見出し画像

「疑う」ことの作法を考える

ロジカル・シンキングとクリティカル・シンキングはどう違うのか?

たまに「ロジカル・シンキング」と「クリティカル・シンキング」の違いって何ですか?と聞かれることがある。
確かに「自分の考えをちゃんと整理して伝える手法でしょ?」というレベルで捉えていると、同じに思えてしまうかもしれない。そして、実際に「クリティカル・シンキング」を教えている人であっても、その違いを分かっている人は少ないのかもしれない。

しかし、この2つは重なる部分もあるが、根本的には異なるものである。

ではどういう違いがあるのか?
ロジカル・シンキングとは、その名の通り、自分の考えを「論理的に」構築するためのアプローチだ。
自分が言いたいことは何か?その根拠は何か?抜け漏れはないか?ということを問い返しながら、自分の言いたいことの筋がしっかり通っているかを確認する手法だ。
よく「ピラミッド・ストラクチャー」という図を見かけると思うが、あのようにビジュアルを使いながら自分の考えを「論理的に」整理していくのだ。

これに対して、クリティカル・シンキングとは、既存の考えに対して「批判的に」考えるためのアプローチだ。
たとえば、先ほどのようなロジカル・シンキングのプロセスで構築した自分の考えを、今度は立場を変えて徹底的に疑ってみることも、クリティカル・シンキングに該当する。
本当にこの根拠は正しいのか?バイアスに囚われてしまっていないか?そもそもこの問いは適切なのか?
このように、ツッコミを入れることによって、より本質的で強固なメッセージを作り出していくのだ。

つまり、何が本質なのか、何が重要なのかを探究するということでは同じだが、そのベクトルが違う。
ロジカル・シンキングは、頑張って建造物を建てようとする力であり、クリティカル・シンキングはその建造物が本当にハリボテではないかをチェック・検証する行為であり、場合によってはその建造物を壊してしまうことまで含まれる。
もちろん、ロジカル・シンキングの過程でも疑いを挟むことは欠かせない。だからその点では一部「重なる」ところもある。
しかし、ロジカル・シンキングのベクトルは「作る」ということに重心がにある。余計な枝葉を削ぎ落として単純化にしていくことが主眼だ。
それに対して、クリティカル・シンキングは、「疑う」ことが本質になる。世の中は複雑なものだと捉え、単純化されているものに対して複数の視点から疑いの目を向ける。だから、クリティカル・シンキングは、作る過程よりも、作られてしまったものに対して腰を据えて疑うことで大きな力を発揮する。

つまり、「作る力」と「疑う力」だ。
この2つの力が拮抗して、初めて時代の風雪に耐えうる力強いメッセージは生まれてくる。
作りっぱなしでは独善的になりかねないし、疑いっぱなしでは何も生み出されない。
両方の力を鍛えていくことが大事なのだ。

僕は、この2つの力を「右足」と「左足」というメタファーを使って表現している。
歩くためには、どちらも不可欠な存在というニュアンスだ。
そして、本当に大事なことに行き着くためには、一歩では決して辿り着くことはできない。作っては疑い、作っては疑う、というこの左右の足を少しずつ前に出すことを繰り返すことでようやく前進できる、という意味も含まれる。

「左足」をどう鍛えるか?

しかし、この左足である「疑う力」というのが、とても難しい世の中になっている。
この情報化社会の中において、それらしい言説の中に、フェイクニュースや陰謀論が紛れ込んでいるのだ。疑い出したら全てが疑わしく見えてしまうから、疑うことにもリテラシーが必要なのだ。

この「疑う力」については、ちょうどそのものズバリのタイトル『疑う力』という本を出された小説家 真山仁さんの言葉をお借りしたい。

ご存知の通り、真山さんは『ハゲタカ』が代表作ではあるが、いずれの小説においてもその執筆過程で膨大な取材を重ね、社会通念としての「正しさ」がいかに怪しいものに溢れているか、ということをストーリーを通じて明らかにされている作家だ。

ますます巧妙になるフェイクニュースや陰謀論を見抜くには、それなりの経験と見識が必要です。

その第一歩が、誰かが強く主張していること、つまり誰かの「正しい」に違和感を抱いたら、見過ごさない気構えです。そして、面倒がらずに、情報を精査する。この繰り返しによって、見識が磨かれていきます。

あとがき P.279

つまり、「疑わしいよね」と言っているだけでは、疑うことにはならないということだ。そこには、手間をかけて自分で情報を精査しなくてはならない。

では、全てが怪しく感じる時はどうすればいいか?これに対して、真山さんはこう語る。

情報を耳にしたときに、「それは誰が言っているのか」、そして、「それによって誰が得をするのか」という発想を持つようにしてください。

(中略)

「誰が結局は得をするのか」を考えるためには、一歩引いたところから全体の構図を見る必要があります。そうじゃないと、隠れた関係性が見えてこない。データも画像も映像も、提示した側の思惑や意図に沿って出されています。すぐに目に見えるように分かりやすく、提示されたものがいかに怖いかを知っておくべきです。

第三章「ミステリーの女王」を通して疑う力を養う P.127

まず全体構図を読み解くことで、誰が得をするのかを見極める。
この「得する人物」に、疑いの突破口があるのだ。

そしてその「得する人物」が作った単純化されたストーリーに対して、その過程で削ぎ落とされた複雑な論点から批判的な視点で情報を照らし合わせていけばいい。

これを繰り返していけば、確かに容易に騙されない力強さが生まれてくるだろう。

改めて、左足である「クリティカル・シンキング」や「疑う力」を鍛えるための要点をまとめておこう

  1. まずは一歩引いた立場で全体像を広く捉える視点を意識する

  2. その中で、「得をする人物」を特定する

  3. その人物が語る単純化されたストーリーを理解する

  4. そのストーリーから削ぎ落とされた複雑な論点を拾い集める

  5. その論点について、おかしな点はないか、事実を集めて検証する

ということだ。

「正疑塾」申し込み受付中

そして、最後にちょっとだけ宣伝を入れたい。
もしこの力をしっかり身に付けたいのであれば、真山さんの『疑う力』を読むことをお勧めする。そして、さらに興味がある方は、僕と真山さんの私塾「正疑塾」の門を叩いてほしい。

真山さんと膝を突き合わせて語り合い、直接指導を受けることができる貴重な機会だ。
インターバルを含めて4ヶ月間、少人数制で対話型のプライベートな塾だ。第1期とは言っているが、2期目があるかは正直わからない。
4月からスタートするので、この機会にぜひお早めに検討してほしい。

(執筆時間:60分くらいかかった!)

ここから先は

0字

スタンダードプラン

¥1,000 / 月
初月無料
このメンバーシップの詳細

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?