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書くことが辛いんです
最近noteの更新が滞っています。申し訳ありません。
年始から、いきなり盆と正月とクリスマスがいっぺんに来たような忙しさで、マジで時間がありません。
いろいろなプロジェクトが佳境を迎えているし、2月下旬に出版予定の書籍のゲラチェックはしなきゃいけないし、その次の作品は3月までに第一稿を納品しなさいと編集者から詰められております。
ひょっとしたら、noteの文章なんてすぐ書けるだろう?と思っている人もいるかもしれません。僕はVoicyでは毎日365日40分くらいの音声を配信しているのですから、音声ができるなら文章も同じだろう、と。
違うんですよ。これが。
音声はストレスなくアウトプットできるのですが、文章を書くのは本当に命を削る思いがある。ええ、このようなnoteのような他愛のない文章でさえ、苦しいのです。
音声と比較して、10倍くらいはストレスかかっているはずです。
noteを毎日更新されている方もいますが、本当すごいと思います。絶対無理。
何ででしょうね?
一つあるのは、文章は推敲可能であり推敲が前提になっているということです。
音声って収録した後にすぐに聞き返して修正することは難しいんです。もちろん不可能じゃないけど、編集に編集を加えた音声を僕たちはなぜか不自然に感じてしまう。
一方で、文章は編集することが前提になっています。
つまり、音声は諦めがつくんです。話し手も聞き手もお互いそういうものだとわかっているから、あまり厳密さを求めない。
しかし、文章はそうはいかない。推敲可能だから、本当に伝えるべき言葉を練りに練って届けることを求められる。
これが書くことの苦しさにつながっていると思います。
だから、僕は書いては消して、書いては消してを永遠に繰り返します。特に本なんかは永遠の推敲作業だし、ゲラまで出来て出版直前になって「やっぱり納得できないので出版をやめてください」と言ったことさえあります。
しかし、ちょっと見方を変えると、これが本質にたどり着くための大事なプロセスだということもできます。
文章を書いていると、どうしてもあれもこれも言いたくなって、贅肉がついてきます。でも、その瞬間は自分では贅肉の存在に気づかない。むしろ、手広く語ったことに対する手応えすら持っていたりするんです。
しかし、時を置いて読み返してみると、自分でも何が言いたいのかわからない贅肉だらけの文章ができあがっている。
なんだこの散漫な文章は!結局自分が伝えたかったことは何なのだ?
その問いに真正面から向き合うことができた時、ようやく「開き直りの境地」に至り、贅肉が削ぎ落とされていくのです。
つまり、「もう余計なことはどうでもいい。とにかく自分が伝えたいことはこれなのだ!これさえ伝われば、それ以外のことはどうでも良いのだ!」という清々しいまでの開き直りです。
この「開き直りの境地」に至ったかどうかで、文章の迫力は変わってくるのではないでしょうか。
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