要な役割をはたしたにもかかわらず、女性の名前は、ほとんど残っていない。(例外は、日野富子、細川ガラシャなどだ。)

フェミニストであっても、人類の歴史の大半で、男性のほうが女性より優遇されてきたこと、これは事実と認めるだろう。

なぜ、人類の歴史で男性が女性より優遇されたのか?


「男性の能力が女性よりも高かったからだ」


もちろん、女性にしかない特別な能力 ”子供を産む能力” を除いての話だ。


人類の脳容積

単純に脳の容積を比較してみよう。

男性の脳が女性の脳よりも大きいことはよく知られている。それも1割を超えるくらい、明確で大きな差がある。

男性の脳容積と女性の脳容積が記載されている文献には、かならず「大きいほうが賢いわけではなく、男女の知的能力に差はない」と、いいわけのような注意書きが記載されている。

人間の脳容積をグラフにした。

人類の脳容量

ホモサピエンス 女 の脳容量は、ホモサピエンス 男と北京原人の中間に位置することがわかる。

なお、ネアンデルタール人の脳容量がホモサピエンスより、大きいことは有名だ。脳容量が大きい(賢い)はずなのに、サピエンスに負けたネアンデルタール人ということで、負けた原因が、いろいろ考察されている。
(例えば、サピエンスがアトラトル(投槍器)を発明したからだ、とか認知革命により”神”の存在を信じることができるようになり、大人数で団結することができたから、などである。)

※ ちなみに、サピエンスがネアンデルタール人に勝利した仮説のひとつ、アトラトルについては、こちらの動画がおもしろい。


脳容量の棒グラフを見る限り、やはり、脳の容量が大きい方が人類として進化しているように見える。(ネアンデルタール人は、残念ながら絶滅してしまったが。)

単純に考えて、脳が大きいほど、知的能力に優れているだろう。となれば、脳容量が1200ccのホモサピエンス 女 より、脳容量が1400ccのホモサピエンス 男 の方が、”脳”を使うタスクにおいて、優れている。脳がでかいからだ。

将棋のプロ棋士はすべて男性だ。将棋だけじゃなく、チェスやオセロなども男性と女性に大きな成績差が存在する。(もちろん、女性に不利なルールなどない)

単純に、脳が大きいから、男性のほうが全般的な知的能力にすぐれている、と考えるのが自然である。

逆に、育児に関するようなこと、注意深さやマルチタスク能力など、これらの能力は女性の方が高いと考えるのが妥当だろう。(マルチタスクは、子供の面倒をみながら、何か別の作業をするために必要な能力だ)

女性は、ただでさえ少ない脳容量を、これまでの進化の過程で、育児と育児に関連する能力に使ってきたのだ。育児を除く分野で男性と同じ能力があると考えるのは、傲慢というものだろう。

つまるところ、「男性の能力は女性よりも高い (但し、育児を除く)」となる。


男女比率

人類の歴史の大半で、男性は女性より優遇されてきた。

一方で、人類はその歴史の大半で、非常に貧しかった。飢餓・疫病・戦争により、その生活水準は、21世紀の最貧困国以下であった。
人類の歴史においては、電気も、水道も、ガスも、石油も、化学肥料も、化学品も、まともな医療知識も、何もかもがなかった時代が大半だ。

要するに、産業革命前の時代、前近代においては、人類の生活水準は、我々が想像できないほど貧しかった。

もし仮に、女性の能力が男性と同等であれば、女性の数が多くなるはずだ。近代以前においては、間引きは一般的な習慣であった。江戸時代には間引きを禁止する命令こそ出されたものの、ほとんどの場合、間引きにより罰を受けることはなかった。つまり、21世紀の日本とちがって、大衆が女児を望めば女児が(間引きにより)実際に増える環境にあったのだ。

だから、どちらの性別が望まれていたかを確認するためには、男性と女性の人数比を確認すればよい。

女性の方が、男性よりも何倍も価値が高い、すなわち  ”能力が男性と同等+子供をつくる能力” 、をもっているとすれば、生活ギリギリの前近代人は、多少不正を働いてでも、女児を多く産み育てようとするはずだ。

ところが現実の世界では、生活ギリギリの前近代人たちは、ほとんどすべての時代、ほとんど全ての地域において、女児より男児を歓迎したのである。

フェミニストは、男性を優遇する間違った考えにとらわれた愚かな前近代人たちが、男性を意味もなくありがたがったから、女児より男児が歓迎されたと主張する。

本当にそうだろうか? 

21世紀の飽食の時代に生きる我々と、ギリギリの生活をする前近代人とでは、どちらがシビアで現実的な判断をするだろうか?

そもそも、間違った考えや意味のない考えであれば、これほど長期間(人類が誕生してから、近代化が十分進むまで)、これほどの広い地域(ほぼ全世界)、間違いがえんえんと継続されるものだろうか?

単純に、男性のほうが役に立つ(能力が高い)から、男児のほうが好まれたと考えるのが自然ではないか?


もし仮に、フェミニストが主張するとおり、「女性の能力は男性と同等」だったら、子供を産めない男性は、生物としては女性の劣化版である。

であれば、女性のほうが多く生まれる変化が生じるはずである。

ところが、実際には逆の進化が生じている。

子供が生まれる場合の男女比は、1:1だと思われているが、厳密には1:1ではない。男児のほうが、1割ほど多く生まれるのだ。

厚生労働省「人口動態統計」によると,出生時の人口性比(出生性比)はおおむね105 ~107程度となる。

https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/final/pdf/01-03.pdf


男の子のほうが、身体が弱く、病気になりやすいから、子供のうちに死ぬ可能性が高い。だから、男の子が多く生まれるのだとする説明がある。

それはそうかもしれないが、なぜ、男女比を1:1にする必要があるのか?そのまま女性が少し多い社会を継続すればよいではないか?
お金持ちが複数の妻をもつことはよくあることだ。だから、女性が多くても困らないはずだ。

どうして、男が多く生まれるのだ?

単純に、男を多めに産む社会が生き残りやすかったからだろう。

この現象が生じるためには、男の能力が女の能力を上回っていないといけない。

少なくとも人類全体にとって、男と女の価値比率は3:1ではない。
むしろ出生性比の1.07から、7%に相当する分だけ、男の評価が高いのだ。

人類がその進化を通じて出した答えは、男の価値を1とすれば、女の価値は0.95くらいである。

ホモサピエンスのDNAが、男の価値は女の価値より高いと言っている。


江戸時代の男女比率


江戸時代の男女比率(性比)を分析した文献がある。その文献によると、驚くべきことに、江戸時代中期の性比は115もあった。

出生時の人口性比(出生性比)は105~107である。この江戸時代中期(18世紀)の性比 115では、男性の数が多すぎる。

通常、男の子のほうが、体が弱く死にやすいから、出生性比107から、性比は100に近づき女性の数が増えるはずだ。だが実際には、江戸時代を通じて、男性のほうが多かった。

これを実現するためには、女児に偏った大規模な間引きが必要である。

https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/files/public/3/38670/20170425034818568179/25285151_79-96.pdf  より

上の図の引用元の論文では、出生女児の1割を間引きするケースと、出生女児の2割を間引きするケースの2ケースが示されている。

江戸時代の中期(1732年)の性比 115は、女児の10人に1人(1割)を間引きした結果出現する値である。なお、東北や関東などでは性比が130であり、女児の5人に1人(2割)が間引きされたと推定される。

江戸時代中期の住民たちは、女児の10人に1人、場所によっては女児の5人に1人を間引きしていたのである。


いうまでもなく、これは「女性の能力は男性と同等である」とするフェミニストの主張と相反する。

よくよく考えてほしい。江戸時代のビンボーな庶民が、わざわざ間引きを使ってまで、男性を多く育ててきたのである。

もし仮に、女性の能力が男性と同等で、かつ女性には子供を産む能力がそなわっていたとしたら、なぜ江戸時代のビンボー庶民は、男性を多く育てたのだろうか?

江戸時代は貧乏である。何度も飢饉に襲われている。庶民の生活はギリギリだった。それでも、江戸時代の庶民は、男性を多く産み育てた。

フェミニストの主張では、江戸時代に男性が重宝されたのは、男性優位の社会だったからだ。つまり、男性の方が能力的に優れているという誤った考えに毒されていたため、江戸時代のビンボー庶民、食うや食わずのビンボー庶民は、わざわざ間引きまでして、男性を多く育てたのである。

おかしな話だ。

もし仮に、「女性の能力は男性と同等」なのにもかかわらず、男性の方が能力的に優れているという誤った考えに毒されていたならば、そのような非効率な社会は、女性が活躍する社会に駆逐されたはずだ。

ところが、なぜか、江戸時代の日本だけじゃなくて、戦争の多いヨーロッパ、異民族に侵攻されがちな中国大陸、古代オリエント、中東、インド、ほとんどすべての世界で、女性が活躍する、効率的な社会が歴史に名を残したためしがない。

中国の辺境の地に住む少数民族モソ族は、女性が活躍する、女性優位の女系社会である。モソ族の例から、今までの人類の歴史でも、女性が活躍する社会が発生していることがわかる。だが、なぜモソ族は、チンギス・ハーンのような大規模征服活動を行わなかったのだろうか?


少数民族であるチベット=ウイグル族だって、唐時代には安史の乱に介入して玄宗皇帝(楊貴妃の旦那)を助けたりして、活躍しているのである。

もし、「女性の能力は男性と同等である」ならば、女性の力を活用する、モソ族は圧倒的な優位性を手に入れているはずだ。ウイグル族のように中国王朝の歴史に介入してもおかしくない。

だが、そうはならない。

男性の能力は女性よりも高いからだ。

よくよく考えてほしい。

21世紀の、飢餓もなく、疫病もなく、空調の効いた部屋で過ごす、生活保護があり仕事をしなくとも飢える心配のない日本に生活する我々と、

江戸時代の、食うや食わずの庶民とでは、どちらがより真剣に、合理的な選択を迫られているだろうか?

江戸時代の庶民が、間引きしてまで”男”を欲しがったのは、やはり、それだけの理由があったからだろう。

男の方が役に立つ。
単純にそう考えるのが合理的だ。


まとめ


フェミニストは主張する。
「女性の能力は男性と同等である」

この仮説が”正しい”としたら、男性の価値は子供を産む能力分だけ女性より低くなる。

この仮説を”正” として、いくつかの条件において、男性の価値と女性の価値を比較検討した。その結果、女性の価値は男性の3倍程度になった。

フェミニストは、3倍も価値のある女性が優遇されるのは当然だと考えるだろう。

一方で、フェミニストに反発する人たちは、「女性の能力は男性と同等である」と認めながら、その一方で、男性と女性の扱いを平等にすることを「男女平等」だと考えている。これではフェミニストは納得しないだろう。

フェミニスト反対派は、「男女平等とは、結局のところ女性優遇である」などと婉曲的に批判するのではなく、フェミニストが提唱する仮説「女性の能力は男性と同等」が、根本的に間違っていると指摘すべきだ。


「男性の能力は女性の能力より高い」

根拠は、脳容量、現在社会における男性と女性の活躍度の差、前近代社会が男児を好んだこと、江戸庶民が男児を好んだこと、究極的には、人類そのものが男児を多く出産することをDNAに組み込んでいること。

人類が生物として出した結論は、出生性比を5~7% 男児多めにすることだ。

つまり、女性の子供を産む能力を含めたとしても、男性のほうが価値が高い。と人類のDNAが言っているのである。

フェミニストの提唱する基準:「女性は男性の3倍の価値がある」
人類のDNAに基づく基準:「女性は男性の0.95倍の価値がある」

男は、人類のDNAから ”価値がある” と太鼓判を押されている。

男は、もっと自己主張すべきだ。

女の能力は、男より低い!
女の価値は、男より低い!

と。








参考:人類の脳容積グラフ作成に使った ソース


男性脳と女性脳の違いは?構造やホルモン、思考回路などの違いを紹介! | Hapila [ハピラ]


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