【書評】20歳の自分に受けさせたい文章講義/古賀史健
最近、執筆のお仕事をいただく機会がありました。そのうちのひとつは、監修、ということで、他の方が書いた記事も確認して少しだけ赤を入れることも求められました。
そんなこともあり、以前読んでいた本書を再び手に取ることにしました。
本書を読んだ当時(2016年ころ)、「文章読本」的な書籍はたくさん読んできたし、もう文章読本のような本はもう読まなくてもいい、それより他に読みたい本も読まなくてはいけない本もある、文章読本を読んでいる暇に書け、と思っていた時期でした。
しかし、この本は別でした。必要があって読んだのですが、もっと早く読めばよかった、と思ったものです。もっとも、さまざまな経験をしてきたからこそ理解できたこともたくさんあったので、いいタイミングだったとも思いました。そして、さらに経験を積んだいまだからこそ再読する意味があったのだと思っています。
学んだことは書ききれないほどありますが、あらためて今回、強く感じたことを三点、取り上げてみます。
■文体とは
「文体が大切だ」
とよく聞きます。僕も「今回は文体を変えてみた」のような使い方をしています。しかし、よく考えると「文体」とはなにか、具体的にわかって書いてきたように思えません。また、どの本を読んでも、文体を明確に定義しているのを見たことがありませんでした。
古賀さんは文体をこう定義されていました。確かに文体を”文章の調子”のようなニュアンスで使ってきたな、と思います。では、そのリズムはどうすれば生まれるのかと言えば、
とのことです。ここまで読んできて、自分の中でばらばらだったものがつながったように感じました。
大学受験の浪人時代、「論理が通った文章を書くこと」を仕込まれました。小論文は「論文」である以上、論理が通っていなくてはいけない、と言われていたのです。もっともだと思い、そう書くように努めましたし、実際書いていたと思います。
いま書いているのはけっして「論文」ではありません。その想いがあって論理展開を強く意識することがなくなっていたように思います。支離滅裂なものでは伝わりようがなく、当然、論理を無視しているわけではありませんが、意識の度合いは低かったです。
逆に、がちがちに論理で押すと文章が硬くなってしまうのではないか、と考えてしまっていたのではないかと思います。その意識の間違いに気づかせてもらえました。
次に想定読者のことがあります。
■想定読者
これも無視して書いてきたわけではありません。マーケティングでターゲットを考えることが必須のように、想定読者を考えない文章はありえないと思ってきました。
ただ、そのターゲットを広く取ろうとしすぎるきらいがあるのだと思いました。マーケティング戦略で言うと、標的市場を大きなセグメントにしてしまいがちになる感じです。 しかし、それでは伝わらない。この本では”八方美人”と表現されていますが、そういう態度で書いても伝わる文章にはならないのだと、感じてきていました。
古賀さんは、そうではなく「特定の”あの人”」に向けて書くのだ、と言われています。振り返ってみれば、以前、「たった一人に向けて書け」という課題で書いたものが、結果的に多くの人に伝わって経験をしたことがありました。ターゲットを広げ過ぎれば焦点がぼやけてしまう。絞り込むことで深く遠くに伝わる可能性が高いのだと再確認できたように思います。最後に推敲について。
■推敲とは何か
自分の文章を推敲するとき、あるいは他人から校正を頼まれたときも、どうしても細かいところに目が行きがちになります。てにをはであったり、言葉の使い方であったり直すことに注力してしまいます。
それも大事な作業の一部だと思いますが、もっと大切なのは全体の構成をどうするかを考え直すことなのだと思いました。これでいいのか、これで伝わるのか、もっと伝わるような流れがなるのではないか。そうしたことを考え抜かなくてはならないのでしょう。
最初に考えた構成案に引きずられたまま、細部を校正しても考え抜いたとはいえません。たまたま最初の案が良かったらいい文章、伝わる文章になるだけで、ある意味、運任せということになります。自分の文章に責任を持つならば、一度白紙にして見直すくらいの心構えを持たなくてはダメなのだと痛感しました。
結局、
であることを忘れないようにしなくてはいけない。他人に影響を与えることに対して謙虚にならなくてはいけないのだと思います。
*古賀さんの文章本は、こちらもさらにお薦めです。