自分の身体をケアするために、時に意思を手放すことは重要なのだ
意思を手放すことの重要性を最近よく感じている。
たとえば本を書くことを思い浮かべてほしい。
多分、本を書く前に、誰のどういう課題を解決するために書くのか、その構想をしっかり練って、構造をしっかりと組み立ててから、最後に手を動かすべきだと思うだろう。
つまり、最初に意思を組み立ててから、その意思に沿って実行する、というモデルだ。
これは、ある程度まではその通りだと思う。
しかし、時に意思なんてない方がいい時もある。
手を動かさなきゃ何が書きたいかわからないことだってあるのだ。
たとえばこの文章。
僕はこの文章で何を書くかを決めていない。
この瞬間も、手が動くままに文章を書いている。
決めていることは、30分以内に着地させること。
それだけだ。
そして、手を動かし始めていたら、「お、自分はそういうことが言いたいのか」ということに気づき始める。
その気づきを拾いながら、文章がつながっていく。
たとえば、Voicyでもそういう収録を時に試してみる。
一冊の本について語ろうと、本だけは目の前に置いておく。
そして、それ以外の準備を何もせず、収録ボタンを押すのだ。
決めていることは、20分の収録をすることだけ。
この本について、自分は20分かけて何を語るのだろう?
自分でも興味津々のまま、口が動くのを自分の耳が聞いている。
こう書くと、あたかも何か特殊な才能があるかのように聞こえるかもしれないが、そんな話ではない。
そんな風に書くことや話すことは、多くの場合、少しずつ論理破綻をしていて、自分で見直しても見づらいことが多い。
でもいいのだ。
時にそういうチャレンジをすることは、自分の身体の言うことに耳を傾けることになる。
自分の身体が何を言いたいのか?
それを脳が都合のいいように翻訳する前に、身体からの言語を優先させるのだ。
そこには、思いもよらない言葉が出てくることがあるし、思いもよらない飛躍も起こる。
「なるほど、俺はそんなことを考えているのか」
その言葉に発見することになる。
確かに読みづらいが、僕の心を揺さぶるのだ。
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